島津武久書状
年月日未詳 / 冊子 493頁
島津武久が飯尾前大和守・布施下野守に、琉球国からの渡海船を先例どおり取り扱うこと、御奉書の趣旨に従うことを述べ、公私の事や讒言・凶書を互いに隠さず知らせるよう求めた書状。
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年月日未詳 / 冊子 493頁
島津武久が飯尾前大和守・布施下野守に、琉球国からの渡海船を先例どおり取り扱うこと、御奉書の趣旨に従うことを述べ、公私の事や讒言・凶書を互いに隠さず知らせるよう求めた書状。
(天正15年)2月17日 / 冊子 292頁
本文を省略し、島津義久の署名と「伊集院下野守殿」の宛所だけを掲げた短い掲載形態。前掲文書と同趣旨の感状である可能性があるが、切り抜き上は本文を確認できないため、戦功内容の断定を避ける。
(寛永十四年)十二月十六日 / 冊子 710~713頁
家久の年寄衆からの返書と二通の御状を受け、黄門へ進上した書状や幕府側の命令内容を照合し、長島・獅子島への兵配置と天草への即時渡海を協議する。肥後勢が十二月三日に三角瀬戸へ到着し、翌日天草へ押し寄せるとの注進を踏まえ、薩摩勢が遅れないよう準備を急がせた。薩摩から首取千人・鉄炮衆千人・馬乗三騎を天草へ遣わすとの取沙汰、山田民部少輔・新納賀州・仁礼左将を獅子島番手とすること、船の手当、本文を流布しないことを記す。島津久慶・伊勢貞昌・鎌田政統の連署で、三原左衛門佐・川上左近将監・島津下野守宛。寛永十四年十二月十六日付。
(寛永十四年)十二月十七日 / 冊子 713~714頁
上使衆の早打に託された先月二十三日付の御状が今月十一日夜に酒井讃岐守から兵部少へ届いたことを述べる。上使は十二日夜半に到着し、翌朝御奥で対面して雑煮の寄合と七五三の振舞を受け、黄門様の胸や手の様子を見た。北郷式部大輔と孫庵が相伴し、上使は引き留められたが十三日夜に出立した。先行して注進した者は海道で上使に追い越され、船で進んだ黒葛原周右衛門・松田七左衛門は五日前に到着したとし、一連の順調な到着を神仏の加護として祝う。島津久慶・伊勢貞昌・鎌田政統の連署で、三原左衛門佐・川上左近将監・島津下野守宛。寛永十四年十二月十七日付。
(寛永十五年)二月三日 / 冊子 749~751頁
阿久根宿泊に際し、地頭衆の滞在で不自由が予想されるため、四郎左衛門を帰すか地頭衆を戻すか相談するよう指示し、出水までの宿泊・昼休みの割付を別紙で送る。黄門様の容体がこの三日軽快していること、薩州様の船が大雨で遅れていること、迎えの者を順次派遣したことを伝える。天草在番衆に油断なく警戒させ、富岡の状況を詳しく注進するよう求める。軍衆の祈念として六十六本の御神舞を行ったこと、兵粮を積めないため二千余人を召し戻す相談、天草番手を五、六千人とし江戸から三千人を遣わす案、百石につき三人の軍役を記す。さらに琉球船が米二百六十石・上布・焼酎などを積んで山川へ来たため、出水へ回航するよう岩切六右衛門へ指示した。川上久国・三原重庸の連署で、山田民部少輔・島津下野守宛。寛永十五年二月三日付。
四月十二日 / 冊子 428頁
松浦鎮信が本田下野守へ、例年の祝儀を重ねて受けたことに謝し、諸邦から厚遇されて静謐に過ごしていると伝える。返礼として太刀一腰(金覆輪)と縮五端を進上し、今後も変わらぬ交誼を求めた書状。
(元和二年)四月十六日 / 冊子 624頁
遠路の見舞使者を喜び、駿府で家康・秀忠両御所へ無事拝謁して早々に帰国の暇を得たことを報告し、音信として銀子三十両を受け取った礼を述べた島津家久の書状。
(元和二年)六月八日 / 冊子 629頁
唐船の着岸・琉球への渡航など海上交通の動向を伝え、琉球佐敷王子や金武王子の渡海に関する相談と今後の対応を求めた島津家久の書状。
二月九日 / 冊子 189頁
金武王子を急遽薩摩へ派遣し、琉球国について従来から願ってきた事柄を、老中らの分別によってよく守れるよう哀憐を加えてほしいと頼み、詳細を金武王子の口上に託した中山王尚豊書状。
(元和八年)七月十二日 / 冊子 784~785頁
島津家久が下野守へ、虎寿丸を国分の子として家を相続させることに亀寿が格別満足していると伝え、翌月の吉日に虎寿丸を国分へ移して祝儀を行うと決まったことを知らせた。家久自身も以前から望んでいたことであり、喜入摂津守・伊勢兵部少輔から詳しく伝えるとした書状。
(寛永四年)四月廿四日 / 冊子 34頁
喜入忠続・伊勢貞昌が、薩摩殿父子の御目見は又三郎の腹痛で延期されたが四月二十三日に実現し、両御所が一同の参上を大いに喜び、兄弟も御前で褒美を受けたと早打で報じる。
(寛永十一年)七月四日 / 冊子 432~433頁
相良頼兄が、家久・忠元らの無事の上京を祝し、将軍の江戸出馬情報や当地で胡麻焼酎を仕置く件を伝え、贈られた球酒(琉球酒)大壺一つに礼を述べた書状。
建徳元年十一月廿一日 / 冊子 54頁
征西将軍宮が、智覧忠泰の申請に基づき、亡父忠元の譲状どおり薩摩国智覧院・河辺郡を忠泰に領掌させるため、敏嶋下野守と共同で現地沙汰するよう命じた令旨。
永禄九年十月十九日 / 冊子 156~157頁
永禄九年十月十九日、島津貴久の使者伊集院下野守が、高原所領を霧島六所大権現へ寄進する旨と祈念を伝えたことを記す私覚。高原は神代以来の神地であるとし、証跡として太刀を座主に渡した後、頼継が日数を置いて返進したこと、使者の子が冠嶽和光院の僧となったことも書き留める。
天正十一年十一月十八日~二十日 / 冊子 800頁
島津義久の病気を重病と恐れた相良忠房が、一万句連歌の興行を立願し、天正十一年十一月十八日に成就した記事。深水宗方が八代の上井覚兼に頼み、懐紙の発句を作らせた。同二十日には北郷忠虎から、内空閑下野守を島津旗下へ誘ったとの報告があり、島津方は途中で再度真偽を確認するよう答えた。
(文禄2年)6月20日 / 冊子 653頁
大島忠泰が「御請国」の際に薩州様から知行を与えると約束されながら、出立時に必要な書状が付されず、給付が実現していない事情を伝える。 伊勢貞昌は弾正大弼・下野守へ書状を送り、大島側からも事情を申し入れるよう勧めており、未処理の知行給付を実現するための取次状。
年月日未詳 / 冊子 108頁
片桐貞隆が慶長十二年三月十六日付の書状で、清須下野守忠吉が同月六日に江戸で死去したことを島津家久へ知らせた、と記す譜記事。
(慶長十二年)三月十六日 / 冊子 108頁
慶長十二年三月十六日、片桐貞隆が清須下野守忠吉の江戸での死去を知らせ、弔問使者を送るべきか島津家久に相談した書状。徳川家康の小田原・駿河方面への移動や畿内の平穏にも触れる。
(慶長十二年)三月十七日 / 冊子 108頁
慶長十二年三月十七日、片桐貞隆が前日に続き、清須下野守忠吉の死去に際して江戸へ弔使を下すことや近隣諸国への通知について島津家久に助言した書状。
廿一日 / 冊子 97頁
島津家久が、先ほどの消息への返事をしなかったため気掛かりだったと詫び、事情をよく理解してほしいと伝える。下野守に関する件が長く安定するよう願い、詳しくは面談時に話すとする仮名書きの書状。
(寛永七年)十二月廿九日 / 冊子 186頁
側近に遠慮なく意見する者がいるか、従来の談合が維持されているかを問い、鹿児島で安芸守・下野守・弾正の屋敷へ落書が投げ込まれた件を報告する。さらに各奉行の職務遂行、家老への態度、役人中の怠慢や身びいきを調べるよう求めた覚書条書。
(寛永九年)十一月二日 / 冊子 322~323頁
軍勢編成の覚書。大将を兵庫頭殿とし、その六百六十七人をはじめ、安芸守・下野守・中務少輔・喜入摂津守・川上因幡守・三原左衛門佐らの人数を列記し、合計千八百十三人とする。
(寛永十一年)五月廿八日 / 冊子 428頁
島津家久が、下野守の上洛を機に現地の配当を両人で十分に談合し、永続する支配であるため親疎なく憲法に従って処理するよう命じた書状。
寛永十三年四月廿六日 / 冊子 537~541頁
島津久慶(弾正大弼)・島津久元(下野守)・川上久国・伊勢貞昌・山田有栄・三原重庸・鎌田政統が連署し、家中の政務処理を定めた「物定三十五条」。旧例・訴え・奉公上の申立ての扱い、家老衆・物奉行衆・賦衆・普請奉行等の職掌、知行・扶持・切米・納銀・欠米売買、江戸勤番・役人交替、訴訟・借銀・家中統制、年貢・諸役・蔵入などの処理を定める。末条では諸料物・調所の代物を別納し、神社・仏閣・橋の建立や給付の費用に充てることを定め、談合で決定した条々に違背しないよう命じる。本文は冊子537~541頁、日付は寛永十三年卯月二十六日。
年月日未詳 / 冊子 285頁
島津忠宗の譜中記事。久長について、伊作と号し、初名を忠長、通称・官途を彦三郎・左衛門尉・下野守・大隅守としたことを記し、子孫は別紙に記すとする。女子の記載もある。
年月日未詳 / 冊子 306~308頁
太平寺で島津義久に近侍した「御供七人」について、姓名と人物関係を考証した伊地知季安の注記。伝承によって人数・顔触れ・通称が異なることを示し、古記・家譜・口伝を照合しながら家臣名を確定しようとする史料批判の跡が分かる。
寛永二年十月朔日 / 冊子 830~831頁
琉球三司官らへ、銀子百貫目の下付、銀子二十貫目の借入れ、山鹿越右衛門尉に関わる唐物隠匿、八重山へ来た南蛮人の琉球送還、今年の出銀半減、後日の銭の引渡し、他国人の琉球居住禁止など、複数の処置を箇条書きで指示・確認した連署覚書。
寛永八年八月四日 / 冊子 224~225頁
押米などの未進によって知行を召し上げる場合の換算基準を定める。土地を上・中・下に分け、一石当たりの収量区分と代銀を示し、没収地は永代返還せず、郷村役人が各坪へ等級札を付けて提出し、怠慢があれば処罰すると命じた連署達書。
(寛永八年)九月朔日 / 冊子 229頁
諸役人から押物を上納する際、四十匁以上は現銀で受け取ること、押物のために身上が尽きた者からは品物による上納も認めること、御物方から現銀を受け取った者は返上も銀で行うことを定めた三名連署の掟書。
寛永八年九月九日 / 冊子 232頁
山田の鬼穴に関する勧進を例年どおり実施するよう命じる。近頃中絶していたため書状を添え、怠りなく申し付けるよう諸所役人へ達した三名連署の書下。
寛永十五年三月吉日 / 冊子 796頁
休外院の永代茶湯料として、郡山東俣・鹿児島田内西之園門などの田地を合わせて百三十三斛分寄進し、家中の支配が変わっても子孫が返地・再配分せず守るよう定めた島津久元室の寄進状。
文政2年2月7日・14日・17日(各届書) / 冊子 548~549頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1662
出典は全上、扣正文は文庫にあるとする。松平豊後守斉興の叔父有馬肥前守は、持病の疝症があり、二月六日に用向で高輪の下屋敷の祖父榮翁方へ来たが発病し帰宅できず療養した。七日付の届書を留守居が御用番青山下野守へ持参して内見・提出し、御用人の受取りを確認した。のち止宿願を承知したうえで早く帰宅するよう指示された。同日付の有馬左兵衛佐の届も、実父榮翁方での療養を記す。十四日付では、養子肥前守の持病・不調に加え、養父の心底に応じず熟縁が難しいことを挙げ、養実両家の親類が相談し、実家松平豊後守方へ差し戻すことを有馬左兵衛佐が願う。豊後守も同日、引取りの届を出す。十七日付では、願どおり引取りを命じられ、本日引取り済みを届けるよう豊後守が命じ、豊後守内家村長兵衛が記す。各書の署名と日付を保ち、療養の止宿、養子離縁の願・届、実家引取り完了を分ける。離縁理由は病気と両家の熟縁困難をともに記している。
文政3年9月朔日(年は朱書) / 冊子 583頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1754
前と同じ出典で、控の正文は右筆所にあるとする。斉興が、榮翁の隠居後の国政介助を今回断り、老年までの格別の心添えも一段の旨とする上意をありがたく承ると述べ、これに伴う榮翁の御礼勤向をどのように心得ればよいか指図を求める。御付札の朱書には、老中若狭守・能登守へ名代を差し越すことができる旨を記す。文政三年九月朔日、松平豊後守署。朱書の提出経緯では、本文の日付当日、留守居里村藤十郎をもって御用番青山下野守へ差し出して受け取られ、翌2日に下野守用人下山簡重郎の切紙が到来し、早川千竃が出向いたところ、この付紙で返答を伝えられたとする。伺いと付札の回答、当日の提出と翌日の返答を分けて扱う。
正月9日(寛永15年か・傍注) / 冊子 566頁/原整理番号 65
川上久国が豊後守・下野守の両殿へ、今度の陣中では大将役二人が命じられ、さらに談合衆六人が加えられたと伝える。諸事は逐一こちらの意向を伺うには及ばず相談して調えるよう児玉筑後守を通じて命じられたとし、甲斐掃部助・有馬左近将監にも申し合わせて伝達するよう求めた。正月9日付の書状で、年次の寛永15年は本文外の『か』付き傍注にとどまる。欄外に『旧記雑録後編五』1170号および『同附録二』301号と同一文書かとする注記がある。
7月12日(年号不詳の注記) / 冊子 576頁/原整理番号 81
島津家久が下野守へ、虎寿丸を国分の御子として当家を相続させる件について、龍伯の意向にも違いがなく、相手も納得して喜んでいると伝える。話がまとまったので、来月の吉日を選んで虎寿丸を国分へ移し、祝儀を行うと決めたという。家久もかねて望んでいたことであり、詳しくは喜入摂津守・伊勢兵部少輔から伝えると記す。7月12日付だが年号は不詳と注記され、欄外には『旧記雑録後編四』2352号と同一文書かとの推定注記がある。
5月7日(天正15年の目録推定) / 冊子 579~580頁/原整理番号 88
義珍が本田下野守へ、関白への差出をめぐる急な交渉を『一大事』と捉え、福智三河守・石田らを介した調整と十分な祈願を促す。忠棟が日州から船出したとの知らせを受け、その後の所在を尋ねる。入来院は重要な場所として典厩を籠めて固め、真幸は日州・菱刈をつなぐ通路で京衆が通るため強く応対し、祁答院には伊集院肥前守を入れて守備を相談するよう求める。飯野は城が弱く、敵が埋草などで取り寄せれば直ちに対応する必要があるため、諸方面の談合を急がせる。日州安堵が実現すれば宮崎を霧島へ寄進し、高原についても同様に祈願することを勧め、追書では高原の吉田若狭守退去の風聞と庄内への使者派遣に触れ、味方関係を確かめ油断しないよう戒める。5月7日付で、天正15年は目録上の推定年次。
年月日未詳 / 冊子 55頁
伊作家の系譜として、親忠(初名忠親・愛寿丸・宗四郎、左衛門少尉・下野守)から久義・犬若丸・久親らへ連なる関係を示した系図。
年月日未詳 / 冊子 496~497頁
文明十二~十三年の琉球国船・使者の来航と取扱いをまとめる国史記事。幕府奉書に基づく接遇、福昌寺での保護と拝謁、島津武久・布施下野守・飯尾大和守らの対応を記し、渡唐船の警固を含む航海・外交上の手続が整えられた経過を示す。
年月日未詳 / 冊子 536頁
文明十七年九月、修理亮・村田肥前守・下野守・東郷右京亮らが入来・山崎・大村方面へ進み、祁答院方と交戦した経過を記す。伏兵、囮陣、集落への放火を用いて連日攻防し、帖佐勢・薩摩守方も加勢した。内山田への進撃後、各隊が帰陣するまでを追う島津忠昌譜記事。
天正十二年十二月四日~八日 / 冊子 957~958頁
十二月四日、秋月種実・龍造寺政家の使者が鹿児島へ来て和睦と帰属の謝意を伝え、太刀・馬・鎧などを献上した。彦山座主の使者も贈物を持参したが、秋月・龍造寺側は島津方使僧の撤兵要求後も豊後勢が高良山・筑後上郡に陣取ると訴えた。六日には将軍足利義昭の使僧蔭涼軒を礼式を整えて迎え、御内書の披露、酒宴、舞を行った。八日には小代下野守ら肥後諸氏の使者が来訪し、太刀・黄金・鎧などを献上した。
二月十四日 / 冊子 229頁
発給者未詳の書状。別紙の条書と使者の口上によって用件を伝え、新加州老の当地滞留中に内々の事情を聞き合わせることや、関係者本人から事情を申し上げさせることを求める。あわせて扶持に関わる山衆屋敷の明渡しと耕作の手配など、現地で処理すべき事項を指示している。
文化5年10月廿日(朱年注) / 冊子 306頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0966
重陽の御内書を渡すので、明日五半時に御城へ家来を差し出すよう通知する。10月廿日、青山下野守署、松平榮翁宛、文化5年の朱注。重豪公御譜中、正文在文庫の表示。祝儀の種類を重陽と具体化し、書状日と翌日の受取指定、本文署名の官名と目録の実名忠裕を分ける。
文化6年12月廿七日(朱年注) / 冊子 342頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1066
虎千代が紀伊殿の養子と命じられたことへの祝儀として鯛1折を献じられた件を披露したところ、一段の御仕合であったと返す。12月廿七日、忠裕判、松平榮翁宛、朱口裏青山下野守忠裕、文化6年朱注。重豪公御譜中・正文在文庫。養子命令の祝儀を婚礼や出生祝いへ変えず、差出人を献上主体としない。
文化7年12月16日(朱年注) / 冊子 359頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1117
重豪公御譜中・正文在文庫。今朝、鰹節1箱を献じられた件を披露したところ、一段の御仕合であったと返す。12月16日、忠裕判、松平榮翁宛。朱口裏に青山下野守忠裕、文化7年朱注。差出人自身を献上主体とせず、歳暮御内書と同一文書にまとめない。
文化8年6月4日(朱年注) / 冊子 369頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1149
重豪公御譜中・正文在文庫。今朝、鰑1箱を献じられた件を披露し、一段の御仕合であったと返す。6月4日、忠裕判、松平榮翁宛、朱口裏に青山下野守忠裕、文化8年朱注。品名の魚偏に昜という掲載字形を保ち、現代品名へ補充しない。差出人自身を贈り手とせず、端午祝儀返書と混ぜない。
文化12年6月18日(朱年注) / 冊子 474頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1438
重豪公御譜中・正文在文庫。青山下野守忠裕から松平榮翁への書状。今朝、鰑一箱を献上されたので披露したところ、御仕合との意向だったと伝え、恐々謹言で結ぶ。六月十八日、文化12年は朱年注。忠裕判、口裏にも青山下野守忠裕の記載がある。同日同品の別書状として保持し、数量を二箱へ合算せず、鰑を鰯や鯛へ置き換えない。
文化13年4月7日(朱年注) / 冊子 491~492頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1490
正文在文庫。青山下野守忠裕から松平榮翁へ、今回の転任・兼任にあたり祝儀として使者をもって太刀・馬代を献上されたので披露したところ、一段の御仕合との意向だったと伝える。恐々謹言で結ぶ。四月七日、文化13年は朱年注。忠裕判。口裏は青山下野守と記し、本ノマの注がある。太刀の数量・馬代の金額は本文にはない。同日同名目の別書状として保持し、前記事1489の一腰・金一枚をこの本文へ転用しない。
文政元年10月10日(年は朱書) / 冊子 540頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1633
重豪公御譜中、正文は文庫にあるとする。重陽の御内書を渡すので、明日五半時に御城へ家来を差し出すよう求める。文政元年の朱書、十月十日、青山下野守署、松平榮翁宛。本文は上段、日付・署宛は下段に続く。差出者忠裕は目録による。重陽は交付する御内書の用件名であり、書状の日付を九月へ置き換えない。家来を派遣して受け取るよう求める案内で、受取済みを報告するものではない。
文安三年二月日 / 冊子 414~415頁
文安三年二月に行われた犬追物の手組を記し、各組の射手・配置と検見役などを列挙する。陸奥守を中心に、島津・本田・村田・伴・祢寝・新納・肝付らが参加した。
文明十一年十二月廿七日 / 冊子 492頁
室町幕府奉行が島津陸奥守に、清水寺建立の勧進を大隅・薩摩・日向三か国へ触れ知らせるよう命じた連署奉書。