島津義弘(惟新)譜
年月日未詳 / 冊子 591頁
関ヶ原で西軍が敗れ、少数の島津勢が大軍中を切り抜け、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経て帰国した経路を記す。その間片時も義弘の側を離れず忠功を尽くした士卒へ、新たな恩地を与え、その書付を作成したとする。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
206 件 (全巻)/ 1–50件を表示
ページ 1 / 5
年月日未詳 / 冊子 591頁
関ヶ原で西軍が敗れ、少数の島津勢が大軍中を切り抜け、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経て帰国した経路を記す。その間片時も義弘の側を離れず忠功を尽くした士卒へ、新たな恩地を与え、その書付を作成したとする。
慶長五年十月十日 / 冊子 591頁
島津義弘(惟新)が頴娃弥市郎へ、関ヶ原合戦で粉骨し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経て帰国するまで片時も側を離れず奉公したことを賞し、知行二百石を与える。あわせて、同文で石高のみ異なる感状を多数の随従者へ与えたことと、その宛名・石高を列記する。
年月日未詳 / 冊子 663頁
関ヶ原から大坂へ戻る人々の中で、瀬戸口休五郎は黒具足を着て大枝を杖にする大男を見かけた。姿が父に似ているため互いに確かめ、父子は手を取り合って長屋の二階へ上がった。戦死を覚悟していた親子・家族は、思いがけない再会を夢のようだと喜び、涙を流した。
慶長四~五年 / 冊子 48~50頁/原整理番号 4
鹿屋兼長の記録を抜き、関ヶ原合戦後に肥後八代の川田村庄屋から加藤清正らの薩摩攻めの評定を聞き、山道を急ぎ帰って出水・帖佐の島津方へ報告した経緯を示す。伊集院源次郎が肥後へ給地・地頭衆の情報を送っていたことも記す。
記載なし(関ヶ原退陣後の記事) / 冊子 46~47頁/原整理番号 2
伊勢貞昌の書置から、関ヶ原退陣後に龍伯が弓戦を望んだこと、家老衆の意見が割れたこと、徳川家康からの誓詞を受けて家久の上洛が進み、国分衆中の反対を押し切って島津家が存続した経緯を抜き書きする。
観応年間、島津忠昌代、島津義久(龍伯)代、島津忠良(日新)以来、島津貴久代、関ヶ原合戦時 / 冊子 256頁/原整理番号 100
『諸家大概記』所収の藤原姓上原氏由緒。観応頃に市来院伊作田を領した伊作田兵部太夫道材・中務丞尚経と足利直冬の御教書などを挙げる一方、伊作田から上原への称号変更が、一時的な名乗り替えを経たのか後に上原へ固定したのかは不詳とする。島津忠昌代に上原藤左衛門が奉公し、島津義久(龍伯)代に上原筑前守が兵具奉行を務め、その子孫上原休兵衛を嫡家とする。筑前守の弟・上原長門守尚常の系統は島津忠良(日新)以来近習として仕え、貴久代から地頭職、のち飫肥移地頭となって九州御退治で軍労を尽くし、代々地頭を務めたといい、近年の上原長次郎をこの筋とする。さらに上原伝左衛門の先祖が島津家久に付属し、上原貞右衛門が関ヶ原で島津豊久とともに戦死したこと、曽於郡衆中の上原掃部左衛門が系図を所持したこと、上原勘助の先祖が長門守に従って飫肥へ移住したこと、上原八郎左衛門が休兵衛二男家であることを記す。
年月日未詳 / 冊子 748~749頁
平山氏の系譜と平山忠房の経歴を記す。忠房は朝鮮で死去した島津久保の遺骸に付き添って帰国し、葬礼後には久保の菩提を弔うため牌を首に掛け、同行十二人と日本六十六州を巡歴した。 長年の回国修行と各地での供養を終えたのち、慶長五年の関ヶ原合戦で戦死したと伝える、家臣の追善活動を具体的に示す系図記事。
年月日未詳 / 冊子 143頁
本文は『旧記雑録後編』No.1857と同文のため省略されている。参照先の御譜抄は、関ヶ原敗戦後に宇喜多秀家が小舟で薩摩へ逃れ、島津家が牛根にかくまった経緯を記す。家康に所在が知られると、山口直友・和久甚兵衛らの仲介で上京を求められ、小瀬中務を通じて秀家が承諾した。島津義久掟書二十ケ条ではない。
年月日未詳 / 冊子 552頁
島津豊久が五月十一日に佐土原を船出して上方へ赴き、伏見に在城したのち、関西諸侯の帰国と東西対立に遭遇した経過を記す。義弘は徳川家康との盟約を踏まえて伏見城入城を求めたが守将に拒まれ、石田方の勝算を危ぶみながらもやむなく一揆に随った。八月朔日に伏見城を先陣し、美濃洲俣・大柿を経て、石田・毛利・長宗我部らと駒野で評議し、関ヶ原で東軍を待って一戦を決するに至ったという。
年月日未詳 / 冊子 553~554頁
樺山忠助譜として、徳川家康の会津出兵から石田三成の挙兵、関ヶ原合戦における小早川秀秋の寝返りと西軍敗走、島津義弘の堺からの海路退却、島津豊久の戦死を叙述する。さらに、伊東家臣稲津掃部助が旧領回復を図ったため佐土原へ急行し、新山口城への放火や広原付近の戦闘で敵首八級を得て退け、冬には和平に至った経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 558頁
樺山紹剣が、徳川家康の東国下向中に石田三成が謀叛の張本となり、伏見城を攻め落として美濃へ退いたこと、福島正則が石田方の企てを家康へ知らせ、関ヶ原で防戦して石田方が敗れたことを記す。島津勢は残兵をまとめて追撃を退け、伊勢・伊賀・大和・河内・和泉を通り、船で瀬戸内を経て日向細島へ帰着したという。
年月日未詳 / 冊子 576~581頁
島津義弘(惟新)の関ヶ原合戦譜。九月十三日に大垣城外で石田三成・島津豊久らと軍議し、赤崎丹後の勇名を語ったことから、十四日の赤坂方面の戦闘、夜雨中の関ヶ原移陣、十五日の布陣と鉄砲戦を時系列で記す。西軍敗走後は義弘勢が敵中を突破し、豊久らの戦死を経て伊勢・近江方面へ退き、農家への潜伏、追撃回避、渡海、堺・大坂への帰着を重ねる。道中の戦闘・飢渇・船便の確保、従軍者名を交え、帰国に至る苦難を詳述する。
年月日未詳 / 冊子 581頁
島津豊久が慶長五年九月十五日、関ヶ原で軍勢敗北の際に戦死し、享年三十一、法号を天岑昌運としたことを記す。家臣では中村源助・上原貞右衛門・富山庄太らが戦死し、ほかにも死者がいたが死所は不明とする。
年月日未詳 / 冊子 581頁
関ヶ原合戦後、伊東氏家臣の稲津掃部が兵を起こして宮崎城を陥れ、さらに須木城を攻めようとしたため、新納久宣が窮地を救う兵を率いて現地へ赴き、防備を増強した結果、稲津勢を敗走させたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 581~582頁
石田三成が徳川家康に背き関西諸国を動員した際、島津義弘(惟新)は家康との盟約により伏見城を守ろうとしたが、鳥居元忠・内藤家長らに入城を拒まれ、やむなく石田方として関ヶ原へ出陣したと記す。西軍敗北で一族・家臣に多数の戦死者を出しながら義弘は帰国し、国中が動揺するなか、島津忠長と鎌田政近が赦免を評議した。翌年、政近を上京させ、本多正信・山口直友の仲介で義弘の赦免と誓書を得た経緯を述べる。
年月日未詳 / 冊子 582頁
島津重時は初名を忠重、又六といい、天正元年に北郷時久の長女を母として生まれ、入来院弾正重豊の養子となって同家を継いだとする。慶長五年九月十五日に島津義弘(惟新)に従って関ヶ原に出陣し、敗戦後の帰国途中に敵と遭遇して同月二十三日に戦死、享年三十、法諱を雲庵定暁居士と記す。
年月日未詳 / 冊子 582頁
石田三成の挙兵で東西が分かれた際、北郷忠能は在国したが、西郷孫一久永は七十五人を率いて伏見にあり、島津義弘(惟新)に従って伏見城攻撃に参加し、家臣和田仲蔵義吉が戦死したと記す。その後、北郷忠泰・久栄が数百兵を率いて上洛し、九月十五日の関ヶ原合戦では根占清右衛門尉・小杉頼長・知覧忠清・津曲兼親以下、多数の忠能家臣が討死したことを列記する。
年月日未詳 / 冊子 582~583頁
関ヶ原合戦で味方が敗れ退却しようとした際、大軍が襲来したため、川上忠兄の家臣柏田源藤が先頭の将へ鉄砲を放ち、弾を受けた大将が落馬したと記す。敵軍がその将を救う間隙に一同が危地を脱し、後に撃たれた将が井伊直政であったと聞いたとする。刊本は「柏田源藤」と表記し、『本藩人物誌』巻五では「柏木源藤」と記す。
年月日未詳 / 冊子 583頁
慶長五年秋、喜入忠続が惟新君すなわち島津義弘(惟新)に従い、濃州関ヶ原へ出陣したことを簡潔に記す。
年月日未詳 / 冊子 583頁
北郷久永は十六歳で島津義弘(惟新)の陣にあり、関ヶ原敗戦後に義弘を追ったが及ばず、郎従が離散するなか四位主水だけが従ったと記す。敵中を三日進み、足の腫痛で歩けなくなると主水が背負って加藤嘉明の陣へ赴いた。久永は進退窮まり首を刎ねるよう求めたが嘉明に救われ、その後三年間囚われたのち暇を得て帰国した。
年月日未詳 / 冊子 583頁
新納久无は八月中旬に薩州から伏見へ向かう途中、島津義弘(惟新)が石田三成方に加わったと聞き、九月に大垣で義弘へ謁した。十五日の関ヶ原合戦に従軍して多くの家臣を失い、敗走時には伊吹山から近江路を経て京都へ到着した。喜入忠政・川上助七らと平道正庵宗古の宅に潜伏し、近衛信尹の厚意と宝刀を受け、翌年三月に帰国した経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 584頁
宰相様は慶長五年九月まで大坂屋敷に滞在していたが、関ヶ原合戦に敗れた惟新公すなわち島津義弘(惟新)の帰国に際し、家人とともに大坂を出たと記す。西宮沖で義弘と同じ船へ乗り移り、九月二十九日に日州細島へ着き、そこから陸路で帰国した。
年月日未詳 / 冊子 584頁
慶長五年九月十五日の関ヶ原合戦で西軍が敗れたが、島津義弘(惟新)は死を免れて帰路についた。同月二十四日、竹内織部佑が書状を携えて島津忠恒(家久)のもとへ赴き、義弘の無事を伝えたため、忠恒が大いに喜んだ経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 584~585頁
徳川家康が奥州の動きに対して東国へ出陣した隙に石田三成が挙兵し、島津義弘(惟新)は伏見城の警衛を申し出たものの入城を拒まれ、やむなく三成方へ加わったと記す。伏見城陥落後の関ヶ原合戦では西軍が敗れ、義弘は大坂にいた妻子らを伴って十月上旬に帖佐城へ帰還した。義久は家康との誓約に背いたことを厳しく責め、寺沢正成・山口直友から惟新と同意か否かを問う書状が届いたとする。
六月 / 冊子 588~589頁
伊地知季安が、大口の有村早之介家に伝来し、新納忠元の筆跡とも考えられた書状について考証する。関ヶ原合戦後の島津義弘(惟新)の伊勢・伊賀・近江・山城・大和・摂津方面の経路、忠恒への使者や船の動き、家族・家臣の安否確認を年代順に整理し、筆跡・文体・宛名・伝来状況を他の実本と比較して、書状の成立と筆者を慎重に検討する。
年月日未詳 / 冊子 589頁
太閤死後に東西の軍が起こると、中川修理太夫秀成は徳川家康方に属し、同国臼杵城へ軍勢を差し向けて太田飛騨守政信と戦ったと記す。関ヶ原で西軍が敗れたとの報を受け、太田は城を退去したとする。
慶長五年十月九日 / 冊子 590頁
島津義弘(惟新)が北郷小兵衛尉忠泰へ、濃州関ヶ原の合戦場から片時も側を離れず、数国の難所を越えて国元まで供奉した働きを神妙の至りと賞し、刀一腰「長盛」を与える。
年月日未詳 / 冊子 590-591頁
慶長五年十月十日、関ヶ原からの帰陣後に島津義弘(惟新)が感状を与えた人数と給付石高を列挙する。頴娃弥市郎・山田民部少輔の各二百石、本田源右衛門百石をはじめ、諸士へ五十石・三十石などを与えた記録である。
年月日未詳 / 冊子 592頁
大田吉兵衛忠綱は、慶長五年秋に石田三成が関東へ兵を起こすと、阿多長寿院らと帖佐を発し、島津義弘(惟新)に従って美濃国関ヶ原へ向かった。西軍敗北後も義弘の側を離れず大軍中を切り抜けて帰国し、軍功により感状を重ねて受け、百石を与えられた。
年月日未詳 / 冊子 592頁
関ヶ原敗戦後、小西美作守が島津方へ、旧小西領の肥後国宇土・八代を加藤方が奪おうとしているとして援兵を求めた。太守の島津忠恒(家久)はこれを許し、島津忠倍を肥後国葦北郡水俣へ派遣した。
年月日未詳 / 冊子 593頁
種田氏の娘で天正七年生まれの御松に関する大田氏系図の記事。関ヶ原敗戦時、御松は太守の簾中(島津家当主夫人)に従って大坂屋敷にいた。豊臣秀頼の大老が簾中の帰国を許さなかったため、二十歳の御松は夫人に代わって屋敷に残ると申し出た。その忠言を上下の者が称賛したが、別策によって夫人とともに無事帰国し、大坂での忠節を賞され三百石を与えられた。所領は後に忠安へ譲られ、寛永二十一年五月十三日、六十七歳で没し、法号は海月妙知という。
慶長五年十月十日 / 冊子 594頁
島津義弘(惟新)が桂太郎兵衛尉へ、関ヶ原合戦で奮戦し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国路でも片時も側を離れず奉公したことを賞し、知行二十石を与える。
慶長五年十月十日 / 冊子 594頁
島津義弘(惟新)が安楽五郎右衛門尉へ、関ヶ原合戦で奮戦し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国路でも片時も側を離れず奉公したことを賞し、知行五十石を与える。
慶長五年十月十日 / 冊子 594頁
島津義弘(惟新)が松下喜左衛門へ、関ヶ原合戦で奮戦し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国路でも片時も側を離れず奉公したことを賞し、知行五十石を与える。
慶長五年十月十日 / 冊子 594-595頁
島津義弘(惟新)が長山半六へ、関ヶ原合戦で奮戦し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国路でも片時も側を離れず奉公したことを賞し、知行五十石を与える。
慶長五年十月十日 / 冊子 595頁
島津義弘(惟新)が、関ヶ原合戦で奮戦し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国路でも片時も側を離れず奉公した者を賞し、知行三十石を与える。本文には宛所がない。
慶長五年十月十日 / 冊子 595頁
島津義弘(惟新)が指宿清左衛門尉へ、関ヶ原合戦で奮戦し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国路でも片時も側を離れず奉公したことを賞し、知行五十石を与える。
慶長五年十月十日 / 冊子 595頁
島津義弘(惟新)が大学坊へ、関ヶ原合戦で奮戦し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国路でも片時も側を離れず奉公したことを賞し、知行五十石を与える。
慶長五年十月十日 / 冊子 595頁
島津義弘(惟新)が榊松三右衛門尉へ、関ヶ原合戦で奮戦し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国路でも片時も側を離れず奉公したことを賞し、知行五十石を与える。
慶長五年十月十日 / 冊子 595頁
本文はNo.1222と同文のため省略されている。No.1222の感状は、島津義弘(惟新)が松下喜左衛門へ、関ヶ原合戦での奮戦と帰国路で片時も側を離れず奉公したことを賞し、知行五十石を与えたものである。
年月日未詳 / 冊子 596頁
天正七年生まれの大田忠好について、慶長五年九月十五日の関ヶ原合戦で強敵一人を討ち、島津義弘(惟新)の側を離れず帰国したと記す。その軍功を賞され、感状と新恩五十石を与えられた。
慶長五年十月十日 / 冊子 596頁
島津義弘(惟新)が大田弥市こと大田忠好へ、関ヶ原合戦で奮戦し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国路でも片時も側を離れず奉公したことを賞し、知行五十石を与える。
年月日未詳 / 冊子 596頁
平山久清は、文禄元年の朝鮮渡海以来、島津義弘(惟新)の側を片時も離れず仕えた。関ヶ原敗戦後、義弘が泉州住吉浦から小舟で脱出した際も従い、乗船できなかった多くの従者に遅れて帰国したが、長年の勲功を賞され新恩五十石を与えられた。
年月日未詳 / 冊子 596-597頁
桂忠昉は、石田三成が徳川家康に対抗して関西諸国の軍勢を美濃へ進めると、島津義弘(惟新)に従って関ヶ原へ赴いた。西軍敗北後も義弘の側を離れず、大軍中を突破して帰国するまで忠功を尽くしたため、二百石を与えられた。
慶長五年十月十日 / 冊子 597頁
本文はNo.1230と同文のため省略されている。桂忠昉譜の記事に対応し、島津義弘(惟新)が桂忠昉の関ヶ原合戦と帰国路での忠功を賞して二百石を与えた感状である。
慶長五年十月十日 / 冊子 597頁
島津義弘(惟新)が伊集院半五郎へ、関ヶ原合戦で奮戦し、伊勢・近江・伊賀・大和・河内・和泉を経る帰国路でも片時も側を離れず奉公したことを賞し、知行五百石を与える。
年月日未詳 / 冊子 597頁
関ヶ原で西軍が敗れると、伊東氏は国元の混乱に乗じ、九月朔日の未明に高橋氏領の宮崎城を奪い、佐土原城も攻めた。さらに島津領境の穆佐・倉岡方面へ迫ったため、島津忠恒(家久)は自ら出陣しようとしたが、龍伯こと島津義久が強く制止し、惟新こと島津義弘もこれに同意して書状を与えた。
年月日未詳 / 冊子 604-606頁
新納旅庵が、出水滞在中に上方の不穏を聞いて大坂・伏見へ向かい、島津義弘(惟新)に従って関ヶ原合戦期の軍事行動と退却を経験した経緯を記す。使者の往来や、龍伯・少将の上京をめぐる本田助之丞との交渉にも及ぶ。
年月日未詳 / 冊子 612頁
島津義弘(惟新)の家臣鹿屋三右衛門が、関ヶ原から肥後路を経て帰国した経験と現地庄屋との旧交を生かし、八代方面に集結した黒田・加藤・龍造寺・立花らの兵数・軍法を探る。庄屋から、現地兵が少ないこと、伊集院源次郎が密使を送って船を求めたこと、海岸警備の必要、開戦時には肥後兵の多くが薩摩方へ属し得るとの情報を得て川上三河へ報告する。
年月日未詳 / 冊子 621-624頁
慶長五年九月十五日の関ヶ原合戦を中心に、島津豊久・長寿院盛淳をはじめ島津勢の戦死者・殉死者を多数列挙する殉国者名簿である。九月十八日・二十三日、十月四日・二十三日など後続の日付の戦死者も追記し、各人の実名・役職・家臣や従者、戦死地・法名等を注記する。