島津義弘書状
(天正19年)7月□日 / 冊子 507~509頁
島津義弘が、聚楽で怪事が続くとの噂から女房衆が荷物を運び出し、国替えや島津家滅亡などの風聞が京都に広がった状況を安宅秀安へ報じる。借物・荷物・京都屋敷の処置、竜伯と久保の立場、関白・石田三成方への説明、借銀や材木不足まで詳述し、誤解を招かぬよう慎重な取次を求める。京都島津家の政治的不安と財政難、生活実情を同時に伝える長文書状。
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(天正19年)7月□日 / 冊子 507~509頁
島津義弘が、聚楽で怪事が続くとの噂から女房衆が荷物を運び出し、国替えや島津家滅亡などの風聞が京都に広がった状況を安宅秀安へ報じる。借物・荷物・京都屋敷の処置、竜伯と久保の立場、関白・石田三成方への説明、借銀や材木不足まで詳述し、誤解を招かぬよう慎重な取次を求める。京都島津家の政治的不安と財政難、生活実情を同時に伝える長文書状。
(天正19年)4月10日 / 冊子 505頁
安宅秀安が島津義弘側からの書状を読み、道察を介した相談を承知したと返答する。道察と再度相談するため早く上京したいが、関白の大津動座に伴い石田三成が滞在中なので帰京を待つと説明し、十二日に佐和山を発ち十三日に京都へ着く予定を知らせる。道察を在京させ、用件を整えるよう求めた書状。
(天正十九年)三月五日 / 冊子 506頁
安宅三河守秀安が島津義弘側へ、猪山源右を早々に下すよう求め、本田源右の用件や必要な指示を伝えた書状。末尾に三月五日、安宅三河守秀安(花押)、義弘様参人々御中とある。
(天正十九年)五月七日 / 冊子 506頁
安宅三河守秀安が島津義弘側へ、所持の刀が必要なら申し付けるよう述べ、普請や自身の用向きについて伝えた書状。末尾に五月七日、安宅三河守秀安(花押)、義弘様参人々御中とある。
文禄2年8月27日 / 冊子 732~733頁
細川幽斎が主家へ十分な届け出をせず知行や家中の処置を進めているとして、その専断と側近の動きを安宅秀安が厳しく批判する。 石田三成への相談も含め、義弘父子が今後の対応を慎重に決めるよう求め、内容を他言せず読み終えた書状は焼却するよう念を押した秘密書状。
文禄2年8月28日 / 冊子 733頁
秀吉朱印を確認した安宅秀安が、細川幽斎の仕置は朱印の趣旨に背き、知行や役職を側近へ恣意的に配分していると批判する。 義弘父子が主導権を取り戻すための対応を助言し、内容は幽斎側へ漏らさず、家中でも厳重に秘すよう求めた書状。
文禄2年閏9月晦日 / 冊子 749~750頁
安宅秀安が、京都で石田三成らに働きかけ、久保死去後の跡目を又八郎忠恒に認めてもらうため尽力している状況を報告する。秀吉も幼少から知る久保の死を哀れみ、忠恒の上京後に後継問題を聞き届ける意向だという。 久保急逝を受けた島津家の家督継承が、京都での政治交渉として進められたことを示す重要書状。
文禄3年10月6日 / 冊子 814~816頁
安宅秀安が義弘側へ、国元検地後の知行配分と家中の争論について詳しく報告した長文書状。竜伯義久・幸侃伊集院忠棟・長寿院らをめぐる訴えや讒言、検地衆の裁定、所領を失った者や給人・百姓の不満が重なり、国元の統制が揺らいでいる状況を伝える。 一方的な告発や抽者の言い分だけで処分せず、当事者を照合して公平に裁くよう求め、又八郎忠恒を争論へ巻き込まない配慮も説く。太閤検地が島津家中の知行秩序と人間関係に及ぼした混乱を知る重要史料。
正月17日 / 冊子 862~863頁
家久の朝鮮渡海後、無事の着陣と国元の検地完了を喜び、知行と家中への配分を慎重に行うよう助言する。明との和平が成立しなければ翌春に諸勢が再渡海するとの見通しも伝える。 次回は関白自身の出馬もあり得るため、武具を平素から整えるよう勧め、在京中の安宅秀安が調達を支援すると申し出る。軍役・領国行政・兵站準備を一通で結ぶ書状。
文禄4年4月6日 / 冊子 873~874頁
安宅秀安が島津義弘へ、国元の検地衆が四日に伏見へ帰着し、打出知行は約三十万石、前年収納の米・大豆は約四万石、大坂・堺への到着分は約二万石、京都借銀は元利約百二十貫目余と報告する。さらに検地が整っても国中の侍・百姓・町人が納得せず、龍伯も承知しないため統治が危ういと警告し、義弘の覚悟一つで国を保てるかが決まるとして決断を迫った。検地後の財政窮迫と領国内の不満を同時に伝える重要書状。
文禄4年6月17日 / 冊子 890~891頁
安宅秀安は、取次役の決定、老中役の免除、家中の訴訟や処分、京都と国元の連絡方法などを箇条書きで定める。 竜伯への奉公や三成との関係にも触れ、讒言・私的対立を避けて法度を堅固に運用し、家中の秩序を保つよう求めた政務覚書。
文禄4年9月15日 / 冊子 913~915頁
秀安は唐島での番船捕獲や、明軍が籠る朝鮮の城を島津勢が攻めて多数を討ち取った戦功を祝う。 弓次郎の高麗出陣、伏見での留守役、軍役人数と知行、上洛・国元での処遇などを詳しく論じ、朝鮮戦役と家臣の軍役負担を結ぶ長文書状。
(慶長元年)八月六日 / 冊子 37頁
安宅三河守秀安が島津又八郎(忠恒)へ、布二巻と書状への礼を述べ、大明勅使と豊臣秀吉の対面後に朝鮮在陣衆が帰朝する見通しを伝えた。しかし地震で伏見・大坂の城内対面所が損壊したため唐人の御礼が延期され、伏見城の天守・矢倉も損壊した一方、島津義弘の屋敷と石田治部少輔(三成)の家は無事であること、三成が注文した桑木の風呂材に満足したことなどを報じた書状。
(慶長元年)十二月十九日 / 冊子 61頁
安宅秀安が島津側へ、国の仕置については竜伯と相談すべき事項が多いため上洛を少し延期し、来春の渡唐に備えるのがよいと述べた書状。自身は佐和山で病中のため参上できず、三成の意向は測り難いとしつつ、加増や国の仕置を三成とも相談して進めるよう伝える。
(慶長二年)正月廿日 / 冊子 69~70頁
安宅秀安が忠恒へ、国の仕置・知行配分・軍役の改定は、義久・義弘に深く相談して決めるべきだと説いた書状。浮地や役料、公儀への奉公を踏まえて加増・没収地を処理し、渡海前に国中の配分を整えて、軍役を負う家臣の扶持に不足が出ないよう求める。
(慶長二年)二月廿三日 / 冊子 90頁
安宅秀安が羽兵方へ、正月十五日付書状が二月二十二日に伏見へ届いたと報じた書状。忠恒の渡海後、五月中旬から六月上旬に諸勢が着陣するまでの間、長陣の羽兵は帰朝し、小姓衆を伴って上洛して秀吉へ御目見するか、国元の用務を済ませてから上洛するよう三成の意向を伝える。
(慶長六年)五月五日 / 冊子 760-761頁
安宅秀安が島津義弘に、本田源右衛門を急ぎ上京させるよう求め、詳しい事情は本人の口上に委ねた書状。
正月廿日 / 冊子 291~292頁
朝鮮出兵時の薩摩の無人・軍役不備を背景に、秀吉の検地と義久・義弘各十万石、北郷氏領を含む知行再編、七・八万石の浮地を忠節に応じ家臣へ配分する方針を詳説し、家久に両親と相談して公儀の置目を守るよう諭した安宅秀安書状。
文禄2年8月16日 / 冊子 721~722頁
大隅・諸県の知行や、逃亡・没収地を義弘父子の蔵納地とする処置について、細川幽斎や奉行衆との協議経過を詳しく報告する。 所領配分を性急に決めず、石田三成らと談合して不公平を避け、京都での折衝にも備えるよう勧めた、島津領国再編をめぐる長文書状。
文禄2年8月21日 / 冊子 723~724頁
細川幽斎による銀子徴収、朝鮮へ出陣しない者や逃亡者への新知給与、没収地の処理を「一段不可然」と厳しく批判する。 義弘父子の蔵納地を守るため、石田三成を頼って京都へ使者を送り新たな朱印を得るよう勧め、書状は父子で読んだ後に焼却せよと求めた秘密書状。
文禄3年2月7日 / 冊子 766頁
長寿院や石田三成との協議を踏まえ、島津忠恒(又八郎)の礼が済んだ後は旧来の振る舞いを改め、国家の役儀を第一にすべきだと義弘方へ進言する。名護屋・朝鮮渡海時の人手不足と苦難を忘れず、自ら覚悟して政務を続けるよう迫る。 豊臣政権下での取次と島津家の立て直しをめぐる率直な内部意見であり、機密性のため「火中可被成候」と読後の焼却まで求める点が際立つ。
文禄4年正月19日 / 冊子 863頁
北原勘右衛門尉が持参した書状と口上を受け、石田三成にも披露して返答させたと伝える。伏見城普請は前年十二月二十日まで行い、正月三日から再開したという。 朝鮮在陣の労苦をねぎらい、高麗から返納する米や蔵米の処置にも触れる。中央政権の普請と朝鮮在陣側の兵糧処理を結ぶ実務書状。
五月七日 / 冊子 62~63頁
石田三成から普請を早く完成させるよう強く命じられて自身が土俵を離れられないため、島津方へ人員を下向させるよう頼んだところ早速対応を受け、相談結果を報告した書状。
年月日未詳 / 冊子 21頁
島津氏久の譜として、守護方と島山方が互いの隙をうかがって戦い、帖佐萩峰城の野本秀安と溝辺城の本田重親が相互に城を囲み、和睦して退いたこと、氏久が加治木土器園の要害を夜襲して陥落させたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 862頁
島津家久が前年八月に京都を出発し、同月二十五日に肥前名護屋へ着いたものの、領国から従兵と渡海船が届かず、長期間出航できなかった事情を記す。 家久は遅延理由を石田三成の家老・安宅三郎兵衛尉秀安へ書き送り、その返書を次の文書として掲げる。朝鮮渡海を妨げた輸送準備の遅れが具体的に分かる。
(慶長二年)七月十一日 / 冊子 116~117頁
川上肱枕(忠智)が枇山権左衛門尉へ、五月二十三日付書状を七月四日に伏見で拝見したことと、相手が無事に高麗へ着陣したことを喜んだ。宰相の大坂到着後に当地の態勢が整ったこと、石田三成・安宅秀安らとの応接、島津家関係者や在京衆への礼儀・見舞い、家中で不届きがあれば処罰する覚悟などを詳しく報告し、義弘・龍伯らへの披露を求めた書状。
七月十一日 / 冊子 98~99頁
島津義弘の無事な高麗着陣と島津家久の大坂到着を祝い、伏見で公儀の調整が済んだこと、石田三成・安宅秀安や京の関係者への礼と見舞いを怠らず、供衆の忠節も監督していると報告した長文書状。
四月一日 / 冊子 110~111頁
石田三成の不興を解いて安宅秀安を下向させたので、替米・進上米、太守の早期上着、新たな人物の上洛という三件を必ず整えるよう老中衆へ迫り、どれか一つ欠けても家の安泰が損なわれると警告した書状。
慶長年七月廿九日 / 冊子 121~122頁
宇多与右衛門尉が、知行・奉公や家中での取扱いをめぐる経緯と、龍伯・武庫らへ申し立ててきた内容を列挙した訴状。相手方の申分との食い違い、兵具・金銀・奉公上の争点を示し、公儀による吟味と救済を求める。
慶長二年八月廿二日 / 冊子 133~135頁
五代友喜・有川貞豊・帖佐宗光が川上四郎兵衛尉・枇杷権左衛門尉へ、袈裟菊殿内の宇多与右衛門尉が安宅殿へ提出した申状に関する聞取り結果を報告した連署覚書。宇多の知行配当、使者の往来、奉公・武具・書状、相良五郎左衛門尉らの証言を照合し、宇多父子の切腹を命じる書状の有無をめぐる袈裟菊殿母側の主張など、当事者間で食い違う言分を詳細に列挙する。
年月日未詳 / 冊子 905~906頁
瀬戸口伊豆入道が八幡馬場での伊東勢との合戦を回想した覚書。島津忠親方の兵が敵の進出を迎え撃ち、秀安が鉄砲を用いて戦ったこと、接戦の中で敵兵を討ち取ったことを記し、南九州の合戦における鉄砲使用と個々の軍功を伝える。
年月日未詳 / 冊子 755~756頁
島津義弘が上京中の又八郎忠恒へ、家臣や客に酒を強いず、商人・役人から贈物や賄賂を受けず、特定の者をひいきしないよう厳しく戒める。石田三成・安宅秀安の指示に従い、遊興を避けて公務を第一にせよと命じる。 後継者忠恒に中央政界での廉潔・節制・公平を求めた、具体性の高い訓戒書状。
文禄2年12月13日 / 冊子 756頁
上京中の忠恒に、酒宴の強要、商人・役人からの贈物、えこひいきや遊興を禁じ、石田三成・安宅秀安の指示に従って公務へ専念するよう義弘が命じる。 No.1241と同文のため本文を省略した、忠恒の政治的成長と廉潔な振る舞いを求める訓戒状の重出。
文禄2年11月11日 / 冊子 753頁
島津義弘が上京する又八郎忠恒へ、家臣に酒を過ごさせず、見物人を伴うことも禁じ、京都での振る舞いに細心の注意を払うよう戒める。初めての上京なので知人を増やし、諸事を分別して義弘を困らせないよう求める。 久保死後に後継者となる忠恒へ、中央政界での礼儀と自己管理を説いた父の訓戒書状。
(慶長二年)九月十三日 / 冊子 137~138頁
島津龍伯が忠恒の度重なる勝利を喜ぶ一方、石田三成への直接報告が遅いとして、使者を出せない場合も書状で伝えるよう戒めた書状。銀子三千枚の調達、佐多久内少輔の召出しと知行、来年三月までの上米、小西行長への音信、新納旅庵による借銀返済など、国元と在陣先を結ぶ複数の政務を指示する。
(慶長二年)九月十三日 / 冊子 143頁
本文はNo.305と同文のため省略されている。忠恒の戦況報告の遅れを戒め、銀子三千枚、佐多久内少輔の処遇、上米、小西行長への音信、旅庵による借銀返済などを指示した島津龍伯書状の重複写し。
慶長二年九月十三日 / 冊子 143頁
本文はNo.305と同文のため省略されている。忠恒の戦況報告、銀子三千枚の調達、佐多久内少輔の処遇、上米、小西行長との関係、新納旅庵による借銀返済などを扱う島津龍伯書状の重複写し。
十一月十三日 / 冊子 75~79頁
幼少の袈裟菊丸島津常久の知行処置をめぐり、祖母方による上方への直訴を禁じ、三千六百石の蔵入・家臣知行配分を阿多大炊助に任せた経緯を説明し、宇多奥右衛門親子への切腹命令を義弘が出したとの疑惑を否定して、関係者へ周知を命じた長文書状。
天明八年六月十八日 / 冊子 58頁/原整理番号 289
御記録奉行川上親敷が、関ヶ原退陣時に福島佐渡介秀安が八代の御仮屋守を勤め、惟新を迎えた功により御仮屋地周辺を拝領した由緒と、その後の相続・譲渡を福嶋休右衛門の申出に基づき証した覚書。天明八年六月十八日付。