殉国名藪
年月日未詳 / 冊子 14頁
『殉国名藪』から、延文四年十月五日、佐多左馬助忠直が相良氏の軍との戦いに従ったこと、佐多彦四郎・佐多三郎四郎らの名が続くこと、向江孫太郎と久木崎丹後が同時に戦死したことを記した記事。
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年月日未詳 / 冊子 14頁
『殉国名藪』から、延文四年十月五日、佐多左馬助忠直が相良氏の軍との戦いに従ったこと、佐多彦四郎・佐多三郎四郎らの名が続くこと、向江孫太郎と久木崎丹後が同時に戦死したことを記した記事。
年月日未詳 / 冊子 60頁
今川了俊が島津親忠・忠房、渋谷重門らに峰城攻撃を命じた戦役を記す。島津・渋谷勢と高城・東郷勢の交戦、定山公方の築城と籠城、相良氏らの救援・進退を追い、城の争奪を通じて九州探題方と在地諸氏の軍事関係が変化した経過を示す。
年月日未詳 / 冊子 66頁
肥後国八代・葦北・球磨の相良氏、日向の伊東・北郷氏をめぐる軍事情勢の中で、島津氏久が困窮する伊集院久氏らを支援した記事。軍勢・兵糧を整えて各方面へ出動し、相良・伊東方との対立に対応しながら伊集院氏の所領と立場を維持した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 67頁
伊東・北原・相良氏らの凶徒が都城周辺へ攻め寄せたため、新納実久が救援に向かい、応安六年三月一日の戦闘で軍功を挙げた経過を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 101頁
永和二年冬、相良氏が伊東氏らと結んで守護領へ侵入し、守護命に背いた六十三人を旗下に集め、本原城を本営として都城へ迫った記事。北郷義久は平田新左衛門重親入道玄心・工藤蔵人ら勇士七十余騎と都城に籠城して防御し、島津氏久は救援のため自ら志布志の天ヶ峯へ出陣した。
年月日未詳 / 冊子 104~105頁
三か国の御家人と相良氏らが一揆して都城を圧迫したため、北郷義久が新納・本田・樺山・平田諸将と籠城した経過を記す。島津氏久は志布志から救援し、天ヶ峯・平長谷方面へ軍を進めて一揆軍と交戦し、都城の包囲を解こうとした。
年月日未詳 / 冊子 109~111頁
島津氏久譜として、税所氏・相良氏との曽於郡争乱における正八幡宮社人の守護方参戦、姫木・清水・木城などの攻防、本田親治・氏親父子らの奮戦・戦死、所領没収と守護方への安堵などを記す長文記事。
年月日未詳 / 冊子 173~174頁
渋川満頼が肥後二見へ下向した際、島津元久の名代新納実久が参候した経過を記す恕翁公譜。席次をめぐって実久と渋谷一族が対立し、探題の面前で緊張が高まった。酒宴の場で相良氏らが双方を仲介し、衝突を収めたことを述べ、諸氏の序列意識と接遇交渉の実態を伝える。
年月日未詳 / 冊子 323頁
山門院を掌握したのち相良氏へ当地を与え、瀬崎の山野に寺を建立して感應寺と称したこと、旧臣らの疑念や伊集院方との関係を記す。
年月日未詳 / 冊子 468~469頁
相良氏が大口城を奪って高城の相良殿を攻め、菱刈智嶽が島津方の援軍として参戦し、大口・本城をめぐって戦った経緯を記す旧記記事。
年月日未詳 / 冊子 483~484頁
文明七年に行われた犬追物を起点として、伊作久逸・新納忠続ら島津一族の動向を記す。高城をめぐる北原氏・相良氏との抗争、諸勢の出陣と城郭支配の変化を追い、武家儀礼の開催と並行して家中・国衆間の軍事的緊張が高まった情勢をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 110~111頁
北原兼守死後の家督争いで伊東義祐が真幸院へ介入し、北原兼親が球磨へ逃れたのち、白坂氏・樺山玄佐・相良氏の支援で飯野へ復帰した経過を記す。大川平氏の防戦と今城築城、島津方と伊東方の境界が不安定になった事情も詳述する。
年月日未詳 / 冊子 121頁
貴久の飯野在陣と三山での勝利後、北原兼親の伯父が吉松城へ相良兵を招き、伊東氏と通じて島津方番兵を討とうとした陰謀が露見した経過を記す。兼親の勢力が衰え、相良氏も領地を狙ったため、兼親を上神殿村へ移し、真幸院を島津家直轄とした。
(永禄七年)九月日 / 冊子 126(本文省略、後出同文参照)頁
豊前方面の和睦後、田舎境への大友氏の働き掛けを求めた島津氏老臣の書状案。相良氏が島津家に損害を与えたとして、是正されなければ伊東氏と結んで対抗すると警告し、土持境への出兵または伊東氏との和与調整を要請する。同文の後出文書を参照した。
(永禄七年)九月 日 / 冊子 135~136頁
豊前方面の和睦後、田舎境への大友氏の支援を求めた島津氏老臣の書状案。相良氏が島津家へ損害を与えたとして、是正されなければ伊東氏と結んで対抗するとし、土持境への出兵または伊東氏との和与調整を要請する。No.262の省略本文に対応する。
永禄九年十月廿六日 / 冊子 152~153頁
伊東義祐が三山城を築いて相良氏と通じ、飯野侵攻を企てたため、永禄九年十月二十六日、義久を大将、義弘・歳久を副将として数万騎で攻めたことを記す。勝利を得たものの義弘が深手を負ったため、城を落とさず退去した。
永禄十一年五月 / 冊子 198頁
永禄十一年五月、山野・平泉・羽月の守兵交代を狙って敵が伏兵を置いたため、遠方の兵の危難を考え、球磨方へ和議を求めたことを記す。山野を相良氏へ渡す条件で弓箭を収め、相良氏もこれを受け入れた。
永禄十一年五月上旬 / 冊子 198頁
永禄十一年五月上旬、山野・羽月・平泉の番替を大口方が狙って伏兵を仕掛けたため、日新が山野を相良方へ渡して一時和睦するよう勧めたことを記す。味方を多く失えば戦いの進め方が悪くなるとして、天意が巡れば敗れても後に勝てるとの判断から、相良氏との和議を成立させた。
永禄十一年五月 / 冊子 198頁
本文ではNo.460記事の前半と同文のため省略される譜中記事。大口方の勢力が増して島津方の戦死者が多くなったことから、日新の意見に従い、山野を相良氏へ渡して和睦を成立させた内容に当たる。
(永禄十一年五月以後) / 冊子 198頁
山野をめぐる和睦後、相良氏・菱刈氏が出水の感応寺を仲介者として、島津方へ改めて和議を求めたことを記す短い譜中記事。
永禄十一年八月九日 / 冊子 199頁
永禄十一年八月九日、伊東氏が相良氏と結び、飯野近くの桶比良に陣を置いた際の記事。加久藤・馬関田の百姓が心変わりして飯野城を犯そうとしたため、義弘が守備を固めた。伊東陣を嘲る狂歌一首を札に書き、密かに陣下へ立てたとする。
永禄十一年八月九日 / 冊子 199~200頁
永禄十一年八月九日、大口方が前約に背いて堂崎の通路へ陣を築き、伊東義祐も相良氏と結んで飯野桶比良へ陣を構えたことを記す。加久藤・馬関田の百姓が敵方へ心変わりしたため、義弘が飯野の守備を固め、桶比良攻撃を企てたが長雨で実行できなかった。島津方の武士が伊東陣を嘲る狂歌を陣下へ立てた。
永禄十一年八月九日 / 冊子 200頁
永禄十一年八月、伊東氏が相良氏と結び桶比良に陣を置いたため、島津義弘が飯野の守備を固めた。皆越六郎左衛門から伊東・相良両氏の加久藤・飯野攻略計画が遠矢下総守へ密告され、島津方は大明司へ虚報を流して対抗した。貴久は長雨のため桶比良攻撃を断念し、義弘は皆越夫妻を河原口で迎えて大川平を与え、九郎の後嗣として左近将監と改名させた。
永禄十一年五月~十二月十三日 / 冊子 203~204頁
大口方の勢力増大と島津方の戦死者増加を受け、日新の意見に従って山野を相良氏へ渡し和睦した。その後、菱刈方は堂崎に陣を築いて平泉への通路を断ち、田中川内の伏兵が番替えの川上丹後守・堀内氏を討った。相良・菱刈両氏は感応寺を介して再三和睦を求めたが、許可される前の永禄十一年十二月十三日に日新が没した。貴久は十一月から加世田で病床に侍していた。
永禄十二年五月六日~九月十八日 / 冊子 220~221頁
永禄十二年五月六日、羽月・大口境の戸神尾で島津方が勝ち、敵百六人を討ち取ったとする。初秋から相良氏と和平を協議し、九月十日に双方が人質を交換した。十八日巳刻、貴久・義久が大口城へ入り、鎌田政年を役者として太平の祝宴を催した。
年月日未詳 / 冊子 308頁
諸国の大名・小名が島津義久へ出仕するなか、伊地知重興と肝付省釣は伊東氏・相良氏と結んで敵対したと述べる。伊東方も天罰を受けながら、島津義弘の居城飯野を後方に置き、加久藤城を攻めようとした経緯を記す短い導入記事。
(天正七年)九月十九日 / 冊子 640~641頁
近衛前久が島津義久へ示した覚書。織田信長へ進上する鷹、一般新規の案件、領知と日向、朱印への礼、豊薩和議へ同意する場合の使者派遣、両国和睦後の出馬時に軍勢を立てること、相良氏に裏表がなければ従来どおり相談することを列挙する。
(天正八年)八月十二日 / 冊子 660頁
伯耆顕孝が島津氏へ、島津家と相良氏の一致について泰平寺に詳しく申し渡したとし、島津方の意向を初めから終わりまで聞きたいと求める。当地の戦況を放置すれば双方の迷惑になるとして、急ぎ判断するよう促し、同趣旨を老中にも伝えた。
(天正八年)八月廿八日 / 冊子 661頁
龍造寺隆信が伊集院忠棟へ、相良氏との戦いを理由に八代方面で龍造寺領内の船往来を止めるよう求められたが、肥後国内の運送船まで止めるのは難しいと答える。先月肥後へ出兵して敵数百人を討ち、同国の過半を掌握したと報告し、祭河の要害を落とした後は島津方と一途に相談して大友氏を討ちたいと述べた。
天正九年四月十三日以後 / 冊子 687頁
天正九年四月、龍造寺勢が肥後南関から隈部方面へ進み、二十日ごろ赤星方の城が落ちて熊本の守備が困難になった情勢を記す。相良氏が水俣から豊福までを押さえて往来を遮ったため、まず水俣へ出陣する方針となった。
(天正九年)五月十二日 / 冊子 689頁
島津義久が肥後情勢と外交方針を箇条書きにした案。龍造寺氏との関係、豊後勢敗北後の筑後の安全、相良氏を見捨てないこと、天草方の人質、熊本到着後の対応などを確認し、川内落城以来の相良氏への加勢約束にも触れる。
(天正九年)六月廿八日 / 冊子 690頁
島津義久が伊勢貞知へ示した覚書。御祈祷、日向国の領知、使者を通じて申し上げる事項、相良氏の進退、秋月氏・龍造寺氏への対応の五か条を列挙する。
天正十年正月以後 / 冊子 711頁
相良家の勢力が朝露のように危うくなったため、八代老衆が八代を島津領とするよう願った記事。義久は再三辞退したが、八代が他人の手に渡れば相良氏にも薩摩にも害となるとして承諾し、八代から豊福までを領して後に義弘へ与えた。
天正十一年八月二十八日 / 冊子 758頁
龍造寺隆信が伊集院忠棟へ、相良氏との戦いを理由に八代方面で龍造寺領内の船往来を止めるよう求められたが、肥後国内の運送船まで止めるのは難しいと答える。先月肥後へ出兵して敵数百人を討ち、同国の過半を掌握したと報告し、祭河の要害を落とした後は島津方と一途に相談して大友氏を討ちたいと述べた書状。本文はNo.1159と同文のため省略される。
年月日未詳 / 冊子 2頁
龍造寺氏は長年島津方と親交していたが、相良氏が離反した際に同調したため、島津方が高来方面へ軍勢を渡して戦い、龍造寺隆信を討ち取った経緯を述べる。その後、秋月氏が強く懇望して島津の幕下に入り、神名血判を取り交わして服属関係を定めたにもかかわらず、再び変心したとして、その表裏ある振る舞いへの警戒を促す。宛先の相手が秋月氏を成敗するなら、島津方はその国の用務に協力すると約し、追って使節を派遣すると結ぶ書状案。沖田畷合戦後の九州諸勢力の服属交渉と相互不信を示す。
年月日未詳 / 冊子 383頁
龍伯が在洛中、肥後の乱逆が京都へ伝わると、豊臣秀吉は伊集院忠棟を諸将への命令を伝える使者として下向させた。忠棟はまず薩摩へ戻って佐々氏討伐の命を伝え、その後肥後へ赴こうとしたが、相良氏が北・八代方面の通路を塞いだため通行できなかった。やむなく京都へ引き返して復命した経過を記す島津義弘譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 101~102頁
北郷祐山兄弟が本領を確保して庄内南郷の都城を取った頃からの攻防を叙述する『山田聖栄自記』の記事。相良・伊東方が都城へ迫り、島津氏久が志布志から天ヶ峯に陣取って救援した経過を記す。二月十九日頃の合戦に際し、平田重親は甥の氏親に、自身は討死するので生きて又三郎殿に仕えるよう諭した。重親は討死し、氏親は七か所を負傷しながら生還したという。
年月日未詳 / 冊子 103~104頁
天授三年前後の南九州争乱を詳述する国史記事。島津氏久・久豊方と北郷・肝付・伊東・相良・本田諸氏が同盟と離反を繰り返し、都城周辺の諸城・陣地で交戦した。各隊の進軍・退却、武将の戦死、勝敗の転換を追い、戦後に忠功を認定して恩賞を与えるまでを一連の軍事過程として記す。
年月日未詳 / 冊子 158頁
島津元久譜として、相良祐頼と北原氏が徳満城で争い相討ちとなったため両氏が対立し、北原氏の子が元久に援助を求め、元久が軍勢を派遣して相良勢を退け、隕幸一院を北原領とした経緯を記す。
応永十二年八月十五日 / 冊子 218頁
大友親世が島津氏へ、幕府・探題の意向による朝山氏と吉弘土佐入道の派遣、和睦の成立、奥州・相良方の状況、京都の合戦が無事落着したことなどを報じ、今後の協調を伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 98~99頁
真幸院の北原兼守死後、家臣団が分裂して政道が乱れ、踊城主白坂氏や栗野・吉松・吉田・馬関田が島津方へ従った経過を記す。横川城の北原伊勢介・新介は従わず、島津方は義弘を真幸院へ進出させ、伊東・相良両氏の介入に備えた。
年月日未詳 / 冊子 107~109頁
北原兼守死後の真幸院で、樺山玄佐と白坂氏らが球磨から北原兼親を迎え、馬関田を奪って飯野へ入れた経過を詳述する。島津方は横川城を攻略して菱刈氏へ与え、北原兼親から栗野を献上させ、相良方の番衆を帰国させて飯野を守備した。
年月日未詳 / 冊子 112~113頁
樺山玄佐が白坂氏らと協力して球磨の北原兼親を真幸院へ戻し、飯野へ入れた工作を中心に記す。横川城攻略後は菱刈氏に城を与え、白坂下総介らを説得して栗野を島津方へ献上させ、飯野の守備を薩隅兵へ切り替えた。
年月日未詳 / 冊子 114頁
球磨から北原家督へ戻された北原兼親が、のちに伊東・相良両氏と内通して薩摩方の番兵を討とうとしたため、島津方が糾明した経過を記す。相良方番衆は助命して球磨へ追放し、兼親らを移住させ、兼親には伊集院上神殿村五十町を与えた。
年月日未詳 / 冊子 114頁
北原兼親が伊東・相良両氏と内談し、薩摩方の在番衆を討とうとした企てが露見したため、島津方が取り調べた。相良方番衆は命を助けて球磨へ帰し、兼親らを各地へ移し、兼親には伊集院上神殿村五十町を与えた処置を記す。
永禄五年七月廿四日 / 冊子 116~117頁
伊集院孤舟が球磨から届いた複数の書状への返答や使者の扱いについて肝付氏へ相談した書状。球磨との恩義を鹿児島へよく相談し、真幸の所領問題と横川を菱刈氏へ与える方針を伝えるよう求め、旅宿へ酒も贈った。
年月日未詳 / 冊子 120頁
永禄六年、島津貴久が飯野へ赴き、二月十日に三山の伊東勢を攻めて勝利したことを記す。北原兼親の飯野入城後、島津・相良両方の兵が守備し、十一月十六日には貴久が肝付兼盛の飯野での功を感賞した。
年月日未詳 / 冊子 121~122頁
永禄六年、貴久が飯野へ赴き、三山へ軍勢を送って勝利したことを記す。北原兼親の伯父が相良兵を吉松へ入れて島津方番兵を討とうとした企てが露見し、兼親の側近も離反したため、兼親を伊集院へ移し、真幸院を島津家領として義弘を飯野に置いた。
永禄九年十月十五日~廿六日 / 冊子 154~155頁
飯野を境目として伊東・相良両氏と対抗するため、小林三之山城を攻撃した経過を詳述する。義久・義弘・歳久の軍が花立口・大豆別府口・寝谷口から攻め、義弘勢は二之丸まで進んだが多数が戦死・負傷したため退却し、追撃する伊東勢には伏兵で損害を与えた。帰陣後、横川側の不穏な振る舞いを諸将が訴え、成敗を求めたことも記す。
永禄十年十一月~永禄十一年正月十八日 / 冊子 170頁
永禄十年十一月、義久・義弘が菱刈院へ進み馬越城を陥落させたため、周辺諸城が大口城へ退いた経過を記す。相良方の球磨・葦北勢が大口城へ入る一方、家久は樺山玄佐・忠知らと平泉城を守り、のち横川城を与えられて飯野警衛を命じられ、翌年正月に長陣を終えた。