刊本標題:二階堂行仲譲状案
文書末尾日付:正平十年十一月十日 / 冊子 598~599頁/原整理番号 九五/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-D0095
三郎兵衛尉直行に対する二階堂行仲譲状案。 薩摩国阿多北方多布施郷の高橋路余利北分、豊前金田村半分、筑前植木庄本富名半分、三河重原庄内の所領を挙げる。 相伝所領として次第調度文書・御下文を添え、直行へ譲与する旨を述べる。 判形がないことと亡父行存の譲状一筆に触れ、他妨なく知行すべき旨を記す。正平十年十一月十日付。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
40 件 (全巻)/ 1–40件を表示
ページ 1 / 1
文書末尾日付:正平十年十一月十日 / 冊子 598~599頁/原整理番号 九五/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-D0095
三郎兵衛尉直行に対する二階堂行仲譲状案。 薩摩国阿多北方多布施郷の高橋路余利北分、豊前金田村半分、筑前植木庄本富名半分、三河重原庄内の所領を挙げる。 相伝所領として次第調度文書・御下文を添え、直行へ譲与する旨を述べる。 判形がないことと亡父行存の譲状一筆に触れ、他妨なく知行すべき旨を記す。正平十年十一月十日付。
年月日未詳 / 冊子 307頁/原整理番号 2
山口駿河守直友の子孫を示す系図。直行から五郎兵衛らに至る家系を線で結び、各人の通称・親族関係と養子関係を書き添える。
文書年紀:貞和七年卯月三日 / 冊子 596頁/原整理番号 八九/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-D0089
薩广國阿多北方多布施郷のたかはしの道より北と、ふせんの國金田村半分を掲げる。 三河國しけわら内の所領を掲げ、三郎直行所へ譲渡する形式をとる。 所領を惣領であることにより直行へ譲るとし、他のさまたげなく知行すべき旨を記す。 貞和七年卯月三日付、行存の花押表示を伴う。標題・署名脇の行雄は小字として分ける。
記事成立日:未確認 / 冊子 596頁/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-A043
「(直行譜中)」に続き、祖父左衞門尉行雄の在判領地譲状一通を挙げる。 同案一通を併記する。 正文を家蔵と記す。 「記左」と後続譲状・案の表示を導く。
記事成立日:未確認 / 冊子 599頁/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-A051
直行の在判領地譲状一通を挙げる。 正文の所在を家藏と記す。 「記左」と後続譲状を紹介する。 記事の成立年月日と直行の本人比定は確定しない。
二月、主君家来大村右近直行・稲田中衛照正の判表示(日不記) / 冊子 489頁/原整理番号 657の2/整理ID 657-2
布告を謹んで拝見し、君臣上下の名分を守って王家に勤めるのは当然で、天朝多難の時には一層尽力すべきだと述べる。東賊潰走・近畿穏静とする情勢を喜び、なお命を拒み私党したり両端の態度を取る者には速やかな処置が必要との見解を示す。丹後守へ早く伝えるが、主君は上京中なので自分たちから御請一通を差し出すとする。二月に大村丹後守家来の大村右近・稲田中衛が、直行・照正の判表示を伴って記す。主君への取次と家臣の回答、政治評価・忠誠の表明を分ける。
文書末尾日付:卯月廿九日 / 冊子 598頁/原整理番号 九四/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-D0094
二階堂隠岐守直行の申状を受け、豊前国金田庄内金田村の坂本三郎の違乱を取り上げる。 申状を執進したとし、「見子細状候歟/見于細状候歟」の読字候補がある。字形・語義は保留する。 当陣へ馳せ越して忠節を致したことに触れ、「可然様可有申御沙汰候」と求める。 卯月廿九日付、左兵衛督泰季の表示と修理権大夫殿の宛所を置く書状案。
記事成立日:未確認 / 冊子 599頁/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-A050
「(行貞譜中)」の文脈で直行の譲を受けた旨を記す。 「併行貞 恩賜之地」と続ける。 諸国の庄園を領した旨を記す。 譲と恩賜の対象・年紀や法的性質は記事から補わない。
文書年紀:貞治五年八月廿三日 / 冊子 596~597頁/原整理番号 九〇/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-D0090
阿多郡内觀音寺并白河村について記す。 本文は「爲闕所之間、公方御計之程、所預申候也」と記し、「間」の意味や預ける/預かるの方向は確定しない。 先例に任せて知行すべき旨を述べる。 貞治五年八月廿三日付、師久の花押表示を伴い、二階堂隱岐守殿を宛所とする。
文書末尾日付:永徳三年卯月廿二日 / 冊子 599~600頁/原整理番号 九七/整理ID TMP-P04-NIKAIDO-D0097
山城守行貞に対する禅桂の譲状。 薩摩国阿多北方多布施郷、豊前国金田村半分、三河国重原内の所領を掲げる。 相伝所領として文書・御下文を添え、惣領の行貞に譲渡して妨げなく知行すべき旨を述べる。 兄弟が所譲に違乱する時は子孫とすべからざる旨を記す。永徳三年卯月廿二日付、禅桂の花押表示を置く。
文禄3年5月7日 / 冊子 785頁
元親が帰朝前に確認すべきことがあり出発を延ばしていると知らせ、島津侍従から石田三成へ飛脚を立てる件を取り次ぐ。大坂へ直行する船を用意し、船中の賄いも手配すると申し出る。 飛脚と書状を幸侃へ確実に届けるよう求めた、朝鮮から上方への連絡・輸送を具体的に示す書状。
(慶長四年)十二月十六日 / 冊子 475~476頁
太田友一が薩州少将の側近へ、前日十五日に大坂便船があった一方、内府徳川家康の使者・山口勘兵衛が五日に大坂を出船したとの風聞はあるものの、佐賀関にはまだ着いていないと報告する。山口が少将方へ直行した場合と当地へ着岸した場合の双方を想定し、渡次兵衛を飛脚として遣わして直談させる手配を述べる。当地にいる自分へ用件があればいつでも命じるよう求め、寺沢広高も十日に大坂へ着船したと知らせる。
〈宝暦四年〉二月十日 / 冊子 460頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1394
宝暦四年二月十日、重年の御名内として岩下佐次右衛門が差し出す伺書。濃州・勢州・尾州川々の普請手伝のため国元から送る惣奉行・添奉行その他の役人が、大坂に到着してそのまま普請場へ赴くようにした旨を届け出る。今から役人を大坂へ集める予定を立てる文書ではなく、大坂到着と現場への直行を知らせる内容である。行間朱書にも書面のとおり、惣奉行・添奉行らが大坂から直接普請所へ赴く旨を記す。付記は岩下が堀田相模守・一色周防守方へ持参して差し出したこと、二月十四日に周防守から付紙の朱書どおりの指示が渡されたことを記す。二月十日の本書と二月十四日の返答を区別する。
年月日未詳 / 冊子 29頁/原整理番号 44
伊地知季安が、この夜戌刻、世子がわずかな小隊で夜を日に継ぎ、路程を急いで島原へ直行するとの知らせが鹿児島へ届いたと記す。川上久国・三原重庸はただちに諸方へ檄を飛ばし、上使の命令で人数削減により帰郷していた者も、当初の手形で割り当てられた通り急行し、世子の到着に間に合わせて全員従軍するよう触れたため、諸外城で兵馬の召集が再び騒動となったという記事。
正月廿九日 / 冊子 29~30頁/原整理番号 45-1
川上久国・三原重庸が吉田・蒲生など諸外城の衆へ、薩州様が江戸から島原へ直行するため、先日の割当通り早急に出立するよう命じる。以前、上使から人数不要との命令を受けて途中から帰った者にも、江戸からの新命令に従い再出立を求める。少身の者は三人につき夫丸一人を付け、御蔵入地の者は出水の船元まで、持合地の者は領主が率いることとし、はぐれた者も相談して同行させ、領主不在を避けるよう指示する。調整不能または出立に堪えない者は残ってよいが、薩州様は極めて急ぎ、随行人数は本文「上下□五人」に「四十」の傍記があり、海道を昼夜通行するとの知らせが戌刻に届いたため、心して準備するよう求める回状。末尾の頭書は、この再召集と世子自らの出陣により備えも変更するとして、次の手当を導く。
二月六日 / 冊子 82頁/原整理番号 134
国分友知が野間口彦左衛門尉へ、琉球船の件を承知したと答える。薩州様が東目筋を下ると聞いて庄内へ出たが島原へ直行するため戻ったこと、八日に出立するので当衆中を八・九日に参着させること、三人につき日用夫一人を立てる手配などを命じる。
二月六日 / 冊子 83~84頁/原整理番号 137
川上久国・三原重庸が伊勢貞昌へ、去る朔日付書状で薩州様が有馬へ直行すると知り、日向路前提の軍役・装備手配を改める。旗二本・馬印・具足・弓・鉄砲等と馬二疋を先送し、幟百本・鉄砲三百挺・弓二百張・鑓二百本などを後送するとともに、兵員・衣類・陣道具・兵糧・琉球米船の手配を列挙する。
二月六日 / 冊子 84頁/原整理番号 138
川上久国・三原重庸が市来宗友へ、馬乗十騎・御陸衆五十人・本文に『御番道具七百人』とある員数、馬二疋、持道具・陣屋道具を送るので船を用意するよう命じる。日向から薩州様が上之関より有馬へ直行するとの急報が入り、諸道具を不足なく昼夜準備するよう重ねて指示する。
貞治二年五月二日 / 冊子 267~268頁/原整理番号 44
島津師久が豊後での合戦と薩摩の内乱を度々注進したが、道路の混乱で届かないことを詫び、豊州方への合力に向かった途中、政保・牛屎高元・行家ら和泉・葦北・七浦・渋谷の敵勢と戦って親類数十人に死傷者を出したと訴える請文。なお国の敵勢が過半を占め合力が進まず、弟氏久の隅州での防戦、大内弘世の渡海、菊池方の帰国、管領の周防滞在を報告し、急ぎ九州対治の沙汰を求める。兄弟で両国を守り軍勢を催促しているとして、謀略と御教書の披露を願う。付記には、貞治五年に師久が二階堂隠岐守直行へ阿多郡内観音寺と白河村の知行を認めた御判書がある。
正月廿九日 / 冊子 36~37頁/原整理番号 54
正月二十九日、川上久国・三原重庸が川越三右衛門尉の宿所へ送った連署書状。薩州様が暇を得て有馬へ直接下向するとの知らせを今晩受けたため、兵糧と船の手配を万事油断なく進めるよう命じる。出水・米之津へは差出側から連絡するので、受取側からも両所へ申し通し、少しも遅延しないよう求める。右飛脚による送達である。
(天正19年)8月15日 / 冊子 514頁
石田正澄が島津義弘の湯治を見舞い、帷子五領を秀吉へ披露すると朱印が下されたと報告する。義弘の帰国に際して大坂へ直行する段取り、軍役人数、隠田・隠人の調査、百姓・家臣の把握にも触れ、渡海軍編成の前提となる領国調査を急がせた書状。
年月日未詳 / 冊子 666-667頁
日州飫肥の稲津掃部が佐土原城を攻めたという知らせを受け、御上様・宰相殿は八代へ直行し、義弘は佐土原を見舞った。佐土原では島津源七郎が出迎え、八代で一宿した夜には宿の近くの放火者を討ち取った。語り手は父と暇を賜って真幸海道を進み、義弘は浜之市へ向かい、義久に対面するため出立し、帖佐へ着いたと記す。語り手らも帖佐へ到着し、村岡掃部左衛門の客屋にしばらく滞在した後、家作屋敷を与えられた。
正保二年三月二十七日 / 冊子 9頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0014
鹿籠廻文留所収の島津久慶・川上久国・島津久通連署廻状。長崎へ出る衆への飯米の追算用と、呉国船の番衆へ廻状の写しを置くことを指示する。唐船が湊へ入り逗留すれば厳重に番を付け昼夜を問わず注進させ、唐人が出ようとする時は功者衆二人を長崎へ直行させる。鹿児島への注進の返事前に出発されれば現地の越度となるとして注意し、自分たちも追って向かう旨を伝える。
〈宝暦四年〉二月十日 / 冊子 460頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1395
宝暦四年二月十日、重年の御名内として岩下佐次右衛門が届け出た書付の写。濃州・勢州・尾州川々の普請手伝に関し、木屋場について去る五日に青木次郎九郎から渡された書付を受け取ったことを、まず知らせる。その付書に従い、当地から差し越す人数は来る十一日・十二日の両日に出立させると届ける。宛先の付記は堀田相模守・一色周防守への届出と記す。重年公御譜中・扣正文在家老座の注を持ち、国元から大坂へ到着した役人の直行を扱うNo.1394とは、当地からの人数派遣として区別する。人数の総数・氏名は本書に記されない。
安永三年四月(末朱、日なし) / 冊子 427~428~429頁/原整理番号 1183/整理ID 1183
増上寺辺で出火した際の処置と、屋敷の合図による出動・待機を定める。登城中に御霊屋へ心遣いが必要な火事となったときは、御目付と間合いを相談して退出し、直接増上寺へ向かう。大目付・御目付への連絡には屋敷からの人数を追って差し出すので、自分が退城する旨は大目付へ直に伝え、御目付へは留守居をもって届ける。下馬まで出火の注進があれば、供の日附の内で城中の口へ取り会う者が留守居を介し刀番へ連絡する。城から直接増上寺へ行く場合は、どこででも立ち寄って着替えてよい。殿中向が全員火事装束となるような場合には坊主部屋でも着替えるが、なるべく別所へ立ち寄る。登城前や途中の出火で御霊屋に心遣いが必要なら、増上寺へ直行して登城せず、殿月番老中へ刀番使者をもって届ける。登城していなければ当番御目付へ届ける。上野への参詣中も同様の出火なら増上寺へ直行し、参詣しない旨を宿坊へ表方使者で知らせる。他所へ出ていても御霊屋に心遣いが必要な出火なら直接向かう。以下、屋敷の合図を定める。掛板五つは遠近を問わず出火を知らせる合図。掛板を静かに打つときは拍子木を打ち回し、定駈人数は備場へ、一番・二番駈付人数は装束を整えて宿々に控える。駈出を打つときは鈴を振り、定駈付一組は増上寺へ、一番・二番駈付は備場へ出る。二度目の駈出では一番駈付が増上寺へ向かい、三度目では二番駈付も向かい、供方は備場へ出る。半鐘と掛板を一度に打つときは銅羅を打ち回す。これは増上寺近火・屋敷方限内、または限外でも急火・風並の悪い場合の合図で、定駈付一番手が早く増上寺へ、一番駈付は備場で控え、合図に応じて向かい、二番駈付は備場に控える。一番・二番が増上寺へ差し越した後、風並により一組が屋敷へ戻って防ぎ、供方は勤場へ出る。掛板が打たれなくても、拍子木・鈴・銅羅の合図を心得て間違いなく勤場へ出る。屋敷内の疑わしい煙には銅羅だけの合図もある。この場合は誰でも装束を待たず早く現場へ駈け付けて消し留め、手が足りなければ引き取り、受持の場所へ出る。櫻田・高輪・三田・汐留・南八丁堀・大圓寺の出火では掛板三繰、拍子木を三つずつ打ち、所在から出て合図に応じて差し越す。用心駈付人数だけが備場所へ出て、次の合図で出動する。半鐘五つは鎮火の合図。末朱は安永三年四月。人数の実数は記さず、一番・二番という組区分、音具ごとの数と出動段階、直行と連絡・待機の条件を別々に記す。
正月十七日 / 冊子 453~454頁
島原の乱により九州大名が急ぎ帰国・出陣するなか、光久も江戸を発ったが阿部川増水で駿府に滞留した経緯を報告する。江戸での評判を意識して少数騎馬で大坂まで急行し、国元人数が未出陣なら直ちに率いて下ること、有馬へ派遣済みなら自身も直行すること、高麗陣以来の馬印を携行させることを求めた書状。
正月25日 / 冊子 788~789頁/原整理番号 873
久玉からから祢への陣替報告に返答し、人数は順次送ってよいが、定められた配分外で勝手に出兵する者には飯米と船を与えず、処罰する方針を伝える。諸将の相談不一致と大人数による混乱を懸念し、有馬の三老との協議を求める。黄門重病、新納の直行、清田石見守の天草番手に薩摩が代わる件に触れ、人数配分と軍紀を鬼塚を介して調整するよう指示する。
年月日未詳 / 冊子 54頁/原整理番号 78
小川監物日記の二日条。殿様が江戸から下向し、有馬へ直行するとも国元へ着いてから向かうとも聞いたと記す。外城軍衆の三分の一を帰すとのことで無足衆を分けて出立させたが、ほどなく再び留められた。
二月七日 / 冊子 85~86頁/原整理番号 141-2
入来院重国・北郷久加・喜入忠政・島津久賀が三原重庸・川上久国へ、去る四日付書状への返答を多条で伝える。薩州様の有馬直行の有無に応じた番手・人数の扱い、船不足による軍衆の滞留、兵糧船・在陣人数・一日当たり兵糧などを報告し、兵糧蔵の引渡し等を求める。
二月七日 / 冊子 90頁/原整理番号 148
川上久国・三原重庸が川上彦左衛門尉らへ、引付を持たない者には船を渡さないよう追伸し、薩州様の有馬直行、米之津・獅子島の仮屋、紫尾・川内筋の帰路を相談する。琉球船は先着三艘、続いて二艘、さらに十四・五艘を見込み、山川から直送させ、加勢人数と船の配分決定を求める。
二月七日 / 冊子 90~91頁/原整理番号 149
川上久国・三原重庸が伊勢貞昌へ、東郷肥前守を通じた黄門様の意向として、薩州様の有馬直行はもっともである一方、松平信綱の従前の指示どおり在陣は不要で軍法に従うべきことを伝える。黄門様の病状は二十五日以来やや軽快し食事も取るが、咳で横臥しにくいとも報じる。
二月七日 / 冊子 91頁/原整理番号 150
川上久国・三原重庸が北郷久直へ、薩州様が上関から有馬へ直行し到着した頃と伝え、加勢の程度は未決定と報じる。黄門様は十四・五日頃からやや軽快し少量ながら食事を取る一方、咳で横臥しにくいとし、加勢を出す際には有馬側が好まない者を含めないよう追伸する。
年月日未詳 / 冊子 100頁/原整理番号 160-1
伊地知季安の記事。九日、世子が有馬へ直行するとの報が鹿児島から島原へ届き、賦方村田経乗や相良頼房ら普請奉行・功者衆を島原へ召したため、上津浦の四将が島原の両将へ書状で報じたと記す。目録年月日欄は空欄で、続く160-2がその返書本文に当たる。
二月九日 / 冊子 100~101頁/原整理番号 160-2
入来院重国ら上津浦四将が山田有栄・島津久元へ、薩州様の直行に伴い伊勢貞昌から注進があり、陣営を早く整えるため村田経乗・相良頼房・村尾源左衛門らを当地へ参らせるよう求める。佐州・石州の陣所が遠いため両所とも相談したと追伸する。
二月九日 / 冊子 102頁/原整理番号 162-2
入来院重国・喜入忠政・島津久賀が市来宗友へ、上津浦の軍衆五千人に対して米千石ほどしかなく一か月分の兵糧にも足りないため、雑穀を含め早急に継送するよう求める。薩州様の有馬直行を踏まえ、賦方・物奉行と相談して手配させる。
二月九日 / 冊子 106頁/原整理番号 166
川上久国・三原重庸が大膳亮へ、薩州様の有馬直行に伴い当地衆を率いて出立する旨の書状を受けたが、松平信綱は加勢・在陣不要との意向であるため、人数の出立は改めて知らせるまで控えるよう命じる。
二月十日 / 冊子 115頁/原整理番号 182
川上久国・三原重庸が伊集院備後守へ、薩州様が上之関から有馬へ直行するとの知らせを祝い、兵具衆を早く派遣し、その他の人数は指示次第召し立てるよう伝える。自身の出陣希望については松平伊豆守信綱に伺い、有馬の加勢人数や上境目の事情を踏まえて判断するよう回答する。
年月日未詳 / 冊子 127~128頁/原整理番号 202
喜入摂津守の地頭所・加世田衆中に属する小川監物の日記。十三日、殿様が有馬へ直行したと聞き、加世田衆十五人が召し列ねられ、同道して七ツ時に有馬へ着船し、諸大名の陣屋と敵城を見物したと記す。以下は十四日条へ続く。
寛永十五年七月廿一日 / 冊子 245~247頁/原整理番号 333-33
二月二十七日の原城落城時、田中左兵衛が三之丸・二之丸までは主君の側に置かれていたが、諸勢が本丸へ乗りかねるなか、志水久馬とともに先手へ進むよう命じられ、本丸石垣へ直行した経過を住江求馬介へ申し出たもの。上から鉄砲・石・槍・火を受けながら名乗って乗り込み、自身が一番乗りであると主張する。城内で多数の敵と戦い、左腕・両腿・足・首や顔面など多くの傷を負ったこと、肥後守らの前で乗込みを述べたこと、他国衆の評判を大村猪右衛門も聞いたことを証拠に挙げる。末尾で阿部市太夫が内容に相違ないとして判形を据える。
知季安覚書月日 / 冊子 307~308頁/原整理番号 3
山口五郎兵衛が家系と相続について申し述べた口上覚。祖先山口直行以来の家筋、相続や養子の事情をたどり、家督・家譜に関する願いがあることを述べ、関係文書を踏まえた裁許を求める。