琉球国王宛書状案
慶長九年二月 / 冊子 927頁
琉球国王宛ての書状案。琉球商船が逆風で奥州へ漂着した際、徳川家康の命により薩摩を経て送還したことや、平戸に漂着した琉球官船を新船に替えようとした恩を列挙する。一方、琉球が豊臣秀頼への礼や薩摩の使者・朱印への返答を欠いたことを厳しく戒め、甑島に船を留置し乗員二、三人を帰す旨を述べる。
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慶長九年二月 / 冊子 927頁
琉球国王宛ての書状案。琉球商船が逆風で奥州へ漂着した際、徳川家康の命により薩摩を経て送還したことや、平戸に漂着した琉球官船を新船に替えようとした恩を列挙する。一方、琉球が豊臣秀頼への礼や薩摩の使者・朱印への返答を欠いたことを厳しく戒め、甑島に船を留置し乗員二、三人を帰す旨を述べる。
慶長十三年九月六日 / 冊子 184~185頁
慶長十三年九月六日、琉球渡海軍に対し、軍議と命令への服従、無用な戦闘の回避、無実の者の殺害・略奪・寺社侵害・放火・人身売買等の禁止、船舶封鎖、兵員・兵糧・武器の編成と負担を定めた掟書。
慶長十四年二月廿六日 / 冊子 206~207頁
慶長十四年二月二十六日、龍伯・家久・惟新が琉球渡海軍衆へ示した十三か条の掟書。軍議への服従、私戦・略奪・抜け駆け・喧嘩・無断離脱の禁止、武器管理、寺社等での狼藉禁止、人数点検、出船・停止命令の厳守を定めた。
慶長十六年九月十日 / 冊子 342~343頁
慶長十六年九月十日、琉球の各島から毎年納めるべき上布・下布・芭蕉布・綿・莚・皮などの品目と数量を列記し、樺山久高らが連署した納物目録。
(寛永八年)五月八日 / 冊子 211頁
琉球人から進上させる品として、練芭蕉布百端、中華尺・大尺各五、竹心香五脚、香箱類百袋、珍しい貝鳥、伽羅、巻物、蘇鉄などを列記する。蘇鉄は大きな鉢に植え、日光へ献上し後代まで残るものとするよう求め、高麗由来の品も進上候補とした注文。
永正五年三月十二日 / 冊子 595頁
島津忠治が琉球国王に、両国の友好と海上往来の維持を願い、使僧を通じて意思を伝えた外交書状。
永正五年三月十二日 / 冊子 595頁
島津忠治が琉球国王に、日本と琉球の旧来の友好を重んじ、今後も全国的な善隣と往来を保つよう求めた別通の外交書状。
永正十五年九月廿二日 / 冊子 617頁
島津忠隆が琉球国王に、天王和尚を使節として遣わし、当年は返礼を控えること、国政未調の事情は先に対馬守へ書状で伝えたこと、来春に使僧を通じて申し述べること、進物の件は副書に記したことを述べた案文。
弘治二年四月六日 / 冊子 26~27頁
島津貴久が琉球国王からの書状と贈物に謝意を表した返書案。月泉和尚の往来にも触れ、今後の友好と音信を望み、返礼の品を贈る旨を伝える。
弘治二年四月六日 / 冊子 27頁
島津貴久の返書に添えた返礼品の目録。太刀・鎧・甲・扇子など、琉球国王へ贈る品目と数量を列記する。
永禄二年四月九日 / 冊子 69~70頁
島津貴久が琉球国王の使者・天界寺叔和尚と世名城大屋子の来訪を喜び、長年の音信と隣国の友好を今後も深めたいと伝え、詳細を和尚に託した返書。
永禄十三年三月二日 / 冊子 236頁
島津貴久が琉球国王へ、前年春に天龍寺長老が国王書状を携えて来訪したことへの厚意を謝した書状。近年、貴久は守護職を義久へ譲ったと知らせ、広済寺雪辱長老を派遣して関係刷新を申し入れ、別幅記載の品を贈り、両国の永続的な友好を願う。
永禄十三年三月二日 / 冊子 236頁
本文はNo.552と同文のため省略される島津貴久書状。守護職を義久へ譲ったことを伝え、広済寺雪辱長老を琉球へ派遣して贈答と旧好の更新を申し入れる内容に当たる。
永禄十三年三月一日 / 冊子 236~237頁
村田経定が、広済寺雪辱東堂を琉球へ派遣するに当たり、近年薩摩商人が印判を携えず私的に往来しているのは沙汰の限りだと伝えた書状。今後違反者があれば船や財物を琉球側の処分に委ねるとし、詳細は雪辱和尚の口上に託す。
永禄十三年三月一日 / 冊子 237頁
川上意釣が、琉球国の政務刷新を祝う使節として広済寺雪辱東堂を派遣した書状。近年、島津家の印判を持たず旧制を破る商船が多いため、今後違反船を詳しく調査して処罰し、乱妨・私交易を厳禁するよう三司官へ求め、詳細は長老の口上に託す。
(元亀三年九月) / 冊子 292頁
島津義久が琉球国三司官へ、往来の勘合符改定と広済寺の渡海について通知した書状案。従来の例に従い東泰・西華・北南星斗の秩序を保つことを望み、近年は正規の印判を持たない商人が往来しているため、今後は正印のない船と財物を琉球側の公用として没収し、取締りを強化するよう求める。
(天正元年九月) / 冊子 315頁
島津義久が琉球国王即位の礼使として徳雲軒と源松都文を派遣するので便宜を求める。大明国と日本の関係が不穏ななか、明から琉球経由で日本へ勅書が渡るとの情報や、渡唐船の取扱いを島津家が永代管掌するとの琉球王宣旨について述べる。天王寺を通じた伝達や葉大人の帰国などの詳細は源松都文に託す。
(天正五年九月十六日) / 冊子 521頁
島津方が琉球三司官に、先年三宅泉州国秀が琉球を望んで薩摩へ来たため即時処刑したが、その一類が鬱憤から再び渡海を企て、将軍家の命を帯びた軍兵も下向するとの情報を伝える。薩隅の津々浦々を警固して兵船を遮るとし、詳細は聖現寺から伝える書状案。
天正六年仲秋十日 / 冊子 549頁
島津氏老臣が琉球国三司官へ、年頭の吉兆を祝い、日向の諸士が退出または参集して島津領が安寧になったと伝える。使僧妙厳寺と太平布五十端の贈物に謝し、返礼として織物五束を贈った書状案。伊集院忠棟・上井覚兼は日向在番中のため判がないと注記する。
(天正七年)三月二十七日 / 冊子 630~631頁
島津義久が琉球国王へ、三州の逆徒が退散して領国が平穏となったことを祝い、先例どおり渡海船を派遣するので命を加えるよう求め、進物目録を別紙で添えた書状案。確定版年月日は二月二十七日だが、本文注記は三月二十七日とする。
天正七年三月二十七日 / 冊子 631頁
島津氏老臣が琉球国三司官へ、日向の敵を退け、前年十一月の戦いで豊後勢四万余騎を討ったため九州の大半が島津方へ帰属しつつあると伝える。過去の行き違いで商船を止めていたが、国吉丸の渡海を機に先例どおり取り計らうよう求め、中紙八百帖を贈った。確定版年月日は二月二十七日だが本文は三月二十七日と記す。
天正九年五月七日 / 冊子 689頁
島津義久が琉球国王へ新年を祝し、前年夏の渡海と普門寺の帰国によって旧来の礼を果たしたことを喜び、今後も変わらぬ交誼を望むと伝えた返書案。進物は別紙に列記するとする。
天正13年6月 / 冊子 57頁
島津義久が琉球国の安泰を祝い、国王の使僧から伝えられた厚意と琉球産の献上品に謝意を表した書状案。近年、薩摩・大隅・日向の三国が島津の支配下となり、国内が安定した近況を伝え、天運と神明の加護によるものと位置づける。返礼品を贈り、今後も琉球国王との関係を保つ意思を示した、島津氏の領国認識と対琉球外交を併せて伝える文書。
天正13年7月18日 / 冊子 69~70頁
伊集院忠棟・平田親貞・美濃守光宗が琉球国三司官へ、琉球の安泰を祝い、近隣諸国が島津の支配下に入った状況と、永続的な和通への期待を連署して伝える。 琉球からの蚕糸・太平布に謝し、島津方から白麻を返贈しており、義久の中山王宛書状を重臣側から補完する外交文書である。
(天正16年)8月12日 / 冊子 408頁
義久が琉球国王へ、秀吉によって京都が平穏となり日本全国が統一され、高麗も朱印を受けて従ったと説明する。 琉球だけが度重なる命令に応じないのは無礼で、天下に背く者として処罰されかねないと警告し、秀吉への服属・入貢を促した外交書状案。豊臣政権の対外秩序を島津氏が伝達した重要史料である。
(天正18年)4月28日 / 冊子 461頁
豊臣秀吉が琉球国王へ、献上品への礼を述べる一方、日本国内を統一した勢威を示し、高麗を経て大明へ軍威を及ぼす構想を明らかにした書状。 早急に渡海して服属の意を示すよう迫り、従わなければ処置する含意を持つ。朝鮮侵攻前の豊臣政権による琉球への強圧的な参上要求を示す重要な外交史料である。
天正18年8月21日 / 冊子 479頁
島津義久が琉球国王の書状受領を踏まえ、京都への服属姿勢を保ち、唐船の用途や硫黄・馬などの献上に遅滞なく応じるよう求める書状案。 豊臣政権下で島津氏が琉球への外交窓口を担ったことを示す重要資料。
(天正18年)8月21日 / 冊子 479頁
島津義久が肥後以東の所領を失った後、豊臣秀吉の威光で再び領国を得た経緯を述べ、琉球にも服属と献上を促す書状案。 京都で多数の大名が秀吉に従う現状を示し、命令に背けば派兵もあり得ると警告する。
天正20年7月26日 / 冊子 596頁
島津義久が琉球国王へ、前年から命じた船の調達が国役・借銀などを理由に滞り、従来の盟約に背く結果となったことを厳しく問いただす返書案。細川幽斎・石田三成を通じた秀吉の上意にも触れる。 朝鮮・唐・南蛮をめぐる政務と「四海一統」を掲げて協力を迫り、建善寺和尚らを使者として渡海させる。豊臣政権下で島津氏が琉球へ軍役・船舶負担を要求した外交史料である。
(慶長三年七月) / 冊子 225頁
島津義久(竜伯)が琉球国中山王に、護国寺快雄座主と大里大屋子の上洛は重要であるが、豊臣秀吉が前年夏以来病気で聴聞も不自由なため奏上できなかったと伝えた書状案。石田三成と相談して進物を預かり、使節をいったん帰国させること、今後も通信と礼儀を怠らず方物を用意することを求め、酒・蚕綿・太平布への謝意と返礼を述べる。
(慶長八年) 月 日 / 冊子 884頁
島津義久の琉球国王宛書状案。琉球の貢船が逆風で伊達領へ漂着したため、内府が乗員を薩摩経由で帰国させるよう命じたと伝える。漂流の罪を問わず本国へ戻し、使者を遣わして内府の恩に謝するよう求めた。
慶長十六年三月十五日 / 冊子 328頁
慶長十六年三月十五日、樺山久高・比志島国貞が、前年に琉球の池城が遣唐使として渡海した際、船主が無事帰朝させた働きを賞し、今後いっそう忠勤するよう命じた連署状。
(慶長十六年)六月九日 / 冊子 338~339頁
慶長十六年六月、島津家久が琉球国司らに、江州へ渡海する使者を遣わすこと、王の帰国後の琉球統治、日本との関係、使者・僧侶への便宜と忠勤を求めた書状。
慶長十六年九月十九日 / 冊子 344~345頁
慶長十六年九月十九日、樺山久高らが連署した琉球統制の条目。唐江交易、由緒不明者・女性・私的従属、寺家、琉球人売買、日本人との渡海、京判外の商船、法令違反者の処罰などを定める。
(慶長十七年)三月廿二日 / 冊子 358頁
慶長十七年三月二十二日、町田久幸ら四名が、琉球駐在奉行、年貢・納物、買物法度、渡唐船と銀子持出し、日本人宿泊、米積船、浦添在宅、高麗人、関東へ差し出す女性などを定めた覚書。
慶長十八年六月一日 / 冊子 400頁
慶長十八年六月一日、琉球から唐へ渡る船の出航時期、帆・奉行・納銀・船員、王位算用、乗員や女性の取扱い、島ごとの商人などについて定めた三名連署の規定書。
慶長十八年九月十五日 / 冊子 413頁
慶長十八年九月十五日、島津家久が琉球統治について、旧来の制度と日本法、国王位、知行配分、百姓、年貢船・渡唐船、商船、官人・人質、日本人・唐人商人の取扱いを定めた条書。
慶長十八年九月廿四日 / 冊子 414頁
慶長十八年九月二十四日、琉球統治について、使者・港湾、渡唐船頭、官人・支配人、兵具規制、王子・官人子弟の人質、日本人・商人、年貢銀などを列記した連署覚書。
(慶長十九年)八月廿六日 / 冊子 545頁
琉球国王からの書状二通に謝し、中国へ渡った使者が無事帰着したことを祝う。航海の平穏を喜び、和扇三十握などの品を贈り、詳しくは使者に口上させるとする。
(元和元年)九月廿日 / 冊子 609頁
琉球から唐へ渡った船の帰帆を早く報告させ、琉球国内の法令・役人統制を厳守し、許可のない進物や謀計を禁じるよう命じた島津家久の書状。
(元和三年)十一月五日 / 冊子 661~662頁
島津家久が、代替わりに伴う領知判物の下賜を知らせ、家老衆から事情を聞き、琉球国役を怠らないよう命じ、質人・渡唐使節・方物贈答への対応を伝えた書状。
(元和四年)閏三月廿二日 / 冊子 668~669頁
島津家久が、琉球からの年頭祝詞、宰相任官への使者による祝賀、遠路の方物を受け取り、その厚意に謝した書状。
元和五年九月廿三日 / 冊子 717~718頁
琉球の池城主の出銀、遭難商船の損失分担、豊見城主渡唐時の借銀、役人間の紛争、船舶・釘・赤金などの処理について協議・決定した三名連署の覚書。
寛永三年丙寅十月十一日 / 冊子 22~23頁
島津久元・喜入忠続が琉球側へ示した条書。中国での白糸価格、唐船・唐使来航時の奄美諸島の役割、琉球からの上納品と売却銀、唐への渡銀、出銀負担と猶予願いなど、対中貿易と琉球支配の実務を細かく指示・回答する。
寛永五年九月十日 / 冊子 69~70頁
喜入忠続が琉球側に、江戸への言上・役人の召し出し、知行・進物・船舶と交易品、年々の産物上納、芸能や武具、翌夏の参上などについて処置を指示する条書。国元との連絡と役人の配置を整え、定めた規則を守るよう求める。
寛永八年閏十月三日 / 冊子 243頁
島津久元・川上久国・喜入忠政が琉球三司官に、唐へ毎年銀子千貫目を渡し春秋冬の三度船を出すこと、那覇に御扶持人を置くこと、旧来の不要な制度の改正、談合衆の統制、翌年の冠船来航を知らせる火立てを定めることなどを命じた連署条書。
寛永九年六月二日 / 冊子 274~275頁
喜入忠続と川上久国が、唐へ渡す多額の銀子調達を新納加州老・最上土州老を通じて三司官に談合させ、冠船交易時の商人への銀子二分運上、七島衆の唐交易と私的銀取引の禁止、七島・徳之島・沖永良部等からの借銀、市来和泉守を介した連絡、上船改めや琉球の身分層・町人への運上を定めた条書。
寛永九年八月十四日 / 冊子 303頁
喜入忠続が琉球三司官へ示した条書。家久の江戸在府と将軍家での首尾、前年に新納・最上を介して行った唐交易交渉、借銀返済のための銀子送付、返済不調時の知行召上げ、冠船渡海、鹿二十頭の送付、加藤忠広父子の改易・流罪を伝えた。
寛永十年三月廿日 / 冊子 361~362頁
島津久元ら三名が琉球三司官へ示した条書。対唐交易に伴う銀賦課、冊封使渡来年の加算、出陣時の銀子合力、中国産生糸の価格・品質管理、密貿易と違反者の取締りなどを定めた。
(寛永十一年)十月十九日 / 冊子 453~454頁
琉球国王・黄門・薩州様・三司官らに対する年頭進物の品目と数量を定め、使者・付衆・老中・琉球奉行等への進物や礼物の基準を示した条書。使節経験者への恒常的な音信や、一部役人への礼物を禁じる。