本田親貞署判知行坪付
天正八年二月吉日 / 冊子 648頁
日向国飫肥の坂谷・萩合門・向之丸などの田地を井黒主殿助へ宛行った知行坪付。本田親貞が署判した文書。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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天正八年二月吉日 / 冊子 648頁
日向国飫肥の坂谷・萩合門・向之丸などの田地を井黒主殿助へ宛行った知行坪付。本田親貞が署判した文書。
天正十一年四月二十五日 / 冊子 756頁
伊集院忠棟・本田親貞が遊行上人の近習へ、日向都於郡の光蓋寺・光照寺南道場の懇望を受け、上人が当国に滞在する間は寄附し、上国後には正式に申し付けると伝えた連署状。前代未聞の厚遇であるとして返書を求める。
(天正13年)7月12日 / 冊子 69頁
本田親貞が秋月殿の使節と芳書・太刀の到来に礼を述べ、弓箭すなわち軍事上の協議を今後も怠りなく進めるよう求めた書状。 島津忠平(義弘)が前年から八城方面に在陣していることを示し、諸方面の作戦を熟談するよう促したうえで、太刀などを返贈している。
(天正13年)11月16日 / 冊子 122頁
本田親貞が蒲池殿へ、速やかな神文提出と熊本への人質差出しを格別の忠節として喜んだ書状。まず親貞自身から謝意を伝えて太刀一腰・織物一端を贈り、近く鹿児島からも正式な感謝が示されると告げる。神文・人質・贈答を組み合わせて蒲池氏を島津方へ結び付ける外交文書である。
五月十八日 / 冊子 36頁
本田親貞が、公儀の用務に関する人員招集と家名帳の作成を蒲地伊賀入道へ命じた書状。公儀の許可なく上洛することを禁じ、蒲地本人または所衆二人を今月二十四日までに出頭させること、二十石以下の者は敬称を除いて家名を帳面に記すことを求める。
七月廿一日 / 冊子 415~416頁
本田親貞が、年賀と使節への謝意を述べ、両使が到着して交渉を進めていること、島津忠平が前月以来八城に滞在し熱談していることを報告する。また今後も疎遠にせず、恒例の贈答として鷹羽一尻を進上した書状案。
享和二年十月 / 冊子 231頁
島津貴久の葬所をめぐる異説を検証した補注。旧説では福昌寺の石塔を墓としたが、祭文や加世田の伝承から日新寺常潤院山中説が唱えられた。享和二年、本田親貞・相良常旭が現地調査すると石塔には「大中公」とだけあり、埋葬を示す銘記も伝承もなかったため、加世田で葬儀後に福昌寺へ埋葬し、常潤院の塔は灰塚と結論づけた。誤説をあえて残し、誤りの経緯を明らかにすると説明する。
天正八年二月吉日 / 冊子 647頁
日向国飫肥院の上崎門・巳ノ崎などの田地を懸命の地として井黒主水佑へ宛行った坪付。伊集院忠棟と本田親貞が連署する。
天正八年二月吉日 / 冊子 648頁
新宮領上地のうち、灘木勘解由先・お津田・海老原筑前守先・牛畠など計一反三段を井黒又左衛門尉へ示した知行坪付。本田親貞が署判する。
天正十二年八月十九日 / 冊子 923頁
北郷一雲時久が本田親貞へ、肥後出陣の件を承知したと答え、変事があれば改めて注進すること、宮崎へも直ちに書状の趣旨を伝えたことを報告した。
天正十二年九月十二日 / 冊子 928頁
北郷一雲時久が本田親貞へ、宝之河内の番衆交替と肥後出陣の負担が北郷家に偏ることに不満を述べた。忠虎は遠国出張に備えて兵具を整え、菱刈で待機するが、他家の番衆が見えず、宝之河内の警備・普請も不十分であるとして善処を求めた。
天正十二年十月三日 / 冊子 939~940頁
島津忠長・伊集院忠棟・上井覚兼が本田親貞へ、小代氏が質人を出し、弟と本人も参陣予定であること、隈部・和仁・辺春も出頭して肥後がほぼ平定したことを報じた。肥前からの質人を待つ間は軍勢を留め、御船・隈庄勢の悪行を戒め、小代にも早期出頭を求めるとした。
天正十二年十一月十五日 / 冊子 957頁
新納忠元が伊集院忠棟・本田親貞・平田光宗へ、肥後方面の軍役について返答した書状。刑部太輔を出すよう命じられたうえ、嫡子も別口の御用で出すことになれば二重の公役となり、自身の出陣まで求められるのは困難であると訴える。前年冬に帰国を許された際の約束を踏まえ、事情を理解して取り計らうよう求めた。
年月日未詳 / 冊子 114頁
天正十三年十月十一日、島津義久が本田親貞を肥後警衛へ向かわせ、上洛帰りの北郷一雲家臣から羽柴軍の九州下向・増勢が避けられないとの情報を得た。十四日には新納忠元書簡により、薩摩方へ属した豊後南郡の入田氏が大友勢に攻撃され、一門・士卒六千人が籠城して窮地にあると知り、領内へ救援兵の催促を出している。
天正13年10月20日 / 冊子 114頁
島津義久が羽柴美濃守へ、伊集院忠棟・本田親貞宛の伝書を披見したことに謝し、関白就任によって天下が静謐となったことを祝う書状案。前年夏の厚意への返礼が遅れたと詫び、礼の使節を上洛させて幽斎にも申し入れたと述べ、取り成しを依頼する。生糸十斤を贈り、秀吉政権成立後も中央人脈との関係維持を図る外交文書である。
(天正13年)正月19日 / 冊子 153頁
島津忠長・本田親貞・伊集院忠棟の三名が星野伯耆守へ、前年に豊州勢が坂東寺へ在陣した際、肥前との和睦によって速やかに陣を解いた経緯を確認した連署状。その後も合意に背き高良山で対立が続くことを問題視しつつ、秋月種実と龍造寺政家が一致して協議している点を評価する。両家が島津方に属する立場を踏まえ、星野氏にも隔意なく忠節を尽くし、事態収拾へ知恵を巡らせるよう求めている。
天正八年二月吉日 / 冊子 647頁
島津義久が肥後矢崎城出陣の際に立てた誓願に基づき、勝利後、大隅国一山のうち浮免五反を大口苗代薬師へ新寄進した坪付。市来宗左衛門先・樋渡し・奈良木・比良田などを掲げ、老臣五人が連署する。
天正十年五月廿二日 / 冊子 712頁
島津氏老臣四名が種子島久時へ示した琉球渡船等の条々。琉球渡船で先例に違わず出帆ごとに島津方へ連絡すること、直木の三分一、壁材の割当、六か国や三島・他国から木材を買う船の入津を許さず停止することを定める。
(慶長六年)三月四日 / 冊子 276~277頁
本田助丞を介して贈られた二巻と島津家中の件を喜び、家康の指図で在京が長引く現状、義久の上国をめぐる見通しを伝え、久右衛門を使者として下向させた近衛信尹書状。
天正十二年四月十九日~二十二日 / 冊子 892~893頁
四月十九日、義久は本田親貞を伴って八代から帰国し、義弘・伊集院忠棟・平田光宗を八代、島津忠長・上井覚兼を有馬に残して肥前・筑後・肥後の調略を続けさせた。二十二日、覚兼らは有馬鎮貴へ、薩摩勢の帰帆、有馬旧領の回復、温泉山再興と神領設定を提案したが、鎮貴は一、二か月の駐留継続を求めた。
天正八年三月吉日 / 冊子 650頁
福昌寺再興のため、従前寄附されていた平松の土地を繰り替え、返地として薩摩国鹿児島の浮免一町二反余を与えた坪付。平田光宗ら老臣五人が連署する。
天正八年閏三月吉日 / 冊子 651~652頁
薩摩国加世田の津貫名にある牧野段之門・天満・午牟田・谷口・山下・宮田・尻陰俣などの公田九町余を上原隼人佑へ示した坪付。確定版年月日は『年間三月』だが、本文年紀は天正八年閏三月吉日と読める。
天正八年閏三月吉日 / 冊子 652~653頁
大隅国蒲生の久末名・北村名などにある公田・浮免、合計一町三反余を御重恩として浜田民部左衛門尉へ宛行った坪付。確定版年月日は『月間三月』だが、本文年紀は天正八年閏三月吉日と読める。
天正九年九月十六日 / 冊子 694~695頁
島津義久が数万の兵で相良義陽を攻め、義弘が八景尾の陣を守り、諸将が水俣城を包囲した経緯を記す。守兵は九月二十日に降伏して退去し、義陽は津奈木・湯浦・佐敷などを献じ、二十六日に佐敷で義久へ謝罪して息子兄弟を人質とし、阿蘇氏への出兵を申し出た。
天正十一年正月元日~三月十七日 / 冊子 765~791頁
天正十一年正月元日から三月十七日までの上井覚兼日記。鹿児島・八代・宮崎を往来しながら年頭礼、酒宴、諸将の会合、合志・阿蘇・隈本・田尻・有馬への使節と軍議、八代守備、義久の病気祈祷、南蛮僧追放、近衛家・幕府使者への応接を日次で記す。三月には秋月・龍造寺との和平、八代移転、田尻兵船などを忠平と評議した。
天正十一年三月十七日~五月二十四日 / 冊子 791~799頁
天正十一年三月十七日から五月二十四日までの上井覚兼日記。野村民部少輔殺害事件に関する村田経平らへの内密な処分と弁明、相良忠房の出頭、義久の病気と祈祷、八代の守将選定、日向帰国後の社寺参詣・普請・茶湯・狩猟を詳記する。田尻・有馬からの戦況報告、深江・安徳への援兵、十五町につき一人の軍役賦課も記す。
天正十二年五月二十二日~二十九日 / 冊子 894~897頁
天正十二年五月二十二日から二十九日までの日記。折宇迫湊口の普請後に宮崎へ帰り、吉野牧の駒を拝領した。秋月種実から龍造寺との和睦仲介に関する弁明書状を受け、返書を作成したほか、築地上屋普請のため諸地頭を招集する命令、御頭役、山伏の護摩・入峯をめぐる紛議、上洛者の通行依頼などを記す。
天正十二年六月一日~八月二十九日 / 冊子 900~921頁
天正十二年六月一日から八月二十九日までの長編日記。覚兼は諸地頭招集、栗野八幡造営、法華千部・高城施餓鬼、甲斐宗運との和睦使節などを処理し、鹿児島で有馬・肥後出兵の軍労や八代支配を協議した。帰国後は祭礼・普請・交際を記し、八月には再度の肥後出勢が決まり、諸勢へ隈本集結を命じた。家久父子の佐土原帰着を祝い、二十九日に馬越の軍議へ向かった。
年月日未詳 / 冊子 113~114頁
天正十三年十月七日、島津義久が家久・忠長・伊集院忠棟・北郷一雲・上井覚兼ら重臣を召集し、豊後征伐と羽柴秀吉の九州下向への対応を評議した記事。評議後の饗膳では義久を中座に、左右へ重臣を配置した座次を具体的に列挙する。対豊後・対秀吉の軍事方針と、島津家中の序列・意思決定構造を同時に伝える重要な譜記事である。
年月日未詳 / 冊子 114~121頁
天正十三年十月、上井覚兼が豊後・肥後の軍事情勢と羽柴秀吉の九州介入への対応を連日記録した長大な日記区間。入田氏救援、城番・兵船・宿所・人質・帰服者の処置を協議し、島津家中の重臣らと秘密書状や京都使節の取次ぎを進める。秀吉の停戦・国分要求をめぐる情報、阿蘇・豊後方との折衝、諸将への返書が続く一方、寺社参詣、連歌、茶・酒宴、贈答、病気見舞いも詳しい。九州戦局と中央政局へ同時対応する島津家の緊張した実務を示す。
弘治元年、天正6年、天正15年4月17日 / 冊子 19~21頁/原整理番号 6
本田氏十二代兼親の二男・親貞(初名親成、又五郎、刑部少輔、因幡守、入道一恕)を祖とする系図。家嫡董親の背命・悪虐をたびたび諫めながら聞き入れられず、守護に属して忠義を守った由緒を記す。後裔では友親の大隅州西原での戦死、盛親の弘治元年岩剣城攻略、親治の加世田地頭と天正六年新納院高城での大友軍との戦死、親秀の義久家老・出水地頭、親光の朝鮮での軍功、親智の忠恒奉仕と背命による誅殺、親盛の目白坂戦死、甑島・湯之尾・禰寝・高江・馬越・野田などの地頭職、婚姻・養子関係を収める。
天正8年閏3月吉日(付属系譜記事:天正12年3月~慶長16年ほか) / 冊子 262~264頁/原整理番号 107-1
天正八年閏三月吉日、伊集院忠棟・村田経定・上井覚兼・平田光宗・本田親貞の老臣五名が上原隼人佑へ、薩摩国加世田の津貫名牧壇之門内にある、あまつこみ・谷の口・山の下・牟田・坪・宮田尻・陰俣・上公田・堀町などの田地を列記して与えた連署坪付。総量は九町二杖とされるが、伊地知季安は現存する坪付の記載だけでは九町にならず、紙端の脱落ではないかと疑い、丁・畦・町の換算を示したうえで博古の人の検討を求める。後続の系譜注記は、尚常(尚近とも作る)の軍功を略記し、天正二十年九月五日に没して高崎縄瀬村小牧に葬られ、法名を久全源昌居士としたこと、清水押職を務めた人物や尚張、新納忠堯室となった女子を掲げる。尚張については天正十二年三月の隆信合戦への従軍、慶長十六年の国分から麑府への移住、家久の用不足による百石につき四分一の田禄収公と残禄四百八十二石を記す。上原尚氏は天正十四年十一月、島津義久の豊後大友氏攻めに従軍し、天正二十年六月には日州志布志伊屋松門の二町七段八畦五歩を与えられ、島津忠長・伊集院忠棟ら老中から目録を受けたとする。坪付本文だけでなく、その受給者一族の軍歴・移住・知行変動と次の知行文書の背景まで連続して記す点が特徴である。
5月18日 / 冊子 375~376頁/原整理番号 188-12
五月十八日、本田親貞の被官三清が蒲地伊賀入道へ、公儀の用務がない者の上洛規制、談合への出頭、家名帳の作成を命じた書状。無用の上洛は曲事とし、特別に談合すべき事情があるため、蒲地本人が参上できなければ所衆二人を今月二十四日までに当地へ到着させるよう求め、できれば本人の出頭を望む。さらに所衆のうち十石未満の者について、敬称の『殿』を除いて各人の家名を帳面に書き立てて提出し、当地では平田駿河入道・木脇善入道とも合意するよう指示する。
天正十九年十二月二日 / 冊子 6~7頁/原整理番号 173
石田三成が島津義弘に示した人質番組。島津歳久の孫、肝付兼演・新納忠元・島津忠辰・種子島久時・入来院重時らの実子または親類年寄の子を三組に編成し、北郷忠虎・伊集院忠棟・新納忠元の質人三名を常詰とする。本田親貞・町田久倍・平田増宗も各組に加え、必要に応じ一人を京都へ召し置くことなどを定める。天正十九年十二月二日付。
天文23年9月、天正6年、天正14年12月8日、文禄4年7月18日、慶長元年5月23日、慶長4年12月8日、慶長6年8月9日、慶長14年、慶長19年、承応2年6月5日、元禄4年 / 冊子 23~26頁/原整理番号 8
出自不詳ながら、信濃守重宣の孫・丹波守実親の弟である部左衛門親行の法名ではないかと考証される古簾(道号越岩、異伝では越山永超居士)を祖とする本田氏系図。親尚は日新公に奉仕して戦功を重ね伊集院地頭となり、親吉は日新公・貴久公に仕えて感状を受けた。親貞は兄の死後、太守の命で正嫡を継ぎ、義久の家老、吉田・加世田等の地頭となり、吉野・磯を領して家臣を配置し、岩剣城攻め、大友氏の日州侵攻、九州征伐で軍務を担った。後裔について、豊後戸次城下・瀧ヶ水・庄内安永での戦死、九州・高麗・庄内役、琉球征伐・大坂の陣、曽木・福山等の地頭職、大坪流馬術の相伝、婚姻・養子関係を記す。
安永八年冬十一月癸卯(署記)、起工八月甲子・竣工十月丙子(本文) / 冊子 587~588頁/原整理番号 1653/整理ID 1653
薩州麑島明時館記。安永八年、本府に治暦の館を創建して明時館と名づけ、公が知学事臣山本正誼に記を命じたと述べ、正文は明時館にあるとする。著者は、先君得佛公を鎌倉右大将の側室の子とし、文治二年に薩隅日三州へ封じられたが、頒朔授時の政が届かず農桑が時候を失ったため、暦官を特賜され、代々歳暦を自作して境内へ頒ち、宣明暦法を伝えたと叙述する。四百余年後、江府が改暦を議し、貞享元年に貞享暦ができると、本藩は本田親貞を遣わして法を受け、旧来どおり領内に行った。延享四年の江府の改暦では磯永周英を送り、宝暦四年に宝暦暦ができ、周英は助員として十一年ほど在って帰り、本藩へ宝暦法を伝えたという。明和二年の修暦でも暦官を徴したので、水間良實が助員として八年ほど在り、帰国後も毎年計算した気朔・交食・日躔・月離・五星・四餘等を提出したとする。藩の暦官は六百年に及び、一国の私用だけに従事したものではないが、官署がなく、家で暦を作り、推歩測候の器具にも不足があった。公の「襲封之十一年」に行人兼太史の児玉實門へ命じ、水間良實と相談して簡天儀・測午表・子午針・望遠鏡等を作り、旧有の渾天儀・樞星鏡・正方案とともに良實に付して蔵した。その後五年を経て当年に至り、国老小松清香と近侍掌務山田明遠に治暦館設置を議させ、二人は児玉實門と水間良實に諮った。府城の東南四百七十歩ほどに地を選び、能吏を選び、工と役夫を集めて築造・縄準による加工を行い露臺を設けた。高さは「丈有三尺」、上面の方形はその高さと同じ数、基址はその二倍と記し、府屋も若干区設けた。秋八月甲子に始め、冬十月丙子に完成し、水間良實を暦正として館事を管掌させた。藩の暦官制度は古いが、制度の備えが整ったのは今日からであるとして、その始末を記すとする。付説では、藩の暦官は陰陽頭に赴いて伝授を受けてから暦を作り、江府の暦官も同様で、江府の改暦も陰陽寮に命を請うてから行うため、正朔一統の遺意があると述べ、この点も記すべきだとして添える。署記は是歳冬十一月癸卯、本府知学事山本正誼謹書。先君の出自・授職・賜暦官・六百年という期間や正朔一統の意義づけは、著者の叙述と解釈として保持する。
文安3年、天文23年、弘治3年4月19日、永禄2年6月16日、永禄9年10月26日、天正6年11月12日、文禄元年7月18日、慶長5年9月15日、慶長13年9月29日 / 冊子 13~17頁/原整理番号 4
本田氏十代家督・重恒(又二郎、信濃守、法名義翁)を祖とする系図。兄元親から家督を譲られ、島津忠国に仕えて家老となったが、国親の讒訴で家督を奪われ、文安三年の上洛中に清水城を攻略され、のち曽於郡で国親に殺された経緯を記す。後裔について、隅州菱刈院・穂北・伊集院・湯之尾等の地頭職、親貞の養子相続と関ヶ原後の新納旅庵との周旋、高城・蒲生・滝ヶ水・牛根・三之山・関ヶ原での戦死、朝鮮出兵・川辺地頭、婚姻・養子による諸家への分岐を収める。
年月日未詳 / 冊子 17~19頁/原整理番号 5
本田市郎左衛門家の略系図。清寧天皇から親峯・親正・親満・親定へ続く系線を掲げ、善光を天竺の月蓋長者・聖徳太子の過去世の師とし、難波浦で得た阿弥陀如来を信濃へ奉送したとする善光寺如来縁起を詳記する。続いて薩州出水郡山門院の本田氏について、平氏下向時に近衛家へ参って藤原氏を称したとの伝承、親森(道観)以下の系譜を記し、親治の大隅西原での戦死、正親の高麗留守・出水衆頭・富隈での老名役、親貞の家督相続、加治木板井口の戦闘と日州高城での戦死記事へ続き、末尾を「以下略」とする。
年月日未詳 / 冊子 390~393頁/原整理番号 115
天正二年八月以後の出仕・交渉・接待を記す日記の抄録。川辺で盗人孫左衛門をめぐって起きた鹿籠との争論を忠元・鎌田らと相談し、中書の内議を使者の忠元から聞く。隈城の四十町、山田三十町、天辰・田崎を交換する所領調整や、弓箭の談合、江月斎・和泉の使者への対応を続けて記す。頴娃や唐口の座席と接待、諸役と参加者、雑説をめぐる義虎や中書への報告も記録する。天草の使僧の太刀・厚板物・馬代などの進献、和泉・天草の和平交渉と所領の一部譲渡、使僧の返事についても述べる。
年月日未詳 / 冊子 396頁/原整理番号 123
天正三年十一月三・四日の出仕と酒宴を記す。三日は稲荷祭礼に供をし、御幣を取る川上源三郎へ衣服を渡した。御膳・幕の役人、宮仕の役と、寶持院の酒宴の座次を挙げる。四日には入来院・樺山らも参会し、對面所での点心・酒、三献の進行と贈物を記す。
天正4年7月・8月16日、天正8年閏3月 / 冊子 262頁/原整理番号 107
本文で『上原氏系譜地取』と題し、上原隼人佐・筑前守尚信の由緒二件を記す系譜。天正四年七月、近衛前久が麑府を去って京都へ帰る際、八月十六日に『箱崎八幡大菩薩』の七字を揮毫し、上原家へ与えたと伝え、今なお蔵する旨の傍注を伴う。天正八年閏三月には島津義久が尚信(記事では隼人佑)へ薩州加世田津貫名牧壇門の采地九町二杖を与え、御老中の伊集院忠棟・村田経定・上井覚兼・平田光宗・本田親貞が坪付を裁許して授けたと記す。家蔵の書画伝承と具体的な知行給付を一代の系譜注記として結び付ける点が特徴である。
(永禄十一年)正月三日 / 冊子 181頁
島津氏老臣三名が、前日に菱刈方面への出立予定を伝えたものの、球磨領内に逆乱が起きたため、典厩様に軍勢を率いて時を移さず飯野へ赴き、境目の様子を確認するよう強く申し入れた連署状。敷根殿・肝付弾正忠にも同様に伝えたとして、川上・町田両名に心得を求める。
安永八年(本文今茲・目録)、八月十三日起工・十月二十六日竣工 / 冊子 587頁/原整理番号 1652/整理ID 1652
重豪公御譜中の記事。今茲有司に命じて明時館を創建したとし、その来歴として、鎌倉の源頼朝が太祖得佛公、島津忠久を薩隅日三州の守護とした際、頒朔授時の令が国へ届かず農桑が時候を失うことがあったため、暦官を特に賜り、歳暦を自作して境内へ頒つことを許された、その術は宣明暦法を伝えたと述べる。四百余年後、常憲廟の時に渋川春海へ改暦を命じ、貞享元年に貞享暦が完成すると、七代の祖寛陽公、島津光久は暦官本田市右衛門親貞を遣わしてその法を受けさせた。延享四年に江府が暦正渋川氏、六蔵と、西川氏、忠次郎に改暦を命じ、薩摩から暦官を助員として召したため、慈徳公、島津宗信は本田武兵衛親茂、親貞との注と、磯永孫四郎周英を遣わしたという。三年を経た寛延二年に親茂は鹿児島へ帰ることを請い、周英が独り二氏の助員として数年残り、宝暦四年に新暦が完成して宝暦暦と名づけられたとする。さらに明和二年、江府が暦正佐佐木氏、文次郎に暦の修訂を命じ、宝暦の例によって暦官を召したので、重豪は水間喜八良實を遣わし、佐佐木氏の助員となって八年で帰った。県官は帰国後も良實に毎年計算した気朔・交食・日躔・月離・五星・四餘等を提出させたと述べる。藩の暦官は六百年にわたり置かれ、当日まで国の私用だけに従事したものではないとするが、なお官署を設けておらず、各家で仕事をし、推歩測候の器具にも備わらないものがあった。重豪は良實に簡天儀・測午表・子午針・望遠鏡等を作らせ、旧有の渾天儀・樞星鏡・正方案とともに付した。城南に地を選んで治暦の館を建て、秋八月十三日に始め、冬十月二十六日に完成させ、良實に管領させ、明時館と名づけたと結ぶ。先祖の授職・暦官の賜与や六百年という期間は当記事の歴史叙述として示し、現代の確定史実へ置き換えない。
年月日未詳 / 冊子 542頁/原整理番号 554の1
本田親右衛門親貞が鹿児島からの使者として島原へ到着し、在陣せず帰国したこと、三原重庸が二之宮杢右衛門を帰して島原の状況を報告させたことを記す。