明時館記
安永八年冬十一月癸卯(署記)、起工八月甲子・竣工十月丙子(本文)/原整理番号 1653/整理ID 1653
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概要
薩州麑島明時館記。安永八年、本府に治暦の館を創建して明時館と名づけ、公が知学事臣山本正誼に記を命じたと述べ、正文は明時館にあるとする。著者は、先君得佛公を鎌倉右大将の側室の子とし、文治二年に薩隅日三州へ封じられたが、頒朔授時の政が届かず農桑が時候を失ったため、暦官を特賜され、代々歳暦を自作して境内へ頒ち、宣明暦法を伝えたと叙述する。四百余年後、江府が改暦を議し、貞享元年に貞享暦ができると、本藩は本田親貞を遣わして法を受け、旧来どおり領内に行った。延享四年の江府の改暦では磯永周英を送り、宝暦四年に宝暦暦ができ、周英は助員として十一年ほど在って帰り、本藩へ宝暦法を伝えたという。明和二年の修暦でも暦官を徴したので、水間良實が助員として八年ほど在り、帰国後も毎年計算した気朔・交食・日躔・月離・五星・四餘等を提出したとする。藩の暦官は六百年に及び、一国の私用だけに従事したものではないが、官署がなく、家で暦を作り、推歩測候の器具にも不足があった。公の「襲封之十一年」に行人兼太史の児玉實門へ命じ、水間良實と相談して簡天儀・測午表・子午針・望遠鏡等を作り、旧有の渾天儀・樞星鏡・正方案とともに良實に付して蔵した。その後五年を経て当年に至り、国老小松清香と近侍掌務山田明遠に治暦館設置を議させ、二人は児玉實門と水間良實に諮った。府城の東南四百七十歩ほどに地を選び、能吏を選び、工と役夫を集めて築造・縄準による加工を行い露臺を設けた。高さは「丈有三尺」、上面の方形はその高さと同じ数、基址はその二倍と記し、府屋も若干区設けた。秋八月甲子に始め、冬十月丙子に完成し、水間良實を暦正として館事を管掌させた。藩の暦官制度は古いが、制度の備えが整ったのは今日からであるとして、その始末を記すとする。付説では、藩の暦官は陰陽頭に赴いて伝授を受けてから暦を作り、江府の暦官も同様で、江府の改暦も陰陽寮に命を請うてから行うため、正朔一統の遺意があると述べ、この点も記すべきだとして添える。署記は是歳冬十一月癸卯、本府知学事山本正誼謹書。先君の出自・授職・賜暦官・六百年という期間や正朔一統の意義づけは、著者の叙述と解釈として保持する。
登場人物
公(重豪、文脈)、知学事臣山本正誼(著者署記)、先君得佛公、鎌倉右大将、暦官本田親貞、磯永周英、水間良實、行人兼太史臣児玉實門、国老臣小松清香、近侍掌務臣山田明遠、陰陽頭、江府暦官、県官(名不記)
宛先
館記につき独立宛名なし
キーワード
山本正誼明時館記、安永八年、得佛公宣明暦官、貞享宝暦改暦、磯永十一年水間八年、気朔交食日躔月離五星四餘、器具整備、児玉實門小松清香山田明遠、水間良實、府城東南四百七十歩、露臺丈有三尺、八月甲子十月丙子、陰陽頭伝授と正朔一統、十一月癸卯署記
冊子頁
587~588頁
読込量
中
面白さ
★★★★★
(4)451~615頁(安永4~天明元).pdf