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追録6-No.1652記事旧記雑録暫定版・確認中

重豪、明時館を創建す

安永八年(本文今茲・目録)、八月十三日起工・十月二十六日竣工/原整理番号 1652/整理ID 1652

確認度中
この文書は暫定版です

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概要

重豪公御譜中の記事。今茲有司に命じて明時館を創建したとし、その来歴として、鎌倉の源頼朝が太祖得佛公、島津忠久を薩隅日三州の守護とした際、頒朔授時の令が国へ届かず農桑が時候を失うことがあったため、暦官を特に賜り、歳暦を自作して境内へ頒つことを許された、その術は宣明暦法を伝えたと述べる。四百余年後、常憲廟の時に渋川春海へ改暦を命じ、貞享元年に貞享暦が完成すると、七代の祖寛陽公、島津光久は暦官本田市右衛門親貞を遣わしてその法を受けさせた。延享四年に江府が暦正渋川氏、六蔵と、西川氏、忠次郎に改暦を命じ、薩摩から暦官を助員として召したため、慈徳公、島津宗信は本田武兵衛親茂、親貞との注と、磯永孫四郎周英を遣わしたという。三年を経た寛延二年に親茂は鹿児島へ帰ることを請い、周英が独り二氏の助員として数年残り、宝暦四年に新暦が完成して宝暦暦と名づけられたとする。さらに明和二年、江府が暦正佐佐木氏、文次郎に暦の修訂を命じ、宝暦の例によって暦官を召したので、重豪は水間喜八良實を遣わし、佐佐木氏の助員となって八年で帰った。県官は帰国後も良實に毎年計算した気朔・交食・日躔・月離・五星・四餘等を提出させたと述べる。藩の暦官は六百年にわたり置かれ、当日まで国の私用だけに従事したものではないとするが、なお官署を設けておらず、各家で仕事をし、推歩測候の器具にも備わらないものがあった。重豪は良實に簡天儀・測午表・子午針・望遠鏡等を作らせ、旧有の渾天儀・樞星鏡・正方案とともに付した。城南に地を選んで治暦の館を建て、秋八月十三日に始め、冬十月二十六日に完成させ、良實に管領させ、明時館と名づけたと結ぶ。先祖の授職・暦官の賜与や六百年という期間は当記事の歴史叙述として示し、現代の確定史実へ置き換えない。

登場人物

重豪、鎌倉右大将源頼朝、得佛公(島津忠久)、常憲廟(徳川綱吉)、渋川春海、寛陽公(島津光久)、本田市右衛門親貞、本田武兵衛親茂(親貞注)、渋川氏(六蔵)、西川氏(忠次郎)、慈徳公(島津宗信)、磯永孫四郎周英、暦正佐佐木氏(文次郎)、水間喜八良實、県官(名不記)

宛先

記事につき独立宛名なし

キーワード

明時館、宣明暦法、貞享暦本田親貞、延享四年改暦派遣、寛延二年親茂帰鹿、磯永周英宝暦暦、明和二年佐佐木修暦水間八年、気朔交食日躔月離五星四餘、簡天儀測午表子午針望遠鏡、城南八月十三日起工十月二十六日竣工

冊子頁

587頁

読込量

中

面白さ

★★★★★

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(4)451~615頁(安永4~天明元).pdf