朝鮮国節度使伝令書案
(慶長三年)五月七日 / 冊子 204~205頁
朝鮮国節度使が、日本軍のもとに留まる晋州・泗川方面の朝鮮人らに帰順を促した伝令書案。黄允祥を使者として安全な帰還と居住を保証し、敵情・地勢・道路を報告して官軍を導けば軍官・戦士・牙兵等に任じて賞すること、李石の帰順・登用例を示す。さらに蔚山で加藤清正を取り逃がしたことに明帝が憤り、大軍が三路から来攻すると説いて、機を失わず離脱するよう迫る。
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(慶長三年)五月七日 / 冊子 204~205頁
朝鮮国節度使が、日本軍のもとに留まる晋州・泗川方面の朝鮮人らに帰順を促した伝令書案。黄允祥を使者として安全な帰還と居住を保証し、敵情・地勢・道路を報告して官軍を導けば軍官・戦士・牙兵等に任じて賞すること、李石の帰順・登用例を示す。さらに蔚山で加藤清正を取り逃がしたことに明帝が憤り、大軍が三路から来攻すると説いて、機を失わず離脱するよう迫る。
「慶長三年」五月七日 / 冊子 498~499頁
朝鮮国節度使が日本軍中にいる朝鮮人へ、明・朝鮮軍到来前に脱出するか、日本軍の兵力・地勢を報告して内応・夜襲に加わるよう促した侍令書案。従えば軍功と官職・褒賞を与え、留まれば総攻撃で死亡すると警告する。
年月日未詳 / 冊子 540頁
秀吉の朝鮮出兵に伴い、日本軍が肥前名護屋から壱岐・対馬を経て朝鮮へ渡る航路、港間の距離、船団・軍勢の規模を記した日記。釜山浦への上陸までの行程と、加藤清正・小西行長・島津義弘ら諸将の配置を列挙し、渡海作戦の全体像を示す。
年月日未詳 / 冊子 51頁
明使楊方亨・沈惟敬の帰国後、豊臣秀吉が再び大軍を進め、日本軍に築城と進撃を命じた経過を記す島津義弘譜の記事。朝鮮の都体察使李元翼が日本軍の再来を知って防戦を図り、双方の軍勢が衝突した戦況を述べる。
年月日未詳 / 冊子 109~110頁
『朝鮮日々記』のうち、唐島・漆川周辺で日本水軍が朝鮮船団を攻撃した戦闘を詳述する記事。船団の進路、諸将の配置、乗り移りと拿捕、敵船の焼却・沈没、死傷者と戦功を日次に記す。
年月日未詳 / 冊子 122~123頁
『朝鮮日々記』から、加徳島前へ繰り返し現れた敵船を日本側の番船・諸隊が追撃した経過を記す。海上と陸路に分かれて敵を追い、射撃・接舷・上陸を交えた戦闘、首級や損害、各隊の動きを日次で述べる。
年月日未詳 / 冊子 123頁
『朝鮮日々記』から、七月十三日に唐島と加徳島の瀬戸口で敵の番船五十余艘と交戦した記事。日本側の船が敵船を破り、島津義弘ら諸将が陸上から援護・進撃したこと、陣替え後の配置までを記す。
年月日未詳 / 冊子 124頁
『朝鮮日々記』から、赤国入りのため義弘・忠恒ら諸将が唐島へ渡り、波頓付近の川・城で明・朝鮮軍と交戦した経過を記す。敵陣への攻撃、鉄砲戦、首級、城の攻略、各部隊の進路とその後の逗留を詳述する。
(慶長五年)三月三日 / 冊子 517~518頁
朝鮮人らが島津義弘に、朝鮮王の虐政で民衆が困窮していると訴え、朝鮮人捕虜一万人を集め、王孫李亀生を奉じて日本の威勢を背景に高麗へ渡り、旧来の苛政を改める構想を上申する。成功後は毎年聘礼を通じて和睦するとし、薩摩単独で難しければ徳川家康へ申し入れるよう求める。
三月三日 / 冊子 886頁
朝鮮人らの上書。本文は先行するNo.1000の文書と同文であるため省略され、正文の所在のみを注記する。
慶長八年五月吉日 / 冊子 890-892頁
朝鮮から連行された人々が、武力と侵略による国土荒廃、殺戮・略奪、捕虜・離散の惨状を漢文で訴えた上書。仁政と和睦を求め、捕虜を帰還させて両国の怨恨を解き、将来の平和を実現するよう請願する。
年月日未詳 / 冊子 500~503頁
朝鮮人らが徳川家康に対し、疲弊した朝鮮を攻略する好機であり、日本の威信回復にもなると説き、自分たちの地理・内情知識を活用して再出兵するよう求めた上書。豊臣秀吉の侵攻失敗を統治と民心掌握の欠如に帰し、協力者の登用を進言する。
年月日未詳 / 冊子 503~504頁
朝鮮人らが徳川家康に対し、先王の直孫とする李亀生を奉じ、薩摩の力と自分たちの軍略・地理知識を用いて朝鮮へ渡り、苛政を改めれば民衆を帰服させられると進言した上書。徳川政権の支援と継続的な日朝和睦を求める。
弘化4年9月12日(目録) / 冊子 26頁/原整理番号 9-1
朝鮮御陣中で戦死した者の子孫として、妙谷寺での御祭を命じられたことへの感謝と御礼を述べる。
年月日未詳 / 冊子 476頁
天正十八年七月二十二日、島津義久が京都を通過して栗野へ向かう朝鮮国使節を見物し、異形の装束を記した記事。続いて紹巴宅・大徳寺で再び朝鮮人を見物し、毛利輝元の招宴では意斎・梅松・福原氏・後藤光乗らと献酬を重ね、芸者十八人の座や太刀・馬代の贈答にも触れる。 朝鮮使節の風俗観察と、上方大名・文化人との宴席が同じ日記に収められ、文禄の役直前の対朝鮮認識と京都社交を伝える特色ある譜記事である。
年月日未詳 / 冊子 523頁
豊臣秀吉が日本を統一した後、朝鮮を経て大明国を征服しようとした構想を記す島津義久譜の記事。日本を神国と位置付け、古代の対外関係や先例を引きながら、朝鮮・明への出兵を正当化する議論を詳述する。文禄の役の思想的背景を知る重要史料。
年月日未詳 / 冊子 527頁
島津義弘が文禄元年三月二十七日に栗野を発ち、肥前名護屋へ到着したのち、四月十二日に諸将と名護屋を出船し、五月三日に朝鮮慶尚道の釜山浦岸へ着いた経過を記す。領国出発から渡海までの日付と経路を追える、文禄の役初動の記事。
年月日未詳 / 冊子 532~533頁
豊臣秀吉の朝鮮征伐命令を受け、軍勢・兵器・船の準備が整わないまま、島津久保が義弘とともに少人数で栗野を出立した経緯を記す。肥前名護屋・壱岐・対馬を経る航海では、船不足と強風による漂流、諸将の滞留、船団の分散が続き、朝鮮渡海初期の混乱と困窮を具体的に伝える。
年月日未詳 / 冊子 537頁
島津義弘・久保父子が三月上旬に大口へ出発し、肥前唐津で諸将の集結に加わったことを記す。渡海船が到着しなかったため唐津で日を重ね、般若寺別当坊に滞在して出航を待った、朝鮮渡海直前の足止めを伝える。
年月日未詳 / 冊子 542~543頁
秀吉が朝鮮征伐を決めて筑紫へ向かうにあたり、群臣の諫言に対して国内統一後の対外出兵の意図を述べた経緯を記す。朝廷での奏聞、石清水での秘楽・祈祷、京都出発と各地の見物、名護屋への兵粮下賜、四十八万余の大軍と水陸諸将の動員までを連ね、朝鮮出兵を正当化する政治・儀礼・軍事動員の叙述となっている。
年月日未詳 / 冊子 544~545頁
小西行長・宗義智・松浦鎮信らの軍が釜山周辺へ上陸し、城を攻略して敵を追撃した経過と、その後の海上戦を記す軍記記事。追撃中の混戦や味方同士の誤射、朝鮮水軍の攻撃による船兵の損害、敵船への反撃・奪取までを描き、陸海両面の戦闘の混乱を伝える。
年月日未詳 / 冊子 555~556頁
忠州に集結した小西行長・加藤清正らが漢城進軍の先陣を争い、複数の進路に分かれて王城へ迫った経過を記す。 行長勢が先着して城門を破り、朝鮮国王が逃れた都を占領するまでを描き、諸将間の競争と侵攻速度が分かる。
年月日未詳 / 冊子 564~565頁
小西行長が進南大門から侵攻し、加藤清正が王城へ入ったのち、逃れた朝鮮王子を追って捕縛するまでの軍事行動と、王子の扱いをめぐる清正・行長らの応酬を記す。 秀吉への報告や、清正を東北道、行長を西北道へ向かわせる軍勢配分にも触れ、漢城攻略後の追撃と占領方針を島津側の譜から見た重要な記事である。
年月日未詳 / 冊子 578~579頁
日本軍が朝鮮を急速に進撃したのち、明の祖承訓・史儒らが鴨緑江を越えて救援するも、地理を知らず敗れた経過と、秀吉が追加兵力を送り明への進攻を図った情勢を記す。 朝鮮側が明へ援兵を求める一方、明の石星らが冊封・朝貢を利用した講和策を検討し、小西行長らとの交渉を探った事情まで述べ、戦闘と外交の両面から文禄の役初期を捉える義弘譜の記事である。
(文禄元年)7月25日 / 冊子 596頁
加藤清正が浅野長政へ、五月十六日に都を発して六十八日進軍し、朝鮮王子兄弟と官人あわせて二百余人を生け捕ったと報告する。国王が明国方面へ退いたとの供述を得たため、さらに追跡する構えを示す。 朝鮮側が弱く十分な戦闘にならなかったと述べ、翌日には北方へ進発して秀吉の武威を示すと宣言する、朝鮮侵略の進展と武将の認識を伝える戦況報告である。
(文禄2年)9月29日 / 冊子 606~607頁
島津義弘が比志島紀伊守へ、朝鮮では百姓の一部が帰住したものの武士は山中に潜み、道路で待ち伏せするため、使者一人にも百~二百人の護衛が必要だと報告する。 薩摩から兵船が来ず、借船と少人数で渡海した結果、軍勢・船・物資が不足し、連絡も軍役も立ちゆかない窮状を列挙する。国元から人員と船・諸道具を早急に送るよう求めた、前線の兵站危機を具体的に示す書状である。
(文禄2年)2月5日 / 冊子 664頁
高麗へ派遣された船頭・水夫が病にかかり、過半が死亡したため、領国内の各浦から代替要員を渡海させるよう命じる。 要員は十五歳以上六十歳以下を限度とする趣旨で、朝鮮出兵が海上輸送を担う人々に与えた損耗と、補充動員の年齢条件を伝える朱印状抄。
(文禄2年)□月22日 / 冊子 686頁
大隅国敷根の船一艘が朝鮮から帰国するにあたり、船頭長門丞、中乗二十三人、加子十九人、朝鮮人二人の合計四十三人を乗せていることを記す。 島津義弘が船改衆へ、異状なく通行させるよう命じた過所で、帰朝船の乗員構成に朝鮮人が含まれていたことが分かる。
文禄2年11月29日 / 冊子 754頁
豊臣秀吉が、島津家中に留め置かれた朝鮮人のうち、細工職人、縫工、手業に秀でた者を調べて進上するよう命じる。技能者を召し抱えて御用に使うため、家中を改めて該当者を差し出せとした朱印状。 朝鮮人捕虜が技能によって選別・移送された実態を示す重要文書。
文禄2年11月29日 / 冊子 754頁
長束正家が秀吉朱印状の趣旨を伝え、島津家中にいる朝鮮人の縫工・手業者・女性・細工職人を調査し、該当者がいれば早急に進上するよう求める。 No.1238の命令を実務担当者が取り次いだ書状で、捕虜技能者の選別が家中全体に及んだことが分かる。
年月日未詳 / 冊子 758頁
朝鮮の日本軍本陣における在番・警備担当を記した番帳。諸将・家臣を一定の組や日程に割り当て、本陣防衛の勤務編成を示す文書である。 本冊では旧記雑録後編の同文書を参照して本文を省略しているため、担当者名や番次の詳細は参照先での確認を要する。
万暦22年6月12日 / 冊子 792頁
福建巡撫の許孚遠が明皇帝の威徳と朝鮮が明の属国であることを説き、日本軍の侵攻を非難する。明軍の動員力を示して戦争継続の不利益を警告し、兵を休めて朝鮮から退くよう迫る。 捕虜・占領地への対応を正し、正式な表文によって和を請うことを求めた檄文。明側が日本との講和に示した前提と世界秩序観を知る重要な外交史料。
年月日未詳 / 冊子 811頁
文禄三年十月一日、前日に続いて朝鮮水軍が島津陣へ押し寄せ、攻撃を仕掛けたと記す。島津軍は数百挺の鉄砲と石火矢を絶え間なく発射し、敵も火矢・鉄砲・半弓などで応戦した。 激しい射撃戦にもかかわらず島津方に負傷者は一人もなく、午後には敵の大船四十余艘と多数の小舟が退却した。唐島周辺での火器戦と島津軍の防戦成果を具体的に伝える家譜記事。
年月日未詳 / 冊子 813頁
文禄三年十月四日正午、敵船二十余艘が島津陣へ来襲したが、接近できずに退却した。桑山小藤太・杉若氏が二艘の船で追撃して鉄砲を放ち、島津陣の種子島衆らも十余艘に乗って追い撃ちした。 敵は反撃せずに退去したと記す。島津軍と友軍が船団を出して朝鮮水軍を追撃した海上戦闘の具体像を伝える家譜記事。
文禄4年3月28日 / 冊子 872頁
義弘が、四名の者について朝鮮での在陣以来の辛労は比類なく、島津家への奉公としてこれ以上ないものだと評価した書状。 祢占七太郎に対し、今後はその功績を十分に心得て処遇するよう求める。個人名を列挙せず、四名をまとめて顕彰・取次した点に特徴がある。
文禄4年4月7日 / 冊子 874頁
No.1238と同文であると注記され、本文を省略した伊集院忠棟書状。参照先は、島津家中に留め置かれた朝鮮人から細工・縫工などの技能者を選び、豊臣秀吉の御用へ進上するよう命じる内容である。 ただし参照先の標題は「豊臣秀吉朱印状」で本標題と異なるため、伊集院忠棟が命令を伝達した形態や宛先は、この頁だけでは確定できない。
文禄4年12月11日 / 冊子 926頁
小西行長は又八郎の書状に返答し、朝鮮使者を送り返したことと、春に予定される使者・軍勢の動きについて知らせる。 詳しい事情は使者から直接聞くよう求め、講和交渉後の朝鮮側との往来を調整した書状。
年月日未詳 / 冊子 11頁
明の勅使が朝鮮へ来るのに備え、朝鮮在陣の諸将が各城に番兵を残し、各将自身は少数の騎馬・歩兵を率いて勅使の渡海を待つこと、渡海後は陣を解いて直ちに京都へ上り豊臣秀吉へ謁見することを命じられたと記す譜記事。石田三成がこの命令を島津義弘へ伝え、島津忠恒にも告知した。
(慶長元年)三月九日 / 冊子 11頁
島津義弘が又八郎へ、朝鮮在番衆の辛労をねぎらい、図書頭・石田治部少輔らの供奉、伊勢弥九郎の上洛、光明院・神徳院による渡海祈念について伝えた。さらに、明の勅使来朝に伴い、朝鮮在番衆の各主将は人数を残して帰朝すること、約七百人を伊集院抱節・比志島紀伊守・鎌田出雲守のもとに残し、又八郎らは直接京都へ上ることを指示した。船数を確実に整え、不足時は国元へ連絡すること、残番衆の士気や帰国用の船に配慮し、小西摂津守と相談することなども求めた書状。
(慶長元年)七月九日 / 冊子 33~34頁
小西主殿助行長・小西作右衛門尉末吉が島津又八郎方へ、朝鮮の使節が日本へ渡海するため、一両日中に西方から使節を乗せた船三艘が通る予定であると知らせ、心得るよう求めた連署状。
(慶長元年)八月六日 / 冊子 37頁
安宅三河守秀安が島津又八郎(忠恒)へ、布二巻と書状への礼を述べ、大明勅使と豊臣秀吉の対面後に朝鮮在陣衆が帰朝する見通しを伝えた。しかし地震で伏見・大坂の城内対面所が損壊したため唐人の御礼が延期され、伏見城の天守・矢倉も損壊した一方、島津義弘の屋敷と石田治部少輔(三成)の家は無事であること、三成が注文した桑木の風呂材に満足したことなどを報じた書状。
(慶長元年)八月廿一日 / 冊子 38~39頁
小西摂津守行長が羽兵(島津義弘)へ、朝鮮使が一昨日到着し、来る二十五・六日に勅使および朝鮮人との対面が予定されていることを報じた。自身はその夜に大坂へ戻るため見舞いに伺えないことを詫び、対面の際に義弘も大坂へ来る見込みなので、直接面談して詳しく伝えたいと述べた書状。
(慶長元年)九月七日 / 冊子 41頁
豊臣秀吉が島津兵庫頭(義弘)へ、朝鮮王子を渡海させなかったのは不届きであるとして、朝鮮の各城の普請・番を堅固にし、手勢の半分を朝鮮各地へ詰めて在番させ、兵糧も確実に用意するよう命じた朱印状。
(慶長元年)九月七日 / 冊子 41~42頁
小早川隆景が義弘へ、唐人側の発言で和平が破れ、毛利壱岐・加藤主計・小西摂津が渡海を命じられ、翌年には四国・中国勢も渡海する触れが出たと伝える。朝鮮王子を渡さず礼を遅らせたことへの秀吉の怒りに触れ、義弘にも渡海命令が出るか尋ねる一方、自身は暇を与えられ、十四、五日頃に乗船して帰り養生する予定を知らせた書状。
年月日未詳 / 冊子 42~43頁
秀吉が花畠山荘で明使の冊封文書を読ませ、明国皇帝が秀吉を「日本国王」として臣従・朝貢を求める内容に激怒し、使節を退けた経緯を記す島津義弘譜の記事。秀吉は朝鮮との和議を破棄し、朝鮮使・明使を帰国させ、諸将に再渡海と軍備を命じて朝鮮再征を決定した。
(慶長元年)九月十日 / 冊子 43頁
豊臣秀吉が島津又八郎(忠恒)へ、朝鮮四か所の城に籠め置く兵糧について、各城主の営米を二八替の方式で差し渡し、その時に諸勢へ兵糧を支給するよう命じた朱印状。
(慶長元年)九月十一日 / 冊子 43~44頁
島津義弘が忠恒へ、番船の出動に備えて薩隅諸県から約千五百人を直ちに鹿徳島へ渡し、城普請、兵糧、大鉄砲・石火矢・鉄砲・玉薬を整えるよう命じた書状。明勅使との対面後、朝鮮王子が来朝しなかったため再出兵が見込まれるとして、国元から人数を渡海させる準備も急がせている。
(慶長元年)九月十五日 / 冊子 45~46頁
島津義弘が忠恒へ、朝鮮国中だけでなく大明からも多数の番船が出ることを見越し、海陸の備えを厳重にするよう指示した書状。鹿徳島では長陣を覚悟し、大鉄砲・石火矢などを備え、国元から渡海させる人数や兵糧を早く整えるよう求めている。
(文禄五年)九月十七日 / 冊子 47頁
石田三成が島津義弘へ、帰国の報を喜び、吉田美作・白浜次郎左衛門・福崎新兵衛尉の加増は竜伯と相談して扶助するのがもっともだと伝えた書状。長寿院盛淳への讒訴に注意して糺明すること、朝鮮在陣や度々の上洛で辛労した奉公人にも加増することを求める。
年月日未詳 / 冊子 70頁
島津忠長譜のうち、日本軍諸将が南原城攻略を計画し、島津忠恒らの軍勢が朝鮮へ進発して攻城に加わるまでを記す記事。