〔慶長三年〕十一月六日島津龍伯書状
11月6日(慶長3年の傍注) / 冊子 575頁/原整理番号 78
龍伯が羽兵庫頭・又八郎へ、防戦の大勝と二人が自ら働いて挙げた武功を、比類ない名誉として祝う。老中・奉行衆にも喜びを伝え、戦場に稲荷が現れたとの報告や野狐に関する前代未聞の出来事に触れ、鹿児島・富之隈・京都の稲荷に礼を申し祈念すると述べる。現地の様子を取り次いで早く知らせてほしいと求める。11月6日付で、慶長3年の年次は本文外の傍注。欄外には『旧記雑録後編三』556号との同文推定注記がある。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
243 件 (全巻)/ 1–50件を表示
ページ 1 / 5
11月6日(慶長3年の傍注) / 冊子 575頁/原整理番号 78
龍伯が羽兵庫頭・又八郎へ、防戦の大勝と二人が自ら働いて挙げた武功を、比類ない名誉として祝う。老中・奉行衆にも喜びを伝え、戦場に稲荷が現れたとの報告や野狐に関する前代未聞の出来事に触れ、鹿児島・富之隈・京都の稲荷に礼を申し祈念すると述べる。現地の様子を取り次いで早く知らせてほしいと求める。11月6日付で、慶長3年の年次は本文外の傍注。欄外には『旧記雑録後編三』556号との同文推定注記がある。
慶長三年二月廿一日~同年夏 / 冊子 173~174頁
『新納忠元勲功記』から、慶長三年二月二十一日に松齢様が久見崎から乗船する際、新納忠元が見送り、大嶋出羽守忠泰を供に付けて二首の別れの歌を贈った記事。同月二十八日に五十余艘で出船し、四月十九日に朝鮮加徳島へ着陣したこと、同年夏に忠元が清敷から飯野の地頭へ替えられて移住したことも記す。
慶長三年正月廿日~同年春 / 冊子 189~190頁
島津義久が慶長三年正月二十日の近衛殿の御会始で詠んだ新年の鶯の歌をはじめ、里村紹巴らと「こゑ」「音」の字句を論じた経緯を書き留めた詠草記事。さらに都での花見、伏見墨満寺の墨染桜、建仁寺の藤を題材とする歌を収め、藤の一枝を所望して断られた際、歌を贈ると一枝を手折ってもらえたという作歌事情も記す。
慶長三年三月廿日 / 冊子 200頁
慶長三年三月二十日正午、島津義久が初めて徳川家康の門を訪れ、太刀・馬代・巻物五十端を献上し、伊集院幸侃が供をしたとの記事。家康から来臨する意向があると近衛殿を通じて同月十一日に知らされていたため、それ以前の参候を控えていたとし、訪問後は夜まで宴が続き、その後帰宅したと記す。
慶長三年八月十八日 / 冊子 218頁
慶長三年八月十八日、前関白太政大臣従一位豊臣秀吉が伏見城で六十三歳で死去し、京都東南の阿弥陀峰に葬られたと記す。
慶長三年十月朔日 / 冊子 248~250頁
『島津義弘譜』が、慶長三年十月朔日の泗川・新寨決戦を詳述する記事。董一元ら率いる明軍が新寨を包囲すると、島津義弘は敵が城壁へ近づくまで鉄炮を撃たせず、白狐一疋と赤狐二疋の出現を稲荷明神の加護と信じて、大鉄炮の一斉射撃と開門突撃に転じた。義弘・忠恒父子や忠長らが敵を北へ追い、晋州川付近まで潰走させた後、首実検と勝利の儀礼を行い、翌二日に敵首三万八千七百十七級と算したとする。
慶長三年十月一日 / 冊子 250頁
慶長三年十月一日の泗川表における討捕首数を部隊別に記した注文。鹿島・帖佐・富隈の各方衆と、伊集院源次郎・北郷作左衛門の手勢による首数を列挙し、合計を三万八千七百十七とする。これとは別に、戦場で切り捨てた者の数は不明であると付記する。
慶長三年十月朔日 / 冊子 250~252頁
『家久公御譜』が、慶長三年十月朔日の新寨決戦を島津忠恒(家久)の働きを中心に記す記事。忠恒は明軍を城壁近くまで引きつけて鉄炮を撃たせ、白狐・赤狐の出現を稲荷明神の加護と受け止めて出撃した。自ら敵中へ進み、肩に千戈の傷を負いながら首級を得た後、義弘の援兵と合流して明軍を晋州川方面へ追撃する。戦後は父子の首実検と勝利の儀礼、十月二日の敵首集計を記す。
慶長三年十月朔日 / 冊子 254頁
『樺山久高譜』が、慶長三年十月朔日の泗川新城で樺山久高が敵兵と一騎討ちした経過を記す記事。伏兵の中から現れた身長六尺ほどの江南の強敵と組み合い、久高は負傷して力尽きかけた。危急の際、郎従田實三之丞が槍で敵の頸を突いたため、久高は勇気を取り戻してその首を斬獲したとする。
慶長三年十月朔日 / 冊子 254頁
『平山氏系図・平山久清譜』が、慶長三年十月朔日の泗川新城攻防での平山久清の戦功を記す記事。明軍数十万騎が新城を囲むと、義弘・忠恒父子が城門を開いて大軍へ突入し、敵を崩した。この戦闘で久清も敵首五級を斬ったとし、同年十二月に日本の諸将が帰陣したことを付記する。
慶長三年十月一日 / 冊子 254~255頁
『御譜雑抄』に収められた慶長三年十月一日付の泗川表討捕首注文。本冊では本文がNo.489の文書と同文であるため省略されており、部隊別の討捕首数と合計三万八千七百十七を記す同注文を参照する。
慶長三年十月一日 / 冊子 255頁
慶長三年十月一日の泗川表における討捕首数を部隊別に記した注文の異本。鹿児島・帖佐・富隈の各方衆と、伊集院源次郎・北郷作左衛門の手勢による首数を列挙し、合計を三万八百十七とする。首数が他本より少ないものの、参考のため収載したと注記する。
慶長三年十月朔日 / 冊子 255頁
『北郷三久譜』が、慶長三年十月朔日の泗川新寨攻防で北郷三久が危地を脱した経過を記す記事。三久は明兵と組み合って両者の馬の間に落ち、死にかけたところへ島津忠恒が駆けつけ、相手の明兵を斬って救った。その後、三久は忠恒とともに明兵を追撃して多くを討ち、名誉を得たとする。
慶長三年十月一日 / 冊子 255頁
慶長三年十月一日付の泗川表討捕首注文。本冊では本文がNo.489の文書と同文であるため省略されており、鹿島・帖佐・富隈の各方衆などによる討捕首数と合計三万八千七百十七を記す同注文を参照する。
慶長三年十月朔日 / 冊子 255頁
『樺山忠征譜』が、慶長三年十月朔日の泗川新城攻防での樺山忠征の騎馬戦を記す記事。明軍が敗れて原野に数万の伏兵を残し、二百五六十騎が敗軍の殿を務めると、忠征は馬を走らせて退路を遮り、敵騎を深谷へ追い落として一人も逃さなかったとする。その働きを卓越した御馬術の例として称える。
慶長三年十月吉日 / 冊子 255頁
島津義久が慶長三年十月吉日に伊勢両大神宮と熊野三所大権現へ捧げた願文。高麗の陣中で重大な局面を迎えたため、両社の加護を頼み、代参をそれぞれ二人立てることを誓う。敵の退散、陣中の平安、早速の帰国がかなったことを大慶として、願力への報謝を述べる。
慶長三年十月十三日 / 冊子 255~256頁
島津義久(竜伯)が慶長三年十月十三日に記した願書。高麗在陣中に異変がなく、島津兵庫頭義弘とその子又八郎忠恒が無事に帰朝したならば、御本地供一千座を勤修すると誓う。父子の帰還を祈る立願として、義久が花押を据える。
慶長三年十月朔日 / 冊子 256頁
『旧記抄』が、慶長三年十月朔日の新寨攻防と狐の霊験を記す記事。明兵二十万が寄せると、義弘は城壁下へ近づくまで発砲を禁じた。白狐一疋が東門から敵中へ入り、続いて赤狐二疋も大軍へ走り込んだため、義弘・忠恒父子は氏神稲荷の加護と信じた。城門を開いて大勝し、戦場で死んだ赤狐を新寨に埋めて弔祭したとする。
慶長三年九月廿七日 / 冊子 257頁
『佐多民部左衛門覚書』が、慶長三年九月廿七日に明兵・朝鮮兵が晋州方面から泗川へ攻め寄せた際の戦闘を記す記録。島津勢が防戦する中で、相良玄番が戦死したことを簡潔に記す。
慶長三年十月十三日 / 冊子 258頁
『島津義弘譜』が、慶長三年十月十三日に新寨で行われた明側との講和交渉を記す記事。明軍中から龍淵・友理と称する使者が平和の要事を談じるため来訪した折、寺沢正成と小西行長も義弘・忠恒父子を訪ねた。義弘は両人の到着を渡河の舟、暗夜の灯にたとえ、龍淵らとの対談を任せて、おおむね和平の約定を整えたとする。
慶長三年十月十三日 / 冊子 258頁
『島津家久譜』が、慶長三年十月十三日の新寨における明側との講和交渉を記す記事。明軍の使者龍淵・友理が訪れた時、寺沢正成と小西行長が遠路から義弘・忠恒父子のもとへ到着した。父子は二人の来訪を渡河の舟、暗中の灯を得たようだと喜び、龍淵らとの対談を行わせて和平の契約をおおむね成立させたとする。
(慶長三年)十月十四日 / 冊子 259頁
『島津義久譜』所収の島津義弘書状末尾。独立番号の下に慶長三年十月十四日の日付、宛所「石田治部少輔様 人々御中」、島津義弘の署名・花押を掲げる。本文内容は直前のNo.521と同日に石田三成へ送った書状に対応する異本末尾資料として整理する。
慶長三年十月十八日 / 冊子 265~266頁
長崎六郎右衛門が慶長三年十月十八日付で安楽大炊助らへ出した書状。泗川城へ唐人二十万ほどが攻め寄せたが、島津勢が城から突撃して四方へ追い崩し、晋州まで広範囲に討ち取った前代未聞の勝利を詳報する。寺沢正成らの到着、唐人側からの和平書状と質人提出の予定にも触れ、兵士や小者が得た銀子などの戦利品、自身の主従が略取しなかったこと、辻助兵の死去なども伝える。
慶長三年十月十八日 / 冊子 266頁
慶長三年十月十八日に詠まれた懐旧連歌。「もろく散色やなけ木の下紅葉/月影さむくのこる朝露」を掲げ、紅葉と朝露の景を通じて過ぎた時を懐かしむ。宗親・久正・豊信・忠増・友知・任次・長倍らの名を記す。
慶長三年十一月~十二月 / 冊子 270頁
慶長三年十一月から十二月までの年齢を記した覚書。島津義弘(維新公)を六十四歳、島津忠恒(家久公)を二十三歳とする。
慶長三年十月朔日 / 冊子 272頁
慶長三年十月朔日の泗川表における討捕首数を隊別に記した注文。鹿児島方一万百八、帖佐方九千五百二十、富隈方八千三百六十、伊集院源次郎手六千五百六十、北郷作左衛門手四千百四十六とし、合計欄には三万八千七百十七、ほかに切捨は数知れずと記す。なお、記載された内訳の算術合計は三万八千六百九十四となる。
慶長三年十一月十四日 / 冊子 279頁
慶長三年十一月十四日付の鷹餌覚書。痩せた鷹に与えるため、人参・甘草・茯苓を等分に合わせ、搗栗の実と蝉の抜け殻を少量加えて三度煎じ、冷まして七日ほど餌にかける方法を記す。さらに三か所の骨の間へ灸を据える位置を示し、伝聞した処方を書き留めたものとする。
慶長三年十二月八日 / 冊子 304頁
瀬戸口重位が慶長三年十二月八日付で児玉四郎兵衛尉へ出した手次状。児玉の懇望に応じて自流の内容を残らず伝授したことを証し、伝授内容は他見・他言を禁じる。同流を望む者があれば誓詞を取ったうえで許可すること、失念した点は尋ねるよう求めている。
年月日不記(慶長三年・天文元年などは各人の生没・事績年) / 冊子 630~639頁/原整理番号 114
平姓加世田氏の長大な系図で、桓武天皇五代の平良文を祖とし、村岡・鎌倉などの系線から薩州へ続くとする家伝、各代の婚姻・養子・官途・法名を載せる。景通を源頼光朝臣の四天王の一人とし、信道らを代々川辺の城主と記す。益盛には十三歳で肥後の首級を得たこと、高城での働きと知行加増の記事があり、忠吉には平治元年の追罰による琉黄島への流罪を記す。後代では家長が慶長三年に朝鮮国の番船で戦死し、子がなかったため景昌が跡を継いだとする。末尾の別紙には加世田新兵衛尉の朝鮮国での戦死、弟次兵衛の別家創設、折田清七郎三男を養子に迎えたことを記し、嫡流と分家の継承を補う。
年月日未詳 / 冊子 193頁
『島津義弘譜』から、慶長三年二月、劉綎・陳璘・張榜・鄧子龍・藍芳威らが軍を率いて朝鮮へ入り、明帝が巡撫万世徳を楊鎬に代わる経理に任命したことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 217頁
慶長三年六月、毛利秀元・宇喜多秀家らが朝鮮を発って伏見へ赴き、豊臣秀吉に謁見したと記す。
年月日未詳 / 冊子 253~254頁
『寺山久兼譜』が、慶長三年十月朔日の泗川・新寨決戦での寺山久兼の戦功を記す記事。義弘・忠恒父子が開門して明軍へ突入した際、島津忠長と対峙する敵将が現れると、久兼は兵を横隊にしてその後軍を攻めさせた。これにより前軍も崩れ、島津勢が敵首を斬獲する契機となったとする。末尾に久兼が慶長十六年十月晦日、四十五歳で没したことを付記する。
年月日未詳 / 冊子 254頁
『御譜雑抄』に収められた記事。本冊では本文がNo.488の記事の一部と同文であるため省略されており、島津義弘譜に記された慶長三年十月朔日の泗川・新寨決戦記事を参照する構成となっている。
年月日未詳 / 冊子 262頁
『島津義久譜』が、慶長三年十月十四日に東山龍山公のもとで行われた当座の連歌興行を記す記事。「春日大明神」の五字を各句の上に置く趣向で、龍伯、景敏、杉、如水、紹巴、昌叱、左兵衛佐、宗岩、玄仍、久正、兼雄、廣橋大納言ら参加者と句順を掲げる。続くNo.525の詠草に先立つ興行説明に当たる。
年月日未詳 / 冊子 278頁
『島津義弘譜』の記事。慶長三年十月、海陸から包囲された順天城との連絡を回復するため、島津義弘が立花宗茂・宗義智・寺沢正成と相談し、敵艦を退けようとした経緯を記す。十月卯日に現地の遠近を調べたが、敵は九日夜に退去し、残船だけが残ったため、これをすべて焼却したとする。
年月日未詳 / 冊子 279頁
『島津義弘譜』の記事。慶長三年、日本から渡海した上使の徳永法印式部卿・宮木長次郎が、在陣諸将へ十一月十五日を期限として一斉に帰帆するよう命じた経緯を記す。ところが順天城の小西行長らは明・朝鮮の大軍に海陸から包囲されて退去できず、和議を結び、人質を行長に渡させたことで、諸将とともに順天を離れて釜山浦へ退いたとする。
年月日未詳 / 冊子 280~281頁
『島津家久譜』の記事。慶長三年冬、撤兵を察知した明将陳璘らが大船団で海口を封鎖したため、島津義弘・忠恒父子が立花・高橋・寺沢勢とともに、順天の諸将を救うため十一月十七日に南海島岸へ進んだとする。翌十八日、鄧子龍・李統制らの水軍と銃砲・火器を交えて戦い、敵将を討ち、朝鮮船四艘・大明船二艘を斬捕した一方、島津・立花・高橋勢にも多数の戦死者が出た経過と氏名を記す。
年月日未詳 / 冊子 282頁
『北郷三久譜』の記事。慶長三年十一月、明・朝鮮水軍が日本軍の帰路を遮り、順天の小西・大村・五島・有馬・松浦の五家が撤退できなくなったため、島津義弘が立花・高橋・寺沢らと相談して救援に向かったとする。十一月十八日の南海海上で、矢と火壺を受けながら三度敵船へ攻めかかり、勝利した経過を簡潔に記す。
年月日未詳 / 冊子 283頁
『新納旅庵長住譜』の記事。慶長三年、浅野弾正少弼・石田治部少輔が筑前国博多へ下向して公領の勘定を行うことになり、新納旅庵が十一月十一日に帖佐を出発して博多へ赴いたとする。勘定を終えたのち、十二月に帰国した。
年月日未詳 / 冊子 283頁
『大田忠好譜』の記事。慶長三年冬、明の艨艟に水路を遮られた順天の五将を救うため、島津義弘が敵船へ挑戦した際、大田忠綱が義弘の船上で戦ったとする。忠綱は左額に矢傷を負ったが、義弘が自ら治療して回復し、その後は伏見で供奉した。
年月日未詳 / 冊子 285頁
『大村重頼古戦書附』の記録。慶長三年十一月、伏見で近衛家の取次により、島津義久(竜伯)と徳川家康が相互に礼を行った経緯を記す。竜伯が廿日に家康を訪れ、幸侃が伽羅一斤を進物として持参したこと、その後に家康も竜伯の屋形を訪れて返礼し、弓を贈ったと伝える。
年月日未詳 / 冊子 300頁
児玉利昌譜が、慶長三年十一月に京都から朝鮮在陣軍へ撤兵命令が届き、十二月に島津義弘が兵を率いて帰還した際、児玉利昌も従ったと記す。利昌は朝鮮役でたびたび首級を挙げる功績があり、義弘に召し出されて褒賞を受けたとする。
年月日未詳 / 冊子 335頁
島津家久譜が、慶長三年十二月、島津忠恒(家久)が石田三成と同じ海路を遅れず進み、同月二十四日に無事伏見へ到着して、遅れている父義弘を待ったことを記す。あわせて、文禄三年の渡海後、巨済島(和人が唐島と称した地)を拠点に朝鮮で軍務に従事した経歴と功労を掲げ、その詳細は義弘譜に記したため重複を承知で再記すると説明する。
年月日未詳 / 冊子 351頁
島津義久が北郷長千代丸に書状を与え、若年であっても自身で上洛するよう命じたため、慶長三年十一月に九歳の長千代丸が京都へ赴いたことを記す。続いて、その正文を掲げる旨を示す。
年月日未詳 / 冊子 362頁
慶長三年、江戸で大臣の私宅に入った折の島津義久の詠草。春の霞と風、酒宴での玉の緒を題材に和歌を詠む。
12月20日、天正4年2月彼岸日 / 冊子 161~164頁/原整理番号 43-1
二つの文書と菱刈氏系譜記事を現行一件に収める。第一は十二月二十日付で、伊集院忠金・川上忠克(意釣)・三原重秋が新納忠元へ送った連署状。菱刈四郎が曽木を差し上げた後も在所が定まらないため、従前の奉公に報いて花北一所を与え、追って加扶持する上意を伝える。続く隆豊の伝記は、文禄元年に島津義弘・久保に従って朝鮮へ渡り、江原道・南原・唐島番船で軍功を挙げ、慶長三年の交戦で負傷して壱岐から帰国したこと、慶長四年の伊集院忠真による庄内の乱、同五年の関ヶ原で義弘旗下に戦ったことを記す。帰国後は重秀の家督代を務め、重栄を後嗣として花北へ戻り、慶長十五年には琉球へ渡航し、元和四年に没した。重種は島原の乱・上洛に供奉し、大口衆頭、鹿児島城下勤仕を経て加久藤で養老した。第二は本文中に『43の2』とある天正四年二月彼岸日付の菱刈一族並他門交名注文で、菱刈・曽木・長池・入山・藤島・井手籠・得光・柿木原・花北等の一族・他門名を列挙し、菱刈大膳亮隆商が証判する。
(慶長三年)十二月十六日 / 冊子 152頁
豊臣秀吉が島津豊久(又七郎)へ、従来どおり毛利壱岐守と相談し、一手となって行動するよう命じた朱印状。来春三月に秀吉自身が渡海して成敗・仕置を行う予定なので、それまでは陣所を動かさず、兵粮を城に堅固に備えて渡海を待つよう指示し、詳細は長束正家・木下吉隆から伝えるとする。
(慶長三年)十二月廿七日 / 冊子 153頁
豊臣秀吉が島津豊久(又七郎)へ、歳暮の祝儀として秀吉と北政所に呉服各一重が届いたことを喜び、詳細は長束大蔵大輔正家から伝えるとした礼状形式の朱印状。
(慶長三年)三月廿二日 / 冊子 195~196頁
島津龍伯(義久)が又八郎(忠恒)へ、「典」からの使者が急に返書を得て差し返されたのには事情がありそうだとして、武庫とも相談し、諸方の動きを見聞きして用心するよう促した内密書状。忠恒自筆の書を喜び、京筆一対・大坂筆二対と墨三挺を贈る。安三との関係や未確定の知行替え、種子島左近の申分を踏まえた種子島家の在所替えについて慎重な分別を求め、末尾で、この書状を見たことが漏れないよう、散逸を避け直ちに火中へ入れるよう命じる。
(慶長三年)三月七日 / 冊子 197~198頁
島津龍伯(義久)が又八郎(忠恒)へ、前年預けた大鷹は見事だが扱いにくいと聞いたため、当年の若鷹または前年の若い大鷹の手配を法賀へ命じるよう依頼した書状。龍伯は不食が続き、二月二十四日夜から急に重く患ったが、養生と祈念・立願を尽くして次第に回復したと報告する。さらに醍醐の花見に際し、女房衆へ一人につき小袖三つ・帯三筋など華美な装束が命じられ、「御用意千三百」とあるため京中の細工人が多忙であること、見物は女房衆が行い、京中の男は三~四里四方から退けられると伝える。