帖佐新正八幡宮寄進和歌
慶長九年十二月吉日 / 冊子 950-958頁
帖佐新正八幡宮へ奉納された三十六歌仙和歌群。島津義弘を大檀主、忠恒を筆者、座主頼雄を本願主、市来家鎮を絵師とし、多数の施主が参加して、息災延命・家門繁栄・領国泰平を祈願し、十二月二十六日に成就した。
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慶長九年十二月吉日 / 冊子 950-958頁
帖佐新正八幡宮へ奉納された三十六歌仙和歌群。島津義弘を大檀主、忠恒を筆者、座主頼雄を本願主、市来家鎮を絵師とし、多数の施主が参加して、息災延命・家門繁栄・領国泰平を祈願し、十二月二十六日に成就した。
天正十一年四月十六日 / 冊子 755頁
島津忠平が帖佐彦左衛門尉へ、長期にわたり現地へ滞在し籠城の窮屈に耐えた軍労をねぎらった書状。海陸の交通が不自由で連絡が途絶えたが疎意によるものではなく、今回の軍功を今後も忘れないと伝える。
(慶長八年)七月廿三日 / 冊子 901頁
伊勢貞成が虎皮・豹皮・小人島・水牛角・明礬・鹿皮・山馬皮・砂糖・紅木の数量を列記し、鹿児島と帖佐へ分配するよう命じた注文。唐人側と価格を確定し、商人へ引き渡すことも指示する。
七月廿九日 / 冊子 63頁
喜入忠政(のち忠続)が、薩州様の息災、黄門様の江戸在府、若君様の成長、美作守の快気を喜び、帖佐長右衛門尉に薩州様への取次を頼んだ書状。本文は「喜入摂津守忠政」署名、巻末目録は改名後の「喜入忠続」名で掲げており、同一人物の改名前後名として整理した。
六月九日 / 冊子 63~64頁
喜入忠政(のち忠続)が、薩州様の繁昌と御曹子様の成長を祝い、諏訪仲右衛門尉を介して献上した水指を薩州様が見た際の反応を尋ね、帖佐長右衛門尉に取次を頼んだ書状。本文は「喜入摂津守忠政」署名、巻末目録は改名後の「喜入忠続」名で掲げており、同一人物の改名前後名として整理した。
十一月廿日 / 冊子 64頁
島津久慶が帖佐長右衛門尉に、薩州様・虎寿様への使者派遣と黄門様の上洛予定などを知らせた書状。肩衣・袴一具を添えて送り、国元の無事を伝えつつ、上洛や在旅中の取次・奉公について配慮を求める。
正月九日 / 冊子 64~65頁
島津久慶が帖佐長右衛門尉に、光久様が大事な役を無事に務め、疱瘡後に湯治を終えたことを喜んだ書状。自身も疱瘡を二度経験したため案じていたと述べ、快復の知らせに安堵し、若衆や関係者の近況も尋ねる。
二月廿五日 / 冊子 65~66頁
川上久國が帖佐長右衛門尉に、琉球から取り寄せる馬や数寄道具の調達状況と各種進物を知らせた書状。水指・籠・福昌寺の達磨図と梅図・金襴切などを送り、光久様の交替・下向の有無も尋ねる。
六月廿六日 / 冊子 97頁
本田宗親が帖佐彦左衛門尉に宛てた書状。長年の在陣・在京や関ヶ原以後の困窮、子の在京による借銀増大を訴え、現状では知行を受けても軍役を果たせないため、知行目録を召し上げるよう取り次いでほしいと依頼している。
九月廿五日 / 冊子 265頁
島津久豊が、届いた書状を読んで喜びつつ不審な点を尋ね、河田殿・日知嶋殿へも連絡したことを述べ、状況の確認と返答を帖佐殿へ求めた書状。
二月三日 / 冊子 65頁
島津久慶が、薩州様の疱瘡快気と虎寿様の疱瘡が軽症であることを喜び、再び使者を進上した書状。野州老から届いた知らせに安堵し、薩州様が当年下国するとの噂について、確かな吉報を待っていると伝える。
六月七日 / 冊子 177頁
返事が遅れた事情を聞いて便りを読み、相手が息災であることを喜んだ。当地で流行病・疱瘡の具合が悪く心配していたが、近ごろようやく改善したとの知らせを安堵して伝えた江戸発の仮名書状。
正月廿五日 / 冊子 177頁
新春を祝い、自身は息災なので安心するよう伝えた。相手が加治木へ赴いて遊興しているだろうと想像し、自分も間もなく下向して以前のように楽しみたいとして、祝儀のしるしを送った江戸発の仮名書状。
康安元年七月日 / 冊子 23頁
正八幡宮領帖佐村の供田について、各田地の面積、所在、作人名などを仮名書きで列挙した坪付注。末尾に供田の合計や内訳を記し、れんねんが花押を据える。細かな田名・人名は判読留保がある。
年月日未詳 / 冊子 458頁
帖佐彦左衛門が、小田原征伐に従う島津久保の軍勢について、将軍役・軍資金、川越えに備えた兵糧や渡河用具、軍馬の準備と配分を記した日記。 身分に応じて馬を割り当て、不足時には先陣の馬を回すことまで定めており、長距離遠征を支えた装備・輸送・馬匹管理の実務を具体的に知ることができる。
慶長二年八月廿二日 / 冊子 133~135頁
五代友喜・有川貞豊・帖佐宗光が川上四郎兵衛尉・枇杷権左衛門尉へ、袈裟菊殿内の宇多与右衛門尉が安宅殿へ提出した申状に関する聞取り結果を報告した連署覚書。宇多の知行配当、使者の往来、奉公・武具・書状、相良五郎左衛門尉らの証言を照合し、宇多父子の切腹を命じる書状の有無をめぐる袈裟菊殿母側の主張など、当事者間で食い違う言分を詳細に列挙する。
慶長三年三月廿二日 / 冊子 201頁
帖佐方の軍役高を区分別に集計した目録。定軍役分三万七千百四十三石七斗九升三合四夕六才、奥方二千百八十三石四斗二升七合六夕二才、医者分百二十三石七斗のほか、諸職・道具衆・中間・行司・浮所の各分を掲げる。これら七口の計を七千六百二石余、別の三口を四万四千七百四十六石余、北郷持分を三万七千三百三十一石余とし、最終の三口合計を八万二千七十七石八斗四升八合四夕二才と記す。
(慶長四年)五月十七日 / 冊子 384~385頁
帖佐宗隣・有馬純昌が、月野村まで出て普請の様子を見分し、境の村々の人数や馬を動員したことを報告する。飯肥から魚塩を運ぶ通路で六人が討たれたとの書状、庄内勢襲来の風聞を受けて衆中・町衆ら約百人を三つの口へ配置したものの何事もなく、周辺三村の百姓・妻子を内蔵肝煎村へ移した経過も伝える。
年月日未詳 / 冊子 626-627頁
帖佐宗辰は、徳川家康が上杉征討で関東へ出陣中に石田三成が反乱し、西国大名を動員した経緯を記す。島津義弘(惟新)は家康と事前に申し合わせがあったため石田方への加担をためらったが、供人数不足でやむなく石田方に属し、伏見城の鳥居元忠攻撃に参加した。
年月日未詳 / 冊子 656頁
九月十五日申刻頃、島津義弘(惟新)以下が飢えていたため、本田源右衛門が京都に詳しい帖佐宗辰へ五十人分の食事調達を命じた。宗辰は村で不穏な相談を聞き、島津方の指物を見付けて本隊を追ったが、村人に襲われて切り抜ける過程で従者五人のうち三人が戦死し、二人が行方不明となった。
年月日未詳 / 冊子 656-657頁
十六日、帖佐宗辰は相模国の者を装い、石田方の敗兵を追って道に迷ったとして、村の亭主に五十人分の粥を頼んだ。島津義弘(惟新)を柴籠の陰に隠して座敷を避け、供衆を通常の一行のように見せ、粥ができると全員で食し、所持する銀子一枚を礼として渡した。
年月日未詳 / 冊子 657頁
伊勢国境へ向かう道を知る者がなく、関所も多いため、一行では切腹の時機まで議論された。帖佐宗辰は在所の者を案内人に求めるよう進言し、捕らえた道行人に一部を案内させた。案内人が先を知らないと辞退したため、伊勢平左衛門が交替して案内人探しに向かった。
年月日未詳 / 冊子 659頁
関ヶ原の乱戦後、島津義弘(惟新)が一行に鎧を脱ぐよう命じたが、帖佐宗辰は義弘の危機に備えて鎧を残し、愛宕大権現へ無事帰郷後の奉納を誓った。甲・小具足だけを捨て、堺浦まで鎧を着て供奉し、船に乗せて持ち帰った。
年月日未詳 / 冊子 659-660頁
慶長十六年夏、文右衛門が島津義弘(惟新)存命中に再会したいとして薩摩へ下り、帖佐宗辰に取り次ぎを頼んだ。本田源兵衛を介して上聞に達し、義弘は文右衛門を召して関ヶ原当時を語り、加治木に留めて饗応した。文右衛門は入道して「一作」の名を与えられ、褒美を受けて帰った。
(慶長三年)十一月廿三日 / 冊子 288頁
石田三成が鹿児島・富隈・帖佐の代官へ、島津三殿の蔵入年々算用が進まないのは代官の油断によるとして、三方役人・奉行の指示に従って出頭し、怠慢な代官名を報告するよう命じる。後日、義久・兵庫頭との談合で処分するとし、当年貢も定めた免合と期限どおり皆済するよう厳命する。
年月日未詳 / 冊子 627頁
鳥居元忠を攻め滅ぼした後、石田三成は家康の帰還を見越して美濃へ進み、大垣に布陣した。島津義弘(惟新)も陣を置いたが、偵察兵から家康軍が野山を埋める大軍だとの報告を受け、西軍敗北を予測する。十四日夜、大垣に少人数と火縄・竹を残して大軍に見せかけ、関ヶ原へ退いて陣を取った。
年月日未詳 / 冊子 657頁
同日夕方、退路を知る者がなく進路を評議した。伊吹山へ入る案に対し、伊勢平左衛門らは落人が山へ向かうことは敵も予想するとして、かえって海道を進む案を示した。島津義弘(惟新)は道筋を進み、危難に遭っても運命の尽きる時だと覚悟を述べ、海道退却を選んだ。
年月日未詳 / 冊子 657-658頁
案内人が見つからない折、萩の中から現れて南へ歩く狐と、畑から南へ飛ぶ鳩を、源氏の氏神が帰国路を示した徴と受け止め、三度拝して道案内を祈った。南へ進むと、白髪・白髭で大小の刀と鉈を帯びた在所の男に会い、身分を隠して紀伊国の者と称し、伊吹山下の道を聞いた。妻子を先へ遣ったとして同行を断られると、刀を抜き、案内すれば礼をするが拒めば命を取ると迫った。男が承諾すると大小の刀を取り上げ、島津義弘(惟新)の前へ連れて行った。
年月日未詳 / 冊子 658頁
案内人の名を文右衛門といい、関ヶ原山中から摂津国境の堺浦まで島津義弘(惟新)一行を導いた。義弘は古木綿の道服と破れた菅笠で下人に変装し、粗末な食事や絶食に耐え、山坂を徒歩で越えた。文右衛門は木を切り渡して道を作り、十九日夕方に堺浦へ着くと過分の銀子を与えられて帰された。
年月日未詳 / 冊子 658-659頁
関ヶ原敗戦後、大坂で囲われた御前様・御懐様・宰相様について、真言宗僧の仙秀坊が奉行所へ働きかけ、御免書を得て下向の準備を整えた。立花飛騨守の助力で九月十九日夜に出船する予定のところ、堺へ到着した島津義弘(惟新)から川口で待つよう連絡があり、立花も同行して川口へ下り、義弘の船へ乗り移って帰国した。
年月日未詳 / 冊子 659頁
慶長十四年頃、関ヶ原で案内した文右衛門が馬の爪打二つを島津義弘(惟新)へ進上した。義弘は文右衛門を加治木へ召し、一つは本人へ返す旨を示したうえで、助宗作の品二つを褒美として与えた。
年月日未詳 / 冊子 537頁
同月二十二日、東郷方が山田に軍勢を集め、翌二十三日に祢答院河向の伏兵を追い払った。鶴田勢三百と帖佐勢らが交戦し、敵を退散させ、敵騎約十人を討ち多くを負傷させた。
年月日未詳 / 冊子 669頁
島津勝久が太守であった時期、帖佐城主邊川筑前守の謀叛を発端として、新城をめぐる争いと忠良らの移動・対応の経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 672~673頁
大永七年二月、樺山信久と梅岳君(島津忠良)側の盟約、肝付兼演らの起請を中心に、守護家と領主層の帰属変化をまとめた国史記事。伊集院・加治木・帖佐をめぐり、島津勝久方と忠良方が対立し、諸氏が同盟・離反した経過を諸系図・旧譜から集成する。守護権力再編の基礎史料。
年月日未詳 / 冊子 676頁
大永七年三月中旬以後、島津勝久が福昌寺から退き、伊集院・加治木・帖佐諸勢が動いた情勢を記す。島津忠良は軍事・交渉で対応しながら家中の混乱を収めようとし、四月十九日に剃髪して日新と称した。出家後も貴久を支える政治的立場を示す。
年月日未詳 / 冊子 678頁
伊地知周防介父子らの謀叛企図を受け、島津忠良が大永七年五月に加治木へ進発し、関係者を誅した経過を記す『貴久記』。島津勝久方は忠良を伊作から誘い出して勢力を弱めようとし、加治木・帖佐・鹿児島方面で両陣営の攻防が続いた。家臣処罰を契機に守護家対立が軍事化したことを示す。
年月日未詳 / 冊子 678~679頁
島津実久方の働きかけで勝久が心変わりし、忠良・虎寿丸との後継合意が崩れた経過を記す樺山玄佐自記。新納・伊集院・加治木・帖佐諸勢が勝久方と忠良方に分かれて動き、勝久は鹿児島へ帰還した。忠良方が退避した後に反撃へ転じるまでを追い、守護家内部の政変を具体的に伝える。
年月日未詳 / 冊子 681~682頁
大永七年、伊地知周防介父子の謀叛から始まる島津忠良方と勝久方の攻防を記す。加治木・帖佐・伊集院方面で諸勢が交戦し、忠良方が鹿児島へ進攻すると勝久方が退避した。城と街道をめぐる軍勢移動、諸将の帰属・離反を追う。
年月日未詳 / 冊子 697頁
大永七年の記録や系譜を引き、伊地知父子が帖佐・加治木周辺で戦った時期と、新城地頭職・伊地知氏の由緒を考証する。
年月日未詳 / 冊子 914頁
『島津貴久譜』が、九月十八日に島津右馬頭忠将が大隅の兵と船団を率いて来援したことを記す。忠将勢は海路から帖佐・岩剣城方面へ進み、城方の兵と交戦して貴久方の攻勢を支え、陸海の諸隊が連携して包囲を強めた。
年月日未詳 / 冊子 915頁
『島津貴久譜』が、九月二十六日に義久が白銀陣へ進み、帖佐方の敵兵を迎え撃った戦況を記す。城方の出撃に対して鉄砲・弓矢を交えた射撃戦となり、双方に負傷者が出る中、義久方が陣を維持して岩剣城包囲を続けた。
年月日未詳 / 冊子 917~918頁
『島津義久譜』が、九月十三日に義久方が脇元方面へ進んだ戦況を記す。梅北宮内左衛門・川辺衆らが民家へ放火して帖佐方の兵を誘い出し、出撃した敵と交戦して退けた過程と、諸隊が岩剣城包囲を続けた動きを伝える。
年月日未詳 / 冊子 918~919頁
箕輪伊賀の覚書が、岩剣合戦を中心に、蒲生・祁答院方との交渉が決裂して戦闘へ移る過程を記す。加治木・清水・帖佐方面での陣替え、使者・援軍の往来、放火・鉄砲を伴う連日の攻防を、箕輪伊賀の見聞に即してまとめる。
年月日未詳 / 冊子 920~921頁
『貴久公記』が、天文二十三年の加治木・帖佐・岩剣方面における蒲生・祁答院方との戦争を記す。貴久方諸勢の集結、陣所の移動、城兵の出撃への迎撃、使者を介した交渉を追い、攻城と退陣を重ねながら包囲を進めた経過をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 921頁
樺山玄佐が自ら、加治木・帖佐・岩剣方面での従軍を記した戦闘記録。島津貴久方が陣所を移して攻撃と退却を繰り返し、敵の出撃に鉄砲・弓矢で応戦したこと、諸隊に多数の負傷者が生じたことを挙げ、前線での判断と損害を具体的に伝える。
年月日未詳 / 冊子 921~922頁
箕輪伊賀の覚書が、天文二十三年九月十三日以後、貴久方が平松から帖佐・岩剣方面へ軍を進めた経過を記す。陣取り、斥候・使者の往来、城方との矢戦、民家への放火、討死・負傷者の発生を日を追って述べ、長期化した攻城戦の実態を伝える。
年月日未詳 / 冊子 928頁
天文二十三年かとされる九月二日、帖佐から出た敵と島津方が矢軍を交え、その後の合戦へ至った状況を記す覚書。
年月日未詳 / 冊子 11頁
弘治元年三月二十七日の帖佐攻めで、薩摩勢は別府川南、大隅勢は岩野原に布陣。島津尚久は薩摩南方衆を率いて牛渡で敵を遮り、自ら大太刀を提げて高樋橋口へ進んだ。強敵の鑓兵は家臣山本三河守が討ち、味方は城門を破って放火したが、尚久の厳命で神社仏閣は焼失を免れた。敵首二十六を挙げ、四月二日夜に帖佐・新城・山田の敵が退去した。
年月日未詳 / 冊子 28頁
弘治二年二月の日記。吉田衆が蒲生荒平口の塁を破って番屋を焼き、岩上で敵一人を討つ一方、帖佐足軽は蒲生浦で三人、山田勢は松坂の柵で三人を討った。十七日、濱田善三郎らが案内者を伴い敵地へ忍び入り十四、五軒を焼く。二十三日には吉田衆が番衆四人を討って番屋に放火し、二十四日の横尾口戦に伴い貴久父子が吉野原まで進んだ。
文禄3年10月2日 / 冊子 812頁
島津義弘家臣の帖佐彦左衛門尉が、釜山浦で城米四百五十四石四斗五升四合を受け取ったことを証明する請取状。 受領場所・米の数量・受取人が明記されており、朝鮮在陣中の島津軍へ供給された兵糧米の規模と受領実務を具体的に確認できる。