豊臣秀吉朱印掟書
天正19年8月21日 / 冊子 514~515頁
豊臣秀吉が奉公人・侍・中間・小者から百姓・町人までを対象に、在所と土地支配の原則を定めた朱印掟書。田畠・屋敷の勝手な売買、地下人への不当な夫役、住民の連れ去りや相論を禁じ、居住者を把握して役負担を秩序立てる。違反者を処罰し、地域社会と軍役基盤を統制しようとする法令。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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天正19年8月21日 / 冊子 514~515頁
豊臣秀吉が奉公人・侍・中間・小者から百姓・町人までを対象に、在所と土地支配の原則を定めた朱印掟書。田畠・屋敷の勝手な売買、地下人への不当な夫役、住民の連れ去りや相論を禁じ、居住者を把握して役負担を秩序立てる。違反者を処罰し、地域社会と軍役基盤を統制しようとする法令。
(慶長元年)十二月五日 / 冊子 59~60頁
島津忠恒が安三州へ、長年在陣・在旅した家臣の奉公を竜伯・兵庫頭と相談して知行相応に処遇したいと述べた書状案。明春の奥入り命令に備え、国元で加増と出陣準備を進めるため図書頭を帰朝させたこと、検地以来の石田治部少輔の配慮に感謝し、今後も取成しを頼むことを伝える。
慶長二年二月廿一日 / 冊子 80~81頁
島津義弘が家中に残した置文。怒りや喧嘩を慎み、女性・他家との交際、飲酒、奉公人の扱い、宿泊者、火の用心、馬や物資の使用など、留守中の生活と家政を細かく規制する。
慶長三年四月二日 / 冊子 202頁
島津義弘が上井神五郎へ、軍役その他の奉公について、役人や当奉行が命令を難渋させ、無沙汰にし、または油断して勝手に振る舞う者がいれば、当役人としてその知行を召し上げ、事情を詳しく報告するよう命じた直書。報告を受けて改めて吟味し、科の軽重に応じて処分するとする。
(慶長十八年)十一月十六日 / 冊子 427頁
慶長十八年十一月十六日、相良長毎が羽柴陸奥守へ、高橋居城の改修と知行処理、逃散する高橋奉公人・百姓の改め、宮崎を含む領内統治について報告した書状。
年月日未詳 / 冊子 408~409頁
領内の配当、屋敷移転、代官、人員配置、知行、奉公、未進、法度、地頭との協議など、土地・人事・財政支配に関する事項を条文形式で列挙した覚書。
七月二日 / 冊子 75頁
喜入忠政(のち忠続)が市来備前守・新納仲左衛門尉に、又八郎様に奉公する局が近頃ことに患い、老齢のため当地での養生が難しいと伝えた書状。意向を得てこちらへ帰し、永吉などで療養させたいので、病中のうちに早々に暇を与えるよう取り計らうことを求める。
年月日未詳 / 冊子 227~237頁
年中の月日ごとの祈祷・奉公・寺社参詣・贈答・役務などの予定を掲げ、家督・相続・養子・婚姻・犯罪、屋敷・借地・境界争論など家中統制に関する取扱いを詳細に列挙して、大番頭座中へ周知した廻文。
八月十三日 / 冊子 283頁
島津勝久が、久しく音信がないことを述べ、近く実久が和泉と同行して来る予定を知らせ、これまで同様に懇切に奉公するよう求めた書状。
慶長二年二月廿一日 / 冊子 81~82頁
島津義弘が家中の規律を定めた掟書。勤番、口論・喧嘩、奉公人と商人の扱い、京都での宿所、飲酒、外出、市場での売買などを条項ごとに命じ、違反を禁じる。
壬申4月9日鹿児島県庁 / 冊子 879頁/原整理番号 1094の5/整理ID 1094-5
家来・下人という名称を廃止する。従来から召し仕えていた者は、必要に応じて願い出ることを認める旨を県内へ布告する。壬申四月九日鹿児島県庁。
明治2年六月27日知政所(年は朱書) / 冊子 681頁/原整理番号 885の2/整理ID 885-2
従来は御小姓衆以上の初めての御目見等が済んだ後、それぞれ年輩により角入や前髪取の願いを申し出ていたが、今後はその願いを不要とする。奉公を勤める年輩となった者は、そのことを伝事方へ申し出るよう定め、関係先への周知を求める。朱明治二年己六月廿七日、知政所。角入・前髪取は原語のまま保持し、願いの不要と年輩到達の届を区分する。年齢の数字・現代の成人制度・髪型全般の自由や実届出人数は補わない。
文禄3年 / 冊子 798~799頁
検地奉行が礼銭・礼物を受け取らず、田畠や諸産物を過少に評価しないと誓う。家臣や内々の者にも収賄を禁じ、発覚すれば隠さず処罰すると定めるほか、奉行同士の不正も相互に報告させる。 百姓を私用へ使わず、他国者や走り者も公平に扱い、田畠・畝数の改ざんや過大な人夫徴発を禁じる。検地行政の腐敗防止、人権的配慮、内部告発を具体的に制度化した重要な起請文前書。
慶長二年二月廿八日 / 冊子 90~91頁
島津義弘が在陣中の規律を定めた廻書。口論・喧嘩、賭博、過度の飲酒、無断外出、私的な売買や宿泊などを禁じ、違反者の処分と相互監督を命じる。
(慶長十一年)正月廿七日 / 冊子 55~56頁
島津義久が島津忠恒に、上洛と京都・伏見での滞在、随行者の選定、家中の秩序維持について細かく指示した書状。留守中の城内勤務、酒宴や私的な出入り、物資・役人の扱いなどを戒め、不正や混乱を防ぐよう求める。
寛永十一年三月朔日 / 冊子 413~414頁
月例出仕、未進・出物、武具携帯、殺人事件の切腹・遠流処分、徒党・私的交際の禁止、役人の収賄・私用使役禁止など、家中規律と刑罰を条文形式で定めた覚書。
年月日未詳 / 冊子 429頁
某が、武家の秘術である小笠原流の書について、その技法を見ずに論じる者が多いと述べる。正しい人を直接召して武家の業を伝授させるべきであり、原正の人物に多数の巻物を書写させ、後世の観覧に供するとした書状。
壬申4月29日ほか / 冊子 884頁/原整理番号 1097の5/整理ID 1097-5
指定地域で戸別の人員・戸数を調べるため、屋敷内の名子等にも調査を伝え、標札を正しく掲げさせる。全国人員戸数取調の御用が見合わせとなった後も、諸郷・近在町から雇う下人・下女・乳母等の出身や親族名を戸長へ届け出させる。
年月日空欄(明和六年の編年位置) / 冊子 213~214頁/原整理番号 560の2/整理ID 560-2
江戸詰に伴う月限雇用の案文。外城・村・門、奉公人の子・弟・娘の別、姓名・年齢、百姓の持主を空欄にし、このたび江戸詰となるため十五か月の雇奉公を希望した者を、許可を得て雇銀を相対で渡し召し抱えるとする。江戸詰を重ねる場合には重雇銀も相対で渡すとする。雇用中に不要となった場合や「抱主人相直の儀」がある場合は申し出て指図に従い、月限が満了した際には早く本門へ返す。法に背いた場合はどのような沙汰でも受けると誓い、年月日・署名・御郡方宛を空欄式にする。
明和九年辰六月(日無記載) / 冊子 328頁/原整理番号 909/整理ID 909
町家が繁華になれば商人が多く帰り入り、自然に賑わうとして、今後は城下で稼ぐために入る他国人を見込んで居付けさせることを認め、縁組も勝手次第とする。上方その他の国の奉公人も、男女を問わず抱え入れることを認める。これは町家に限らず、奉公人を諸人が抱えることも勝手次第とする。町家の者が当分、上方や長崎などへ差し越すことはあるが、今後さらに他国へ出ることも勝手次第と命じ、参宮類にも差し障りがないよう免ずる。以上の命令を表方へ通達し、御側方・御勝手方には写しをもって伝えるよう求める。明和九年辰六月付、主馬と署し、喜入久福の注を伴う。
明治5年壬申4月 / 冊子 881~883頁/原整理番号 1095の6/整理ID 1095-6
東京から県内の人員・戸数取調を命じられたため、旧人別帳にかかわらず現住者の人数と年齢を精密に調べ、期限までに提出させる。家督、妻・母・子、親族、奉公人、寄留者、男女数、戸数、職業、処罰歴等を記載する人員戸数取調帳の雛形を示す。
貞享三年十二月三日 / 冊子 124~125頁/原整理番号 38
評定所が百姓・寺社家・町・浦の男女について、鹿児島衆中への五年・十年などの年季奉公を許し、田地の耕作を妨げぬよう各役所の証文で許可を受ける手続を定める。十年季の雇銀は男二百五十目・女百八十目、五年季は男百六十目・女百二十目などとし、年齢十五~五十歳、病欠・暇・欠落時の扱いも規定する。
慶長十四年十月八日 / 冊子 246頁
慶長十四年十月八日、伊勢貞昌が女房衆・奉公人に対し、役目と勤務、身持ち、争論の処理、届け出、次郎四郎らへの相談、命令順守などの家内規律を条項ごとに定めた掟書。
延宝八年五月廿一日 / 冊子 694~695頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1790
島津光久・綱貴が、身分に応じた衣服・織物・金糸等の制限、婚礼・振舞・贈答の簡素化、奉公人や女性の振舞、親族・客人との交際、旅先からの土産や進物などを規制し、倹約と身分秩序の徹底を命じた禁制。
享保十五年八月晦日 / 冊子 92頁/整理ID 143
乗馬や刀・脇差の携帯を身分と場所に応じて厳格に制限し、違反者の召捕・処罰を命じた定書。
(永禄十年十一月廿四日) / 冊子 191頁
菱刈馬越城攻めの際、友野元真が敵四人と斬り合い、そのうち一人を討ち取ったことを記す奉公覚書。証人として四本越中守を挙げる。
(永禄十二年五月六日頃) / 冊子 220頁
戸神尾合戦のころ、伊集院善左衛門を取次として佐敷方面へ兵船六、七十艘を送るよう命じられた友野元真の奉公覚書。船の調達に苦労し、四本越中守と協力して佐敷方面で働き、船一艘を取得し、福浦でも分捕りをしたことを記す。
(天正元年十一月中旬) / 冊子 320頁
牛根平床の合戦で敵六人を討ち、そのうち一人の首を取った奉公を記す。証人として小口郷右衛門・徳永源五左衛門を挙げる。
天正四年八月 / 冊子 502頁
高原城を詰めた際、友野元真が市来玄蕃左衛門・谷山佐渡介・四本越中守とともに垂之口から城を越え、敵方の肥田木河内守と対した奉公を記す。
天正六年十一月十二日 / 冊子 609頁
友野元真が高城合戦で島津義弘の横入の手に属し、竹内主殿介・伊地知刑部少輔らとともに戦った奉公覚書。河原陣を崩した日に二人を分捕りし、島津義久から辛労を賞する言葉と褒美を受けたことを記す。
天正八年十月十五日 / 冊子 678頁
友野元真が肥後矢崎城攻めで先登し、園田清左衛門・林藤七兵衛・市来源番左衛門ら鹿児島衆とともに戦い、城口で敵を切り捨てた奉公を記す。
年月日未詳 / 冊子 705頁
松浦筑前守が八代・小川街道ほか五、六か村の地頭職を違えて京都へ走った後、友野元真がその跡を命じられたとする奉公覚書。甲佐・堅志田・御船・隈庄・吉松、筑紫・岩屋の陣まで従軍し、小川・内田街道の三百余人を率いて奉公したと述べる。
正保四年一月十一日 / 冊子 63~65頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0122
山田新城をめぐる戦闘・捕縛・知行、諸士の召寄せや配置、鹿児島城外城での勤務など、池田右近将監の奉公経歴と申し分を詳記した覚書。
慶安五年二月九日 / 冊子 212~213頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0423
本田助之丞が祖父以来の奉公、鹿児島・伏見・関ヶ原・京都等での働き、使者・在番・拝領や召移しの経緯を列挙し、由緒を申し立てた申状。
延享三年三月廿六日 / 冊子 907~908頁/整理ID 2439
今帰仁親方朝見の起請文前書。三司官の役を受けた者として、吉貴・宗信への奉公と国王への忠勤、御下候の事と御条書の遵守を誓う。悪意邪僻の者があれば報告すること、無用の同盟を結ばず、親疎によって国中の事を曲げないことなどを各条に記し、三月二十六日付で判を据える。
延享三年三月廿六日 / 冊子 908頁/整理ID 2440
宜野湾親方朝雅の起請文前書。三司官として吉貴・宗信への奉公と国王への忠勤を誓い、御下候の事や御条書を堅く守ること、悪意邪僻の者の報告、無用な同盟や親疎による取扱いを避けることを列挙する。国中の案件を公平に処理すると記し、三月二十六日に判を据える。No.2439とは署名者が異なる。
天明七年丁未六月六日 / 冊子 973頁/原整理番号 2634/整理ID 2634
若輩ながら三司官役を命じられた恩を謝し、御国許への奉公を念入りに務めること、斉宣・重豪に疎意を抱かないこと、御国許からの条書を厳守し悪意邪義を企てる者があれば披露すること、国王に別心なく忠勤すること、国中の掟と諸事を贔屓や親疎なく処理することを誓う。家督交替後も中将の代と同様に守るとし、違反時の神文は刊本で省略される。六月六日付で譜久山親方朝紀が署判する。
文化6年6月17日(正文)。外包文化7年午7月廿三日 / 冊子 322~324頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1012
白木御文書六番箱中100号、掟。公儀政務を堅固に守り、常々の仰出条目を謹んで受け止めるよう命じる。幾里志丹宗門は公儀禁制として領内でも禁止、不審者を申し出れば公儀の褒美に加え当主も賞する。一向宗も当家代々禁じ、違反者を貴賤によらず宗門改人・支配頭へ届ける。代々の政法・参勤交替と国家の仕置を怠らず忠義奉公に励み、親子兄弟・朋友の交わりを正礼に保ち風俗を乱さない。若者は学問武芸を修練し、能力に応じ召し使うので言語容貌にも配慮する。今代の衣類や路次門頭に勢を立て集まる非法の振舞いは禁止。武具・馬具は分限相応に整え見分けを付け、道具の構え・火事への備えを考える。知行・歴代の恩顧を忘れ、妻子の装飾・酒宴遊興・内証の騒ぎで身上を衰えさせず、小身も分限相応にする。困窮して奉公できない者は相談し、倹約して国家の費えとなる私欲・不勤を慎む。些事に異議を立て、病を構えて勤めを避ける者は事情をただす。家老・奉行・頭人の指示に従い、上役と下役が分を守り、無礼や役所の無作法を避ける。党を結び、願書連判等で不当な仕置を企てることを禁じ、違犯には厳科。組内の口事・争いを収め、不収拾なら披露する。喧嘩口論を止め短慮を避け、道理を申し出る。理を尽くさず騒ぐ者や双方に加担する者には身分を問わず罪を科す。病者・老体以外の隠居願を制し、乱気の者は親類が慎重に扱い、非道の悪事を起こせば親類の越度とする。地頭所・領地を問わず法外な課役を止め、農民を飢寒から救い、耕作時節・年貢取納を怠らず支配人を励ませる。関所の掟を守り、隣国の動きは真偽を問わず鹿児嶋へ早く報告し、他領との入魂・縁組で往来を開くことを禁ずる。追加判形条目とともに留守中も領国静謐を守り、違背には処置。結語は歴代の仰出を旧制として疎かにせず当代も厳守せよとする。文化6年6月17日、包紙毎朔御条書、外包朱100・1通。文化7年午7月廿三日、安房から本田休七へ渡され六番箱に納置した旨を付す。
文化7年庚午5月3日 / 冊子 352頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1094
白木御文書七番箱52番。敬白・天罰霊社起請文前書之事。三司官役に仰せ付けられたので、御国許への奉公をいっそう心掛けて勤めると誓う。斉興・重豪・斉宣へ毛頭疎意を抱かないこと、御国許から下された諸事の条書を堅く守り、悪意・邪儀を企てる者があれば披露することを述べる。国王へ別心なく忠勤すること、国中の掟・諸事を親疎による贔屓なく沙汰することも誓う。今回の家督を受け諸事を先規どおり守り、背けばとの結びを付す。神文略、文化7年庚午5月3日、與那原親方良應判。役職・各条の誓約と差出人・署日を個別に採録し、他の三司官文書の署日を転用しない。
文化7年庚午5月3日 / 冊子 353頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1095
全上包内。敬白・天罰霊社起請文前書之事。三司官役に仰せ付けられたので、御国許への奉公をいっそう心掛けて勤めると誓う。斉興・重豪・斉宣へ毛頭疎意を抱かないこと、御国許から下された諸事の条書を堅く守り、悪意・邪儀を企てる者があれば披露することを述べる。国王へ別心なく忠勤すること、国中の掟・諸事を親疎による贔屓なく沙汰することも誓う。今回の家督を受け諸事を先規どおり守り、背けばとの結びを付す。神文略、文化7年庚午5月3日、嵩原親方安執判。役職・各条の誓約と差出人・署日を個別に採録し、他の三司官文書の署日を転用しない。
文化7年庚午6月8日 / 冊子 353~354頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1097
白木御文書七番箱51番。敬白・天罰霊社起請文前書之事。三司官役に仰せ付けられたので、御国許への奉公をいっそう心掛けて勤めると誓う。斉興・重豪・斉宣へ毛頭疎意を抱かないこと、御国許から下された諸事の条書を堅く守り、悪意・邪儀を企てる者があれば披露することを述べる。国王へ別心なく忠勤すること、国中の掟・諸事を親疎による贔屓なく沙汰することも誓う。今回の家督を受け諸事を先規どおり守り、背けばとの結びを付す。神文略、文化7年庚午6月8日、佐渡山親方安春判。署日・判表示は次頁へ続く。役職・各条の誓約と差出人・署日を個別に採録し、他の三司官文書の署日を転用しない。
安政5年5月13日 / 冊子 184~185頁/原整理番号 257の1/整理ID 257-1
白木御文書十番箱中の「敬白 天罰霊社起請文前書之事」。小禄親方良忠が、若輩でありながら三司官役を命じられたことを冥加ありがたい仕合とし、今後さらに御国許での奉公に入念に勤めると誓う第一条を収める。他の条項と神文は省略する。安政五年五月十三日、良忠の判を記す。
文久2年壬戌6月19日 / 冊子 262頁/原整理番号 363/整理ID 363
敬白天罰霊社起請文前書の第一箇条。自分は若輩ながらこのたび三司官役を命じられたことを冥加に余るありがたい仕合と謝し、さらに御国許への奉公に念を入れて勤めると誓う。他の箇条と神文は略す注がある。文久二年壬戌六月十九日、宜野灣親方朝保の判。白木御文書十番箱中・百三十番。省略された誓約条項や神文は補わない。
辰正月10日新納刑部署(去5日の堀直太郎急便を受けた相談) / 冊子 466~467頁/原整理番号 633の1/整理ID 632-1
昨年脱走した竹内健藏・木場十藏が今回京都へ来て、重大な形勢のため滞京して奉公したいと願い出、事情を聞き置いたと、五日の堀直太郎の急便で伝えられた件を述べる。情勢上その志を捨て難いが、認めれば今後の取締にもかかわるため容易ではないと相談する。高野方面に浮浪の者が集まり、鷲尾侍従も勤王の意を示していると聞くが、この時節に御用へ立てるかは分からないという。国家のため忠志を立てておけば自然に採用される場合もあり得るとの考えを内々に伝え、中将にも知らせた上で吟味・取計らうよう、辰正月十日に新納刑部が五名へ送る。奉公願と採用の可否を相談する文書で、赦免・採用済みとはしない。
五月(日不記)、朱注:辰 / 冊子 564頁/原整理番号 732/整理ID 732
私領・持切在を与えられた者や祖先の軍功による拝領高を持つ家にも、家の盛衰で上地したり他人へ譲ったりした分があると聞いたと述べる。それでは祖先の功労が立たず家にも遺憾であるため、特別の取計として蔵入高の分を外持高で繰り替えるとする。他人へ譲ってある高についても、心を尽くして精々取り纏め、十分相応の奉公を勤めるよう命じ、その旨を向々へ知らせるよう五月に龍衛・隼人が伝える。朱注は辰。
年月日未詳 / 冊子 474~475頁/原整理番号 469
野元為綱の奉公状。寛永十四年十二月の島原一揆に際し、御使者として派遣された三原左衛門佐に御相談人として付き、騎馬与力二人を率いて赴き、同十九日に着船したと記す。
年月日未詳 / 冊子 499~500頁/原整理番号 504
野元為綱の奉公状。十九日に着船し、二十一日の取合に召し連れられて上下六人で参陣したことを述べる。川上村の百姓前原門次左衛門から申し出た参陣の由来を記し、奉公の事実を証言する。
年月日未詳 / 冊子 479~480頁/原整理番号 17
日新公以来の平田家一族の奉公を人物別に列挙した家伝。谷山倉良城主・平田備中守宗秀が蒲生岩剣の陣で形見の刀を宿元へ送り、主従とともに戦死したこと、弟の田布施城主・豊前守宗貞が高城籠城中に城内へ忍び入り、敵中三里を切り抜けて情報を伝えたことを中心に記す。さらに安房介・新左衛門・次郎四郎重辰・宮内少宗鑑・尾岐守・左衛門宗鉢・兵衛宗吉らの召出し、家老役、肥後・豊後・京都伏見での奉公、戦死・病中の逸話、女子二人の伊地知家・帖佐家への婚姻を掲げ、末尾に肥後新左衛門所持本からの写しであることを記す。
年月日空欄(明和六年の編年位置) / 冊子 213頁/原整理番号 560の1/整理ID 560
年季者を召し抱える際の案文。外城・村・門、奉公人の子・弟・娘の別、姓名・年齢、百姓の持主、奉公年数を空欄にし、奉公の希望があるので、許可を得たうえで雇銀を相対で渡して抱え置きたいと願う。雇用中に諸外城や本在所へ遣わすこと、抱の名代にすることはしないと誓い、法に背いた場合はどのような沙汰でも受けるとする。「抱主人相直の儀」があれば申し出て指図に従い、不要となった場合や年季が満了した場合には、早く本門へ返してその始末を報告するとする。末尾は年月日・署名・御郡方宛を空欄式にし、外に年季者を何人か抱え置く場合の但書と番与家督の署名欄を備える。朱注に雑抄中とある。
年月日空欄(明和六年の編年位置) / 冊子 214頁/原整理番号 560の3/整理ID 560-3
先年の年季御証文によって別の者に抱え置かれた百姓について、先の抱主には不要となり、残りの年季の満了まで新たな抱主のもとで奉公したいと申し出た場合の案文。許可を得て雇銀を相対で渡し召し抱えるとする。雇用中に諸外城や本在所へ遣わすこと、抱の名代にすることはしないと誓い、法に背いた場合はどのような沙汰でも受けるとする。「抱主人相直の儀」がある場合は申し出て指図に従い、年季満了や不要となった場合には早く返し、その始末を報告するとする。元の年季御証文の年月日・年数、元の抱主、新たな抱主、百姓の姓名・年齢を空欄にし、御郡方宛と複数人を抱える場合の但書を備える。