島津国史
年月日未詳 / 冊子 234~236頁
応永十七年、島津元久が波見筑後守・樺山教宗らを京都へ派遣した上洛・進献記事。将軍と赤松殿へ太刀、馬、金銀、衣類など多数の品を献じ、伊集院頼久・平田重宗ほか随行者の役割、道中と帰国までを記す。進献品の構成と奉仕者の序列から、島津家の幕府外交を具体的に確認できる。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 234~236頁
応永十七年、島津元久が波見筑後守・樺山教宗らを京都へ派遣した上洛・進献記事。将軍と赤松殿へ太刀、馬、金銀、衣類など多数の品を献じ、伊集院頼久・平田重宗ほか随行者の役割、道中と帰国までを記す。進献品の構成と奉仕者の序列から、島津家の幕府外交を具体的に確認できる。
応永十七年六月 / 冊子 240~241頁
将軍足利義持が島津元久の在京屋形へ御成りになった際の御目見人数と進上物を列記した注文。北郷中務少輔、樺山安藝守、加治木能登守、野邊右衛門大夫ら一門・家臣が太刀・銭などを献じたことを記し、将軍接遇における島津家中の序列と役割を示す。
文化元年5月14日(本文・包紙)、7月28日受渡・納置(包紙) / 冊子 229~230頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0745
霊社神文前書。去年、義村王子の跡役を自分へ仰せ付けたことを外聞にも実にありがたいと謝する。斉宣・重豪・忠温に毛頭逆意を挟まず忠義に励むこと、国王へ疎略の志を持たず国中の政道を正すよう命じ、邪慾で国法を変えた仕置きにはしないこと、悪逆の者が現れても国中一味であれ同意せず披露することを誓う。自分について聞召し上げる件があれば速やかに穿鑿して明鏡とするよう願い、少々相損じるような事態を残念とする旨をあらかじめ申し上げ、偽って申し上げないと結ぶ。後神文は略す。文化元年甲子5月14日、読谷山王子朝英判。本文所在は白木五番箱百十の表示、外包は百十三・読谷山王子誓詞1通、文化元年子7月28日に信濃殿から八田孝之進へ渡され納置したとする。就任謝意と忠義・統治・不正報告・自身の穿鑿を求める条、箱番号表示と発給・保管日を分ける。
明治6年2月5日・7日・18日太政官 / 冊子 912頁/原整理番号 1130/整理ID 1130
従来の衣冠を祭服とし、衣冠を持たない者は狩衣・直垂等を用いてよいとする。除服・忌明後の祭典奉仕参拝、婚姻関係にない婦女が産んだ子の引受け・戸長の認許、年齢を月数で通算して十二か月を一年とする計算法も定める。
文化元年5月14日(本文・包紙)、子6月10日受渡・納置(包紙) / 冊子 229頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0744
敬白天罰霊社起請文前書。佐渡山安春は若輩ながら去年三司官役を仰せ付けられたことを謝し、国許への奉公を入念に勤めると誓う。斉宣・重豪・忠温に疎意を持たず、国許から仰せ下された御條書を堅く守り、悪意・邪議を抱く者があれば披露すること、国王に別心なく忠勤すること、国中の掟・諸事は貪りや贔屓・親疎なく沙汰することを誓い、偽って申し上げないと結ぶ。後神文は略す。文化元年甲子5月14日、佐渡山親方安春判。本文の所在表示は白木五番箱百十中、包紙は百十一・琉球三司官佐渡山親方誓詞1通、子6月10日に市正殿から八田孝之進へ渡され納置したとする。本文と包紙の箱番号を区別し、忠温に斉興の注、各誓約条項と発給・保管日を分ける。
明治3年正月(巻178表紙・目録による年)/朔日~七日の年頭規式、署日なし / 冊子 722~725頁/原整理番号 947の1/整理ID 947-1
年頭御規式次第。朔日寅一刻に御書院庭上で東向して天朝遥拝、神祇拝席で勅祭社遥拝を行い、社司等の代参献幣、五社・甑ケ迫諏訪への参詣、龍出に先立たせ鶴嶺・照国・花尾を巡り、二丸で従三位へ慶賀する。二日は辰一刻から家令・珍彦一列と鹿児嶋士族を含む官等別の礼席・杯・返盃、三日は巳刻から外城士族・附士等や琉球役の礼と進上物を扱い、軍神祭・祝砲を行う。四日は政始と九十歳以上等への禄、五日は庭神社参詣と五ツ半時の講釈に五等官以上を出し、六日は学館文学始、七日は軍務局武事始惣調練とする。祭日、用夫田方、人数戸口米価、軍備員数、忠臣孝子、断刑等の各総裁報告、病気時の代行も定める。対象・時刻・座次・一回人数・物品を台帳へ分け、実出席・祭祀報告完了や現代時刻を補わない。
明治3年正月(日不記)知政所(年は朱書) / 冊子 726~729頁/原整理番号 947の3/整理ID 947-3
年頭規式手当として、朔日前日に御書院庭上へ天朝・神祇の遥拝席二所を設け、敷物・畳三枚・屏風三帖・蓮道・八足机・灯火・神酒洗米等と、道具方・神社奉行・出納奉行・家令侍直長の担当を定める。五社や鶴嶺花尾郡山への幣帛料銭五十疋、服装・登城差引・門開等も記す。続く二丸在国病気時の別式は、社名、代参献幣使、初穂五十疋、二日・三日の対象別祝儀申付先を分ける。末の職制は神社奉行を別に設けず神事惣判を執政へ委ね、神事調役を五等官書記次、助を七等官書記見習次とし、神社奉行の副役・見習と神社方筆者を廃す。以後の神社方申出を伝事に委ね、職制書別紙の通り改めたとの但書を附す。朱明治三午正月知政所。三内容区分を一行に保持し、実設営・出席・費用支出・全職員任免完了や病名を補わない。
安永七年夏五月(記事の今茲夏五月) / 冊子 553頁/原整理番号 1551/整理ID 1551
府下の与力野崎千兵衛に長七という僕がいたと記す。与力には附納戸との小注を付す。千兵衛の家はもともと貧しく、長七が働いてその暮らしを支えた。千兵衛の親萩右衛門は串木野郷へ行って住んでいたが、その訃報が届くと、長七は裸足で号泣して赴き、葬事を取り仕切った。また主の親族で貧しい者にもとりわけ恩意を尽くしたため、今夏五月、褒賞して廩米十五苞を与えたとする。十五苞は上下の列に分かれて記される数量で、十五石や毎年十五苞の給付に置き換えない。長七の働き、葬事と親族への奉仕、夏五月の褒賞を分け、千兵衛の家の困窮を理由とする給付だけに要約しない。独立署名・宛所、親の没日や褒賞の特定日、長七の姓・年齢は記されない。
文化6年己7月 / 冊子 325頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1018
隠居の御附以外の者は、すべてこれまでどおり新たな家督の側へ相勤めるよう命じられたので、ありがたく承知するよう伝える。文化6年己7月、将監・信濃・登。対象外となる隠居御附を明示した奉仕先の指示として、全員を隠居方へ移す命令と取り違えず、1017の風俗・先規諭達とも分ける。
永享7年10月14日 / 冊子 439頁/原整理番号 66
御用にあたって二心なく勤め、談合の際に隠し事をせず申し上げると誓い、違背すれば日本国中の諸神の罰を受けるとする。永享七年十月十四日付で重経ら複数人が連署する。
永享8年6月22日、同年8月13日・永享9年正月21日の追記 / 冊子 440頁/原整理番号 69
奥州の御用に立った後も以前の契約や今回の忠節を忘れられれば衆中へ訴え、御大綱の時は二心なく御用を勤めると誓う。永享八年六月二十二日付の伊集院照久判と神仏への誓約を記し、同年八月十三日の椛山孝久から祢寝殿への同趣の誓文、翌九年正月二十一日の義天十三回忌祭文の引用を後記する。
文安3年9月16日 / 冊子 445頁/原整理番号 84
天下が転変しても同心して奥州の御用に立ち、参会や合戦の時には心底を残さず談合し、和議・凶害の時は事情に応じて申承すると誓う。文安三年九月十六日付で肝付・禰寝・新納の三人が判を据え、椛山殿へ宛てる。
文安3年9月17日 / 冊子 445頁/原整理番号 85
天下が転変しても同心して奥州の御用に立ち、参会・合戦には心底を残さず談合し、和議や凶害には時宜に応じて申承すると誓う。文安三年九月十七日付の美濃守孝久の契約で、ねしめ殿・きもつき殿への案文と記す。
建仁三年五月廿七日 / 冊子 98頁
薩摩郡司平忠直が七男亀童丸へ所領・職掌を譲った譲状。薩摩郡内の四至を東の田畔、南の河、西山際、北の湯谷などで示し、寺社奉仕と所務を亀童丸および子孫へ継承させ、他の子孫による綺いを禁じる。
貞和三年八月十八日 / 冊子 781頁
賢永が、先月六日付御教書を承ったが、持病の再発で長居が難しく、近年の疲労もあると述べる。師弟と相談して奉仕し、期日に背かないこと、重ねて召されれば参勤することを回答した請文。
(天文十五年)六月五日 / 冊子 837頁
本田薫親が近衛家からの上使下向を面目とし、今後も奉仕する旨を述べ、披露を求めた書状。
元亀二年六月廿三日 / 冊子 248頁
川上忠真は小次郎・治部少輔・筑前守を称し、まず島津忠良に仕え、忠良没後は島津貴久に奉仕した。元亀二年六月二十三日、貴久の病状が重くなると側近くに侍し、貴久は忠真の膝の上で息を引き取ったとする。
天正十年六月十八日 / 冊子 713~714頁
島津義久が伊勢貞知へ、勅使が二度下向したが前年は近衛家の書状が添えられず、修法の案内もなく疑念を表明したところ、今回も配慮がなく悪語に及んだと抗議した書状案。ただし真の勅命なら遠国ながら応分の奉仕をするとし、今後は同様の仲介時に信用できる証拠を求める。
(天正13年)5月 / 冊子 54頁
京都で必要な事柄をたびたび調えてきた宗誉の働きに謝意を示し、今後の待遇について約束した島津義久書状案。 短文ながら、島津方が京都での用務を担う宗教者・取次の功績に報い、継続的な奉仕関係を結ぼうとする内容である。
元禄十年季夏~元禄十二年九月晦日 / 冊子 158頁/整理ID 552
吉貴公御譜中の記事で、元禄十年夏に将軍が武州東叡山本堂を建立し、島津綱貴が助役を命じられ、元禄十一年秋に工事がほぼ成ったことを記す。綱貴は元禄十一年九月五日に褒賞を受け、同月晦日に江戸を発って帰国し、元禄十二年は参勤を免除され国政を執ったため、島津吉貴が江戸に残って幕府へ奉仕した。
元禄十四年三月上旬 / 冊子 291–293頁/整理ID 966
林信篤が綱貴の求めに応じ元禄十四年三月上旬に作成した島津家譜の叙。忠久を頼朝の長庶子とする家伝、三州所領・守護職と歴代軍功、琉球・朝鮮対応、近世幕府への奉仕、綱貴の家譜編纂意図をたどる。由緒の中には鳩形で飾る短剣、二疋龍と十字の家紋、歴代の利剣・駿馬・蒼鷹の賞賜を含む。これらは叙文の所説として記録し、龍紋や刀装図像と生体賞賜を区別する。
安永八年十一月(本文今茲冬十一月・目録年記) / 冊子 586~587頁/原整理番号 1650/整理ID 1650
重豪公御譜中の記事。揖宿郡指宿郷拾貳町村の浦人兵右衛門に、佐左衛門・善藏・兵左衛門の三人の男子と四人の女子があり、皆が力を尽くして父母に仕え、佐左衛門の妻もよく従って奉仕したと記す。父は老いて病み、手足が不仁であったため、出入りや起居では互いに助け、代わる代わる抱き支えた。指宿郷には温泉があり、背負ったり肩輿に乗せたりして入浴させたという。兵右衛門の子孫は男女十六人に及び、皆がその気風を習って和睦し、郷党も孝順を称えた。今冬十一月、官に命じて佐左衛門夫妻へ廩米十五苞を与え、善藏・兵左衛門と女子四人には各々青銅二千を与えて賞したとする。青銅の数量単位は原文に「貳千匹」と記す。米十五苞は夫妻に対する記載であり、一人ずつ十五苞へ増やさない。結尾の「賞之焉」は次頁冒頭に続く。
明治2年十二月(日不記)知政所 / 冊子 718~719頁/原整理番号 943/整理ID 943
歳久について、帖佐瀧ケ水の自盡と貫明公による心岳寺建立を述べ、寺を廃して跡に一社を建て神霊を崇め社司を置く。忠朗について、奉仕忠節と忠棟父子の叛逆による衰亡を原の評価・説明として述べ、笑岳寺を廃して自家で神霊を崇め、庶流伊集院四郎が祭祀を永続できるよう寄附高から七石を永く与える。忠長・政近・國貞・久治・貞昌の五人は、慈眼公が病悩重い際に位牌脇へ位牌を配列させたとの記述を掲げ、寺院廃絶後、國貞には別に菩提所源舜庵を建て、各霊は長谷神社の肖像脇に改め設けて従祀し、釼一振も置く旨を伝える。明治二巳十二月知政所。原顕彰・叛逆評価、霊の扱いと寺高・庵・釼を区分し、実移送祭祀完成や病名・実給付総額は補わない。
年月日未詳 / 冊子 223頁
配膳時の準備、道具が掛けてあるからと油断しないこと、年長者への遠慮、脇差・火打袋、装束の替え、長い座で疲労を顔に出さないこと、事前連絡を重ねすぎないこと、下座への配膳を軽く扱わないことを定めた奉仕作法の覚書。
寛文8年4月2日、元禄5年12月17日、元禄8年8月25日、元禄10年閏2月5日、元禄12年閏9月8日ほか系譜内年代 / 冊子 368~370頁/原整理番号 188-1
蒲地五郎左衛門を祖として、伊作市之瀬での戦死と墓所から、伊賀(後号甫心)以下の子孫・婚姻・養子・早世・没年・法名・葬地を系線で記す。伊賀は十三歳から八十三歳まで日新・島津義久に奉仕し、義久出家時に甫心の名を賜り大隅国安妙軒に葬られたとする。帯刀長を国分観音寺、貞隆を福昌寺内花舞軒、貞直らを浄光明寺内江月院等に葬ったこと、貞次が青山主殿の養子となり青山六郎右衛門頼元と記されること、貞隆に実子がなく野田喜兵衛宗綱の二男を養子としたこと、女子の伊作・末吉・曽於郡・出水衆中家への縁組や国分『御上様』への奉仕を収める。
年月日不記(各代の生没年・任官年を系図内に記す) / 冊子 627~628頁/原整理番号 112
種子島氏支族・美座対馬守時里の二男から出た国上氏の系図で、時里・時宣・時通以下の系線と婚姻・養子関係を記す。時盛は伊勢長門守貞清の二男で嗣子として養育されたとあり、島津義久の奥向きへの奉仕、小浜村千石の采地拝領、見隆寺建立を記す。後代の時貞は馬術と鉄砲の師範を務めたとされ、時春には高原・羽月の地頭職の記事がある。和田十助正弘の養子になった者や家督を継いだ者、諸家との婚姻も挙げ、国上氏の分流と奉公・知行の継承をたどる。
(文禄元年)正月15日 / 冊子 528~529頁
堀内氏善が島津義弘へ新年を祝い、年頭の礼に宿所へ参上したが、前年に義弘が下向したことを知らなかったと述べる。綺羅三端を贈られた厚意に礼を言い、高麗出陣中に必ず申し述べたいことがあること、当地で用向きがあれば命じてほしいことを伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 522–523頁/整理ID 1799
島津久竹が主君綱貴へ献じた祭文。綱貴の善政と三国統治をたたえ、病没後に遺体が帰国して福昌寺で葬られたことを述べ、生前に十分仕えられなかった悔いと別離の悲しみを表す。
宝暦十年(日付不記・記事) / 冊子 753頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2302
四月一日、召された侯伯が登城し、井伊直幸ら七名が大廊下に朝列する。堀田正亮が、家重は老年には至らないが病気のため政務を家治へ譲り西城へ退くので、各人は家治に仕えるようにとの台命を伝える。五月十三日に両公が移徙すると、継豊は祝意を表し、家治には御用人役で仮に番頭を務める本田久米右衛門親房を使者として上鯛一箱を献じる。家重にも同品を、近習役で仮に番頭を務める鎌田太郎右衛門政方を使者として献じる。
宝暦十年(日付不記・記事) / 冊子 753頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2303
四月一日、病気で登城できない重豪は、松平河内守定多を名代に立てる。大廊下の重豪の席に列した定多は、堀田正亮ら老中から、家重は近年の病気のため家治へ政務を譲り西城へ退くこと、将軍職の宣下はすでに京師へ請うており、諸侯は家治へ従来どおり仕えるようにとの台命を伝えられる。定多は退城して重豪に復命し、さらに正亮邸に台命を謹んで奉ずる旨の書状を提出して帰る。翌日、重豪は留守居を老中・御側人の邸へ遣わして譲職を祝う。
明和三年春二月(日記載なし) / 冊子 125頁/原整理番号 278/整理ID 278
府下士立石喜三兵衛の婢を賞した記事。この婢はもと始羅郡蒲生郷の郷士谷山甚兵衛の婢であり、甚兵衛の女が喜三兵衛に嫁ぐ際に随従したという。老いるまで力を尽くして仕えたため、この年の春二月、青銅五百匹を与えて賞したと記す。本人の名前や具体的な年齢は記されていない。重豪公御譜中に収められる。
年月日不記(天正十五年・慶長四年などは系図内記事) / 冊子 628~630頁/原整理番号 113
種子島氏支族・河東尾張守時定の八代に当たる因幡守時儀の子から続く善左衛門家系図で、時近・時適以下の系線、養子、婚姻を記す。時近の女子は島津義久の室となった種子島時堯の娘に局として仕え、天正十五年の秀吉西征時に人質として上京する亀寿に随従し、十八年の再上京にも従った。義久はその勤労に感状と三百石を与えたという。この局は義久の許可を得て最上長門守の二男・時弘を養子として跡を立て、時弘は肝付郡百引の地頭職を賜った。時弘は阿多掃部介の二男・時常を養子とし、後の時豊は一時阿多甚左衛門家を継いだが、兄時次が子を残さず死んだため同家を辞して本家を継いだと記す。
年月日未詳 / 冊子 297~319頁/原整理番号 2
重久千右衛門を祖とする家系図。歴代の出生・没年、婚姻、養子、法名・墓所を系線で示し、篤極・篤行らの藩主への奉公、役職、知行・褒賞、江戸・京都・大坂への往来、寺社との関係を付記する。末尾には季安による人名上の朱書記号・罫線の注記がある。
年月日未詳 / 冊子 312~313頁/原整理番号 151
山田聖栄自記が、川野辺・知覧を重大な地とし、長門守は伊集院と親類で、南方の弓矢の柱として多年仕えてきたと記す。その働きで南方・阿多の処置が進み、大太郎から城の件を御屋形へ任せることとなった。御屋形は薩広郡・山門を受け取ったのち、長門守を知覧の七木場へ住まわせ、城を山田鮫島方へ明け渡させたという。
寛文八年九月十一日 / 冊子 328頁/原整理番号 4
専念寺が、八代住持の時に地頭新納賀守から寺の無跡知行と番代を定められたと述べる口上覚。寺は町近くにあり、他国からの客が来るたびに本陣となって宿札町の用を継続しているため、今後も別の宿を設けず専念寺を利用するよう願う。濱田佐渡の名で夫丸を出すこと、出陣時は奉公役を勤める一方、番代がない時の狩所御番は免除されていたという従来の定めを確認する。
応徳四年二月八日 / 冊子 6~7頁
『権執印文書』所収。応徳四年二月八日、正八幡宮が永遍大徳を権惣検校職に補任した文書。惣検校法師大和尚位と執印兼講師伝燈大法師位の判を掲げ、権惣検校・祝部検校・主神検校・宮主僧に加え、御供所・修行所・御馬所・御前の各検校、辨印、検校、別当、執当、権座主ら多数の関係者を列記する。補任の承認者と、供御・修行・神馬・御前奉仕など宮内諸部門の職掌を一文書内に示し、正八幡宮の僧職・神職組織と人員構成を把握できる。
年月日未詳 / 冊子 37~38頁
「島津国史」所収記事。忠久の出自、丹後局、頼朝への奉仕、三国守護・島津荘下司職などの由来を諸説・史料によって論じる。
年月日未詳 / 冊子 74~76頁
『古今戦記』所収の頼朝周辺の逸話。頼朝が寵愛する女性と子女へ玉・装束などを贈り、所領や家人を付ける場面、北条政子の嫉妬を避けて居所を移す経緯、側近を介した贈答・奉仕を物語的に記す。頼朝の家族関係と、贈物・所領給付が結びつく点が特徴である。
建暦元年八月四日 / 冊子 106頁
島津庄預所が兼廣を鹿屋院弁済使職に補任した下文。兼廣の家の旧来の奉仕を踏まえて鹿屋院の収納・弁済を担当させ、院内の住民へ補任を承知し所務に従うよう命じる。
年月日未詳 / 冊子 115頁
『若狭島津忠季譜』の記事。建保六年九月十三日、明月の営中和歌御会に島津忠季らが御使として出席し、若狭左衛門尉忠季が披講、鶴岡宮臨動に奉仕したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 116~117頁
『島津国史』の記事。承久元年前後の朝廷・鎌倉の動向を記し、北条義時の執権、藤原頼経の鎌倉下向、後鳥羽院方との緊張、島津忠久・忠季らの奉仕を年次で叙述する。
年月日未詳 / 冊子 132頁
『島津忠久譜』旧譜の記事。承久四年三月八日の夜、若君頼経の悩みにより御所南庭で月曜祭が行われ、大夫季貞が奉仕し、島津左衛門尉忠久が沙汰したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 143頁
『島津家譜略』の記事。忠久が父祖の功業を受け、文武に励んで鎌倉で幕府に奉仕し、薩摩・大隅・日向の所領経営に当たったことを述べる。子孫が各地へ分かれて武名を広げ、伊賀・近江・讃岐などにも所領を得たとする。
天福元年十月二日 / 冊子 163頁
僧智弘・僧実範・紀道房の三人が、満家院内の比志島・西俣・城前田・上原薗道などに関し、入道殿への奉仕、所職・給分と相互の違背禁止を取り決めた契約状。
建長四年八月十三日 / 冊子 216頁
重代相伝の職・所領を虚偽の主張で押領されたとする訴えを受け、沙弥恒久に所務を安堵し、山王御坂地頭職を相伝どおり知行させるよう命じた散位某の書下。国司・関東への祈祷奉仕を由緒として挙げ、違乱者には関東へ訴えることを認める。
年月日未詳 / 冊子 225頁
島津忠行を三郎左衛門尉・周防守とし、母を高和左衛門尉有景の女、越後局の法名を仏如と記す。建長から文応年間に鎌倉で宗尊親王に奉仕した出自・経歴記事。
年月日未詳 / 冊子 225頁
越前島津氏の忠行・忠泰・忠景らの系譜と官途を記す記事。忠景を五郎左衛門尉・大夫判官とし、歌人として和歌が代々の撰集に入り、建長から文永年間に鎌倉へ出入りして宗尊親王に奉仕したことを伝える。
年月日未詳 / 冊子 227~228頁
『島津国史』が、島津道忍公の鎌倉奉仕と幕府行事への供奉を年次別にまとめた記事。正嘉年間の年始行事・鶴岡八幡宮参詣・放生会などについて、供奉人数と道忍公の列次を挙げ、幕府御所での宿直・警固や布衣供奉の実績を伝える。
年月日未詳 / 冊子 250頁
『島津国史』が、文永元年前後の島津氏の家督・守護職・所領相続を詳述した記事。忠時・久経らの系統、薩摩・大隅・日向三州の支配、薩摩郡市来院・山田院・日置南郷・宮里郷・阿久根十二島などの所領、幕府・将軍家への奉公、親族間の譲与と訴訟を年代順に記す。蒙古襲来期の軍事奉仕や寺社との関係も含み、島津家の継承根拠を示す。
年月日未詳 / 冊子 297~298頁
『西藩野史』所収の島津久経伝。母・相馬小次郎左衛門尉胤綱女との系譜、鎌倉奉仕、狩猟や宮崎津鎮守、所領・家督の経歴を記す。久経が歌道を好み、大府中橘諸兄らに和歌を学び、勅撰集・私撰集へ多数入集したこと、忠宗の歌とともに後世へ伝わったことを収録和歌と撰集名を挙げて述べる。