伊勢貞昌書状
(文禄2年)6月20日 / 冊子 653頁
大島忠泰が「御請国」の際に薩州様から知行を与えると約束されながら、出立時に必要な書状が付されず、給付が実現していない事情を伝える。 伊勢貞昌は弾正大弼・下野守へ書状を送り、大島側からも事情を申し入れるよう勧めており、未処理の知行給付を実現するための取次状。
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(文禄2年)6月20日 / 冊子 653頁
大島忠泰が「御請国」の際に薩州様から知行を与えると約束されながら、出立時に必要な書状が付されず、給付が実現していない事情を伝える。 伊勢貞昌は弾正大弼・下野守へ書状を送り、大島側からも事情を申し入れるよう勧めており、未処理の知行給付を実現するための取次状。
年月日未詳 / 冊子 434頁
大島有久の出自と所領を記し、島津久豊の四男で伊集院頼久の娘を母とすること、日向庄内梅北・大隅姫城・帖佐田中門などを領し、長禄三年七月三日の三俣合戦で戦死したことを述べる。
年月日未詳 / 冊子 698頁
大島忠明の子忠次が十六歳で戦死したことや、菱刈方との戦いで敵を討ち、忠次の首を取り返した家臣の働きを記す。
年月日未詳 / 冊子 708~709頁
大島出羽守有久を起点に、忠福・忠明ら大島氏の系譜と、太守忠国に仕えた由緒、所領・戦歴を記す。
年月日未詳 / 冊子 709頁
大島忠福・忠明父子と次郎四郎忠次らの系譜、忠次が大口城で捕らえられた後の経緯や子孫関係を記す。
年月日未詳 / 冊子 637~647頁
大島忠泰が、薩摩で仕えた島津義弘を頼って高麗へ向かう道中を、宿泊地・人々との応対・贈答・風景とともに記した紀行。 旅先で詠んだ多数の和歌、金剛経読誦や神仏への祈り、故郷や知人を思う心情が随所に入り、従軍の道程を内面的に伝える。 軍事記事だけでは見えにくい、朝鮮出兵期の主従関係、旅の不安、宿の交流、武士の信仰と文芸活動を知る上で貴重な長編史料。
(文禄元年)8月29日 / 冊子 647~649頁
高麗在陣中の大島忠泰が、家族には自分を心配しないよう伝え、大蔵仲兵衛・九郎左衛門尉らに留守宅と家中のことを託した書状。 十八日以降の日付ごとに、宿泊地、進んだ里数、川口への船着きなど移動の経過を細かく報告し、書状や贈物の受け渡しにも触れる。 軍務の背後にある家族への気遣い、留守居の運営、朝鮮在陣者の通信と移動実態が一通から読み取れる私信。
年月日未詳 / 冊子 650~651頁
大島忠泰が内方へ、留守宅の火の用心を徹底し、仲兵衛の黒役や家中の作事について下代衆へ指示するよう頼む。 小吉・宮役殿・弥太右衛門らへの伝言、手紙や贈物の受け渡し、船を出す日取りについても細かく書き、三~五日中の好日を見て出船すると知らせる。 在外中の夫が妻へ家政・人間関係・輸送を託し、「心遣いあるまじく」と安心させる、生活感の濃い私信。
(慶長3年)10月12日 / 冊子 651~653頁
大島忠泰が、月内に引き陣して帰国する見込みと、複数の船の着岸・乗船、馬や荷物の手配を「やともと」へ細かく伝える。 道中の日程や同行者、家中の者への伝言、贈物の受け渡し、留守中の人員・家畜の扱いまで指示し、長期在陣から帰還へ移る際の実務と家族への気遣いを伝える私信。
年月日未詳 / 冊子 755頁
島津忠明の子忠次の後嗣忠泰を祖とする大島氏系図。大口内の大島を領して大島を称し、断絶した忠次家を妹の子忠泰が継いだこと、馬越・山野地頭、肥後・豊後征伐と朝鮮出兵、忠盈による再興を記す。
正月卅日 / 冊子 649~650頁
か兵衛らの動向について、先に人足だけが到着し、本人は荷物を降ろすため遅れていると宿本へ知らせる。 留守中の人員配置や下女の扱いを相談し、湯尾の「こけさま」への礼、護符・守りや神慮に関する依頼も書き添える。 移動中の荷物処理、奉公人の配置、祈祷・護符への信頼が同時に現れる、家政上の細かな相談書状。
明治6年10月22日鹿児島県庁 / 冊子 933頁/原整理番号 1177/整理ID 1177
大島外四島では米・茶その他の品物を交換に用いているが、時勢に合わず不便で融通が難しいため、県下と同様に金銭を流通させ、取引を円滑にするよう命じる。
年月日未詳 / 冊子 434頁
長禄三年七月三日の日向三俣小山での合戦について、島津忠国が和田・高木勢を討った際、新納忠臣・大崎忠秀・大島有久らが戦死したことを記す『殉国名藪』の記事。
(慶長十一年)六月六日 / 冊子 76頁
島津忠恒が、油の調達と新たな命令、大島渡海を来秋に実行する計画について述べた書状。石槽船を当年中に造り、江戸へ運送すること、関係者を適切に配置して後年へ先送りしないことを命じる。
寛保三年九月 / 冊子 316~317頁/原整理番号 88
大島に送る願敬の囲い・食事・衣類・病気の手当て、外出や書通の禁止、逃亡や死亡時の報告を定める。もと一向宗の流人として浄土宗への改宗後も宗門上の疑いがあれば報告させる。
寛保三年十二月六日 / 冊子 318頁/原整理番号 89-2
家老座が大島代官へ、前項の禁令を願敬に申し渡したので了承し、代官の交代時にも引き継ぐよう命じる。
寛保三年十二月十六日 / 冊子 318頁/原整理番号 90
勘定所が大島代官へ、京都から流罪となった願敬はもと一向宗で、浄土宗への改宗を命じて大島に送ったと伝える。後年の宗門札改めでは、以前の宗旨を札の肩書や帳面に記すよう命じる。
正徳元年七月十二日 / 冊子 988頁/整理ID 3187
七月十二日、大島孫右衛門が船奉行石川四郎左衛門の家老・猪瀬喜内と鈴木弥市右衛門へ、吉貴が帰国暇を得て近日到着するので、大坂川筋通船時に以前のように船除を行ってほしいと願う。一昨年の帰国は陸路で、前年参府時は願い出なかったが、船が入り込んで危急を感じたという。
安永八年冬十二月(各本文今茲冬十二月・目録年記) / 冊子 590~591頁/原整理番号 1663/整理ID 1663
重豪公御譜中に収める二つの褒賞記事。最初は甑島郡下甑島手打村の浦人長左衛門・彌八・善六について、島民はもとから釣魚を生業としていたが、安永中に魚の獲れが少なく、さらに時疫が加わって甚だ困ったため、長左衛門らが私蔵の米と銭を出して救ったと記す。そのため今冬十二月に長左衛門・彌八へ各々青銅千匹を与えて賞し、善六には五年の丁役を免じて褒賞したとする。朱注は、善六には先に褒賞があり、そのため今またこのようにしたという趣旨を付す。続く〇印の第二記事は、大島屋喜内間切大和浜村の佐榮秀の孝養を扱う。父の佐榮南は与人役を勤めた後、長年病んで牀蓐にあり、琉球へ行って医を求めようとした。佐榮秀は同行を願ったが、まだ幼かったため許されず、ひそかに航底へ入って父に従ったという。このように甚だ厚い孝養であったため、今冬十二月、有司に命じて廩米二十五俵を与えて賞したと結ぶ。第一記事の救済者三人と褒賞の米銭・役免除、第二記事の病父と同行した息子・受賞者を分け、父の与人役を息子の役職として移さない。
宝暦十年六月二日 / 冊子 782頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2397
家重が六月二日、継豊の隠居祝いに若年寄酒井石見守忠休を芝邸へ遣わし、宝刀一振と箱肴一種を賜った。重豪が接待し、桂長左衛門勝行と大島孫右衛門有情が、歩士二人・軽卒四人を伴って品物を薩摩へ護送した。一行は六月八日に江戸を発ち、東海道・山陽道・九州を経て七月七日に到着した。継豊は即日、使者の書状で礼を申し述べ、老中が奉書で返答した。
天明三年六月十二日・十三日・二十一日 / 冊子 692頁/原整理番号 1959/整理ID 1959
天明三年六月十二日、増上寺で惇信廟(家重)の二十三回忌法事が営まれ、翌十三日、重豪は大島休左衛門を遣わして香奠銀十枚を献じ拝礼させた。同月二十一日には東叡山で有徳廟(吉宗)の三十三回忌法事が営まれ、島津登久連を遣わして銀十枚を献じ拝礼させたと記す記事。
正徳元年七月十八日 / 冊子 989頁/整理ID 3189
七月十八日、大津屋勘兵衛が大島孫右衛門へ、吉貴の当地到着と川口入津・出船に際し、仲間で船除をして乗船に支障のないようにする旨を町奉行所から命じられたと伝える。今後は出船日時を早めに知らせてもらい、その都度内意を伺いたいと頼む。
(寛保三年)八月 / 冊子 315~316頁/原整理番号 87-1
京都から送られる西本願寺関係の流人二人を願敬は大島、雲貞は喜界島へ配流するとし、船中の護送、島での囲い・番所・番人、賄いなどの準備を命じる。
(寛保三年)八月十日 / 冊子 316頁/原整理番号 87-2
木脇祐盛が大島代官日高次左衛門へ、先の流人配流命令に従い小家・囲い・番所などを船便到着前に整えるよう申し渡す。喜界島には別途連絡する旨も記す。
天正13年3月2日 / 冊子 6頁
天正十三年三月二日、羽月郷大島村の若宮社殿造営に際して掲げられた棟札。若宮の由緒と造営の趣旨を記し、島津義久をはじめ島津忠明・新納忠武ら関係者の名を伝える。地域寺社の修造に島津家中がどのように関与したかを確認できる建築・信仰史料である。
安永四年十月十八日(年は朱)、去辰年・当春・五月の経過に言及 / 冊子 474頁/原整理番号 1303/整理ID 1303
書状を拝見したと述べ、去辰年に大清国へ遣わされた進貢使津嘉山親雲上が北京の勤めを終え、当春の帰帆中に大島へ漂着し、五月にその地へ帰着した旨を承知したとする。このたび津嘉山をもって別録の品を贈られたことは、入念で身に余ると返答する。末尾は十月十八日、中将重豪御判の表示、謹上中山王、年は朱に安永四年。津嘉山親雲上は進貢使としての人物で、地名の津嘉山のみへ置き換えない。去辰年を去る一年と読み替えず、本文に記す時期の表現を保持する。大島は原呼称を保ち、五月の帰着先もその地という表現以上に具体化しない。王からの贈品と、清国への進貢使の経過を分け、別録の品物を清から重豪へ直接下賜した品としない。品名・数量は本文に記されず補わない。
明治12年4月8日 / 冊子 979頁/原整理番号 1264の2/整理ID 1264-2
鹿児島県管轄の大島・喜界島・徳之島・沖永良部島・与論島を大島郡とし、大隅国へ属させることを布告する。原文は「大島・喜界島・徳ノ島・沖永良部島・與論島」と列挙する。
天明三年正月十一日~天明四年三月十五日(記事中の経過) / 冊子 737~738頁/原整理番号 2080/整理ID 2080
前年癸卯の正月十一日に南林寺で火災が起き、客殿まで焼けた。来訪中の蒲生郷士大脇孫六と住持泰禅は島津貴久(大中公)の影像を持ち出し、火災後は福昌寺に移した。その年七月二十六日に南林寺の再建工事を始め、翌春三月十日に落成した。十五日に影像を福昌寺から南林寺へ戻し、重豪は島津又六郎久良を、虎寿丸は大島休左衛門久章を大中公廟への参拝に遣わした。
天明七年正月二十九日・二月十五日・十九日・三月十八日・四月朔日 / 冊子 943~944頁/原整理番号 2572/整理ID 2572
「近秘野帥 斉宣公」の出典表示を伴い、天明七年の公辺関係の出来事を記す。正月二十九日に世子が封を受けたとし、二月十五日には斉宣が登城して太刀一腰・御刀一腰(濃州兼定)・縮緬二十巻・白銀百枚・御馬二疋を献上し、襲封の恩を謝したという。あわせて家臣九名が進物を献上する。島津兵庫久徴・島津伊賀久金・市田勘解由盛常・島津登は巻物各五と御馬代銀を、大島休左衛門久皐・松崎次左衛門貞儔・岸喜右衛門章彬・郡山権蔵長矩・谷村孫右衛門は巻物各三と御馬代銀を献じ、大家に陪謁し、例のとおり恩賞を受けたと記す。二月十九日に斉宣が初めて短袖となり、三月十八日に左近衛少将へ任じられたが位階は従前のままで、四月朔日に登城して謝恩したと続く。
年月日未詳 / 冊子 64頁
島津忠恒が大坂に滞在したころ、琉球国中山王の朝貢が近年途絶えていたため、その責任を問うべく大島出兵が議論されたことを記す島津家久譜の記事。島津義弘は桂忠昉を通じて討議内容を忠恒へ伝えた。
(慶長十一年)四月二日 / 冊子 64~65頁
島津義弘が島津忠恒に、在京中の労をねぎらい、琉球・大島渡海の談合と出兵準備について詳しく報告した書状。竜伯への相談、出物・人員の手配、関係役人との談合、振舞や接待の段取りなどを伝える。
(慶長十一年)六月五日 / 冊子 75頁
島津義弘が島津忠恒に、呂宋船・唐船の着岸と積荷、船員の扱い、渡海計画について詳しく申し送った長文書状。紹益らを通じて国府へ報告し、船と荷を勝手に処分せず、大島・呂宋方面の計画を慎重に進めるよう指示する。
(慶長十一年)六月六日 / 冊子 76頁
島津家久譜の記事。慶長十一年六月六日、麗陽城楼門前の板橋が新たに完成し、渡り初めとなった。同日、伏見にいた島津忠恒が、国元の家老島津図書入道紹益・樺山権左衛門久高へ自筆の書を下し、来秋には必ず大島を討つので決して怠ってはならないと命じたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 202頁
児玉筑後譜の記事。慶長十四年、琉球が薩摩に属さないため、平田増宗を将として水軍を派遣し、三月四日に山川を出帆して大島・徳之島などを経て琉球へ進み、首里城に入り中山王を降した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 204~206頁
島津家久譜の記事。琉球の由来と中山王統、薩摩との朝貢関係断絶を述べ、徳川家康の許可を得て樺山久高・平田増宗らを派遣し、大島・徳之島を経て首里へ進み中山王尚寧を降した経過、帰国後の褒賞と統治を記す。
年月日未詳 / 冊子 206頁
北郷忠能譜の記事。慶長十四年三月、家久が樺山久高を大将として琉球を征し、北郷久武が百二十余人を率いて大島・徳之島を攻略、四月に首里へ至って尚寧を降し、五月に帰国したことを記す。
(慶長十四年)五月二日 / 冊子 218~219頁
五月二日、島津惟新が樺山久高に、三月十五日付の注進状が四月二十九日に届き、諸船が無事着岸し大島での事も支障なく進んだことを喜び、遠海での辛労をねぎらい、琉球の処置も順調に済むだろうと伝えた書状。
(慶長十四年)五月三日 / 冊子 219頁
五月三日、島津龍伯が樺山久高に、渡海後の無事と大島着岸、上方への注進を喜び、琉球への軍衆配置と降伏処置を了承し、国中が喜んでいるとして一同の辛労をねぎらった書状。
五月三日 / 冊子 219頁
五月三日、島津龍伯が樺山久高に、渡海後の消息がなく案じていたところ、船団が無事大島へ着岸し現地も平穏との報告を喜び、上方へも伝えるので以後も早急に注進するよう求めた書状。
(慶長十四年)六月廿六日 / 冊子 223頁
六月二十六日、本多正純が島津家久に、派遣軍が大島・中島へ着船して両島を服属させ、琉球王の居所へ進軍したとの報告を上聞に達して家康も上機嫌であると伝え、琉球平定後に駿府移徙の祝儀のため上府する方針を了承した書状。
(慶長十四年)七月十三日 / 冊子 229~230頁
七月十三日、本多正純が島津家久に、大島・中島を服属させ、中島で二、三百人を討ち取ったのち琉球王城を包囲し、国王・三司官らを降参させ帰朝させるとの注進を受け、家康・秀忠も大いに賞したと伝えた書状。
(慶長十四年)七月十三日 / 冊子 230頁
七月十三日、本多正純が島津龍伯に、琉球派遣軍が大島・中島を服属させ、王城攻略と国王・三司官らの降参・帰朝を実現したとの注進を述べ、家康・秀忠がこの戦功を賞したと伝えた書状。
(慶長十四年)七月十四日 / 冊子 230~231頁
七月十四日、山口直友が島津家久に、大島平定後の返書に続き琉球全体も平定したとの注進を受けたこと、本多正純からも返事を送ったこと、使者に自分の者を一人添えて下向させたので早々に返報するよう伝えた書状。
元和四年八月晦日 / 冊子 676~677頁
翌正月の上洛、豊見城到来時の注進、前年同様の石高一石につき銀子八分の出物、大島で柳屋が境衆二人を連行した件の糾明、他国人の手形と絹の取締りを命じた連署覚書。
「寛永廿年」五月廿九日 / 冊子 240頁
松平信綱ら三名が島津光久へ、筑前国大島へ密航した伴天連四人・いるまん一人・同宿五人が捕縛されたことを伝えた連署書状。松平右衛門佐の番衆が小船による密渡を発見し、長崎奉行山崎権八郎へ送った処置を賞し、薩摩領内でも以前の捕縛に続いて一層念入りに穿鑿するよう命じている。
「寛永廿年」九月十一日 / 冊子 246~247頁
松平信綱ら三名が島津光久へ、筑前国大島で捕らえた南蛮の伴天連・いるまんらの白状を領内へ周知するよう命じた奉書。在江戸の諸衆へ供述内容を知らせたのと同様、国元にも伝え、井上筑後守から送られた別紙を参照して切支丹取締りに念を入れるよう求めている。
「寛永廿年」九月廿一日 / 冊子 253~254頁
島津久通・新納久詮が、筑前大島で捕らえた南蛮人・伴天連らの白状を伝え、領内の切支丹穿鑿を命じた連署書状。阿部忠秋・阿部重次から江戸留守居が評定所へ呼び出され、井上筑後守の別紙とともに供述内容を在江戸大名へ示された経緯を報告し、国元でも同様に周知・捜索するよう求めている。
正保四年三月十七日 / 冊子 68頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0132
琉球大島内で二度にわたり破損した寄船について、前年からの経緯を詳しく書付で報告するよう求めた書状。
元禄十一年十二月四日 / 冊子 91頁/整理ID 308
島津綱貴が、南京唐船一艘と唐人三十七人が九月十一日に私領七島のうち宝島へ漂着した経過を報告した口上覚。荒浜で長く船をつなげず、薩摩へ送るにも順風がなかったため、唐人と相談し、十四日に案内を付けて琉球の大島まで送り、出帆時は琉球から知らせることとし、長崎奉行衆にも報告した。
元禄十一年十二月十二日 / 冊子 92頁/整理ID 312
丹羽長守・近藤用高が松平薩摩守へ、南京出唐船一艘が九月十一日に七島の宝島へ漂着し、港がないため琉球大島へ送られたとの報告を承知したと返答した連署状。唐船が薩摩側へ到着次第、例どおり警固と曳船を付けて早々に長崎へ送るよう命じる。