豊臣秀吉高麗再度出勢法度
慶長二年二月廿一日 / 冊子 84頁
前年同日付の高麗再度出勢法度と同案であるため、毛利壱岐守・毛利豊前守宛の本文を省略した記録。
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慶長二年二月廿一日 / 冊子 84頁
前年同日付の高麗再度出勢法度と同案であるため、毛利壱岐守・毛利豊前守宛の本文を省略した記録。
永正十年十月吉日 / 冊子 603頁
阿久根院内の水田を、一壺町三段・六町卅・九段・一弐段などの区画に分け、所在地と面積を列記した坪付。
寛永十二年十二月四日 / 冊子 506~507頁
壱岐右近将監幸光・川崎大学助祐宣・肥田木主馬佑重昌が島津弾正へ、キリシタン改めに伴う往来管理について志布志方面と相談したうえで、清武と高岡の間で同様の取扱いを定めるよう求めた連署書状。清武側では平渡長右衛門・田中四郎左衛門の印判により奉公人・町人・百姓以下を往来させ、高岡側も同じ定めとするよう求める。本文日付は寛永十二年十一月十七日で、索引の十二月四日とは相違する。
(寛永十二年)十二月十五日 / 冊子 512~513頁
壱岐幸光ら三名が、キリシタン宗旨改めのため隣国間の往来者に手形を用いていたが、十二月十六日から従前の扱いへ戻すとの通知を了承し、自領側も同様に申し付けると答えた書状。
文化12年亥10月(本文。表紙は12月) / 冊子 482~483頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0100
1462の1、壱岐守様御続書。内室はお八重で、伯耆守の曽祖父溝口古浩軒の娘と記す。嫡子は周防守(忠実注)、松平大膳太夫の実弟とする。弟は水野内記(壱岐守の御手前にいた旨の注)、書院御番頭水野遠江守(忠善注)、交代寄合溝口摂津守(富静注)。甥欄は内田近江守(正肥注)、寄合長五郎(壽隆注)の惣領小濱徳太郎、内記の惣領水野藤五郎、その男安五郎を列記し、姪は同娘お喜代。養母方の従弟女として、弾正少弼の父本多越中守の内室と、細川和泉守の内室を記す。右の通りとして亥十月で結ぶ。人物と続柄は欄の配置を保持し、「同男」「同娘」の指示先を残す。本文に年月日付き署名はなく、年は1462表紙の文化12年亥による。壱岐守の実名注は忠韶候補として扱い、入力の忠嗣を確定名にしない。
天正20年6月3日 / 冊子 566~568頁
豊臣秀吉が、小西行長・加藤清正ら朝鮮出兵諸将を複数の先懸隊に分け、各隊の人数と指揮官を詳細に列挙したうえで、一日交替で進軍するよう定めた書立・法度。総勢十二万人規模の編成、三組による番替、軍律の遵守、後続部隊との連携を命じ、渡海兵を順次投入して明国へ進む構想を具体化した、朝鮮出兵初期の動員・作戦計画を知る重要史料である。
正月十一日 / 冊子 186~187頁
豊臣秀吉が正月朔日付の注進を十一日に受け、唐人・朝鮮勢が蔚山へ進出し、日本諸将が迎撃に向かったことを承知した朱印状。諸将に相談して敵を一人も漏らさず討ち果たすよう命じ、安芸中納言・増田右衛門尉・因幡衆・大和衆・紀伊国衆・但馬衆・九鬼大隅らを増援として順次派遣すると告げる。今後の戦況報告を待ち、その注進次第では秀吉自身も渡海するとした。
(慶長三年)十一月二日 / 冊子 270~271頁
浅野長政・石田三成が(慶長三年)十一月二日付で朝鮮在陣の諸将へ出した連署状。徳永寿昌・宮木豊盛が名島へ着岸して現地の意向を伝えたことを受け、明軍が大敗した以上は諸城の城主がそろって帰朝するよう命じる。再攻撃で撤収できない場合は全城を翌三月まで保持して報告すれば援軍を送るとし、確実な講和や人質提出がないまま釜山だけを残す処置は日本の妨げになるとして退ける。
(永正十八年)二月十一日 / 冊子 630頁
島津忠朝が京兆方に、池永修理の渡唐船、陶安房守への申入れ、塩田壱岐守の取次などについて返答した書状。
(永正十八年)二月十一日 / 冊子 630頁
島津忠朝が陶弘詮に、渡唐船について先に示された内容を重ねて了承し、修理大夫からの申旨と塩田壱岐守の取次を伝えた書状。
(永正十八年)十一月二日 / 冊子 633~634頁
大内義輿が島津忠朝に、貴国船の新造と塩田壱岐からの申入れを踏まえ、陶弘詮に委細を申し含めた書状。
(文禄元年)5月5日 / 冊子 560~562頁
島津義弘が、国元の船が来ないため四月二十七日に対馬の名室湊から雇船で渡海し、毛利壱岐守の船と合流して夜間に川口へ入った航程を報じる。朝鮮での城取り・軍役、諸船の遅延、兵粮・替米、国元の家族・所領処置まで案じ、山田理安・鎌田出雲にも別紙を送るなど、渡海直後の軍事・兵站・家政上の懸念が交錯する長文書である。
(文禄2年)正月16日 / 冊子 665頁
京都から来た二、三人が持参した書状への返書を託し、伊東を介して壱岐守方などへ確実に届けるよう求める。京都への使者については、加藤清正の別紙を持たない者を不用意に通さず、信頼できる者をまとまった人数で送るよう指示する。 戦時下の書状輸送で、通行証・取次・護送人数を用いて情報と使者の安全を管理していたことが分かる。
(文禄2年)7月12日 / 冊子 715頁
義弘から「もくそ城」落城の注進が届き、秀吉が大いに感賞したと伝える。 自身の渡海も急に命じられたが心配は不要とし、毛利壱岐守との協力を評価しながら、今後も当地の用務を遠慮なく申し付けてほしいと応じた書状。
(慶長元年)九月七日 / 冊子 41~42頁
小早川隆景が義弘へ、唐人側の発言で和平が破れ、毛利壱岐・加藤主計・小西摂津が渡海を命じられ、翌年には四国・中国勢も渡海する触れが出たと伝える。朝鮮王子を渡さず礼を遅らせたことへの秀吉の怒りに触れ、義弘にも渡海命令が出るか尋ねる一方、自身は暇を与えられ、十四、五日頃に乗船して帰り養生する予定を知らせた書状。
(慶長元年)十月卅日 / 冊子 50~51頁
島津義弘が忠恒へ、御城米の返米、渡海軍衆への配分、毛利壱岐らとの相談、船主・兵糧・油などの調達について細かく指示した書状。軍役に関する高額な機遣いを避け、国元と協議しながら船と兵糧を確保し、近く帰陣する者を待たず準備を進めるよう求める。
(慶長三年)十二月十六日 / 冊子 152頁
豊臣秀吉が島津豊久(又七郎)へ、従来どおり毛利壱岐守と相談し、一手となって行動するよう命じた朱印状。来春三月に秀吉自身が渡海して成敗・仕置を行う予定なので、それまでは陣所を動かさず、兵粮を城に堅固に備えて渡海を待つよう指示し、詳細は長束正家・木下吉隆から伝えるとする。
(慶長三年)正月廿六日 / 冊子 190~192頁
宇喜多秀家以下十三名が、蔚山での明・朝鮮勢の攻撃を踏まえ、朝鮮在陣諸城の配置と普請方針を再検討して奉行衆へ言上した連署状。蔚山は突出し川越えの難所もあるため、西生浦に加藤主計頭を置き、安芸宰相勢五千を残して普請させる案を示す。順天は大河と遠い干潟のため海陸から救援しにくいとして、小西勢を島津の泗川城へ、島津勢を固城へ移す案を提示するが、小西摂津守・対馬守は同意しなかった。順天・蔚山の普請は下知まで見合わせ、梁山を加徳へ替えて安芸宰相に普請、黒田甲斐守に在番させ、毛利壱岐守を固城在番とし、城主の半役を普請に充てるよう提案する。
年月日未詳 / 冊子 301頁
鮫島氏伝が、鮫島筑右衛門が五百石相当の軍役で朝鮮へ出陣し、出陣前に二百石、唐島で五代少左衛門らと奉公した褒美に百石を受けた経緯を記す。帰朝後に残り二百石を願ったが、もとは田二段を持つ身であるとして給付を抑える裁定が示された。あわせて、過去に渋谷家または伊東方として敵対した二渡・壱岐両氏も二百五十石を相当とする鎌田政近の口達を載せる。
(慶長四年)九月廿八日 / 冊子 443~444頁
太田一吉が薩摩少将島津忠恒に、内府が羽柴肥前守を詰問するとの風説と、中村式部少将・堀尾帯刀を使者に立てる動きを伝える。出陣や海上輸送への備えを述べる一方、彦山座主職をめぐる黒田甲斐守・毛利壱岐守の争いが豊前との境で起きているため、上洛を見合わせたと説明する。
慶長五年十二月 / 冊子 720-721頁
伊集院久信(元巣)が、島津義久(龍伯)・惟新(義弘)・少将(忠恒)への忠節を誓い、高麗出陣時に義弘への申告をめぐって壱岐と血判の盟約を結んだとの風聞を否定する。親子・親類・他人を問わず逆心や不正を知れば言上し、隠蔽しないことも誓約する。
(慶長五年頃) / 冊子 730頁
伊集院久信(元巣)が島津義久(龍伯)・義弘・忠恒への忠節を誓い、高麗出陣時に壱岐と血判の盟約を結んだとの風聞を否定した起請文。本箇所はNo.1416と同文のため本文が省略される。
七月十日 / 冊子 44~45頁
島津家久の掟として鹿屋壱岐守が示した条書。夜間の門限と門番の厳守、夜間外出時の町田勝兵衛発給の切手、大酒・見物の禁止、喧嘩口論の禁止、普請その他の公役を怠る者の拘束、無断外出の禁止を定める。
年月日未詳 / 冊子 557頁
吉利氏元祖秀久の二男久起の娘が白坂七右衛門と離別後に壱岐幸則へ再嫁し、その娘の子が幸則家を継いだ経緯など、婚姻と家督継承を記した吉利氏系図抄。
(寛永十五年)三月八日 / 冊子 789~790頁
黄門の死去に弔意を示し、薩摩守後見について伊勢兵部少輔の尽力を求めたうえで、有馬一揆が二月二十七・二十八日に鎮圧されたこと、自身も戦闘で鉄砲傷を負い療養中であることを詳しく報じた書状。
天明六年七月二十八日 / 冊子 869~870頁/原整理番号 2404/整理ID 2404
奥平大膳大夫が病気のため万一に備え、妾腹の女子へ重豪の二男島津富之進を急婿養子として迎えたいと申し入れた件について、重豪側は酒井縫殿頭からの申入れを承知し、その意向に任せるので奥平方へ伝えるとする。朱注は七月二十五日に酒井を通じて受け、二十八日に相良壱岐守を介してこの口上書を奥平方へ遣わしたと記す。幕府への願書とその許可とは区別される。
永禄十一年二月廿八日 / 冊子 194~195頁
小苗代原へ出た新納忠元が薬師堂を拝み、堂の板へ歌を書こうとしている間に敵が迫り、家臣久保筑左衛門・尾崎能登に引き下ろされたことを記す。忠元は白坂口で八代の的場五藤兵衛と太刀で戦って顔にも傷を負い、春成外記が弓で敵を射伏せた。求麻方の東藤左衛門・愛甲助三郎らが突入したが、鎌田壱岐守らが討ち取り、寄手は退いた。
元亀二年秋(十一月廿日) / 冊子 249頁
元亀二年秋、伊地知重興・伊東・肝付・禰寝の連合軍が鹿児島内海へ侵入した際、瀧ケ水で戦功を挙げた者の交名。平田美濃守、鉄砲上手の勝部与左衛門、平田藤九郎、南雲壱岐守・新次郎、指宿四郎二郎ら八、九人を掲げ、平田美濃守の実名に関する編者の考証を付す。
(寛永四年)四月十三日 / 冊子 33頁
樺山久高が伊藤壱岐守の書状と条書を送り、朝鮮方面で多数の人々が乗船・退避した折の働きを詳述する。指宿らが船を着岸させ、人員を残さず収容した奉公を賞し、当時の褒美について働きかけるよう求める。
(元禄二年)八月十八日 / 冊子 839頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2220
島津綱貴が関所担当の四名へ、家来の母と下女の計二人を国元へ送るにあたり、関所切手を調えてもらったことへの礼を述べた書状。
年月日未詳 / 冊子 135~136頁
松平石見守・生駒壱岐守の家中で切腹を命じられた者を列挙した書立。伊木野伊織以下の家臣を、相馬大膳・仙石越前守・丹羽左京・真田伊豆・京極丹後守・松平出羽守・森内記らの預け先ごとに掲げ、切腹者のほか追放・仕置に関わる者も記している。張紙・墨書で『此名書ハ御譜中ナシ』との注記があり、本文135頁から136頁上段まで続く。
承応二年十一月二十四日 / 冊子 239頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0494
壱岐加賀右衛門秀盛が島津光久への終身奉公を誓い、光久に重大事があれば自らの余命を差し出して長命を祈る旨を、愛宕大権現・広利支尊天行者・金明童子へ誓願した起請文前書。
月日 / 冊子 368頁/原整理番号 442
池袋九左衛門と壱岐舎人佑が野村五郎左衛門尉へ、甑島の船頭清左衛門の十三端船一艘に原記『立五十帖』を積んだので、その津で受け取るよう求めた三月六日付の送状。積荷には小字で『楯板ナラン』と注記する。
七月二日 / 冊子 471頁/原整理番号 604
壱岐秀晴は、切通番衆からの報告として、水俣に割り当てられた水主が前日酉刻に出発して松橋に集まり、船奉行が加子70人を召し連れ、佐敷からも70人が来ると聞いた旨を御曖衆へ伝える。変化があれば追って知らせるとする。
年月日未詳 / 冊子 404~411頁/原整理番号 66の1
瀬戸口壱岐入道の自記。日向の南之郷・福島之院・志布志・梅北や大隅末吉などをめぐる島津忠広らの動向を起点に、伊東方との抗争、城郭・所領、軍勢の移動、攻防と退却を物語る。文書冒頭は前段から続く形で、末尾は水之手郷から退く場面に至る。
(慶長二年)二月十一日 / 冊子 77~79頁
島津忠恒が武庫に、使者を釜山浦へ送ったこと、対馬・釜山間の船の動き、兵糧や武器の輸送、航路上の支障を詳しく報告した書状。渡海人数と船の確保、現地からの指図を待つ状況も伝える。
慶長三年八月廿五日 / 冊子 230頁
豊臣政権が「御無事」の決着後における釜山浦在番の組分けと番替を定めた朱印状。加藤主計頭・小西摂津守・島津兵庫頭・黒田甲斐守らを複数組に編成し、各城から釜山浦へ引き取る際は兵糧・玉薬・鉄砲などを運んで蔵に収めること、対馬豊崎には久留米侍従・筑紫上野介・寺沢志摩守の計二百人を置くこと、在番外の一部諸将は帰朝して御目見することを命じる。
慶長三年八月廿五日 / 冊子 231頁
豊臣秀吉が、「御無事」の決着後における釜山浦在番の組分けと番替を定めた朱印状。小西摂津守・島津兵庫頭の組、加藤主計頭らの組、黒田甲斐守・鍋島加賀守の組を置き、各城から釜山浦へ引き取る際は兵糧・玉薬・鉄砲などを運んで蔵に収めること、対馬豊崎には久留米侍従・筑紫上野介・寺沢志摩守の計二百人を置くことを命じる。
萬治三年十一月七日 / 冊子 335~340頁
出水浄円寺の関介が所持していた書物について、伊藤玄宅が自らの記憶と異なる点を挙げながら朝鮮海戦の経過を詳述した覚書。相良玄蕃・川上六郎兵衛らの戦闘、忠恒・惟新の座船と諸船の配置、敵の火攻め、焼失船、夜間の救援・退避、漂流者の収容などを具体的に記し、関介の記録との差異は大略の証言であると断る。
年月日未詳 / 冊子 15頁
島津光久の子女十四人について、生母・生年月日・没年月日・法名などを列記した譜記事。嫡子光久の出生と母系を起点に、忠良ほか男子・女子の系譜情報を記録する。
(寛永十五年)四月廿一日 / 冊子 801頁
島原の大筒・石火矢・鉄砲・玉薬などを薩摩船で大坂へ運ぶ件について、十~十二反帆ほどの船二十四、五艘と予備四、五艘を用意するよう求めた下曾祢三十郎ら三名の連署書状。
(寛永十五年)五月廿八日 / 冊子 808~809頁
島原から到着した船に石火矢・大筒・玉薬を積み、二十四艘で大坂へ回航したこと、別の一艘には当地の諸道具を積んで江戸まで届けるため、薩摩側の使者・船頭と相談して出したことを報じた三名の連署書状。
弘化四年二月九日(本文未年)。蓋紙は弘化四年二月 / 冊子 75~76頁/原整理番号 122の1/整理ID 122
斉彬の嫡男寛之助と近衛内府の娘愛君との縁組内約を取り扱うよう命じられ、調所笑左衛門が進捗を三名へ報告した書状。近衛家の諸大夫と親しく交わり、先月十九日に二条の屋敷で佐竹主税頭・中川宮内少輔・北小路刑部権少輔・今大路民部権少輔に会ったこと、従来の特別な由緒に加え、郁君の入輿後に関係が深まり、愛君との縁組を通じて親戚となりたいとする口上を述べたことを記す。今月二日に参殿した際は中川宮内少輔から返答を伝えられ、願いが近衛家に受け入れられ、内約に向けた領掌を得たとして喜びを述べる。三日に近衛家と郁君へ内々の御礼を送り、鮒鱠一折を添えたとする。寛之助の御弘のような公表は行わず、世間へ漏れないよう大目付・側御用人・側役・使番・記録奉行へ極内に伝えることを求め、未二月九日付で三名へ宛てる。前の蓋紙には寛之助縁組一巻と家老の問合書等を留める二冊の表示がある。
弘化四年四月廿四日(本文未年)。蓋紙は弘化四年五月 / 冊子 77頁/原整理番号 123の1/整理ID 123
寛之助と愛君との縁組内約について、調所笑左衛門が四名へ相談経過を報告した書状。少将の着坂・上京に際して近衛家の諸大夫等と相談し、今月十七日に参殿した際、寛之助が成長したことと愛君の似合う年齢を踏まえ、従来の由緒と郁君入輿後の関係により、縁組を取り結びたいとする意向を伝えたと記す。内使者が先に取り扱っていたため、近衛方も内約の領掌を承知しており、別紙書取のとおり返答したことを知らせる。未四月二十四日付。添える四月付の口上写は、寛之助の成長、愛君の年齢、特別な由緒、郁君入輿後の続柄と、愛君がまだ入輿していないことを挙げ、縁組を取り結ぶ願いを述べる。前の蓋紙は弘化四年五月の寛之助縁組一巻と家老問合書等を留める二冊の表示を付す。
年月日未詳 / 冊子 354~355頁/原整理番号 324の3
寺沢領天草の百姓一揆と唐津勢敗北を受け、相良長信が国元諸所へ人数の召集・出水方面への集結を命じた書状である。兵糧・船手を整え、領内の者を身分に応じて立てるよう具体的に指示する。
元禄二年十一月廿六日 / 冊子 199~200頁/原整理番号 122
『島津甲斐日記』天和三年正月二十六日および貞享元年正月十四日の春山初御狩記事。御名代と奉行・横目・家老らの参加を記し、延宝八年の鹿児島大火後は登城者を六組に分けて三組ずつ出仕させたことにも触れる。季安は両年の記載に「関狩」の字がない点を指摘する。
「寛永十七年」七月廿九日 / 冊子 133~134頁
伊勢兵部少輔貞昌と山田民部少輔有栄が、高野山での法事が無事に済んだことと江戸の情勢を国元へ報じた連署書状。生駒壱岐守・松平石見守の家中処分と所領・預け先を知らせ、相良清兵衛が稲葉美濃守預かりとなり、能勢小十郎・二神宇兵衛が上使として出発したことも記す。さらに喜平次が以前から清兵内蔵助の処置を諫めていた経緯と、相良家中が他家の処分を見て危惧している様子を伝えている。
「寛永十七年」八月廿七日 / 冊子 141頁
幕府年寄の松平信綱・阿部忠秋・阿部重次が島津光久へ、相良壱岐守に関する訴訟を翌日に審理すると通知した連署書状写。島津方で預かっている相良喜平次を、四つ以前に付き添いを付けて評定所へ差し出すよう命じている。末紙には御家老衆からの切紙であるとの注記がある。
「寛永十七年」九月十六日 / 冊子 141~142頁
相良壱岐守頼寛が島津家の重臣らへ、薩摩守島津光久の息災を祝い、相良家の訴訟に伴って喜平次兄弟を光久が預かり長く世話したことへの謝意を述べた書状。相良側の望むとおりの裁定となったことを喜び、在所へも使者を遣わすなど配慮を受けたことに礼を述べ、暇が許され次第帰国する意向を伝える。表題はインデックス記載の「相良頼覚書状」を保持し、本文末尾の署名は「相良壱岐守頼寛」と確認した。
元禄十四年五月三日 / 冊子 298–299頁/整理ID 984
三浦壱岐守明敬が嶋津助之丞・喜入安房守・種子嶋蔵人へ、絵図の件で先頃家来を派遣したところ、各人が心を添え、絵図役人と詳しく相談し、格別に馳走されたことに謝す。追書では嶋津主計が特に心を配ったと聞いて喜び、よろしく承知してほしいと頼む。