足利義詮御教書
延文三年八月六日 / 冊子 10~11頁
足利義詮が一色右京大夫の九州での度々の忠節を賞し、今後も戦功を挙げるよう求めた御教書。
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延文三年八月六日 / 冊子 10~11頁
足利義詮が一色右京大夫の九州での度々の忠節を賞し、今後も戦功を挙げるよう求めた御教書。
〔延文三年〕八月六日 / 冊子 21~22頁
足利義詮が一色右京大夫の九州での度々の忠節を賞し、今後も戦功を挙げるよう求めた御教書。本文はNo.39と同文のため省略される。
十二月廿五日 / 冊子 31頁
宮内大輔今川三雄が周防右京亮に、島津上総介の自訴について京都での吹挙を求め、代官では認められないとの先の仰せに対し、子息は本人同然であり支障はないとの仰せを得た旨を披露するよう依頼した書状。
天正15年2月25日 / 冊子 277~278頁
島津義久が、大隅国根占湊の小嶋丸船頭・橋本右京亮に琉球への渡海を許可した朱印状。航海と積荷を島津氏の統制下に置いた史料で、豊臣軍との戦時下にも南方航路が維持されていたことが分かる。
(慶長十年)三月五日 / 冊子 7~8頁
本田正親が大井右京亮へ、今回の知行配当では先祖以来の由緒を訴える取次が法度によりできないが、後日適切な時期に申し出れば尽力すると答えた書状。以前、水俣に肥後勢がいた際、大井が黒渡の船などを手配して長島への交通を確保した功績を忘れておらず、将来披露すると約している。
(寛永三年)六月十四日 / 冊子 12頁
島津家久が渋谷右京守へ、留守中は火の用心を第一とし、広い屋敷に人が少ないため万事念入りに申し付けるよう命じた書状。詳しくは伊勢兵部少輔から伝えるとする。
二月七日 / 冊子 178頁
今川三雄が周防右京亮に、長く注進がないことを案じ、早々に来援して力を添えるべきところ、高久勢を待っているため果たせていないと伝えた書状。翌日にも軍勢が到着すれば急ぎ赴くこと、大手からの書状一通を送ること、以後も諸事を知らせるよう求める。
二月十一日 / 冊子 178頁
今川三雄が周防右京亮に、郷北方・中村郷楠本村・市比野名地頭職・倉野村について、澁谷五郎重頼の申請どおり相違なく沙汰してほしいと求めた書状。
十二月廿五日 / 冊子 92頁
No.121と同文のため本文を省略した別伝。宮内大輔今川三雄が、島津上総介の自訴について京都での吹挙を求め、子息による代官でも差し支えないとの仰せを披露するよう依頼した文書。
慶長八年六月七日 / 冊子 897頁
伊勢貞成が、鹿児島・富隈・帖佐三方の公用以外の物資差押えを禁じ、廻船規定を超える押買いをさせず、違反者を拘束・報告するよう命じる。地下人への喧嘩・狼藉にも処罰を定めた三か条の申渡書。
四月15日 / 冊子 557頁/原整理番号 719の5/整理ID 719-5
松井周防守・堀右京亮を名書し、謹慎を命じる。日付は四月十五日。太政官から伝えられた旨の問合があると末に記す。謹慎の理由や具体的な期間は本文に示されていない。
年月日未詳 / 冊子 47頁
『山田氏系図』が、前掲譲状の虎王丸を山田氏六代久興とし、四郎・右京亮・出羽守、入道名玄威の異名と、延文四年九月廿六日に鹿児島宮地で誕生したことを記す。
嘉吉元年十二月十二日 / 冊子 402頁
右京大夫持之が将軍家の命を奉じ、島津持久・高木孫三郎・市来太郎以下を治罰するため、吉田若狭守に島津忠国へ合力して忠節を尽くすよう命じた御教書。
嘉吉元年十二月十二日 / 冊子 402頁
右京大夫持之が将軍家の命を奉じ、島津持久らの治罰のため島津忠国へ合力し、とりわけ島津貴久への二心ない忠節を賞して、今後も戦功を励むよう吉田若狭守へ命じた御教書。
嘉吉元年十二月十二日 / 冊子 402~403頁
右京大夫持之が将軍家の命を奉じ、島津持久・高木孫三郎・市来太郎以下を治罰するため、樺山孝久に島津忠国へ合力して忠節を尽くすよう命じた御教書。
文安五年七月晦日 / 冊子 417頁
南禅寺住持職について、先例に任せて執務するよう大叔和尚へ命じた足利将軍家御教書。右京大夫の判について細川勝元との注記がある。
年月日未詳 / 冊子 522~523頁
文明十七年三月、加治木・吉田・正八幡宮社中らが上井城を攻め、菱刈右京亮らの討死を経て城を陥落させたのち、和泉・高城・湯田・水引・帖佐方面で攻防と城主交替が続いた経過を記す文明記記事。
永禄十一年二月廿八日 / 冊子 195頁
小苗代原合戦の別方面で、馬越・加治木・市来・伊集院・川辺勢が敵二千余騎を受け止め、肝付兼寛が軍配を執ったことを記す。新納久継が負傷する一方、鎌田政年が敵味方の間を駆けて指揮し、面高真連坊が鉄砲で八代の牧野次郎左衛門を倒し、田実右京亮がその首を取った。日暮れに双方が退いた。
文禄3年7月17日 / 冊子 797頁
御料人を急いで迎える件について、伊集院幸侃が石田三成の前で命じられた経緯を記す。内城の女房衆から御供を選ぶ必要があるが、適任の年長女性がいないという奥向きの事情も挙げる。 久四郎の在京生活は順調なので心配無用とし、五代右京亮の上洛、祈念のための医王院派遣、鎌田与兵衛による費用相談も指示する。婚姻後の家族・供奉体制を整える覚書。
文禄3年7月27日 / 冊子 800頁
義弘が久四郎と又八郎忠恒に対し、まだ在京しているなら心遣いが多いだろうと気遣う。龍伯義久への配慮はもちろん、今後の事は石田三成の指導に従って判断することが肝要だと諭す。 五代右京亮を上洛させて久四郎の側で奉公させると伝え、朝鮮の戦線は現在異状ないと報告する。家族への心配と豊臣政権内での身の処し方を同時に示す義弘の私信。
年月日未詳 / 冊子 121頁
『島津常久譜』から、宇多与右衛門尉が上京して安宅三河守へ訴状を提出したため、五代右京亮らを招いて糾明した経過を記す。関係者の申状・答書を京都へ送り、太守兄弟から与えられた書状もあわせて記録したとする。
慶長四年三月五日 / 冊子 356頁
島津忠恒が右馬頭以久に、種子島の繰替えに対する返地として所領を宛行い、そのうち一千六百八十七石を加増分とする。以後も先例に従い、一千七百石を無役、残る九千九百八十七石を役儀負担として勤めるよう命じる。正文は向島衆萩原右京に伝来したと注記する。
慶長十一年十一月廿七日 / 冊子 98頁
慶長十一年十一月二十七日の犬追物で奉行を務めた者の交名注文。殿を筆頭に、島津上野入道・弟子丸右京進・本田与兵衛尉・伊集院源左衛門尉を列記する。
寛永九年三月朔日 / 冊子 259頁
小森隼人佐と時任右京亮が、本田助之丞の蔵に関し、真米三石三斗六升六合六勺七才を加治木蔵へ、銀子二百八匁を鹿児島御蔵へ納め、石高分を含む合銀二百七十七匁四分四厘を皆済したことを証した連署請取状。
寛永十年二月十日 / 冊子 353~354頁
猿渡城之介・時任右京亮が本田与八郎へ出銀の皆済を認めた連署請取状。高百五十四石九斗六升を基礎に、米・鳥目の銀換算を記し、銀二百三十二匁四分四厘を受領した。
(寛永十一年)四月四日 / 冊子 417頁
入来院右衛門尉・伊勢右京亮の退任に伴い、両者の支配地・衆中・給付・役務・役人交替などを調査・整理し、家老衆の談合で処置するよう条項ごとに命じた島津家久袖判条書。
十二月十二日 / 冊子 479~480頁
上方での御用を終えて帰着した春斎が、上洛中に受けた使者や高野山への配慮に謝意を示す。毎日安藤右京のもとで寄合が続き訪問できなかったため、近く参上すると伝えた書状。
(永禄八年)五月廿日 / 冊子 552~553頁
将軍の容体が言語道断の状態であると伝え、朝倉氏の意向を尋ねる。不測の事態には相談したいとし、詳しくは大野右京進から伝えるとした武田義統書状。
年月日未詳 / 冊子 487頁
北郷氏庶流系図として、文明八年六月二十一日の都城再拝領と安永からの移転、北郷氏一族による都城受取を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 511頁
文明十六年十一月十七日、郡本と熊田原の両陣が帰還する途中で合戦となり、部隊が散開して諸士に戦死・退却者が出た経過を記す譜記事。
慶長九年正月十四日 / 冊子 924-925頁
御蔵分の衆中借用額を日付・名義人・受取人別に列記した注文。慶長七年から同九年正月にかけての貫文単位の金額を記し、御祈念、御遊などの用途を含む。関玄蕃允以下、多数の担当者・受取人を掲げる会計記録。
寛永十年正月三日 / 冊子 405頁
児玉利実が、寛永十年十二月初七日付の江戸書状を翌十一年正月二日に受け取り、筑後守が始良(姶良)の地頭職と毎年八木(米)三十石を拝領した旨を確認した記録。同夜の兵法初めは式部大輔邸での実施が延期され、仁礼蔵人の宿所で若衆によって行われた。寛永十一年正月三日付で藤原氏利実が署名し、追記では同月二十三日・二十五日の市来八右衛門らによる地頭拝領関係の連絡・進物を記す。本文日付は寛永十一年正月三日で、索引の寛永十年正月三日とは相違する。
(寛永十一年)閏七月廿一日 / 冊子 439頁
焼酎壺二つを確かに受け取り、御蔵へ納め置いたことを記す三名連署の請取状。
(元禄七年)九月廿六日 / 冊子 905~907頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2474
島津久当ら家老五名が川上右京へ、宮古島沖に漂着した唐船と唐人五名の船体修補・帰帆、長崎・江戸への報告経過を伝え、今後は異国船漂着時に人数・国籍・事情と唐人書付を速やかに提出するよう北谷按司・三司官へ徹底させ、久米島へ漂着した唐船板は焼却するよう命じた連署達書。
(元禄七年)十一月廿六日 / 冊子 912頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2485
島津久当ら家老五名が川上右京へ、新納近江に渡した二通の申渡書を送り、琉球へ漂着した唐人の扱いと琉球での新銭鋳造について法度に従わせ、従来の在番衆のように風聞を報告しないことがないよう申し渡すよう命じた連署達書。
宝暦十一年十二月二十一日 / 冊子 891頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2619
重豪が十二月二十一日、酒井左衛門尉・松平右近将監・秋元但馬守・井上河内守へ、公方の健勝を喜び、領知判物拝領の礼を述べる。十月二十二日に名代の嶋津淡路守が御前へ召し出され、上意により判物を賜り、早速国許へ届いて頂戴したことをありがたく思うと伝える。礼使として種子嶋蔵人を差し立て、詳しくは口上で申し上げるとする。松平右京大夫への書状では、種子嶋蔵人が御礼を申し上げる旨の文面とし、側御用人板倉佐渡守へも同案とする。
明和三年十一月十一日(伺い、十三日献上済の朱追記) / 冊子 153頁/原整理番号 349/整理ID 349
松平薩摩守内の佐久間新左衛門が、中山王から御臺への献上品のうち色繻子三十本を差し上げる方法について指図を求める。品が損じていたので目録だけを先に差し上げていたが、この節に品が届いたという。張紙の朱注は、去る酉年の留守居へ承り合わせて差し上げるようにとの指示である。さらに朱追記には、松平右京大夫へ伺ったところ付紙どおりに命じられ、留守居年寄の松平内匠頭から差上方の指図を得た上で、同十三日、中之口に火之番与頭の詰合せがなかったため御廣敷添番今田貞吉へ渡し、献上が済んだと記す。十一月十一日付、年は明和三年の朱注。扣正文は家老座にあるとする。
天明元年三月六日 / 冊子 613頁/原整理番号 1742/整理ID 1742
国元への暇を許された島津重豪が、伏見から西宮まで通人馬で山崎道を通行したいと伺った書付。天明元年三月六日付。同日、留守居を介して御用番松平右京大夫へ提出し、付紙によって願いどおり許可された。
四月8日、京都三区域取締の三通 / 冊子 555頁/原整理番号 717の3/整理ID 717-3
四月八日付の京都取締に関する三通を収める。紀伊中納言と眞田信濃守には下京中の取締を命じ、蜂須賀阿波守と引き合わせて十分行き届くよう勤めることを求める。南部美濃守と藤堂佐渡守には中京中の取締を命じ、加賀中納言と引き合わせて勤めるよう求める。稲葉右京亮と京極佐渡守には上京中の取締を命じ、島津修理大夫と引き合わせて勤めるよう求める。
十二月十二日 / 冊子 71頁/原整理番号 25
野村元綱が伊勢右京へ、新納右衛門佐が申立てを上聞する際に自身も添って、両人で然るべく申し上げると伝える十二月十二日付書状。贈答への礼も述べる。
十二月廿一日 / 冊子 71頁/原整理番号 26
野村元綱が伊勢右京へ、新納右衛門佐が前日に申立てを上聞し、返答の様子は両老へ伝えたと知らせる。まだ家久の意向が定まらず、明日また申達するという十二月二十一日付の返書。
十二月二十五日 / 冊子 278頁/原整理番号 74
宮内大輔三雄が周防右京亮へ、島津上総介の自訴について京都での吹挙と沙汰を依頼された件を伝える。代官による申し立ては認められないとの先の命で差し控えていたが、子息による申し立ては本人と同じで差し支えないとの命を受けたので、その旨を披露してほしいと求める書状。
年月日未詳 / 冊子 519頁
文明十七年二月十九日、修理亮忠廉が入来山を越え、翌日に祁答院藺牟田城を攻めた際、城の崩落や戦闘により班目右京亮ら多数の死傷者が出た経過を記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 536頁
文明十七年九月、修理亮・村田肥前守・下野守・東郷右京亮らが入来・山崎・大村方面へ進み、祁答院方と交戦した経過を記す。伏兵、囮陣、集落への放火を用いて連日攻防し、帖佐勢・薩摩守方も加勢した。内山田への進撃後、各隊が帰陣するまでを追う島津忠昌譜記事。
年月日未詳 / 冊子 42~43頁
島津方が菱刈陣を攻め、忠平自ら敵二人を斬り、村田越前守・三原右京亮らが奮戦、樺山助太郎らが戦死し、敵首三百余を挙げたとする。蒲生方は降伏して祁答院へ退去。境目で悪口過言を重ねた白尾半右衛門尉は落人に紛れたところを猿渡大炊入道に捕えられ、口を裂き舌を抜かれたという苛烈な処罰も記す。戦後の蒲生・帖佐・山田・松坂以下、大隅各地の地頭・領主配置を詳述する。
文禄3年7月17日 / 冊子 800頁
「本文書は一三五一号文書と同文につき省略」と注記された義弘覚書。御料人を迎えるための女房衆選定、久四郎の在京状況、五代右京亮の上洛、医王院による祈念、鎌田与兵衛の費用相談を扱う。 婚姻後の御料人の供奉体制と在京者への配慮をまとめた覚書で、具体的な本文はNo.1351を参照する。
享保六年五月九日 / 冊子 466頁/整理ID 1249
義岡右京に宛て、伊集院・日當山・川内高城などにわたる高五拾石の知行を認める連署目録。
安永二年五月二日(年は朱) / 冊子 371頁/原整理番号 1040/整理ID 1040
端午の祝儀として「惟子・單物」が到来したので、喜んで見たことを伝える御内書。詳しいことは松平右京大夫が述べると記す。末尾は五月二日、家治公墨印、薩摩中将殿宛、朱に安永二年。重豪公御譜中に収録し、正文は文庫にある。端午祝儀の衣類献上に対する将軍の返書と、委曲の取次役を示す。
安永五年二月四日(年は朱) / 冊子 485頁/原整理番号 1344/整理ID 1344
書札を披見し、改年の慶賀がますます重なり、公方・大納言の機嫌よくしている旨を述べる。年始御規式可相済として、めでたく思う旨を承知し、さらに樽肴を献じられたことについて、各々申し談じて披露したので、一段の仕合であると返答する。末尾は二月四日、松平右京大夫輝高判、松平薩摩守殿宛、年は朱に安永五年。
安永五年二月十五日(年は朱) / 冊子 486頁/原整理番号 1349/整理ID 1349
書札を披見し、公方・大納言の機嫌よくしていることを聞いて喜ぶ旨は尤もとする。旧臘の歳暮の祝儀として公方から時服と御香を拝領し、有り難く思う旨を述べられたことについて、紙面の趣旨を各々申し談じ上聞したと返答する。末尾は二月十五日、松平右京大夫輝高判、松平薩摩守殿宛、年は朱に安永五年。