島津家久書状
廿四日 / 冊子 342頁
庭の花と歌を贈られ、「来てや見む八重咲く花に山風も、えやは色香を吹き散らさむ」など二首を返し、母にも一首詠んで送るよう頼み、先方からの返歌を待つとした島津家久書状。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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廿四日 / 冊子 342頁
庭の花と歌を贈られ、「来てや見む八重咲く花に山風も、えやは色香を吹き散らさむ」など二首を返し、母にも一首詠んで送るよう頼み、先方からの返歌を待つとした島津家久書状。
廿日 / 冊子 343頁
思いがけない大雪を珍しがり、先方の様子を案じ、「今朝つもる雲を都も東路の、空思ひやる明ぼのの庭」と雪景色を詠み、近く訪ねるとした島津家久書状。
年月日未詳 / 冊子 343頁
贈られた羽根を昼夜もてあそぶほど喜び、歌を母とともに見て、花見前に作者へ尋ねて直してもらいたいと頼み、国分へ持たせて返事を待つとした島津家久書状。
十八日 / 冊子 343~344頁
梅の返歌を喜び、「咲き匂ふ梅の梢の嬉しさを、枕ならべて二人眺めむ」と重ねて詠み、妹らの来訪日程を調整し、梅の盛りに花見を催すことを提案した。先方の眼病も鷹に由来する軽症だろうとして薬を尋ねた島津家久書状。
廿日 / 冊子 344頁
上竹の花を贈ったところ寄せられた歌を面白く思い、「君が袖馴れてふ手折る上竹の、花の情けになほぞ懸しき」と案を示し、庭の紅葉も盛りなので花とともに楽しみたいとした島津家久書状。
永正十年正月吉日 / 冊子 602頁
加治木久恒が川辺宝福寺関係の熊峯へ、屋敷や田代などを寄進した寄進状。
年月日未詳 / 冊子 311~322頁
加治木御日記。慶長十六年正月朔日からの記事として、島津家久周辺への年始の進上物・贈答、祝儀や儀礼、使者・役人名、品目・数量・金額、諸方との往来などを日ごとに記録する。
六月五日 / 冊子 97頁
野辺盛久が加治木殿へ、先に送った書状と九州探題から届いた御内書・案文の扱いを確認し、早急な返書を求めた書状。今川満範が球磨へ到着したとの軍事情勢を伝え、今後の軍勢合力と作戦上の対応を相談する。探題文書の伝達、現地情報、協力要請が一通にまとめられている。
年月日未詳 / 冊子 520頁
同日、加治木右衛門佐が横川から祁答院へ出軍して合戦となったが敗れ、一族の次民部少輔・彦二郎・鍋倉五郎らが討死した経過を記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 522頁
文明十七年三月二十三日、加治木忠敏・吉田尾張守・本田又左衛門尉・正八幡宮社家らが同心して上井に陣を構え、後園・薩摩守重久・北郷氏らが出羽守久遠らを派遣し、城を四方から攻めた経過を記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 522~523頁
文明十七年三月、加治木・吉田・正八幡宮社中らが上井城を攻め、菱刈右京亮らの討死を経て城を陥落させたのち、和泉・高城・湯田・水引・帖佐方面で攻防と城主交替が続いた経過を記す文明記記事。
年月日未詳 / 冊子 541~542頁
種子島氏家臣知覧氏の系図記事。島津久逸方の戦い、島津忠朝と新納忠武の関係を述べ、加治木大和守が帖佐城を奪取すると島津忠昌が加治木を攻めた経過を記す。降伏後の阿多移封までを追い、園田新右衛門・川山忠直ら知覧氏関係者の軍歴と所領移動を示す。
年月日未詳 / 冊子 568頁
明応四年六月二十九日、加治木大和守の反抗を受けて帖佐城・加治木城をめぐる軍事行動が起こり、樺山氏側の動向を記した島津忠昌譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 568~569頁
明応四年六月末から七月初めの加治木方との合戦について、喜入忠弘らが坂口の守備・反撃にあたり、敵を討ち退けた経緯を記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 570頁
明応五年に加治木久平が降伏して阿多城へ移ったこと、翌年の大岳公を小城権現と称したことや社領設定、その後二年間の記事欠落を記す島津国史の記事。
年月日未詳 / 冊子 570頁
明応五年二月、加治木大和守の城が落ち、加治木大和守が阿多城へ移ったことを記す島津忠昌譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 672~673頁
大永七年二月、樺山信久と梅岳君(島津忠良)側の盟約、肝付兼演らの起請を中心に、守護家と領主層の帰属変化をまとめた国史記事。伊集院・加治木・帖佐をめぐり、島津勝久方と忠良方が対立し、諸氏が同盟・離反した経過を諸系図・旧譜から集成する。守護権力再編の基礎史料。
年月日未詳 / 冊子 676頁
大永七年三月中旬以後、島津勝久が福昌寺から退き、伊集院・加治木・帖佐諸勢が動いた情勢を記す。島津忠良は軍事・交渉で対応しながら家中の混乱を収めようとし、四月十九日に剃髪して日新と称した。出家後も貴久を支える政治的立場を示す。
年月日未詳 / 冊子 678頁
伊地知周防介父子らの謀叛企図を受け、島津忠良が大永七年五月に加治木へ進発し、関係者を誅した経過を記す『貴久記』。島津勝久方は忠良を伊作から誘い出して勢力を弱めようとし、加治木・帖佐・鹿児島方面で両陣営の攻防が続いた。家臣処罰を契機に守護家対立が軍事化したことを示す。
年月日未詳 / 冊子 678~679頁
島津実久方の働きかけで勝久が心変わりし、忠良・虎寿丸との後継合意が崩れた経過を記す樺山玄佐自記。新納・伊集院・加治木・帖佐諸勢が勝久方と忠良方に分かれて動き、勝久は鹿児島へ帰還した。忠良方が退避した後に反撃へ転じるまでを追い、守護家内部の政変を具体的に伝える。
年月日未詳 / 冊子 681~682頁
大永七年、伊地知周防介父子の謀叛から始まる島津忠良方と勝久方の攻防を記す。加治木・帖佐・伊集院方面で諸勢が交戦し、忠良方が鹿児島へ進攻すると勝久方が退避した。城と街道をめぐる軍勢移動、諸将の帰属・離反を追う。
年月日未詳 / 冊子 684~685頁
樺山信久が島津勝久の御座へ奉仕し、加治木・鹿児島方面の戦闘に関わった経過を玄佐が記す。村田越前守ら家臣の処遇を調整し、島津忠良方との関係を踏まえて、新納・本田・北原諸家の所領と帰属を再編した政治・軍事上の対応を伝える。
二月十五日 / 冊子 698~699頁
宗吉が奈良原に、加治木での奉公について謝意を述べ、遅滞した事情を察して今後も心底からの働きを続けるよう求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 799頁
天文十一年三月、日新公と貴久が薩摩兵を率いて大隅へ渡り、樺山の生別府から加治木城を攻めようとしたが、大雨と増水のため軍を退いた経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 801頁
天文十一年春、北原方の侵攻を受けた溝辺・高松城方面の戦闘を樺山玄佐が記す。本田・加治木・帖佐・上野廣原諸勢の配置、城への攻撃と救援、各隊の戦死者を列挙し、城を維持できず退却するまでの大隅中央部の戦況を具体的に示す。
年月日未詳 / 冊子 818頁
天文十三年、肝付忠勤の動向を契機として郡山周辺に生じた争乱を記す。入来院・伊集院・蒲生・加治木・本田など複数勢力の帰属と軍勢移動を追い、島津貴久方が使者・出兵によって敵味方を整理し、防戦と鎮定を進めた対応をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 819頁
入来院石見守重聡らが郡山庄へ進出したことから始まる争乱を、箕輪伊賀が回想した覚書。伊集院・蒲生・加治木・本田諸氏がそれぞれ軍勢を動かす中、貴久方の忠臣らが城・要所を防ぎ、敵勢の侵入を退けて地域を鎮定した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 918頁
『島津忠将譜』が、天文二十三年秋に忠将が隅州勢を率いて来援したことを記す。海路・陸路から加治木・清水方面へ進み、肝付三郎五郎方や城兵の動きに対処しながら、貴久方の岩剣・帖佐攻めを支援した経過をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 918頁
『島津尚久譜』が、加治木城主肝付三郎五郎をめぐる攻防を記す。尚久ら島津方が城を包囲して抵抗を抑え、使者を介して降伏条件を協議したのち、開城・帰順を受け入れ、城と人質・所領に関する戦後処置を定めた経過を伝える。
年月日未詳 / 冊子 918~919頁
箕輪伊賀の覚書が、岩剣合戦を中心に、蒲生・祁答院方との交渉が決裂して戦闘へ移る過程を記す。加治木・清水・帖佐方面での陣替え、使者・援軍の往来、放火・鉄砲を伴う連日の攻防を、箕輪伊賀の見聞に即してまとめる。
年月日未詳 / 冊子 919頁
『新納忠元譜』が、天文二十三年九月に新納忠元が貴久方として加治木・岩剣方面へ出陣したことを記す。城兵の出撃に対して先陣で敵陣へ攻め入り、味方諸隊とともに押し返した働きが、忠元の軍功として後世に伝えられた。
年月日未詳 / 冊子 920~921頁
『貴久公記』が、天文二十三年の加治木・帖佐・岩剣方面における蒲生・祁答院方との戦争を記す。貴久方諸勢の集結、陣所の移動、城兵の出撃への迎撃、使者を介した交渉を追い、攻城と退陣を重ねながら包囲を進めた経過をまとめる。
年月日未詳 / 冊子 921頁
樺山玄佐が自ら、加治木・帖佐・岩剣方面での従軍を記した戦闘記録。島津貴久方が陣所を移して攻撃と退却を繰り返し、敵の出撃に鉄砲・弓矢で応戦したこと、諸隊に多数の負傷者が生じたことを挙げ、前線での判断と損害を具体的に伝える。
文禄五年閏七月廿八日 / 冊子 35~36頁
町田存松久倍・新納旅庵長住が安宅三川守へ、加治木衆新納仲左衛門に関する米三千六百余石をはじめ、船賃米、銀への換算額と一石当たりの換算率などを示した算用証状。
(慶長三年)十一月廿四日 / 冊子 292頁
石田三成が、島津三殿の家臣および高麗・京都の相談役へ例年どおり切米を渡すよう命じる。加治木蔵入の過半が荒地となり年貢が減った原因を、百姓の逃散や人身売買と確認し、買われた者を召し返して百姓へ戻し、売った家から一人につき米一石を出させるよう指示する。代官に人別帳を作らせ、その米を別蔵へ封印し、当年の切米も役人が改めて支給するよう定める。
(慶長四年)八月六日 / 冊子 420~421頁
島津義弘が伊集院源次郎に、内府使者寺沢志摩守の下向が予定されているので熟慮するよう求める。幸侃が悪心ゆえ成敗されたことはやむを得ないが、源次郎の進退は保障すると龍伯・少将が繰り返し伝えているのに、なお籠城していると指摘する。家中や加治木・吉田の者に神文血判どおり城を出て奉公させ、主人への加勢、親子夫婦間の悪事、食物・通用などを禁じて家中を統制し、山口勘兵衛尉を通じた和談に応じるよう諭す。
(慶長十八年)三月十一日 / 冊子 392頁
慶長十八年三月十一日、江戸若君の病気、大坂火事、分国中検地帳、御書二通、伊集院半右衛門尉への付託、相良家若子の祝儀、加治木内証などの用件を列記した覚書。
(慶長十八年)四月十一日 / 冊子 394~395頁
慶長十八年四月十一日、上洛の日取りを惟新の判断に委ねること、新入の者が来月節供後に越すこと、大弐の供領を加治木から召し寄せて確認することなどを列記した覚書。
(寛永八年)四月三日 / 冊子 203~204頁
加治木大隅守と川上式部太夫について、家久の意向に従い旧名・官名を改めるよう求める。国中の飢饉に際して米価の高騰で民衆が苦しまないよう値段を抑え、命令に背いて高値で売る者を処罰する方針も伝えた。
(寛永十二年)正月廿七日 / 冊子 471頁
島津家久が、相手の無事を気遣い、届いた消息を喜び、山伏も無事であること、間もなく下向して面会し、加治木へも見舞うつもりであることを仮名書きで伝えた私的な書状。
(寛永十五年)八月八日 / 冊子 817~819頁
有馬の城攻めに参加した者に書付を提出させ、新納加賀守・市来八左衛門尉らの扱いを定める。天草と有馬の間を命令なく移動・帰還した者を調査し、帰国の有無に応じて報告させる。寛永十二~十四年分の出物未進や出銀未進、算用所・諸蔵の帳面を処理し、耕作・荒地の状況を確認する。御乗物廻しや御草履取候補の処遇、加治木から上方へ出た銭作人の召還と悪銭防止、米借用などについて指示・照会する覚書。宛所は御支配奉行中。川上五兵衛・鬼塚源太左衛門は八月十九日に書を持ち下った者で、宛所ではない。発給者未詳。寛永十五年八月八日付。
閏五月二日 / 冊子 74頁
島津久通と山田有榮が新納仲左衛門尉に、加治木西町の次右衛門の下人が小船で逃走し、頴娃川尻へ漂着して舟を乗り捨て、山川で潜伏していたところを探索・捕縛され、こちらへ差し出されたと報じた連署書状。逃亡者を在所の関係から新納方へ送り届けるので、受け取るよう求める。
二月十日 / 冊子 153頁
鎌田政統らが本田蔵人に、上使下向に伴う石原での宿泊施設と振舞いの準備を指示した連署書状。宿は仮設程度に軽く造り、数百人の供衆には五、六か所で簡素な食事を供し、普請では前方衆の大工を使わず加治木の使衆と相談して整えるよう命じる。
七月四日 / 冊子 346~347頁
島津忠良が右馬頭へ、安父子の調停を頼もしいと評価し、加治木境の争乱への対処を論じた返書。若衆とも密かに相談し、一途に判断すること、先方へ事情を申し渡すことを求め、正興寺・大年寺を介した働きかけにも触れる。
九月一日 / 冊子 350頁
島津貴久が右馬頭へ、加治木で働く相手方の人数の苦労を聞き、使者を立てて礼を述べた書状。自軍の行動が遅れていることを詫び、尾州から和議の意見が度々届くなか、油断による遅延ではないと説明する。
〔永享七年十月十四日〕 / 冊子 371頁
永享七年十月十四日付の文によって大覚寺義昭を誅する旨を触れられた者として、本田重経以下九人を列記した交名。
延徳元年十一月廿六日 / 冊子 545頁
延徳元年十一月二十六日の犬追物について、島津忠昌をはじめとする手組の構成員と、それぞれが射た犬の疋数を記録した一覧。
延徳二年正月十八日 / 冊子 546頁
延徳二年正月十八日の犬追物手組を記し、島津忠昌を中心とする参加者名と射た犬の疋数を一覧にした記録。
延徳二年二月十三日 / 冊子 547頁
延徳二年二月十三日の犬追物手組を記し、島津忠昌以下の参加者名と各人の射た犬の疋数を示した一覧。
延徳二年二月十四日 / 冊子 547~548頁
延徳二年二月十四日の犬追物手組について、島津忠昌以下の参加者と疋数を列挙した記録。本文の一覧は冊子五百四十七頁から五百四十八頁へ続く。