児玉利昌伝
年月日未詳 / 冊子 801~802頁
元和年間、児玉利昌が納殿役に転じて島津家久の側近として勤務した際、讒言を信じられたため、忠節と職務上の誓約を明らかにする起請文を提出した経緯を記す児玉利昌伝の記事。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
48 件 (全巻)/ 1–48件を表示
ページ 1 / 1
年月日未詳 / 冊子 801~802頁
元和年間、児玉利昌が納殿役に転じて島津家久の側近として勤務した際、讒言を信じられたため、忠節と職務上の誓約を明らかにする起請文を提出した経緯を記す児玉利昌伝の記事。
年月日未詳 / 冊子 802頁
児玉利昌が納殿役を命じられたことを名誉として精勤すること、酒色を慎むこと、機密を口外しないこと、家久のためと偽る策謀に同意しないこと、食物に疎略があれば報告することを神に誓った起請文前書。
年月日未詳 / 冊子 227頁
寛永八年六月、家久が二人の公子を伴って江戸から帰国した際、児玉利昌が随行した。六月二日に江戸を発ち、七月五日に鹿児島城へ到着したことを記す児玉利昌譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 9頁
文禄五年以前、坊津に謫居して書名の高かった近衛信輔に、児玉利昌が古画への賛を請うたことを記す。二月二十三日に信輔から尺牘を得て、七月に実相(児玉利昌)が朝鮮から帰った後、その尺牘等を与えられたとする譜記事。原文に島津義久の名はない。
年月日未詳 / 冊子 300頁
児玉利昌譜が、慶長三年十一月に京都から朝鮮在陣軍へ撤兵命令が届き、十二月に島津義弘が兵を率いて帰還した際、児玉利昌も従ったと記す。利昌は朝鮮役でたびたび首級を挙げる功績があり、義弘に召し出されて褒賞を受けたとする。
年月日未詳 / 冊子 592頁
慶長二十年、児玉利昌が島津家久に従って五月五日に出陣し、肥後・平戸方面を経て大坂落城の報を受け、七月二十九日に大坂へ至るまでを記した譜伝記事。
年月日未詳 / 冊子 817~818頁
児玉利昌が島津家久に近侍して寵遇され、忠勤を認められたため、諸役人から敬われ、しばしば家久への取次を務めたことを記す。寛永元年八月には、蒲池備中入道が後嗣の件を川上久国らに申し入れ、利昌を通じて家久へ上申したことを例示した児玉利昌譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 823頁
寛永元年十一月十四日、島津家久が世子光久と慶安夫人らを伴って鹿児島城を出発して江戸へ向かった際、児玉利昌が納殿役として供奉したことを記す。翌年二月二日に大坂へ着船し、四月十三日に江戸へ到着した児玉利昌譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 38頁
児玉利昌の譜では、寛永四年五月二十五日に江戸で公子忠治が誕生し、島津家久が京都に滞在していたため、六月二十七日に国老伊勢貞昌が利昌へ書状を送り、誕生の様子を報告したと記す。
年月日未詳 / 冊子 44頁
児玉利昌の譜では、島津家久が江戸へ向かう際に利昌も従い、十月十九日に鹿児島を発ち、十一月頃に江戸へ着いたとする。家久は船中で三十一首の和歌を詠み、自筆の副本を利昌へ与えた。本文注は年次に不整合があると指摘する。
年月日未詳 / 冊子 172頁
児玉利昌が正月三日に鹿児島を発し三月九日に江戸へ着いたこと、比志島宮内少輔国隆が民を害し、保福寺での謹慎後も乱を企てて種子島へ流され、なお徒党を求めたため誅殺された経緯を記す。九月二十四日の徒党状況の申告や子の出家にも触れる。
年月日未詳 / 冊子 267頁
寛永九年、島津家久が江戸へ向かった際に児玉利昌が再び従い、二月十八日に鹿府(鹿児島)を出発し、四月二日に江戸へ到着したことを記す児玉利昌譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 273頁
寛永九年、肥後侯加藤忠広の処分と改易をめぐり流言が多発し、島津家久が兵を備えようとしたため、伊勢貞昌に事状を察させ、貞昌が過大な兵力動員を控えるよう上申したことを記す児玉利昌譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 404頁
家久在府中、児玉利昌が始良(姶良)の地頭職と給米三十石を受けたこと、納殿役として近侍し現地へ赴けないため、三十二歳の子利実を遣わし、児玉吉兵衛らと支配に当たらせたことを記す児玉利昌譜の記事。
(寛永十年)二月廿五日 / 冊子 404~405頁
児玉利昌の覚書。御ひたいれ、籠手、弓懸、履物、下着の帷子などについて、色・文様・寸法・数量・仕立て方を列挙し、伊東仁右衛門・渕谷四郎左衛門へ伝えた。
年月日未詳 / 冊子 630頁
寛永十四年の家久の療養経過を記す。久志本式部少輔が江戸へ帰った後、将軍家から外科の祐慶法印が遣わされ、伊東仁右衛門祐昌らが受け入れに当たり、児玉利昌や東郷重位らが昼夜近侍して治療を支えた。
(寛永十五年)八月廿二日 / 冊子 820頁
芝御袋の妹子の祝儀として御納戸蔵から立て替えられた鳥目二十貫文について、帳面への記載依頼を失念したため自身の借用のように見える事情を説明し、池上藤左衛門も承知しているとして処理を求めた児玉利昌の覚書。
六月十七日 / 冊子 136~137頁
児玉利昌が伊東新兵衛の近習に、伊東の健康状態を聞き及んで養生を勧め、篳篥を稽古するため長吉兵左衛門から一節借り受けたことを伝えた書状。その篳篥は兵右衛門家伝来の品であり、自分の物を入手した際には返却するよう求め、召し下された名誉を踏まえて稽古に励むよう勧める。
八月十八日 / 冊子 377頁
新造の御曹子が下向することを殿が喜んでおり、樺山美濃守が祝儀を申し上げたことにも謝意を示し、贈られた魚を受納したと伝えた町田久充・児玉利昌連署書状。
年月日未詳 / 冊子 427頁
『児玉氏乳後利昌譜』が、慶長四年の庄内の乱で、島津義久が富隈から平田狩野介宗応に兵を率いさせ、成渡瀬の守備へ派遣したこと、児玉実相・新納忠陸・平田宗次・吉田清家らが備えたこと、忠恒の帰国後の親征と八月十七・十八日の使者・檄の往来を記す。
(寛永十三年)五月廿四日 / 冊子 543~544頁
家久一行が五月十六日に江戸を発ち、二十二日に浜松へ到着して一行が無事であることを報告する。帰国に備え、大坂で新銭を調達する案など貨幣不足への対応も相談した書状。
(寛永十四年十一月) / 冊子 687頁
上使の下着と出立、安芸守の御礼上洛を祝し、黄門様(島津家久)の病状を報告する。いったん快方へ向かった腫物が再発して腫れと痛みがあり、医師らは口が開けばよいと見立てていることなどを箇条書きで伝えた。末尾に欠文または難読箇所がある。
年月日未詳 / 冊子 689~690頁
島原・天草での蜂起を受け、十月二十八日の山田有栄による急報、十一月三日の獅子島方面への命令、七日の三原重庸の出陣願い、十四日の唐津側からの援兵要請、十七日の川上久国・三原重庸らの派遣、十九日の島原到着までを記す。
元禄十四年八月廿三日 / 冊子 300~301頁
児玉利昌の孫・児玉利言が、祖父の朝鮮役での奉公を申し立てる。文禄元年、義弘の渡海時に自費で船を用意して朝鮮へ渡り、雑兵を多数討ち取ったため、帰朝後に褒美として知行三十石を与えられたと記す。本文は複数条のうち一条のみを掲げ、ほかは省略されている。
年月日未詳 / 冊子 635~636頁
朝鮮の役に出陣した児玉利昌が薩摩から軍勢を率いて赴き、元和二年十二月二十一日に帰参を願い出て赦免され、国老家久がこれを喜んだことを記す児玉氏譜の記事。
元和二年十二月廿一日 / 冊子 635頁
児玉利昌が文禄・慶長の朝鮮役で自力・自船により渡海し、主従や船員を率いて国府衆も無償で乗船させた軍忠を列挙し、その働きの披露を求めた覚書。
年月日未詳 / 冊子 680~681頁
元和四年十一月、島津家久が山川へ遊び、児玉利昌ら同族が従った際、久元ら家臣に時の風景を題として和歌を詠ませ、文臣も席に陪して七言絶句一首を作ったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 793~794頁
元和九年七月、島津家久が将軍に従って再び京都へ赴き、児玉利昌も随行したことを記す。本多正純処分を契機に諸大名の国替風説が盛んになるなか、国元留守居の島津久慶・川上久国らと、随行家老の島津久元・伊勢貞昌らが、児玉利昌・伊東祐昌を介して秘密の情報を交わし、八月に家久とともに帰国したとする児玉氏譜の記事。
七月廿八日 / 冊子 794~795頁
島津久元・伊勢貞昌が伊東祐昌・児玉利昌へ、近隣国の軍勢催促や諸大名国替の風説について内密に情報収集し、必要なら兵三千人ほどを出せるよう兵糧等を準備する一方、正式な人数割はしないよう命じた。将軍在京中のため諸国から注視されているとして警戒を促し、出雲・筑前・越前などの動静や軍馬購入の情報を挙げ、異変があれば注進するよう求めた連署状。
年月日未詳 / 冊子 815頁
寛永元年五月八日、島津家久が市来伴右衛門惟清の宅を訪れ、近臣と連歌を催した際、児玉利昌も席に加わって六句を詠んだことを記す児玉氏譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 2頁
寛永三年正月朔日、島津家久が江戸から帰国し、児玉利昌も従って三月朔日に府城へ着いたことを記す。同年、徳川秀忠・家光の上京に伴い、家久も四月に京都へ赴き、利昌が再び随行して九月に帰ったとする児玉氏の譜記事。
年月日未詳 / 冊子 639~640頁
児玉氏一族が惣領家再興のため、代々伝来の系図を利昌へ渡して宗職を継がせることを相談し、利貞が山口主馬介を介して系図と青銅千匹を届けた経緯を記す児玉氏譜の記事。
(元和三年)三月廿三日 / 冊子 640頁
児玉利貞が代々相伝の児玉惣領系図を利昌へ送り、祝いとして鳥目十貫を添え、系図の継承と新四郎の名乗りについて今後相談するよう伝えた書状。
(元和九年)七月廿八日 / 冊子 794頁
児玉氏所蔵写の島津久元・伊勢貞昌連署状。本文は次号No.1808の連署状と同文であるため、本冊では省略したと注記されている。
寛永元年五月八日 / 冊子 815~817頁
寛永元年五月八日、島津家久が市来惟清宅へ御成りの際に催された「賦何船」連歌。夏の空、雲、雨、春風、月、雪、旅、山、恋などを題材とし、家久・惟清・利昌・久元・重長・有栄・国隆・政喬らが百韻を連ねた作品。
寛永十年正月三日 / 冊子 405頁
児玉利実が、寛永十年十二月初七日付の江戸書状を翌十一年正月二日に受け取り、筑後守が始良(姶良)の地頭職と毎年八木(米)三十石を拝領した旨を確認した記録。同夜の兵法初めは式部大輔邸での実施が延期され、仁礼蔵人の宿所で若衆によって行われた。寛永十一年正月三日付で藤原氏利実が署名し、追記では同月二十三日・二十五日の市来八右衛門らによる地頭拝領関係の連絡・進物を記す。本文日付は寛永十一年正月三日で、索引の寛永十年正月三日とは相違する。
年月日未詳 / 冊子 17頁
児玉利昌が寛永十六年五月二十日に六十七歳で病没し、興国寺に葬られ、法号を寿山源量居士としたことを記す譜記事。生前に画工へ自画像を描かせ、東郷重位に画像へ添える歌を求めたとも伝えている。
年月日未詳 / 冊子 17頁
児玉家に伝来した掛軸に記された児玉利昌の詠草。天地を吹き分ける風と露を題材に、色を変えないものに寄せて変わらぬ心を詠んだ和歌で、寿山源量居士の名が添えられている。
年月日未詳 / 冊子 44頁
島津家久が十月十九日に鹿児島を発して江戸へ向かい、十一月下旬に江戸へ到着したことを記す。また、難波津の歌三十一字を冠した三十一首の和歌について、序文の寛永四年・五年表記に矛盾があると注記する。
年月日未詳 / 冊子 299頁/原整理番号 262
児玉筑後守利昌の江戸書案。天草吉利支丹衆の動向を受け、命令があり次第加勢人数を差し遣わすこと、御家替の件は先札で承知したことを上申する。後段欠失のため、具体的な宛先と結末は分からない。
「寛永十六年」五月廿日 / 冊子 17頁
東郷重位が児玉利昌の死を悼み、茶を持たせて送った書状。重位は利昌を頼みにしていたのに自分より先に亡くなったため力を落とし、今後誰を頼ればよいのか心細いと嘆き、遺族と思われる「御懐様」の悲嘆を察して心遣いを求めている。
年月日未詳 / 冊子 24頁/原整理番号 39-1
伊地知季安が、二十九日、三原重庸が島原から暇を得て帰国し、未刻に鹿児島へ着いたと記す。松平信綱は重庸に公の病気を尋ねる伝言を託しており、重庸が児玉利昌を介してその内容を上聞すると、公はひときわ満足したという。詳細は案文にあるとする記事。
正月廿九日 / 冊子 24~25頁/原整理番号 39-2
三原重庸・川上久国が島津久元・山田有栄らへ、重庸が八ツ時分に帰宅し、松平信綱から託された黄門様の病気・養生への見舞いを児玉利昌を介して申し上げたところ、黄門様が大いに満足したと報じる。黄門様は日増しに衰え、喉の内外が腫れて狭まり、胸痛と摂食困難があり、前日の三度の膳も半分ほどしか取れず、服薬も進まないという。薩州様の下向は確実で、大坂からも急ぎ到着するとの知らせがあり、日向筋の出迎えを命じる一方、小倉方面を通る場合にも備えるよう求める。また薩州様が陣へ直着すれば乗馬・供衆が追いつかないため、現地の者が支度して迎えるのがよいとする書状。
正月廿九日 / 冊子 25頁/原整理番号 39-3
三原重庸・川上久国が天草の北郷久加・上入来院重国・喜入忠政・島津久賀へ、江戸にいる園田清左衛門尉を早々に出立させるよう児玉利昌を介して命令が出たため、急いで帰国するよう命じることを求める。薩州様は大坂から下向し近日到着する見込みだが、黄門様は二十一日以来食事が取れず日々衰弱していると知らせる。現地の番手人数を問い、狼藉がないよう十分に相談するよう求める書状。
(寛永十四年)十一月七日 / 冊子 690頁
島原表の切支丹一揆へ薩摩から兵を出す場合、出水方面から兵を集めるのがよいと述べる。自身はまだ実戦経験がなく、将来人々を指揮するためにも今回の出陣を強く望み、江戸から派兵命令が出た際には自分を加えるよう児玉利昌に取り成しを頼んだ。
年月日未詳 / 冊子 67~72頁/原整理番号 1
山川を題に島津家久・島津久元らが詠んだ和歌と、家久の山川津遊覧を迎えた正龍文岳の漢詩を収める。続く『漢学紀源』巻四の正龍篇は、山川正龍寺と海上交通、渡来僧による漢学の伝播、南浦文之の講義・刊行、如竹らの学統を諸史料からたどる。
年月日未詳 / 冊子 474頁/原整理番号 468の1
三原左衛門佐重庸が伊集院地頭として居住中、近臣児玉筑後守利昌を通じて島原への出陣を願い出た経過を記す。願いを許され、薩摩兵四、五十人を率いて有馬へ赴き、板倉重昌ら上使を慰労したのち陣中で下知を受けることとなり、鹿児島を発して京泊から船行したとする。
正月七日 / 冊子 450頁/原整理番号 561-5
編者は、前文の玉薬方の組分書留について、児玉四郎兵衛利実が御兵具奉行のうちから玉薬方を分掌するよう命じられたため作成したものと推考する。書留は子孫家に伝来し、利実は児玉筑後守利昌の子で島原立にも参陣した人物だと記す。目録年月日は正月七日だが、本文自体に日付はない。