島津家久書状案
(慶長十八年)十月二日 / 冊子 415~416頁
慶長十八年十月二日、島津家久が三輪先達へ、諸白・魚・茶道具など遠路からの度重なる贈答に謝し、宴席で披露したことや当山賀後筋の相談を受けたことを述べた返書案。
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(慶長十八年)十月二日 / 冊子 415~416頁
慶長十八年十月二日、島津家久が三輪先達へ、諸白・魚・茶道具など遠路からの度重なる贈答に謝し、宴席で披露したことや当山賀後筋の相談を受けたことを述べた返書案。
(慶長七年)八月八日 / 冊子 833-834頁
三輪先達良盛が少将忠恒へ、僧祇補任の仰せにより進上したことを報じ、祝儀の銀子を頂戴した礼を述べる。錫杖の寄進は国宝として末代まで相続するとし、詳細は有方坊・大泉坊から申し上げると伝えた書状。
(慶長七年)八月八日 / 冊子 833-834頁
三輪先達良盛が龍伯へ、書状を拝受し、衆中で命じられた大護摩を吉日に執行すると報じる。銀子二百目を受領し、札巻と守矢を進上して、国家安全・武運長久・子孫繁昌を祈祷すると伝えた書状。
八月八日 / 冊子 311頁
恒例の大峯大護摩一座の料銀二貫四百目を受け取り、吉日に執行して札・巻数・手矢違を送り、国家安全、子孫繁昌、武運長久、諸願成就を祈念した三輪山先達快盛書状。
(慶長三年)九月十六日 / 冊子 237~238頁
島津義久(竜伯)が島津忠恒に、大峯先達から島津義弘は護摩の効験で間もなく平癒すると聞いたこと、石田三成から義弘・忠恒父子は国元へ直ちに帰朝してよいとの意向を得たので相談して好機を選ぶことを伝えた書状。宰相の暇は伊集院幸侃を通じて交渉すること、買い入れた八木七千石のうち七百石しか上っていないため甚五郎の怠慢を責めること、相良新右衛門の奉公任命、在番三交替の調整についても述べる。
元禄三年三月十日 / 冊子 854頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2274
島津綱貴が三輪山先達へ、自身の前厄に際して祈祷札などを贈られた厚意に謝意を述べた書状。
元禄十六年八月八日 / 冊子 435頁/整理ID 1485
三輪山王大先達法印尊海が島津綱貴へ、吉日良辰に大峯大護摩を先達らが修し、国家安全・武運長久・無病息災・延命・子孫繁栄を祈った御札と巻数を進上した書状。
慶長五年十一月廿八日 / 冊子 620頁
新納新八郎ら十一名が、用に備えて銀子一貫目(うち七匁不足)を借用したことを証する。利子について配慮を受けたことに謝意を示し、本銀は各人が国元へ下る次第、早々に返済すると約束する連署借用証文である。
(慶應元年)九月十一日 / 冊子 526~527頁/原整理番号 10
酒匂家の伝承と東鑑を手掛かりに、忠久に奉仕した酒匂朝景・景貞、幼少時の保護と入国随従を記す。「母衣」の意味、成長時に贈られた太刀の銘、委敷という語の解釈を検討する。道聖の自記にある忠久の誕生・元服・直垂の紋の秘事が、順聖院の指示で内密に調べられたことを述べ、未見の書付と開封閲覧の経過にも言及する。
康安二年八月廿五日 / 冊子 28頁
島津師久が、薩摩郡内の先達職を冠嶽衆へ充行い、先例に任せて補任するよう定めた補任状。
年月日未詳 / 冊子 118頁
日向国諸県郡大崎郷内の飯熊山別当が、近年欠けていた先達職を旧規どおり勤めたいと願ったため、島津家久がその趣旨を聖護院雑務坊へ書状で伝えた記事。
(慶長十二年)五月廿八日 / 冊子 118頁
慶長十二年五月二十八日、島津家久が日向国飯熊山の別当について、途絶していた先達役を当年から旧規どおり勤めさせたいとして、聖護院雑務坊に取成しを依頼した書状。
年月日未詳 / 冊子 187頁
飯隈山の先達職が近年欠けていたため、島津家久が前年に聖護院雑務坊へ旧式どおりの補任を願い、翌年その希望が認められて旧務へ復したことを記す系譜記事。
(慶長十三年)九月十一日 / 冊子 187頁
慶長十三年九月十一日、伊勢貞知が比志島紀伊守に、飯隈山別当先達職をめぐる南光坊との異論を説明し、家久の以前からの願いを受けて新宮が同意し補任されたことを喜び、家久から新宮へ礼を述べるよう求めた書状。
文化14年11月3日(年は朱書) / 冊子 520~521頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1580
重豪公御譜中、扣正文は家老座にあるとする。この節、不断光院に下馬札を建てる旨、先達て御内沙汰があり、御役人へ吟味を申し渡していたところ、別紙絵図面の通り仰せ付けたいとの申出があったため、その通り申し渡したと述べる。この件を申し越すので伝達を求める。文化十四年の朱書、十一月三日、鎌田典膳署、新納内蔵殿宛。名政與は目録による。原本19頁に重ねて記された返答の十二月十九日や朱書の図面返却文は次の1581へ分ける。本書は絵図面案への申渡と伝達依頼を記し、下馬札建設完了とはしない。
文政2年3月(目録・前後文書。正文に月日なし) / 冊子 552頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1671
重豪公御譜中、正文は文庫にあるとする。先達て有馬左兵衛佐を通じて申し述べた件は厚く承知し、その後ほどなく家政の折合が整った由を聞いて重畳に思うと伝える。ただし以前からの趣意を貫き、琉球国に関することなど万端を榮翁に相談するよう求める。従来の深い心添えによって物事が行き届いてきたため、格段の事情とする。老年の榮翁を煩わせるほどであることを察し、外藩にも関係する軽くない問題なので、今後も精細に介助するよう願う。内々にも、心添えは一段のことで機嫌にも関わるから、この趣を一同から遠慮なく伝えるよう記す。白木御文書八番箱四十三番一包内にあり、上包は土井大炊頭から渡された御書付とする。利厚は目録による。家政の折合という本文の報告を保持し、藩の財政難全般が解消したとまでは解さない。
五月廿八日 / 冊子 174頁
日向国飯隈山が古来務めてきた先達役が近年は欠如しているとして、当年から旧規どおり勤めたいとの願いを聖門の御前へ取り次ぎ、許可されるよう働きかけることを求めた書状。
寛永三年閏四月二十八日 / 冊子 102頁/原整理番号 9
島津久元・喜入忠政が五代勝左衛門へ、山伏が入峯する際は上方の両先達への申請・披露を経るよう指示する。あわせて所送通道の夫銭を百姓が高一石につき鳥目二文ずつ負担し、五月二十九日までに上納させるよう命じる。
康安二年八月二十五日 / 冊子 265頁/原整理番号 34
島津師久が冠嶽栄永を薩摩郡内の先達職に補任し、先例に従って務めるよう命じた補任状。
(寛文十年)十一月廿三日 / 冊子 573頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1367
土屋数直・久世広之・稲葉正則が松平大隅守へ、公方の健勝を伝える。琉球使者が当夏その国まで着岸したこと、来年の参府は先年の四月末・五月初めの発足と同じ時節とするか、同姓修理大夫の参勤時分をどうするかという照会を上聞に達したとする。修理大夫は先だって参府し、大隅守は来年五月中に国元を発足する際、琉球人を召し連れて参上するよう仰せ出されたと伝える。
宝暦九年四月七日 / 冊子 722頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2176
四月七日付の久世忠右衛門宛届書控は、島津淡路守との縁組を願う松平薩摩守の又従弟女について、先に届け出て薩摩守のもとへ引き取り、世話していると説明する。このため、別紙のとおり縁組を願うと伝える。
明和元年 九月十五日(年は朱注) / 冊子 27頁/原整理番号 102/整理ID 102
少将重豪が中山王の書翰を披見し、代替わりに際して王の使者を当秋に召し連れて参府する予定だったが、寒湿の痛みのため先に出府し、使者は秋に派遣するよう願った通りに仰せ出されたことを述べる。派遣された小波津親方から太刀・馬代白銀百両および目録の品を贈られ、その入念な心遣いを喜ぶ。九月十五日付、少将重豪御判。年記は朱注。宛名・出典は前通を受ける全上による。
明和二年四月十六日 / 冊子 83頁/原整理番号 181の63/整理ID 181-63
佐久間新左衛門が四月十六日、明十七日の紅葉山御宮参詣に際する薩摩守の予参について届ける。先に予参を勤める旨を申し置いていたが、昨日十五日に御暇の御礼を済ませたため、予参は勤めないと申し上げる。御名内として佐久間新左衛門が署す。既に届けた予参の予定と、御暇の御礼後に予参を勤めないという変更を区別し、変更理由と届出の日付を記録する。
明和二年十月 / 冊子 108頁/原整理番号 218/整理ID 218
佐々木文次郎に新暦調御用を命じ、水間喜八にその手伝いをするよう先に達していた件について、この度喜八が出府したので、御用向は文次郎方から伝えると知らせる。その差図に従うよう喜八に申し付けることを求める。本文は松平薩摩守の家来水間喜八の名を掲げ、十月の日付と朱注の明和二年を載せる。出府を急がせた先の指図に続き、出府後の指揮系統を定める内容である。
明和六年丑二月(日無記載) / 冊子 211頁/原整理番号 556の2/整理ID 556-2
上方筋の百姓が強訴などのために集まっているとの報告に対し、できる限り鎮め、困難であれば召し捕るよう命じる。領分だけでは行き届かないこともあるので幕府領・私領で協力し、幕府領・他領の者にも最寄りから人数を出して召し捕り、御代官または領主・地頭へ引き渡すとする。先に江戸で飛道具などの使用を無用とする触れがあったため、このたび騒動が起きて鎮め難い場所では、飛道具などを用いても差し支えないとする。以上の趣旨を伝達するよう申し来たので、早く国許へ知らせるよう求める。明和六年丑二月付、日・署名・個別宛所の記載はない。
安永六年酉四月(月まで) / 冊子 522~523頁/原整理番号 1440/整理ID 1440
この頃、鉄炮場へ多人数が集まり、郷中を分けたり上下に相掛けたりして矢先を争うとの聞こえがあると記す。こうした多人数の集まりが口論などに及ぶこともあり、かねて重ねて申し渡した趣旨があるところ、そのようなことはよくないので一切ないよう申し渡すことを命じる。一方、稽古については先に申し渡した通り、油断なく出精するよう改めて申し渡す。安永六年酉四月、大御目附。
二通の本文末とも二月(日不記)、末交付注:辰二月27日巳刻 / 冊子 524頁/原整理番号 682の3/整理ID 682-3
第一は、親征行幸をめぐる浮説で人心が疑惑・動揺している趣旨を示し、関東平定後に還幸するとして心得違いなく安堵し生業に勤めるよう求める。末は二月。第二は、当月下旬の親征を延期し来月五日に出輦、畿内の巡覧と大坂行幸、海事点検・追討・万民救済の意図を伝え、在住者も一体となって協力し仁恤の趣旨を末々まで心得るよう求める。大坂の行在を西本願寺と記す一方、但書は行在を東本願寺掛所、太政官代も同様の場所とする。二十七日巳刻の召出しに遠武橘二が出て二通を渡され、写しで触下諸侯へ伝達することを承知した旨の、内田から伊勢様への首尾注がある。
正文三月、交付注:辰三月晦日 / 冊子 554頁/原整理番号 715/整理ID 715
各藩から貢士を差し出す趣旨は先の沙汰のとおりとした上で、主人が議定職・参与職等を命じられている藩については、その勤役中は貢士を差し出すに及ばないと伝える。ただし主人が在勤中でも貢士を出したい者は、随意にしてよいとする。正文末は三月。辰三月晦日に太政官代辨事局が松室甲斐を通じて渡し、赤井直之進が承知した旨を新納嘉藤次が伊勢殿へ報じたとの注を伴う。
正文閏四月、交付注:閏四月15日 / 冊子 559~560頁/原整理番号 724の1/整理ID 724-1
諸侯の参朝制度は追って命じるが、親征出発前に誓約を済ませた者に先に暇を与えたのと同様に、留守中の上京や還幸後に誓約を済ませた者も、長く滞京して疲弊し藩の任を果たし難くならないよう、五十日余り京都に滞在した者には順次暇を与えるとする。帰国後は誓約の趣旨に従い家政を速やかに改革するよう求める。松平・肥後等を賊徒と呼び勢いを増して官軍に抗していると述べ、形勢次第で再度の親征もあり得るため、不虞への備えを固くし、国邑で指揮して待機するよう命じる。兵隊を残すことなど従前の指示も守るよう付す。正文末は閏四月。十五日に太政官代から渡され、肥前様衆から廻章が来た趣の新納嘉藤二の首尾書があると記す。
明治2年三月26日知政所、28日予定の戦亡者招魂祭を延期 / 冊子 656頁/原整理番号 847の3/整理ID 847-3
明後28日に御対面所で戦亡者の招魂祭を命じた旨を既に伝えていたが、御前の逝去により延期することになったので、その旨を伝えるよう求める。明治二年己三月廿六日、知政所。従来の予定と延期を区別し、新たな実施日、戦亡者の人数や祭の実施完了は記されていない。
十二月廿八日 / 冊子 764–765頁/整理ID 2586
別所常治が島津吉貴へ、日州諸県郡志布志で捕えた邪宗門の者を先達て差し送った件に答える。本人を吟味したが伴う者や立ち合った者はなく、今後の吉貴家中の往来にも注意する旨を伝える。
享保十四年八月 / 冊子 897頁/整理ID 2300
御入輿の御待受けに備え、道具や御紋・葵一色の相調えを申し談じ、御道具に付ける紋について先達の伺いを踏まえ人数や度数の儀を申請する覚書。
享保十四年十二月三日 / 冊子 987頁/整理ID 2454
竹姫入輿後、御祝儀の御使と女中らへの先達の書付に付札相違がないか確かめ、御用人・御使へ伝えるよう達する。
享保十七年 / 冊子 191頁/整理ID 454
益之助を大隅守の嫡子とし、先達て竹姫の猶子となったことを踏まえ、出生順位にかかわらず次男以下を陪臣とする家法を認める。
明和元年 閏十二月十四日(年は朱注) / 冊子 42~43頁/原整理番号 142/整理ID 142
島津土鈴・樺山左京・島津山城が連署し、嶋津左中・髙橋此面に宛てた問い合わせ。官位についての城からの仰せを使番が持ち出したところ、白書院の縁頬で老中から、琉人を伴う参府の喜びと従四位上中将への任官を告げられたことを承知し、喜びを述べる。官位のための出仕に際して先例による相違はなく、喜びは同じながら、琉人を伴うため、通常の参府とは少し事情が異なるという先達の問い合わせ書に、官位昇進に際して琉人を召し連れた旨が見当たらないと指摘する。後年の先例となる書留と家譜編集に関わるため、前の問い合わせ書を抜き出して渡し、御城坊主の書出しと食い違いがないか、いま一度説明するよう求める。年は朱注明和元年、閏十二月十四日付。目録は島津久定外二名連署状。出典注は重豪公御譜中・扣正文在家老座。
安永三年十二月(朱)、目録は同年十月(月差を保持) / 冊子 443頁/原整理番号 1225の1/整理ID 1225-1
諸大名の乗物について、近頃「打揚ヶ腰網」(本ママ)の類に紛らわしいものが見えるとして取扱いを定める。打揚腰網代は国持・溜詰・御三家の庶流・越前家が古来使用した分に限り引き続き使用でき、その他の国持も近来新規のもの、古来使用していても中絶後に再開したものは今後無用とし、前々の例の乗物を使い、打揚腰網代に紛らわしい乗物はなおさら無用とする。虎革鞍覆は古来の使用や近来願い等により使用する分は別とし、その他近来新規に使用する分は今後無用。茶弁当も古来のものや近来の使用に同等などの事情がある分は別とし、他の新規使用は今後無用とする。ただし途中の薬用等のため行列外で茶弁当を持ちたい旨を伺い済みの分は、供立を離して行列と紛れないよう伴わせる。供廻りの風俗は呉風にしないとの先達ての指示を再確認し、近頃の物好みや目立つ風俗を無用とする。供の者の着服をはじめ何事も前々の仕来どおりとし、召連れ供廻りの混雑を避け、先挟箱などと供廻りの行列の間に大概五六尺ほどずつ間を置くよう、前年の指示も重ねる。打揚腰網代・虎革鞍覆・茶弁当を持つ分は大目付へ届け出るよう命ずる。朱書は安永三年十二月、目録は十月とする。五六尺は間隔の原単位で、人員数や禄高別の人数表ではない。
朱に午十二月廿三日、末に午十二月廿五日(安永三年に対応、目録は廿五日) / 冊子 445~446頁/原整理番号 1225の10/整理ID 1225-10
矢野清右衛門が大御目付正木志摩守に参上し、用人坂田東馬を通じて、先達て仰せ渡された乗物の件を御用番へ伺っているが、まだ何分の沙汰もないことを述べる。仰せ渡された時には届け出るのが相応であるとの返答を受け、趣旨を書付にしておくよう言われたので、一通を認め差し出し、志摩守が聞き置いた旨を用人から聞いたとする。主馬が承ったこと、当番御近習役には別段申し上げる旨を付す。添える書付一通は打揚腰網代等の件で、御付札を伴い、御用番松平右近将監宛。次頁では、その側から御達があったため、内の一人が出向くよう切紙で仰せ渡され、櫻田御屋敷詰の御歩行落合平左衛門を当番御近習役へ差し出して別紙写を添えた経緯を述べる。矢野を申し出、受ける儀を内談したところ、今夜、表方の使者をもって御受を申し進めるのがよいと聞いたと記す。御用人には松倉左仲の表示。冒頭朱は午十二月廿三日、末は午十二月廿五日・主馬承之なので、両日時を残す。未沙汰の照会、書付呈出、御受の手配を分け、ここから三品の使用許可日や使者の派遣完了を確定しない。
天明四年十一月(文中九月十五日・二十三日) / 冊子 768頁/原整理番号 2150/整理ID 2150
九月十五日の登城時に、大目付久松筑前守を介して大廊下下休息所の使用を伝えられ、本丸・西丸で礼を述べた経緯を記録させる。九月二十三日には田沼主殿頭から留守居へ、休息所から桜之間内の障子際に控えること、場所は大目付・目付に問い合わせることが伝えられた。先達では年始・五節句を従来どおりとしていたが、追加口達ではこれらの日も同じ休息所を用いるよう改められた。十一月、島津久健が帳面へ記録するよう命じる。
文化10年9月(朱年注は年のみ。月は目録、本文独立日なし) / 冊子 410~411頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1288
重豪公御譜中・写正文在家老座。残暑の挨拶と上様方・御館様の機嫌を述べ、榮翁が国許へ發駕したことを祝う。先達にこの冬当地へ帰府するよう御前から申されたこと、国元に長く滞在するのは無用との沙汰があること、当年中に帰ると本人からの申出もあることを挙げ、必ず当年中にこちらへ帰るよう求める。万一翌春まで逗留すれば上への申出が偽りのように聞こえ御気毒なので、年内帰府を思召し、先達の趣の約束もあるため重ねてくれぐれも御沙汰を頼む。文化10年朱注、波江署、園川・初瀬宛、月は目録の9月で本文日付なし。發駕祝を国元到着報告へ変えず、年内帰府への働掛けを帰府実現としない。
文政6年4月16日~6月3日(本文) / 冊子 674~675頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1941
重豪公御譜中の招請客・来客記録。四月十六日に客来と掲げ、先月二十八日の御臺様神田橋立寄りと御目見・拝領への祝意を述べる訪問者、および堀本一甫・杉本仲温らの来訪を列記する。四月二十一日には官兵衛事先達の養子済後、初めて御目見を受けた者やお操・お隨・お壽事の招候を記す。五月二十二日、同二十八日、六月三日の客来も掲げ、松平隠岐守、戸澤大和守、久留嶋伊豫守、太田玄達、松平越中守、戸田采女正、水野壹岐守、中川常春院、奥平大膳大夫などの名を列挙する。途中、父母の事に関する招請を延期した旨も記す。
明治2年三月24日知政所(年は朱書) / 冊子 652~653頁/原整理番号 843の2/整理ID 843-2
地頭を古の郡領になぞらえ、士民を養い郡を粛清する重要な職として、外城に軍政を置き有能な先達を現地へ赴かせた旧制を評価する。一方、治平が長く続き遥任兼帯の空名となり、実務を他人へ任せる状態になったと批判する。版図返上と職制変革を踏まえ、地方官は王土を管する要職であり、軍国多事の時に地方の事を委任するので趣旨を理解し旧制と実効を両立するよう求める。副役を別に置いて事ごとに相談し、地内の点検、士気・軍威の充実、勧農その他の事務を行い、重大事項は政府へ申し出て商議・上裁を受けるとする。天朝の監察使による府県巡察の制度に従い、時々検使を遣わして所郡の統治と地官の能力を調べ、褒貶する旨を告げる。地頭と副役が職掌に励むよう向々へ周知する。朱明治二年己三月廿四日、知政所。旧制評価・批判を訓示に帰属させ、実派遣数や全員の現地着任済みは補わない。
年月日未詳 / 冊子 475~476頁/原整理番号 472
『平塞録』十五日の記事。細川光利が旗本人数を率いて河尻へ帰陣したと記す。天草から先達て種々の品を替え、島原への加勢を上使衆に申し出たが取り合われず、当初の指図どおり段々人数を引き上げて川尻へ戻った経過を述べる。