友貞書状
(嘉吉元年)五月廿六日 / 冊子 398頁
友貞が本田信濃守へ、大覚寺義昭の探索・捕縛を急ぎ、領内からも人を出して追究し、密偵を遣わすなど慎重に対応するよう求めた書状。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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(嘉吉元年)五月廿六日 / 冊子 398頁
友貞が本田信濃守へ、大覚寺義昭の探索・捕縛を急ぎ、領内からも人を出して追究し、密偵を遣わすなど慎重に対応するよう求めた書状。
「大永六年」九月四日 / 冊子 662頁
島津勝久が北郷信濃守に、たびたび味方してくれることへの謝意を述べ、金吾・祐脩との結束を今後も保つよう求め、詳細を知覧の使者に託した書状。
(大永六年)九月四日 / 冊子 667頁
本文ではNo.2041と同文のため省略された島津勝久書状。北郷信濃守に金吾・祐脩らとの協力を求め、忠節を頼み入れた内容である。
(慶長十七年)九月廿七日 / 冊子 380頁
慶長十七年九月二十七日、島津義弘が鍋島信濃守へ、使札と太刀一腰・御馬一疋・小袖五枚の贈与に謝し、国元の用務と今後の取次を伝えた書状。
九月四日 / 冊子 729頁
今回の合戦で北郷方が常に島津方へ心を添えたことを祝し、金吾・伊東祐修と無二に申し合わせ、遺恨が残らないよう引き続き親密に調整することを求めた島津勝久書状。
年月日未詳 / 冊子 188頁
『島津豊久譜』から、明軍が蔚山城の外郭を破り本城を危機に陥れたため、島津豊久が泗川から船で救援に向かい、三日で蔚山へ着いた記事。到着時には敵が退いていたが城兵はまだ知らず、豊久は単騎で諸軍に先駆け、敵首二級を得て鞍輪に結び付けた。左耳の下に傷を負っても退かず、その後に加藤左馬頭・黒田甲斐守・鍋島信濃守らが到着し、豊久は先駆けの働きを浅野左京大夫・加藤主計頭から賞賛された。
五月十一日 / 冊子 100頁
別府信濃守景が枇山權左に宛てた書状。奥州様が在国中順調で、早い下向を祝う旨の使書を受けたことを報告する。久太郎も今回の奉公に精を入れ、喜ばれていると述べ、詳しくは使者に伝えたとしている。
六月十五日 / 冊子 207頁
島津家の繁栄を祝う信濃守の使者と、鍋島加賀守からの書状・太刀・馬代銀子二十枚・白鳥二羽・諸白樽を受けたことへ深謝した。信濃守から加賀守の懇意を聞いているので今後も相談し親交を続けたいと述べた書状案。
明徳四年七月廿九日 / 冊子 148頁
本田忠親が、公方のため大事の際には妻子に優先して奉公し、命令に従うことを誓い、違背すれば伊勢・八幡・諏訪の神罰を受けるとした契状。
応永卅四年六月一日 / 冊子 339頁
本田重恒が安貞に関わる長田所在の田四段を榜巖寺へ寄進した文書として、重恒譜の摘録を掲げる。
元治元年子12月19日桂右衛門/外包:元治2年丑2月朔日 / 冊子 394~395頁/原整理番号 559/整理ID 559
螺鈿太刀一振を、備州國分寺住助國・嘉暦月日の在銘として掲げ、金無垢の十文字御紋・松皮苔の細工、分銅形の鍔、鮫白の柄・菊鋲八ツ、紫革緒と露金具四ツ、目釘、梨子地鳳凰高蒔絵の鞘、紅錦織の袋と箱などを記す。続けて近衛忠熙の詠筆で国を表す懐紙の掛物一幅、近衛忠房の詠筆による「いさをしを」の書き出しの懐紙の掛物一幅を、それぞれの表装・箱とともに列挙する。太刀は照國大明神社へ奉納するので御宝殿で護り、後年紛敷くならぬよう扱うとの元治元年子十二月十九日桂右衛門久武の通知を、井上信濃守宛に付す。外包には元治二年丑二月朔日に護置の旨を仁禮新左衛門が承知して白木御文書十一番箱へ納めたとの注がある。在銘の記録から製作者・制作年の真偽を確定せず、奉納通知と後日の収納注を分ける。
四月8日、京都三区域取締の三通 / 冊子 555頁/原整理番号 717の3/整理ID 717-3
四月八日付の京都取締に関する三通を収める。紀伊中納言と眞田信濃守には下京中の取締を命じ、蜂須賀阿波守と引き合わせて十分行き届くよう勤めることを求める。南部美濃守と藤堂佐渡守には中京中の取締を命じ、加賀中納言と引き合わせて勤めるよう求める。稲葉右京亮と京極佐渡守には上京中の取締を命じ、島津修理大夫と引き合わせて勤めるよう求める。
年月日未詳 / 冊子 729頁
天文元年二月から同三年十二月までの北郷忠相方の行動を日付順に記した日記。北郷信濃守父子、山内豊前守、北原・新納・島津諸氏との使者往来・会合・饗応、神事への参列、軍勢移動、城郭の攻略・守備を連続して記し、軍事と日常政務の実態を示す。
年月日未詳 / 冊子 28頁
島津氏久の譜として、大姶良・濱田・横山の諸勢が氏久に帰属し、氏久方が大姶良城・末次城を攻略して稱市場で戦ったこと、山田忠経を城主とし、本田重親を西俣方面へ移したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 170~171頁
島津伊久譜の記事として、応永四年四月下旬に山北方・南方の諸将と多数の軍勢を動員して清色城を包囲し、険路を越えて柵を築き昼夜攻撃した末、兵粮・矢の尽きた城方の降伏を受けて攻略した経過を記す。
応永卅四年八月十日 / 冊子 340頁
本田重恒が薩摩国鹿児島郡西田村内宮地園三か所を永代にわたり賢忠寺へ寄進し、諸公事の停止と子孫の違乱禁止を定めた文書。
応永卅四年八月十日 / 冊子 340頁
本田重恒が薩摩国鹿児島郡花棚の水田一町ほかを永代に賢忠寺へ寄進し、万雑公事・諸役の停止を命じた文書。
永享十年五月七日 / 冊子 380頁
本田氏親が鹿児島諏訪大明神祭礼の作法を子孫へ書き残した置文。島津貴久代に始まった頭殿・居頭の由来と役割、天下・国・三か国の祈念に御幣を奉る順序を説明し、島津家に奉仕する者が末代まで心得るよう求める。
嘉吉三年三月六日 / 冊子 406頁
本田重経が、亡母天桂祐公大師の毎月二十一日の忌日供養のため田字内丸五反を梶殿寺へ寄進し、万雑公事を免除した。買得地が本主へ返る場合は本物十七貫文などで代替地を求め、子孫も永く寄進の趣旨を守るよう定めた寄進状。
天正元年十一月十三日 / 冊子 321頁
吉利氏の下総守忠澄の子孫を掲げ、三郎九郎長住・顧金らの名と花押を記す。長住は天正元年十一月十三日生まれで、母は上井武蔵守為秋の娘とし、忠紹は天正十六年生まれとする。
(天正二年)四月九日 / 冊子 338~339頁
相良方の老臣が、久しく無沙汰となったことを詫び、隅州方面が島津方の勝利となったとの知らせを祝う。今後も親密な関係を望み、詳細は福田寺が口頭で伝えるとする連署状で、差出人らの花押と裏書を伴う。
天正三年三月十七日 / 冊子 431~432頁
天正三年三月十七日の犬追物手組で、義弘・吉利忠澄・本田董親・歳久・喜入季久らの射手、射犬数、検見・喚次を列挙する。雨天のため当初予定から延期された回の記録である。
天正九年八月十六日~十八日 / 冊子 693~694頁
相良義陽が北原・菱刈との戦いや大友氏の日向侵攻時に島津方へ敵対したため、島津義久が三州の軍勢を催して水俣城を攻めた経緯を詳述する。八景尾・銭亀尾・熊牟礼・軽石尾・井川比良に陣を置き、矢文の連歌を交わしつつ包囲し、義陽が芦北七浦と息子二人の人質を差し出して降伏を請うと、義久は受諾して囲みを解いた。
天正九年九月十六日 / 冊子 694~695頁
島津義久が数万の兵で相良義陽を攻め、義弘が八景尾の陣を守り、諸将が水俣城を包囲した経緯を記す。守兵は九月二十日に降伏して退去し、義陽は津奈木・湯浦・佐敷などを献じ、二十六日に佐敷で義久へ謝罪して息子兄弟を人質とし、阿蘇氏への出兵を申し出た。
天正九年八月上旬 / 冊子 697~698頁
天正九年八月、相良義照の度重なる敵対を理由に島津義久が芦北出兵を決め、義虎を先陣として水俣城へ迫った経緯を記す。城下で出水衆が反撃を受け、島津出羽守・切通左馬允を失うが、義久が三州の大軍を率いて着陣し、相良方の主要将士が籠城した。
天正九年八月九日~九月二十日 / 冊子 699~700頁
相良義陽の敵対を受けて島津義久が天正九年八月に水俣城を攻め、義弘・歳久・家久らが諸陣を守って大鉄砲を撃ち込み、相良方を降伏させた経緯を記す。九月二十日に比志島国貞が城を受け取り、義陽は佐敷・湯浦・津奈木を献じて和睦したが、恩に報いるため阿蘇方へ出兵し、甲斐宗運勢との戦いで討死したと続ける。
天正十年正月以後 / 冊子 710~711頁
相良家が弱体化したため、八代老衆が八代を島津領とするよう請願した経緯を記す。義久は義陽戦死後の領地取得を辞退したが、他勢力に奪われれば相良・薩摩双方に害があるとの強請を受け、自八代両城から関・谷山・高塚・豊福までを領し、球磨一郡を忠房に安堵して相良家を存続させ、残る旧領を忠平へ与えた。
天正十年正月以後 / 冊子 711頁
相良家の勢力が朝露のように危うくなったため、八代老衆が八代を島津領とするよう願った記事。義久は再三辞退したが、八代が他人の手に渡れば相良氏にも薩摩にも害となるとして承諾し、八代から豊福までを領して後に義弘へ与えた。
天正九年十二月以後~天正十年 / 冊子 745~746頁
相良義陽が三船へ出兵して甲斐親乗に討たれ、八代が騒動したため、新納忠元が大口など九か所の地頭衆を率いて直ちに八代へ入り、諸城の番を固めた記事。八代古老の要請で八代が島津領となり、地頭は後に伊集院忠棟が務めた。また大口衆らに日比良城を忍び落とさせ、安楽城も退去させたこと、合志・甲斐・有馬・田尻各氏の帰属を記す。
年月日未詳 / 冊子 195頁
島津忠隣譜の記事。筑紫進攻で副将となった忠隣は、七月六日の鷹取城攻撃で外門へ迫り、強敵と槍を合わせて八か所余りの傷を負いながら生還した。家臣の脇元城介は忠隣をかばって一歩も退かず討死し、河上左京亮も同日に戦死した。翌七日には忠隣が板添口から岩屋城へ直進して攻略に加わったと記し、忠隣本人が岩屋城で戦死したわけではない。
慶長二年七月廿八日~十一月十九日 / 冊子 153~167頁
慶長二年七月二十八日から十一月十九日までの唐島追渡・朝鮮在陣日記。固川・南原・全州・海南・羅州・淳昌・泗川新城などを往来する島津勢と諸将の動きを、日々の天候、出発・到着時刻、行程、陣替え、使者・書状・贈答、兵粮や会食とともに記す。住民の拘束、城や在郷の状況、戦闘・討死の報、明軍来襲への対応までを連日の実務記録として残す。
(元和九年)閏八月十日 / 冊子 796~797頁
寺山久豊・伊地知重竪が、薩摩へ来た南蛮の黒船は江戸へ使者を送る船で、順風がなく山川湊沖に停泊していると報告した。大型船のため頴娃・指宿・伊座敷などから引船を集め、長崎へは寄らず江戸へ向かう予定であること、積荷は糸・巻物・白黒砂糖など、人員は二百七、八十人で日本人約三十人を含むことを伝えた連署状。
宝暦八年寅九月十三日(収録届書は九月七日、玉勝院死去は八月二十日) / 冊子 347頁/原整理番号 976の4/整理ID 976-4
宝暦八年寅九月十三日、高橋縫殿の用事で記録奉行児玉早門之丞が出向いた際、竹姫の実母死去について用人が小出信濃守へ届け出た書付の写しを、後年の照合に備えて記録へ留めるよう命じられた記録。内包する届書によれば、竹姫の実母玉勝院は「先清閑寺大納言殿家女」で、八月二十日に京都で死去し、今七日にその知らせが届いた。忌は五十日、服は寅九月から卯九月までとし、竹姫の老女中から伝えられたため申し上げるという。届書は宝暦八年寅九月七日、竹姫用人石川伝太郎・野々山藪馬の連署。添書には、今日用人が小出信濃守へ届け出たので写しを示し、同じ写しを溜池へも届けたと記す。八月二十日の死去、九月七日の告到・届書、九月十三日の記録命令を区別して収録する。
「寛永廿一年」五月十四日 / 冊子 333頁
荒木某が、江戸在住の南蛮伴天連が日本へ渡来するとの情報を伝えた書状。鍋島信濃守・高力摂津守らが吟味し、諸浦まで番船を巡回させると聞いたため、関係文書の写しを送り、沿岸警戒を求めている。
〈寛延四年〉八月二十一日 / 冊子 322~324頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0951
八月二十一日、嶋津主殿・伊勢兵部・義岡相馬・嶋津主鈴・鎌田典膳・河野八郎左衛門の六家老が、平田靭負・市来左中へ、大御所の遺物を太守・隅州・菊姫が拝領した後の謝礼について返答する。上使小出信濃守への御礼を山澤小左衛門が酒井左衛門尉の御用人に取り次いだところ、名代で御礼するよう上使から伝えられたという。国元で聞き合わせた結果、名代御礼の筋は当初から定まっており、上使の有無によって変わるものではないとする。大御所の隠居祝いに慈徳院が腰物を授けた例と、延享二年十一月、病身の隅州に代わり嶋津加賀守が登城して謝礼した例を挙げる。この時は老中・上使側へ直接廻勤し、若年寄へは家老の使者、側衆・物頭へは使者を遣わした。在国の慈徳院遺物拝領では御用番に相談して使札を勤めたことも示す。 今回も先例に従い、上使への御礼を使札で勤めたい意向を伝える。小左衛門からの口伝と廻勤例書による説明だけでは不足があるとして、堀田相模守へ内談し、留守居と御用人浅井八兵衛を通じて詳しく調整するよう求める。使札の扱いが整わなくても名代御礼に差し障りがないようにし、老中・上使側への名代の廻勤、若年寄への家老使者、側衆・物頭への使者を先例に合わせて勤める。御書の案文は佐々木に差図し、国元で判紙を整える。 太守は当分忌中なので、忌明後に御礼を勤めることとする。隅州は忌明となり今日御頂戴し、名代御礼の首尾を申し越すよう求める。同日、日積を付けて加賀守へ依頼し、淡路守にも連絡する。国元では十一日付の判紙を整え、老中その他の役人への書状と、使札を勤める場合の使者を先格に従って準備する。大御所からの腰物拝領時に国元の馬廻を使者にした例を挙げ、今回も使札が整えば同様に取り計らう。御内証の謝礼、太守・隅州の御礼、菊姫の御手鑑拝領への謝礼は別紙朱書返答によって相談し、日光宮・御三家・御一門その他へ拝領を知らせる件も別紙で伝える。隅州の御礼が済んだ首尾と、太守の忌明後の御礼の扱いを報告するよう結ぶ。
明和二年四月十七日(本文) / 冊子 86~87頁/原整理番号 181の72/整理ID 181-72
四月十七日、本坊で御太刀目録・金馬代を献納する者の名順を、侍従以上として書き付ける。松平加賀守・松平讃岐守・御名から、諸大名と隠居、喜連川金王丸・喜連川秀翁までを列記する。松平越前守には「服」、井伊掃部頭と松平右近将監には「於御宮献納」の注記がある。隠居については、松平空山を内蔵頭隠居、松平監物を左京大夫隠居、松平丹後守を信濃守隠居、松平杢頭を阿波守隠居、松平但馬守を安藝守隠居、宗式部大輔を対馬守隠居、酒井靈岳を修理大夫隠居と注記する。個別の服・御宮献納・隠居の注を名順とともに保持し、全員が同じ場所・条件で献納したと一括しない。
明和二年四月十八日 / 冊子 88頁/原整理番号 181の74/整理ID 181-74
日光山法会が滞りなく済んだことへの祝儀と、国許への御暇を仰せ出されたことを、使者に伝えるよう仰せ付けられた旨を記す。その御口上に応じて、今日、使者を勤めた首尾を、四月十八日に佐久間新左衛門が左中様へ報告する。法会終了への祝儀、帰国の御暇、使者への御口上伝達を分けて示し、帰国が既に済んだとの記述にはしない。 これに先行する日付のない覚には、御老中松平右近将監の取次香取庄右衛門、松平右京大夫の津田庄次兵衛、松平周防守の小田五左衛門、阿部伊豫守の太田藤蔵を載せる。御側御用人板倉佐渡守の記載に続き、取次富岡又吉がある。後半の「若御年」には「寄脱カ」の注があり、小出信濃守の取次早田軍治、松平摂津守の佐藤六左衛門、水野壹岐守の山本喜兵衛、酒井石見守の梅野八右衛門、鳥井伊賀守の小笠原丹下を載せる。取次覚と十八日付首尾の各内容・日付を分けて示す。
天保3年春(米寿祝賀作品群。作品に月日なし) / 冊子 903頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2546
源里顕が榮翁こと島津重豪の八十八歳を祝って奉った漢詩。「奉壽」「榮翁君八十八」と掲げ、麒麟の足を思わせる瑞祥をもつ人々が高台へ集まり、南山の万寿の杯を共に唱える景を詠む。さらに九天で舞う仙鶴を挙げて、重豪の千秋の寿を祝う七言四句の作品。末尾は源里顕拜稿、朱注は柳沢信濃守で、朱印と落款の表示を伴う。正文所在は「全上」。天保三年の米寿祝賀作品群に属し、作品に具体的な月日はない。
天保3年春(米寿祝賀作品群。作品に月日なし) / 冊子 904頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2547
従五位下源里顕が島津重豪へ贈った和歌。「春日同詠老祝」の題を置き、この年からさらに長い年月を重ね、幾度もの松の十返りを待ち見ることができよう、と長寿を祝う。作者署名は源里顕で、朱注が柳沢信濃守と補う。前の漢詩No.2546と同じ作者による寿歌。正文所在の表示は「全上」。天保三年の米寿祝賀作品群に属し、具体的な月日は記されない。
年月日未詳 / 冊子 18頁/原整理番号 22
『平塞録』の記事。二十八日、鍋島信濃守が島原へ着陣したと記す。
年月日未詳 / 冊子 144頁/原整理番号 245
『平塞録』所収記事。十六日、上使の市橋三四郎が有馬へ着き、小笠原右近大夫・同信濃守・松平丹後守らが相次いで参着したと記す。
年月日未詳 / 冊子 150頁/原整理番号 264
『平塞録』。十八日、旧冬以来約三十万人が原城を包囲して大筒を撃っても一揆勢が屈しないため、有馬右衛門佐が日向から金掘十人を呼び、峯十郎兵衛・三原半太夫を付けて海手の堀から地雷坑道を掘らせた。しかし城方が横坑を掘って侵入者を鉄砲で討ち、鍋島信濃守方の坑道にも不浄物を流し込んだため、計略は失敗した。忍者の潜入も成果なく、城方の結束と防備の堅固さを記す。
年月日未詳 / 冊子 172~175頁/原整理番号 293
出水士山本甚左衛門蔵本の「味方手負・死人之覚」。二月二十一日夜寅刻の原城方切出しに際する寄手側の討死・手負を、松平右衛門佐、黒田甲斐守、黒田市正、寺沢兵庫頭、鍋島信濃守らの家中別・人名別に列記する。味方損害の惣合は二百七十五人で、内六十九人を死人とする。続く「きりしたん首数目録」は松平・黒田・寺沢・鍋島・立花各手の戦果を掲げ、合首数二百九十二・合生捕七人と記す。味方損害と敵方の首数・生捕を別集計として扱う。
年月日未詳 / 冊子 180~182頁/原整理番号 307-1
『平塞録』の二月二十四日条。上使衆の営で諸大将が攻城を評議した。戸田左門は、人数を損なわず敵を弱らせよとの公儀の命を根拠に兵糧攻めを提案した。水野日向守は、援軍の恐れがなく堅城であることや、軍に不慣れな若者が軍法を乱して損害を出す危険を述べ、兵糧攻めが妥当だとしたが、それは以前の意見であり、既に攻撃で歴々の侍と板倉内膳を失った現在は無二無三に切り崩すべきだと改めた。妙解公と鍋島信濃守は翌日の攻撃で三の曲輪・二の曲輪出丸を乗り取ると申し出たが、一座の諸将は一致せず、立花左近は退席した。日向守は、個別の攻撃では多数を損じ、人数を損なうなとの上意にも反すると批判し、城攻めには寄手の一致が必要で、この評議は頭のない「竹釘軍」だとして、上使の松平伊豆守が統一して裁決するよう求めた。日向守は美作守を残して帰陣し、伊豆守は二十六日の総攻めを決定して、諸大将へ書付を渡した。
年月日未詳 / 冊子 184~188頁/原整理番号 308
『藤掛集書』所収「城乗評定并水野日向守金言之事」。寛永十五年二月二十四日早朝、松平伊豆守信綱の陣所に寄手の大小名が集まり総攻めを評議した。戸田左門は、人数を損なわず鎮圧せよとの上意と城内の兵糧不足を理由に兵糧攻めを唱える。水野日向守は、堅城で援軍の恐れがなく、未熟な若者の拙攻で損害が出るとして兵糧攻めの理を説明した後、それは以前の判断であり、既に多くの侍と板倉内膳を失った現在は直ちに攻め崩すべきだと改めた。細川越中守と鍋島信濃守が三の曲輪・二の曲輪出丸の攻略を申し出たが諸将の意見は一致せず、日向守は分散した攻撃では上意に反して損害が増すとして、上使信綱の統一指揮を求めた。評定は二十六日の総攻めに決まり、信綱は鐘・太鼓・貝・鉄砲・火矢・合印・合言葉・先後陣などの規定を触れた。日向守も子の美作守、孫の伊織助と家臣団に二の丸・本丸攻略の内々軍法を示したが、二十四日夜から二十六日昼までの豪雨で攻城は延期された。その後、信綱は二十八日の総攻めと、二十七日早朝に諸大将が戸田左門の陣所へ集合することを命じた。
年月日未詳 / 冊子 218~223頁/原整理番号 333-1
『平塞録』所載の二月二十七日原城攻撃記事。翌二十八日の総攻めを評議するため、松平伊豆守ら諸大将が戸田左門の山手陣屋へ集まった。鍋島信濃守は、自陣前の二の郭枡形へ翌日の足次とする竹束を付けたいと上使衆へ申し、竹牌だけを寄せることを許された。ところが鍋島勢の者が出丸へ竹牌を付け、敵が退いたと見て鍋島安芸らが乗り込み、榊原左衛門佐職信や細川勢など諸勢も続いて三の丸・城内へ進み、鉄砲戦と混戦になった。記事は各隊の先陣争いと多数の個別武功を詳記し、末尾では非番ながら鍋島勢の城乗りを聞いて参加した松野縫殿之助・吉弘四郎太夫兄弟にも触れる。三の丸一番乗を書き出した者は四人いたが、明確な証拠がなく、その四人の差出が一通あると留保する。
年月日未詳 / 冊子 266~267頁/原整理番号 336-2
原城落城時に寄手が討ち取った首数を諸将別に列挙した覚。細川越中守285首(小字に四郎時貞の首と陣佐左衛門の討取りを記す)、黒田右衛門佐576首、鍋島信濃守692首、有馬玄蕃頭125首、立花飛騨守157首、松倉長門守47首、小笠原右近大夫25首、同信濃守15首、松平丹波守13首、寺沢兵庫頭108首、有馬左衛門佐83首、戸田左門18首、松平伊豆守15首、諸家使者中15首とし、末尾に「合二千四百四十余首」、松平伊豆守の首帳にこのとおりと記す。読取可能な14明細の合計は2,174首で、原記載の総数2,440余首とは一致しないため、数値を改めず差異を留保する。
年月日未詳 / 冊子 298頁/原整理番号 337-4
原城落城時に寄手が討ち取った敵の首数を諸将別に列挙した覚。鍋島信濃守692首、黒田右衛門佐576首、細川越中守285首(内、大将天草四郎時貞の首を陣野佐左衛門が討ち取った旨を付記)、立花飛騨守157首、有馬玄蕃頭125首、松倉長門守47首、小笠原右近大夫25首、同信濃守15首、松平丹後守13首、寺沢兵庫頭108首、有馬左衛門佐83首、戸田左門18首、松平伊豆守15首、諸家使者中15首とし、総数を2,440余首、松平伊豆守の首帳に付けた内容とする。読取可能な14明細は計2,174首で総数と一致せず、原記載を保持する。336-2とほぼ同文。
年月日未詳 / 冊子 314頁/原整理番号 341
『旧伝集』所載の逸話。島原で山鹿越右衛門が高所にいた敵五、六人を一人で突き散らしたが、負傷して鑓下の首を取れずにいたところ、永井信濃守家来の侍が敵を追って首を取り、山鹿へ渡した。後年、山鹿が江戸詰めから下る途中に濃州大垣でその侍と再会し、島原での働きを互いに確認した。さらに後の通行時には侍が山鹿を歓待し、酒を酌み交わして器を贈ったとする。
年月日未詳 / 冊子 153~154頁/原整理番号 38
足利義昭―義尋を起点とし、義尊・常尊・義在以下へつなぐ永山休兵衛家系図。義尋は南都大乗院門首で、義尊・常尊の母は播磨人古市胤栄の娘とする。母は義尋との間に二子を生んだため南都に住めず、京都に居て高山を号し、のち後陽成天皇に仕えて三位局と称し、道晃法親王を生んだため、先の二子も天皇の子分とされ帝王系図に載るという。義在は足利義昭が泉州蟄居中に生まれ、隅州へ流された際、在地の永山信濃守から名字を借りて永山を号し、千寿・右近・休兵衛、知足軒道性を称した。妻を永山氏女とし、末尾に義房(彦右衛門)―義比(休兵衛)の系線を掲げる。