長寿院盛淳領知目録
慶長三年五月十二日 / 冊子 209~210頁
長寿院盛淳が、薩州入来院の蔵野村における領地について作成し、松下甚五右衛門に宛てた領知目録。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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慶長三年五月十二日 / 冊子 209~210頁
長寿院盛淳が、薩州入来院の蔵野村における領地について作成し、松下甚五右衛門に宛てた領知目録。
(慶長三年)三月廿二日 / 冊子 200~201頁
新納為舟忠元が上井神五郎へ、上洛したと聞いて書き送った書状。吉田の内にある冨森九介・嶋田弥五右衛門尉の各三百石余の役口について、そのうち一口の取成しと知行方の配当を頼み、国境へ移るには少数でも役立つ人衆を伴わなければ困難だと訴える。また返地として上申した蔵野の内約五百五十石について、岡松が未検地なので検地後に帳面を提出するとし、岡松から京都・高麗へ夫丸を立てる件の差止めと、孫の二郎兵衛尉を上洛させる際の支援も依頼する。
(慶長四年)十一月廿四日 / 冊子 467~468頁
島津惟新が又八郎に、相良甚兵衛尉・大脇弥五右衛門尉の無事到着、庄内しわち・野々三谷への着陣としわち城落去の見通しを報じる。寺沢志摩守の浜之市到着、肥後方面の通路遮断、山口勘兵衛尉の再下向と法度・置目の徹底、内府拝領の栗毛を送ったことなどを列挙し、勝利後の処置まで油断しないよう求める。
二月廿九日 / 冊子 774頁
二月二十八日、有馬春之城本丸の塀内で敵二人に遭い、一人の槍を奪い、もう一人と槍を合わせて負傷させ、槍下で仕留めたが首は取らなかったことを、三原五郎兵衛の後日証跡を根拠に届けた田中五右衛門の差出。
未八月四日 / 冊子 511~512頁
普光院からの琉球関係文書一箱、徳川秀忠の御内書、系図調査時に島津弾正が借りた文書の所在を調査した報告。弾正死後に返上され、島津彦太夫から田中五右衛門へ受取が渡された経緯を阿多仲兵衛が記す。
(慶長五年)十月二日 / 冊子 587頁
島津義弘(惟新)が、数年の辛労に加え、今回大坂で残番の人数に加わった働きを神妙と賞する。今後も東表で奉公する形を整え、一層忠貞を尽くすよう求め、まず知行百石を与える。
宝永五年四月廿八日 / 冊子 506~507頁
黄致誠の朝鮮国書が島津武久宛とする点を、忠昌の実名・生没年と万暦年号から検討し、義久の時代には合うが宛名の書き違いとも考えにくいとして、年代の疑問を後考のため記した連署添書。
天明四年十二月十三日・辰正月十二日(本文追記、時系列留保) / 冊子 771~772頁/原整理番号 2162/整理ID 2162
伊奈半左衛門の代官所西葛西領海辺新田にある三万三千三百八十七坪の抱屋敷で、長屋四十坪五合の建築を四月に願い、そのうち十三坪を家作し二十七坪五合は当年建て終えたため、国許からの申付けを踏まえて届出と後続の作事を取り計らうよう説明する。辰正月十二日の追記は、堀田相模守家来西淳甫の敷地隣接地での長屋と門の建直しについて、先の許可と内申、見分依頼、御願不要とされた経緯、残坪数の建築後に再度取り計らう必要を述べる。
明暦四年六月十九日 / 冊子 134~135頁/原整理番号 47
東郷源五右衛門の算法書は、御上下や諸奉公人の宿送・夫役の負担が地域で偏るため、高一石につき真米一升一合の賦米を百姓一律に納め、実際に宿送等を勤めた者へ賃米として下すと説明する。給地分は領主が取納米から御蔵へ上納する。続けて出米の年ごとの差、八升一合の定式、江戸・上方奉公人の扶持米などの使途を考える。
文禄3年 / 冊子 794~795頁
島津領の検地に派遣する人員を、薩摩・大隅・日向の担当別に列挙する。薩摩方には黒川右近ら、大隅・日向方にも複数の奉行衆を割り当て、全体の奉行として大橋甚右衛門尉を掲げる。 八月に大坂を出立すること、扶持・馬の飼料、伝馬・人夫・船を行程に応じて手配することも命じる。太閤検地の実働部隊と移動・兵站を具体的に示す名簿兼覚書。
(慶長五年)十月二日 / 冊子 587頁
原資料ではNo.1195の島津義弘(惟新)感状と同文であるため、本文を省略すると記されている。
元禄元年十一月晦日 / 冊子 83-84頁
寺社奉行所が国分宮内與頭中へ、宮内社家所持の嘉禄三年下知状写一通と建長~嘉暦の下知状写一冊を御文書所へ提出させた達書。御用が済み次第返却するため、持主へその旨を伝えるよう命じる。
明和二年四月(日未詳) / 冊子 78頁/原整理番号 181の45/整理ID 181-45
日光山法会の御献納物宰領として津留五右衛門を差し遣わすため、御兵具所付足軽二人を付け、例のとおり申し渡すよう指示する。正文は四月付、左中名である。酉四月四日の朱書では、本文のとおり物頭へ申し渡し、首尾係へは取次の證文を用いて申し渡し、五右衛門にも申し聞かせたと記す。取次は岩下佐次右衛門。宰領への足軽配属の指示と、物頭・首尾係・宰領本人への伝達を分けて示す。
明和二年四月十一日(目録は四月十日) / 冊子 80~81頁/原整理番号 181の50/整理ID 181-50
酉四月十一日付で、日光へ差し立てる留守居・献納物宰領と随行人数を記す。留守居東郷源五は上下十二人、御献納物宰領津留五右衛門は上下三人とし、続けて足軽二人を掲げる。末尾は、右の者を今日差し立て、日光へ差し遣わすと記す。正文の月日は四月十一日であるが、目録では四月十日とされ、日付が一致していない。
文化12年12月6日(各手組)/文政2年12月18日(末尾保管追記) / 冊子 480~482頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1461
白木御文書八番箱中三十二。包紙に神事犬追物手組とある、文化12年十二月六日の各組配列表。犬追物の上手組・下手組、神事犬追物の上手組、犬追物の次手組、神事の下手組、「論之犬手組」と記す表、神事の次手組を順に掲げ、各表に名前・疋数・検見・喚次を配する。最初の上手組は島津又六郎二疋・相良満十郎一疋・新納十郎一疋・北郷勘解由五疋など、下手組は川上庄八郎二疋・種子嶋次左衛門一疋・村橋主計一疋など。神事上手組では新納十郎三疋、木脇伊左衛門三疋、村橋愛之介一疋、続く次手組では南郷寛太郎一疋・島津矢六郎二疋。神事下手組では碇山仲左衛門一疋・種子嶋左八郎三疋・菱刈藤馬一疋。論之犬手組では田中七左衛門二疋・菱刈藤馬二疋・島津矢六郎三疋等を記し、碇山の疋数には「三疋カ」の注を付す。最後の神事次手組は川上金十郎一疋・南郷寛太郎二疋・伊集院伊膳一疋・田中七左衛門四疋・伊勢巖次郎二疋等。検見には川上庄八郎・島津又六郎・川上十郎左衛門が表ごとに載り、喚次は主に川上四郎兵衛。末に射手奉行木脇権一兵衛、日記池田次郎兵衛・土持平左衛門、幣之役島津鐵袈裟候補・赤塚吉十郎、犬奉行岸良矢右衛門・面高眞之丞を掲げる。朱包紙注は手組八通の記録所での格護を命じられたこと、文政2年卯十二月十八日に橋口今彦・平山五右衛門が承知し白木御文書八番箱へ納置したことを記す。各表の疋数を合算せず、配列図の線・符号を人数や実績頭数へ読み替えない。
文政2年閏4月(朱書。6月19日は引渡・収納記録) / 冊子 556~557頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1680
重豪公御譜中、正文は文庫にあるとする。去る子年の河川普請御用金を、三都の借入と諸人の出金で補い、五年の約定で漸次返金するが、手当の見当がなく領内重出米が行われたと記す。去る丑年に指示したうえ、来る辰年までさらに二年引続き重出米を願う趣を聞いたが、領国一統の困窮を考え当年から重出米を免除し、諸人を安心させるよう命じる。さらに徴れば難渋し別の迷惑もあるが、代りの手当は見当らないので、家老の願に沿う出米を遅滞なく返金へ充てる取計いも求める。免除する領内重出米と、後段の返済に用いる出米の範囲を無注で一つにしない。子共の入用等も引受け、当時高二万石に応じた続料から年々五百石を二年間出し、所務重出米と合わせて三都借財を確実に返すよう命じる。この趣を家老ほか一統の末々まで伝える。朱書文政二年閏四月、家老中に。上包は大御隠居様御筆仰出、外包は六月十九日に安房殿から平山五右衛門へ渡し、白木御文書八番箱へ納めたとする。返済完了は本文に記さず、免除・拠出・伝達の指示を記す。
文政2年5月(朱書。6月19日は下渡・納置記録) / 冊子 557頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1681
出典は全上、正文は文庫、太守の御筆とする。先年の普請御用金を借入等で補ったが返金の手当が整わず、家老の願により重出米を三年間出した。期限が満ちても返金を全部備えられず、さらに二年間同様に願ったという。国中が続けて困窮するため、重豪は心配して吟味したが、他の手段で埋め合わせる見通しがなく、事情を考慮して今二年間願どおり命じ、その他も別紙どおり引き受け、続料から別段五百石をさらに二年間差し出す意向を示したとする。その趣意を一統が深く承り、下知どおり間違いなく返金を取り計らうよう命じる。この二つの事で老年の重豪を煩わせ、始終安心できないため、従来の趣法に加え朝暮油断なく精密に吟味し、一端でもその尊慮を慰めるよう心掛けることを求める。朱文政二年五月、家老中に。白木御文書八番箱二十八番にあり、六月十九日に安房殿から平山五右衛門へ下渡し納めたとする。本文の五月と下渡・納置日を区別し、返金済みや別紙の具体的内容を推測しない。
文政2年6月(本文。6月19日は御渡・納置記録) / 冊子 563頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1697
白木御文書八番箱中二十八番。所帯向が続けて不如意で、重豪は先年以来心配して趣法を変え精密に吟味したが、今はさらに難渋したと述べる。続料も表方へ出し、万端を省いて厳しく取り締まり、もう一人の御隠居も同様に居所まで改めていることを挙げる。格別の手段もないので年年来の精密な吟味を続け、一同相談し、勤向以外を省略して質素にするよう命じる。ただし家作・道橋などの破損では危険のないよう扱い、日常に支障のない修繕はしてよく、取調べて不差支えと分かるものは所帯が立ち直るまで据え置くとする。両御隠居を煩わせないため人々を勧励し安堵を図るが、時勢による詳略や物事の慢怠もあって見通しは立たず、仕事の始末・手元も怠らず取締り工夫するよう求める。難渋の原因を領主の意向と考える者もあるので、各方面で趣意を理解し精密に吟味して方策を立てることを命じる。本文末は六月、家老中へ。包紙は御筆仰出、文政二年卯六月十九日に安房殿から平山五右衛門へ渡し、白木御文書八番箱へ納めたとする。単なる一律停止ではなく、必要な安全と節約の取扱いを分けた指示である。
文政3年2月(本文。3月4日は受渡・納置記録) / 冊子 573~574頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1729
白木御文書八番箱中三十五。大御隠居が老年になお介助することに厚く感謝し、所帯向の難渋を特に心配しているため、面々にも時々申し聞かせていると述べる。先の大御隠居登城時に重い上意もあったので、以前に命じたとおり万事質素を守り、一門から諸士まで身分に応じて風俗を乱さず礼譲を守ることを求める。律儀を欠くことはならず、心得違いがないよう命じる。世上が華美になっているため、時節の趣意に合わない行いを避け、万事質朴を心掛けるよう随時申し渡す。学問・武芸も十分に行われていないので若い者にはさらに精励を求め、武芸で矢先争を求め勝負にこだわり、稽古の本意を失うようになることを戒める。一門や重役にもそれぞれ心得はあるだろうが、そのような事例があればよく慎むよう時々申し渡す。大御隠居の趣意を十分に通じ安堵させることに朝夕心を痛めており、近く出発するので、留守中は一同相談して取扱いに違いのないようにすることを求める。本文末は二月、家老中へ。包紙・外包は太守の自筆仰出一通とし、文政三年辰三月四日に内蔵殿から平山五右衛門へ渡し白木御文書八番箱へ納めた旨を記す。二月の諭達と三月四日の受渡・納置を区別する。
文政5年5月9日(誓約)/7月9日(納置注) / 冊子 616頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1849
白木御文書八番箱中四十六番の、天罰霊社への敬白で始まる起請文前書。伊舎堂親方盛元は、若輩でありながら去歳三司官役を命じられたありがたい仕合せを述べ、五か条を誓う。第一に御国許の奉公へ念を入れて勤めること、第二に斉興・重豪・斉宣・忠方へ少しも疎意を持たないこと、第三に御国許から命じられた諸事の御条書を堅く守り、悪意・邪儀を企てる者がいれば披露すること、第四に国王へ別心なく忠勤すること、第五に国中の掟や諸事を貴賤・親疎に偏らず沙汰することを記す。右の条々を偽りなく申し上げると結び、神文は略す。文政五年壬午五月九日付、伊舎堂親方盛元の判を持つ。外包紙朱四六の注には、同年七月九日、美濃殿から平山五右衛門へ渡され白木八番箱へ納置したとある。誓約日と納置日を分けて保持する。
文久2年戌4月廿三日暁(記事の日時) / 冊子 252頁/原整理番号 349の3/整理ID 349-2
印刷の3は有馬新七・弟子丸龍助・田中謙助・橋口傳藏・橋口壮助・西田直五郎・柴山愛次郎・森山新五右衛門の八人を年齢付きで掲げる雑集記事。八人が大坂から伏見へ抜け駆けして浪人に組し、申諭を聞き入れなかったため、前件の鈴木勇右衛門の列へ討手を命じ、文久二年戌四月廿三日暁に伏見の高道儀兵衛宅で討ち留め、皆即死したという記録。年齢には三十八九・二十六七など二数を並べた原表記があるので確定年齢に直さない。討留と即死は記事の記載として扱う。
明治2年九月(日不記)知政所 / 冊子 696~697頁/原整理番号 913の1/整理ID 913-1
通達留。馬術の比志嶋静馬・町田平・高橋甚五兵衛、射術の高田十郎右衛門・東郷長左衛門・伊集院半五右衛門・平田平六・木上源五郎、鎗術の梅田九左衛門・白尾登五右衛門、長刀の田代宗次郎を列記する。これらは師家として置いていたが、諸術の実用の利が少ないという達の評価から、各人の師家を免じる旨を本人と関係先へ伝える。但し望む人にその術を指南することは差し支えないとする。明治二巳九月、知政所。師家の役と私的な指南の但書を区分し、武術自体の全面禁止や各人の能力への現代評価、指南実績は補わない。
年月日未詳 / 冊子 570~571頁/原整理番号 592-1
親見出し『平塞録』の記事。七日、上使兼松弥五右衛門が有馬へ到着し、寺沢兵庫頭の出陣、籠城側の動向、細川勢の軍議と飛脚差立てを記す。
年月日未詳 / 冊子 583頁/原整理番号 617
『平塞録』九日条。上使兼松弥五右衛門が島原を引き払い、江戸へ帰ったことを簡潔に記す。
年月日未詳 / 冊子 146頁/原整理番号 254-2
小原織部の取払帳米払方。今村之弥左衛門、長前之清右衛門、荒武弥五右衛門尉の三人について、それぞれ真米一斗五升七合五夕を、正月十六日夜から二月十七日夜まで三十一日分の一かたけ分として記す。以下は十九日条に載せるとの注記がある。
二月廿一日 / 冊子 176頁/原整理番号 295-2
市来宗友の覚書。陣屋の外廻番衆として、本野大学助・垂野源左衛門・尾方対馬守・馬渡四郎兵衛・赤塚源太左衛門・同名主水佑・村田五右衛門・帆芦舎人佑・池田源蔵・川嶋杢丞の十人を列記する。本文日付は二月二十二日で、目録日付の二月二十一日と異なる。
寛永十五年二月廿九日 / 冊子 316頁/原整理番号 350
田中五右衛門国質が、三原五郎兵衛重英の原城本丸での働きを実見した証文。二月二十八日、三原が本丸石垣を登って屏上に立ち、弓で敵三人を射伏せたとし、矢数は六筋か七筋ほどと見たという。その後、三原が屏を越え、城中でも田中と合流して言葉を交わしたことを証跡とする。寛永十五年二月二十九日付で三原五郎兵衛尉宛。冒頭の『在三原四郎左ヱ門』は本文注記として区別する。
寛永十五年二月廿九日 / 冊子 317頁/原整理番号 354
田中五右衛門尉国質が、寅二月二十八日、有馬原城本丸の屏内で敵二人に遭遇し、一人の鑓を奪い、もう一人と鑓を合わせて『手負申候』と記し、その敵を鑓下で仕留めたが首は取れなかったと報告する。三原五郎兵衛尉から後日の証跡となるようその場で告げられたため差し出したとし、寛永十五年二月二十九日付で新納佐左衛門尉宛。編者注は『旧記雑録後編五』二一六五号文書と同文とする。
明和2年9月晦日 / 冊子 120~122頁/原整理番号 23-2
明和二年九月晦日付の別紙として伝わる禰占氏法名書上。白峰了雲居士、宝山大珎大姉、道岳昌久居士、快翁一慶居士、雲庵洞麟大姉、白林秋雲大姉、宝隣善室大姉、隆光意温居士、月窓妙寿大姉などの法名と没年月日を、禰占四郎兵衛・仙次郎・四郎次・休八らとの父母・子・妻・妹等の続柄に対応させる。後半は秋月妙光大姉、花栄祥心大姉、心伝妙理居士、寂山了道居士、春夢如幻居士、法雲妙光大姉、本性清心大姉、白室意照大姉、観室安心大姉、道雲本性大姉を掲げ、天明三年から嘉永四年までの忌日と、新四郎・新五右衛門・勘七・助右衛門・新九郎らとの関係を整理する。
正徳元年五月十六日 / 冊子 958頁/整理ID 3083
島津帯刀が田中五右衛門へ、五月十五日の島津吉貴の登城時に、将軍家宣からの褒詞が伝えられたと報じる。吉貴の退城後、大目付横田備中守を通じてその趣旨が示され、書付一通を添えた。
天明六年二月二日 / 冊子 850~852頁/原整理番号 2344/整理ID 2344
渋谷貫富は、芝田町屋敷類焼後の届書・絵図提出、渡辺忠四郎・安部次郎兵衛らとの見分や先例の確認、町並屋敷の地面配分と再建、御留守居付役の扱いを記す。高崎・長友らの往復書面と絵図を収める。
寛永十七年六月十九日 / 冊子 412頁/原整理番号 529
島津光久は鎌田政統・島津久元・島津久慶へ、相良清兵衛が相良家中を意のままにし、壱岐守を遠ざけ、親類や気に入った者には良い知行、壱岐守に仕える者には悪所を与えたため、壱岐守が幕府年寄衆へ訴え、詮議と処罰が見込まれると知らせる。清兵衛が召しに応じず籠居する場合に備え、新納加賀守らへ人数を率いて参集させ、足りなければ近辺の地頭衆を加えること、計画を他言せず注進を待つことを命じる。
宝暦五年九月二十二日~宝暦六年五月二十三日 / 冊子 579~580頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1724
宝暦五年九月二十二日、月直老中本多伯耆守正珍が忠洪の家臣を呼び、江戸留守居岩下佐次右衛門方峯が正珍邸へ出向いた記事。正珍は忠洪の幼少を理由に、使番京極兵部高主と目付青山七右衛門成親を薩府へ遣わして国政を監督させる幕命を伝えた。その日のうちに留守居佐久間源太左衛門盛邦を正珍邸で御請に当たらせ、翌朝は島津淡路守久柄が名代で謝恩した。ほかの老中・若年寄にも御請を述べ、江戸家老島津主鈴久郷・伊集院十藏久東らが相談して薩府へ報告し、継豊に伝えるとともに二人の旅館を府下の客舎内に整えた。翌宝暦六年四月五日、高主・成親が江戸を出発した。本文は両人に従う家老・用人・近習・給人・徒士・足軽・中間らの氏名や人数を列挙し、留守居岩下方峯、使番佐久間新左衛門村央、目付堀孫太夫興央らも江戸から同道したと記す。東海・伊勢路を経て十六日に伏見、十七日に大坂へ着き、薩府から出迎えた大脇孫五右衛門が船奉行として航行を警固した。風雨で海上が不穏なため木津川口に三日船を繋ぎ、二十二日に出航して五月九日に小倉へ着き、翌十日から九州を陸路で進んだ。十七日に出水へ入り米之津に泊まり、忠洪・継豊の命で樺山左京久智が慰労に赴いた。十八日高尾野・野田、十九日西方、二十日中郷・東郷・山崎、二十一日中津川・山筒野金山を経て川上、二十二日石原・加治木を経て脇本に泊まり、高橋縫殿種壽が慰労に赴いた。二十三日に鹿府へ入り、家老・若年寄・大目付・寺社奉行・勘定奉行・與頭・番頭らが旅館で迎え、諸役人が接待した。出典は重豪公御譜。
明和二年二月 / 冊子 61頁/原整理番号 181の7/整理ID 181-7
島津左中と高橋此面が、四月の日光山権現百五十回法会に派遣する者を先例に基づいて伺う。留守居の東郷源五、留守居付の橋口与三次、家老座筆者で与力を兼ねる税所次郎八、献納物宰領の津留五右衛門を掲げる。朱書には、左中が日光使者に命じられたことと、税所を与力兼役として差し越すよう申し渡し首尾係にも伝えることを記す。二月十二日には税所へ本文の通り伝えて御請を受け、首尾係へも伝達した旨がある。二月十三日には各人へ本文の通り申し渡して御請を受け、首尾係へも伝えたことを、取次の岩下佐次右衛門とともに記録する。その後、二月十九日に税所が病気のため断りを申し出て免じられ、代わって上村喜助に命じた旨を伝え、首尾書で報告したことを記している。
明和二年三月(日未詳) / 冊子 75頁/原整理番号 181の35/整理ID 181-35
島津左中と高橋此面同が、四月に日光へ差し遣わす使者の道中通人馬を伺う。公儀からは通馬八足を下す旨が伝えられたが、使者の勤向には物入りがあると聞くため、通馬四足を下し、少人数で籠越しをするよう命じてほしいと願う。続く東郷源五名の願では、通馬二足と四人陸尺を下し、留守居付以下には一人ずつ通馬一足を下すことを問う。末尾の津留五右衛門名の伺いは、このとおり命じてよいか、先例を詳しく知らないため吟味した旨を述べる。朱書には、使者が少人数で籠越しをするため往来通馬四足を下すこと、正文の趣旨を家老座の末席で左中へ申し達し、首尾懸にも伝え、書上の首尾書などは不要としたことを記す。別の朱書は、日光へ赴くため往来通馬二足と四人陸尺を下す扱い、留守居付以下への通馬一足ずつの扱いを補う。酉三月二十五日には正文どおり東郷源五の名代へ伝え、他は銘々に申し渡し、首尾係にも伝えたと記す。取次は岩下佐次右衛門。公儀の枠、家老連署の減員案、東郷の願、朱書の申し渡しをそれぞれ示す。
年月日未詳 / 冊子 865~866頁/原整理番号 2391/整理ID 2391
琉球では大風雨と凶作が続き、多数の飢民が出た。薩摩も凶作だったため、重豪が天明五年秋に幕府へ願い、米一万石・金一万両を拝借して琉球を救済した。中山王は天明六年夏、伊野波親方・新里親雲上を薩摩へ遣わして献品と書簡を贈り、重豪は四本長右衛門兼当・田村孝之助を江戸へ派遣した。中山王書簡は文句に問題があって直接献上できず、有馬源五右衛門純庸の奉書に改めて差し出された。翌年付の老中回答も本記事に続けて収録される。
11月27日 / 冊子 425頁/原整理番号 396の3
十一月二十七日、市来湊町から立てた源太郎・茂兵衛尉・五右衛門の三人を記し、続いて同日付で彦次郎以下二十四人を列記する。後者は市来湊から立てた浜村の者として、三原源右衛門・永山覚兵衛尉へ受取りを命ずる。二十四人の名簿には久三郎が二度現れるが、別記のまま保持する。三人の先行記載と二十四人の合計を混同しない。
年月日未詳 / 冊子 490頁/原整理番号 491
加世田士人相徳新助の蔵本による人名書上。三原左衛門が使者として島原へ渡った際、加世田から従った相徳新助・田実五右衛門・宮原佐吉兵衛・松田与七左衛門ら多数の名を列挙し、これらの人数が島原へ渡ったと記す。
年月日未詳 / 冊子 117~120頁/原整理番号 23-1
中表紙『禰占氏略系』に続く禰占氏の家伝・系図。上祖未詳の兵右衛門が十八歳で忠政君に出仕を求め、府下の士となって与力を命じられたこと、寛永十二年の戸口改め後も家臣・与力として扱われ、田宅と廩米を与えられた由緒を記す。四郎兵衛は辺川へ移住したが火災で系図を失い、普請方役人として光樹君に仕えた。仁左衛門は南戸役から取次役兼目附役となり、江戸随行中に病死。勘右衛門は九歳で久亮君の小姓となり、のち兵具方兼馬役を務めた。以後、勘七・新次郎・新四郎・新助・助市・仙之助・新九郎・新五右衛門・四郎次らの出生・没年、法名、母方、婚姻・離別、子女を宝暦・明和・安永・天明・寛政・文化・文政・天保・弘化期まで系線で整理する。
(嘉永六年)正月三日 / 冊子 434頁/原整理番号 2
家伝秘考の旧編を探索して気づいた点を上申する。御蔵書を容易に出せず、命じられた書をまだ拝読していないことを謝する。寛永年間に系図をまとめた平田清右衛門、その後の編集者田中五右衛門らの労を述べ、系図・文書・領内の旧記の探索が行き届かない可能性を指摘する。東鑑と玉海を照合して少しでも家伝の異同を明らかにしたいとして、丹後局の内侍奉公などを挙げる。
享保五年十月 / 冊子 446~447頁/整理ID 1194
松平薩摩守の芝居屋敷が手狭なため、島津淡路守の下屋敷地の一部を借り、琉球人参府時の用地に充てる件を記す書付。
記事 / 冊子 270~271頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0776
寛延三年夏、重年が宗信の遺髪を紀州高野山へ納めるため使者を遣わした。四月十九日暁、福昌寺で島津久亮が継豊の代わりに焼香し、覺門・覺淵らの読経、遺髪の護守と送り出しを行う。総監鎌田政昌、側用人菱刈實詮ほか一行を列挙し、五月朔日出帆後の風波による津々の滞泊、二十八日兵庫港着、二十九日難波着を記す。六月九日に大坂を発ち、十一日に高野山蓮金院で遺髪を仏壇に安置した。十二日は僧衆五十口の勤行と政昌の重年代焼香、十三日は五十口の大曼荼羅供を行い、奥院へ遺髪を納めた。銅製の遺髪箱を木箱に入れ、石の供檀に納めたとの注がある。同日の空輪堂で僧二十口三昧・供養・誦経を行い、霊塔を建立して銘を記した。
〈宝暦五年〉正月五日(目録・原本主書末尾) / 冊子 511~512頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書1552
平田靱負が正月五日、嶋津主殿・鎌田典膳へ、御手伝普請の工程・検分と人員引取の首尾を報告する。一~四之手の追加目論見により工事が進み、二・三之手は旧臘二十三・二十四日に幕府役人立会いの検分を受け、完成した工事の小屋返却と人員引取を求める。油嶋から松之木村まで百九十間の水分切は指示がなく、油嶋側五百五十間・松之木側百五十間の築留には見積変更で約五十間を加え、大榑川二百六十五間の切り・洗堰も未決とし、石田・八神の石寄せを急ぐが難場では三月までかかり得ると述べる。江戸の御馬廻・新番・御歩行・足軽からの派遣について、現場では足軽約四十人が不足すると伝え、太田新田の小屋は返却して人員を元木屋へ引き取り、早春の小屋返却・人員引取を年内に申し渡したこと、引取人数の不要分を吟味して追って差し下す旨を報告する。
明和六年(十二月二十四日・二十六日)、追記は明和九年春 / 冊子 234~235頁/原整理番号 628/整理ID 628
この年、恕翁公元久・大中公貴久・一唯公久保・心應慶安大姉・曹源院殿の廟室を重修し、石塔を移したことを記す。十二月二十四日、組頭島津直衛久中を福昌寺と恵燈院へ遣わし、それぞれ代拝させた。続く記事は、享保乙卯の年に福昌寺が「池魚の災」に遭い、その後も寺宇が整わず殿屋を仮設していたため、この年、旧制に従って再建したとする。家老島津久金が総監、大目付島津久起が副監を務め、寺社奉行町田久連・島津久前、側用人二階堂行端、用人川上久福・川田国起、普請奉行伊集院兼明・村田経芳・面高俊常らが関与した。経芳が東武へ役務に出たため俊常が代わったとの注がある。春正月に着工し冬十二月に完成、同月二十六日に入仏供養を行った。先規により使番頭川上久馬久致を通じて福昌寺へ青蚨五百匹を贈って慶賀した。完成後、扁額を作り、重豪が「玉龍山」の三字を親書して山門に掲げた。門外の石橋一か所は龍門橋と呼ばれたが廃され、明和九年壬辰春には泉を引いて池とし、石橋を架けた。長さ二丈六尺余、幅一丈六尺余で、壮麗さは旧制を超えたとする。池中に蓮数百根を植えて蓮池と名づけ、小堂二宇に観音と弁財天女を安置し、さらに橋を架けて通じさせた。観音は俗に水観音といい、もとは龍門橋の傍らにあったとの注を伴う。
慶応4年辰二月(日不記)、天草側役人らの連名・印表示 / 冊子 514~515頁/原整理番号 672の2/整理ID 672-1
「天草から差し上げた證文写」として、旧幕役衆が離散して頼る先を失った時に狼籍の者数十人が侵入し、救助を願ったところ鎮静のため速やかに出勢され、一島が安堵したと天草側が述べる。朝廷の沙汰を待つよう諭されたことにも謝意を示し、御当家に随従し、いかなる下知にも背かない旨を誓う。慶応四年辰二月に天草郡内の役人・附役等が連名と印の文字表示を伴って、薩州役人中へ差し出す形になっている。追書は、郡中庄屋の連印證文も同案なので差し上げないとする。救助・安堵は證文側の説明、随従は誓約として記す。
年月日未詳 / 冊子 586頁/原整理番号 626
肝付家譜。肝付三郎四郎兼屋が正月九日に百余人を率いて出陣し、高尾野・阿多藤代・串木野などの兵と家僕を集め、米之津から船団を出して島原へ向かった経過を記す。
正月13日 / 冊子 683~684頁/原整理番号 695
島原方面への出水経由の行程と、市来湊で船が到着していない状況を知らせ、船便・油・兵糧などの手配を急ぐよう求める書状。正月十三日付で川上久国が、市来・相良・東郷・有川ら関係者へ回達した。
寛永15年正月15日 / 冊子 704~708頁/原整理番号 734
加世田士人相徳新介蔵本による人数賦。仁禮右京亮以下の主従人数を次第不同で列記し、追加申出や乗船勤務、夫丸の割付、小松原・出水米之津での飯米支給を注記する。途中に軍士156人・外117人夫と記す。末尾では正月十二日以来二十日分の飯米として真米15石・赤米10石7斗を出水六月田御蔵から受け取り、人躰一人に真米一斗、夫丸一人に赤米一斗ずつ渡したと記す。寛永十五年正月十五日付。
年月日未詳 / 冊子 710~711頁/原整理番号 740
正月十五日を中心に島原出陣者の主従人数、米之津・久見崎などへの到着日、乗船勤務と飯米支給を記録する。福崎らの主従人数、御道具衆49人、兵具持の夫丸11人などを列記し、既支給分や僧侶から出された夫の内訳を付記する。末尾に三原五郎兵衛20人・平山七兵衛15人の有馬到着を記す。季安は次の記事を十六日に分け、十五日到着者の追記を加えたと説明する。
寛永18年2月12日 / 冊子 714~715頁/原整理番号 747の3
加久藤地頭仮屋に伝わる有馬陣立差出。伊地知重政の主従21人について、与力・供人を帰還日別に列記し、正月十六日からの在陣日数を計算する。二月八日唐津から帰還した組、二月十七日・二十三日および三月八日に有馬から帰還した組を記し、惣合日数1342日とする。寛永十八年二月十二日付、谷口次郎左衛門と伊地知弥右衛門の署名がある。