久通寄進状
応永卅三年霜月廿一日 / 冊子 337頁
久通が河邊郡宮村のちうれい二反を松崎長興禪寺へ永代寄進し、他者の妨げを禁じた文書。
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応永卅三年霜月廿一日 / 冊子 337頁
久通が河邊郡宮村のちうれい二反を松崎長興禪寺へ永代寄進し、他者の妨げを禁じた文書。
年月日未詳 / 冊子 819頁
「正文在島津図書久通」とのみ記し、関係する正文が島津図書久通のもとに所在する旨を示す注記。本文・日付・宛所などは掲げられていない。
年月日未詳 / 冊子 47頁
島津久通の譜では、父久元に従って島津家久の江戸参府へ随行し、忠元らと滞在した間、余暇に荒木十左衛門元満から馬術を学んだとする。寛永五年正月に馬書六冊、同年六月にさらに三冊を受けた。
年月日未詳 / 冊子 668~669頁
病中の島津家久が島津久通を江戸へ派遣し、久通が家久の病状と徳川家への忠節を伝え、伽羅十斤を献上した経緯を記す。将軍から家久の養生を勧める言葉と自筆判の内書、衣服などを受け、九月十九日に江戸を発ち十月上旬に鹿児島へ帰着した。
閏五月二日 / 冊子 74頁
島津久通と山田有榮が新納仲左衛門尉に、加治木西町の次右衛門の下人が小船で逃走し、頴娃川尻へ漂着して舟を乗り捨て、山川で潜伏していたところを探索・捕縛され、こちらへ差し出されたと報じた連署書状。逃亡者を在所の関係から新納方へ送り届けるので、受け取るよう求める。
(寛永十四年)六月廿九日 / 冊子 664~665頁
家督・知行を自身へ付属させるとの案について、河内守息女との婚姻を通じた当家相続が既に定まっていることや、二家を兼領すれば私欲と疑われることを理由に辞退の意向を詳述し、関係者への伝達と理解を求めた書状。
正保三年三月十五日 / 冊子 34~35頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0059
琉球からの返書、伊地知志摩守の下向、伊東家使者への返答、山絵図、琉球船の難風漂着、火災への対応など複数案件を国許家老へ伝えた三名連署書状。
正保三年五月二十六日 / 冊子 44~45頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0077
出水関係者の召出し、流罪・死罪・葬送、虚偽の申立て、御預人の処置など複数の刑事案件について国許家老へ指示した連署書状。
正保三年七月四日 / 冊子 45~46頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0081
島津光久の帰国、将軍からの時服・官位、江戸城での召出し、諸大夫の登城、装束・儀式などについて国許へ報告した連署書状。
正保三年七月二十六日 / 冊子 47~48頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0084
伊東佐兵衛らの処置、飛脚の拘禁、女性・家族の扱い、死者の葬送、家屋検分、訴訟・家臣処分など多数の案件を国許へ指示した連署書状。
正保三年八月十一日 / 冊子 49~50頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0087
使者・飛脚、出水の案件、大明使者の来航、船への米供給、琉球からの唐人木購入、家臣処分などを国許へ指示した連署書状。
正保三年八月二十七日 / 冊子 50~51頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0089
国絵図の提出、奈須・椎葉山や肥後との境界、絵図清書、図田帳、絵師・人員、江戸への進達など、国絵図作成の実務を国許へ指示した連署書状。
正保三年九月二十九日 / 冊子 52~53頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0094
大明兵乱・異国船への対応、船・米穀、使者・奉書、諸家の出仕、家臣の帰国など多数の案件を国許へ報告・指示した連署書状。
正保三年十月二十六日 / 冊子 55~56頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0101
大明兵乱に伴う平戸・長崎方面の情報収集と警固、使者・奉書、江戸での諸大名の出仕、家臣の帰国などを国許へ報告・指示した連署書状。
正保三年十月二十六日 / 冊子 56頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0102
阿部重次から留守居衆へ示された書付、長崎奉行高力隆長の指示、大明の争乱と異国船への警戒などを国許へ伝えた連署書状。
慶安四年四月廿一日 / 冊子 136頁
長く病床にあった将軍徳川家光が四月二十日晩に死去したことを急報し、江戸城から重臣らが下って供奉した悲痛な状況を伝えた。諸説・流言が生じ得るため十分心得、国中の仕置をこの時こそ厳重に行うよう命じた四名連署状。
永禄八年五月十九日ほか / 冊子 140頁
永禄八年五月十九日に将軍足利義輝が殺害されたことを記し、松永久通らの動向に触れる。また大隅国吉田若宮が神名帳に載せられ正一位となり、島津貴久が檀那であったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 783頁
島津久元の一流について、久元から図書頭久通へ続く系統と、久通の母が新納忠増の娘であることなどを図示した系図。
年月日未詳 / 冊子 215~216頁
五月二十四日、家光が土井利勝を介して家久に黄金・屏風・衣服・絹、忠直と忠紀に白銀・衣服を与え、御前で三人に馬も下賜した。六月二日に家久・忠直・忠紀が江戸を発ち、七月五日に鹿児島城へ入り、久通も供奉し、家久が江戸へ無事到着の謝使を送ったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 521~522頁
伊集院右衛門佑久昌を起点に、久通・久治らの官途、法名、婚姻、地頭職を記した一流系図。久治が島津義久の家老を務め、福島院・桜島・高山・市来・出水などの地頭職を歴任したことを載せる。
年月日未詳 / 冊子 531~532頁
若狭島津氏の子孫を島津久通が江戸在府中に若狭国へ照会し、三方郡井崎村の百姓九左衛門家に伝わる系譜と証文を得た経緯を記す譜。先祖島津道正への所領宛行を示す内藤光康書下を収める。
年月日未詳 / 冊子 714頁
川上氏十代久隅以後の家督相続を記す系図。長男久利には家督を譲らず、二男久通の子久貞を後継に定め、久貞の母へ自筆書状を与えた経緯を載せる。目録では独立書状ではなく系図抄(二)として掲げられる。
年月日未詳 / 冊子 730頁
北郷忠親流の系図を続載し、忠孝の飫肥新山戦死、久慶の宮ケ原戦死、久通以下の家系、女子の島津征久への婚姻などを記す。
明徳四年六月十一日 / 冊子 147頁
島津元久が、相国寺領三俣院の処置に手間取り上洛が遅れたことを陳謝し、酒匂新左衛門入道を使者として事情を説明させ、虎皮・豹皮・梅絵・料足を贈った書状。
文明十七年閏三月廿二日 / 冊子 523~524頁
平田兼宗が山田殿へ、北郷方へ送った書状の趣旨、伊東・北郷方面の情勢や江州の難儀などを伝え、詳しい返書を求めた書状。
永禄八年 / 冊子 138~139頁
永禄八年、島津義虎が長島城主天草越前守を討って同地を得たこと、伊東義祐が飫肥新山城を落として日置忠光を討ったことを記す。五月の足利義輝殺害後、義昭が還俗して上洛を図り、島津貴久・義久へ忠節を求める使者が送られた中央政局も載せる。
年月日未詳 / 冊子 959頁
島津尚久一流系図は、慶長九年十二月二十九日に初久が誕生し、母を新納忠増の娘とする。童名鎌安丸、のち文七郎と称し、延宝二年十二月晦日に七十一歳で没したと記す。
寛永十六年十月廿三日 / 冊子 57~58頁
島津久慶ら六名が、高野山における島津家宿坊の由緒と蓮金院への改替を示した条書。義弘・家久が蓮金院と寺領三十五石を代銀四十貫目余で買い整備したこと、廻向院が豊臣秀頼の大坂籠城に加担したため寛永十六年に宿坊利用を禁じたことを述べ、領内の参詣者を蓮金院に付け、廻向院や他坊への宿泊を禁じ、違反時は届け出て処罰するよう定めている。
年月日未詳 / 冊子 327頁
島津光久の達書案。親の下野守に付属していた役分知行を従来どおり島津久通へ下し置くことを伝え、久通が礼を申し上げた返答を聞き届けた旨を新納刑部太輔から申し聞かせている。
年月日未詳 / 冊子 329頁
島津光久の達書写。島津久通から役分を差し上げたいとの願いが出されたことについて、その返答を聞き届けた旨を新納刑部太輔を使者として伝えている。
(寛文二年)三月九日 / 冊子 447~448頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0968
島津光久が島津図書久通へ、金山採掘に他国者を加える許可を得たため、無用な入来者で領内の人数が七、八千人以上に膨らみ風儀が乱れぬよう人数を統制し、金山奉行と相談して採掘を繁栄させる方策を整えるよう命じた直書。
(寛文十年)三月廿九日 / 冊子 562頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1326
弘文院春斎(林鵞峰)が嶋津図書久通へ、今回の下向をねぎらい、二冊と遠方から取り寄せられた古証文を一覧したと伝える。先年送られた家記にある貴久以来の事績を今度の御書物へ書き入れたという。出雲殿(久竹の傍注)からの音信への返書送付を頼み、追而書では東鑑の件について面上で説明するため仔細を省くとする。
年月日未詳 / 冊子 133頁
島津久通譜の記事。参勤交代と江戸屋敷の造営・維持によって薩摩藩の出費と借財が増すなか、久通が金銀採掘の技術者を領内で探させ、寛永十七年に祁答院長野山中で砂金を発見した経緯を記す。採掘の評判で各地から金掘りや商人が集まり、産金を藩主へ献じて債務返済の助けとしたが、寛永二十年春に将軍家の禁令に従って採掘を停止したとしている。
「寛永十八年」六月六日 / 冊子 156頁
島津図書頭久通が新納加賀守へ、一同の疱瘡が軽く済んだことを伝え、祝儀の使者と酒を贈られたことへの謝意を述べた書状。受け取った酒を皆で祝い賞翫したとしている。
年月日未詳 / 冊子 194頁
寛永十九年、島津光久の参勤に島津久通も供奉し、旅中の家老役を命じられた。久通は供奉の列にありながら家老職を兼ねることを辞退しようとしたが許されず、やむなく大任を引き受けた。
「寛永十九年」四月二日 / 冊子 194~195頁
島津久通・頴娃久政・川上久国が、島津光久の江戸着府後に松平信綱の慰労を受け、将軍への拝謁を無事に済ませたことを報じた連署書状。あわせて西国浦廻上使の向井右衛門祐・小笠原芸州が出立し、東目・西目の巡見経路は大坂で決める予定であること、贈答品の受領や焼酎を音信として贈ることなどを伝える。
「寛永十九年」六月朔日 / 冊子 198頁
島津久通ら四名が、金山麓で金を小判相当の品位に整え、山中の商取引や運上・八木代などを金子で行う案について報じた連署書状。幕府老中らへ内談したうえで実施を認める印判書が下され、北郷佐渡守に関係者と相談して首尾よく進めるよう求めている。両替の扱いは既に命じてあるとして、当地から重ねて問い合わせないよう付記する。
「寛永十九年」六月廿八日 / 冊子 199頁
島津久通・川上久国・頴娃久政が、虎寿丸の加冠・元服を祝し、家中から太刀・青銅などの進上物を差し出す手順を知らせた連署書状。両殿や御前への太刀・折樽、諸地頭その他の家中衆が進上する品目と負担の目安を伝えている。
七月 / 冊子 205頁
島津久通ら三名が、島々の者が流罪人に私事や非分を申し掛けて殺害するとの風聞を受け、流罪人を勝手に打ち果たすよう命じたと称する書物があれば取り返すよう指示した連署書状。島民が恣意的に流人を死なせた場合は厳しく処罰すると申し渡すよう求めている。
「寛永十九年」七月十九日 / 冊子 206~207頁
島津久通ら三名が江戸での幕府老中との折衝を伝えた連署書状。薩摩金山の前年産金四十貫目は献上を免じられ、礼として金子三千両を進上したこと、当年の産金は年末の進上に備え、翌年も九州の飢饉が続けば採掘停止を検討することを報告する。あわせて他国者森寺清左衛門の召抱え、浦廻上使の帰着、八重山に渡った使者と琉球からの切支丹不在の報告などを知らせている。
「寛永十九年」七月廿一日 / 冊子 207~208頁
島津久通ら三名が、荒廃して百姓の少ない島原・天草へ隣国から百姓を移すとの幕命について、薩摩も百姓に余裕がなく田畠が荒れる懸念はあるが、天下の下知であるため従わざるを得ないと伝えた連署書状。使者の到着後すぐに相談し、隣国の様子も聞き合わせて移住の手配に尽力するよう求めている。
「寛永十九年」七月廿五日 / 冊子 208~209頁
島津久通ら三名が、鍋島信州の家老衆から知らされた『かれうた船』への警戒と通報手順を指示した連署書状。船が甑島方面に現れた場合は鹿児島を経由すると遅れるため、長崎および高力家へ島から直接急報し、早飛脚を用いるよう新納勘解由らへ申し渡すことを求める。あわせて島原・天草への百姓移住の使者派遣を知らせている。
「寛永十九年」八月八日 / 冊子 209~210頁
島津久通ら三名が、甑島に潜んでいた南蛮人九人について幕府老中へ報告し、書付・絵図を提出した経緯を伝えた連署書状。島内に彼らを世話した者がいないか油断なく調べ、長崎で出身地や宗旨を尋問すれば事情が明らかになるとして、念入りな調査を求める。あわせて八重山番手の帰帆と交替要員の扱いに触れている。
「寛永十九年」八月八日 / 冊子 210~211頁
島津久通ら三名が、切支丹宗徒を発見・届け出た者への褒賞を指示した連署書状。幕府高札では伴天連の申告者に銀百枚、いるまんに五十枚、一般の切支丹宗徒に三十枚と定められており、今回の通報者にも銀五十枚ほどを与えるべきだとする。南蛮人が長崎で述べた内容の報告を求め、竹内備前は江戸での用務がないため上らせる必要はないと伝えている。
「寛永十九年」八月十三日 / 冊子 211~212頁
島津久通ら三名が、甑島で南蛮人を捕らえて長崎へ送ったことを将軍が賞し、池田帯刀を上使として褒意を伝え、捕獲した島民へ褒賞を与えるとした連署書状。南蛮人と日本人を長崎で拷問・尋問し、島内に残る同類や協力者を捜索すること、発見者には銀を与え、隠匿者は処罰することを命じている。
「寛永十九年」八月十八日 / 冊子 212~213頁
島津久通ら三名が、南蛮人捕獲への褒意に対して島津光久が登城して謝礼した際、将軍が書状中の『下野守』に名字がないことを問題とした経緯を伝えた連署書状。古来名字を書かない慣例であると説明したが、将軍家一門や他国の例にならい、以後は公私とも島津一門の全員が『島津』の名字を記すよう厳命された。
「寛永十九年」十月十七日 / 冊子 215~216頁
島津久通ら三名が、島津光久の熱海湯治後に複数の政務を伝えた連署書状。甑島で捕らえた南蛮人の所持金銀を発見者へ褒賞として与え、刀・履物は鹿児島に留め、宗旨や同類を詮議することを命じる。ほかに籠屋の移転、当年の出物、甑島・長崎間の火立て、火災後に寺領へいた者の召出し、沖長門守の処分、八重山番手が売った鉄砲の回収と七人の処置などを指示している。
「寛永十九年」十二月朔日 / 冊子 219~220頁
島津久通ら三名が、翌年に金山を停止する件を伝えた連署書状。新納右衛門佐が阿部対馬守へ出向いたところ、金山を直接停止する旨を告げられた一方、領国内の者には採掘させたいとの従前の申出もあったため、酒井讃岐守と相談して改めて上聞に達することとなった。北郷佐州へも伝え、他国人を翌年早々に帰国させるよう厳命することを求めている。
「寛永十九年」十二月廿六日 / 冊子 223~224頁
島津久通・川上久国が、翌春から金山を停止する幕府方針を改めて伝えた連署書状。阿部対馬守の指示に従い、自国・他国を問わず金山関係者を残らず帰し、境を設けて人の出入りを断つよう厳命する。処置が緩ければ他国や江戸へ伝わるため、確実に停止するよう求め、同文を北郷佐州へも送ったとしている。
「寛永廿年」二月四日 / 冊子 226~227頁
島津久通・新納久詮が、琉球の金王子を中心とする使節の江戸参府について、接遇と先例を問い合わせた連署書状。王位継承の礼を名目とする使節の宿所、将軍・若君への拝謁と進物、他国使節との席次、琉球人の人数や装束などを検討し、過去の琉球使節の扱いを知る者から情報を集めて返答するよう求めている。