上井仲五兼政請文
年月日未詳 / 冊子 517~518頁
高麗渡海に参加する者へ、志のある人物や技能者を主君に取り次ぎ、帰朝後の扶持を保証し、火箭を持参する者の功績も一途に申し立てると約した上井仲五兼政の請文。約束に違えば諸軍神の罰を受けると誓う。
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年月日未詳 / 冊子 517~518頁
高麗渡海に参加する者へ、志のある人物や技能者を主君に取り次ぎ、帰朝後の扶持を保証し、火箭を持参する者の功績も一途に申し立てると約した上井仲五兼政の請文。約束に違えば諸軍神の罰を受けると誓う。
年月日未詳 / 冊子 502頁
長谷場越前の自記。豊臣秀吉が高麗国王との取り決めが不首尾に終わったことへ憤り、和国の武兵を渡海させるよう命じたと記す。その船津として西国の肥前名護屋に石垣の城を築いた経緯を掲げ、朝鮮出兵前夜の対外認識と軍事拠点造成を伝える。
年月日未詳 / 冊子 504~505頁
豊臣秀吉が秀次への関白職継承と聚楽第行幸を進める一方、愛児鶴松の死を嘆き、明・朝鮮への征服構想を強めたとする島津義弘譜の記事。北京を帝都として日本を豊臣秀次に委ね、自ら大明へ進む意向を述べ、高麗国王の不服従を理由に諸国へ軍船・兵粮・兵員の渡海を命じた。朝鮮出兵の理念と巨大な動員計画を島津側の記録から伝える重要史料。
天正20年4月26日 / 冊子 551頁
「禁制 高麗国」と題する豊臣秀吉の禁制であることのみを掲げた史料。本頁には具体的な条文が収録されていないため、現地での禁止事項や適用範囲は確認できない。
天正20年4月26日 / 冊子 551~552頁
高麗へ渡る軍勢のうち兵粮のない者へ切手に応じて三人扶持を渡すこと、帰住した百姓・町人には米銭を相応に支払い、勝手に物資を取らないことを定めた掟書。留守宅の財物管理、犯罪者の上申、誓紙による法度遵守も命じ、占領地での補給と住民・財物の扱いを具体的に規制する。
(慶長元年)四月五日 / 冊子 15頁
島津義弘が宰相殿へ、新正八幡の屋根葺板について雨露に濡れないよう手配を求め、祈念の札などへの礼、又八郎の帰朝を喜んで酒樽一荷を贈ることを伝えた。伊集院源介の上洛と、帰朝する又八郎を迎えるため國部ぬいを派遣したことを報告する。さらに安住三州から義弘の娘を庄内へ遣わすよう求められた件は、義弘が留守で源次郎も上洛中のため、義弘自身の下向後に対応するとした。父子の星供成就と高麗・京都のため、般若寺別当坊に不動護摩を七日修行させたことも喜んだ書状。
(慶長元年四月) / 冊子 15~16頁
島津義弘の覚書。又八郎(忠恒)の帰朝後の再渡海・上洛などについて、渡海の安全、勢揃いと馬、供衆として図書頭・鎌田出雲守ら十騎または十五騎を召し連れること、伊集院抱節・比志島紀伊守が主取となる残番衆七百人の配置を指示する。在京中の用件は各人が国元へ直接申し送ること、公儀が加徳島に召し置いた御上米・諸道具、残番衆の乗船・兵糧米、同島にいる高麗人の扱いにも触れる。さらに又八郎の具足・馬面・馬鎧、鉄砲五十丁・鑓五十本の携行と、伊集院小傳次の帰朝などを列挙する。
(慶長元年)四月十六日 / 冊子 17頁
龍伯(島津義久)が島津又八郎(忠恒)へ、明使の上洛に伴って忠恒の帰朝が決まったことを喜ぶ。高麗に残す人数に対する交替衆を急ぎ渡海させること、手配に行き違いがあって少し遅れたが伊進分へ申し付けたことなどを伝え、帰朝準備を進めさせた書状。
(慶長元年)五月二日 / 冊子 21頁
島津義弘が忠恒へ、明使来朝により高麗在番衆の主力を帰朝させ、忠恒にも上洛命令が出たため国分左京亮を迎えに遣わしたと伝える。残番衆約七百人は抱節・比紀伊守を主取として兵粮を確保し、風説に動揺せず隣所へ持場を明け渡さないよう厳命する。帰朝希望者を安易に伴わず、留守居と番所の仕置を徹底するよう求めた書状。
(慶長元年)五月廿九日 / 冊子 25頁
島津義弘が忠恒へ、明との和平成立により高麗在番衆の主立った者へ帰朝命令が出たものの、方針が変更され、中途まで帰った者も持場へ戻って勤番するよう命じられたと伝える。義弘は忠恒に代わって渡海する案を石田三成へ申し入れたが、二、三十日ほどの短期で交替すれば忠恒の面目に関わるとして退けられたため、諸人同様に高麗勤番へ戻るよう求めた書状。
(慶長元年)六月朔日 / 冊子 27頁
島津義弘が忠恒へ、家門様を帰京させる命令が徳川家康・前田利家を通じて太閤から伝えられ、使者を下したので早々の上洛を言上するよう求める。一方、忠恒の帰朝命令は変更され、中途まで帰っていても再び高麗へ渡って在番するよう諸大名同様に命じられたため、本田讃岐守を使者に知らせ、兵員・屋形など高麗への支援を怠らないよう指示した書状。
(慶長元年)六月十九日 / 冊子 28頁
龍伯(島津義久)が忠恒へ、京都から来た有馬銀右衛門の報告では高麗在陣諸将は帰朝するが、忠恒は在番を命じられたと伝える。島津勢は海路・陸路で上洛を始めていたため、命令変更を聞いて引留めの使者を送り、忠恒支援の人数・道具・見次を改めて調えて渡海させるとし、他家も在番となる見込みや国元の動向を知らせた書状。
文禄五年閏七月九日 / 冊子 30頁
樺山紹剣が、文禄五年閏七月九日に大地震があり、京都では十二日夜に諸大名の屋形や町屋、金銀で補強した御殿まで崩れ、数百人が圧死したと記す。高麗から人を日本へ渡す交渉にも影響し、秀吉が機嫌を損ねたことなど、伏見地震後の混乱を伝える自記。
(慶長元年)閏七月廿八日 / 冊子 35頁
島津義弘が宰相殿へ、兵庫頭を通じた伝言への謝意を述べ、高麗で本田讃岐が参陣し又八郎(忠恒)がよく働いていること、陣引の沙汰がなく兵糧も不足しているため、借用して三日中に船積みする手配をしていることを報告した。自身は帰朝を望む一方、老病と疲労により立居も難しく食欲もない状態を訴え、又八郎のため伊勢へ千日参りをさせていることなどを伝えた書状。
(慶長元年)九月十五日 / 冊子 45頁
島津義弘が忠恒へ、初秋に高麗在番衆を引き揚げる予定で替衆・兵糧を止めるよう京都から命じられたが、のちに明使との和議が破れて翌年三月の再渡海が決まった経緯を伝えた書状。薩州衆を先行して差し渡し、寒中の兵糧・船・人数を整え、国元とも緊密に連絡するよう求める。
慶長三年十月吉日 / 冊子 255頁
島津義久が慶長三年十月吉日に伊勢両大神宮と熊野三所大権現へ捧げた願文。高麗の陣中で重大な局面を迎えたため、両社の加護を頼み、代参をそれぞれ二人立てることを誓う。敵の退散、陣中の平安、早速の帰国がかなったことを大慶として、願力への報謝を述べる。
十月廿七日 / 冊子 268頁
島津義久(竜伯)が十月廿七日付で石田三成(治部少輔)へ出した書状。高麗の陣所へ唐人が攻めかかったとの風聞を受け、現地の様子を聞き合わせたが、援軍・見次について何の知らせもないことを憂慮する。支援を急ぐとともに、無事すなわち講和の実現へ向けて早急に才覚するよう求め、この一紙は火中するよう命じる。
正月廿八日 / 冊子 196頁
桂忠詮が、高麗方面へ江南仁を派遣する重大事について相談したいとして、早急に来訪するよう求めた書状。鎌田雲州も当地に滞在して昼夜談合中であり、少しも油断せず急いで越すことが肝要だと伝える。
十月十四日 / 冊子 196頁
本田正親が、高麗をめぐる雑説への対応として船を差し渡すことを知らせた書状。鹿児島から有川仲右衛門尉が乗船して相手方の津へ回るので、同船して談合し方針を定めること、荷物をいったん降ろして船の到着後に積み替えることを命じ、油断のない才覚を求める。
年月日未詳 / 冊子 517~518頁/原整理番号 327-2
明暦三年三月の書付。高麗出兵に関する人数や軍役、弓・鉄砲・馬・鎧などの武具・装備を箇条書きで記す。
年月日未詳 / 冊子 518頁/原整理番号 327-4
佐多家の本家の系譜と相続についての覚書。九代伯耆守牛監入道の子孫と養子の関係を述べ、家の由緒を説明する。
年月日未詳 / 冊子 357頁/原整理番号 9
『高麗御日記』から、朝鮮からの船が到着し、太刀一腰や青銅三百足などの贈答品が届いたことを記す記事を採録する。
(慶長元年)十月廿四日 / 冊子 49頁
島津義久が忠恒へ、大明との和議が破れ、翌年三月に総勢を渡海させる命令が出たことを伝えた書状。九州衆は年明けまでに渡海する見込みで、当国でも在番衆の交替を急ぎ、兵糧を先に差し渡すこと、義弘の指図に従って京都と連絡することを求める。
万治三年正月吉日 / 冊子 110頁/原整理番号 23
文禄三年十二月三十日の朝鮮在陣中の年越し記事。又八(島津忠恒)の本陣訪問と樽の持参、良也や光明院への贈り物、年越しの配膳担当と末の年男への任命・衣服の給与を列記する。夜には武庫(島津義弘)が訪れ、諸侍も歳暮の礼に出仕したと記す。
年月日未詳 / 冊子 110~112頁/原整理番号 24
文禄四年十二月下旬の朝鮮在陣中の日記。歳暮の礼として竹嶋・小西・大村・天草らから届いた鳥・樽・肴などの進物、加藤・小西ら諸大名への年末の使者と書状、年男の任命、鳥狩りや鞠、道具衆・中間衆への衣服の給与を日ごとに記す。釜山浦では小西行長・寺沢正成へ進物を届け、末尾に年男らへの肩衣・袴の給与を記す。
「寛永廿年」二月廿四日 / 冊子 229~230頁
島津久通・川上久国が、金山から両使が帰国したことを報じ、金山停止後の処置を指示した連署書状。北郷佐州と相談のうえ、曾木・横川の衆から四人ほどを金山番手として移し、扶持と山衆屋敷を与えて山内を朝夕巡回させること、金山停止に伴い他国人約二千人を早々に帰国・退去させることを求める。さらに高麗人の取扱責任者を為善から左衛門佐方へ付け替える件を関係者へ申し渡すよう伝えている。
年月日未詳 / 冊子 330頁
岩下某の口上覚書。以前に本高麗町で屋敷を与えられ、番所役を勤めてきたが、屋敷帳には載る一方で衆中帳に記載がないため、家族・扶持・役勤めの実績を挙げて衆中帳への登録と身分の確認を求めている。
7月15日 / 冊子 80~81頁/原整理番号 63の21
長谷場純知が塚脇次郎右衛門尉へ、又八郎の高麗渡海に備え百石につき五尋の火縄を調達し、十七日に持参するよう求める。火縄五尋十五文、三分出銀は鳥目七十五文と定め、出銀の今日限りの受取りを念押しする。高麗立の人組を知る二人も火縄とともに来るよう求める。
8月17日(年未詳) / 冊子 437頁/原整理番号 13-6
高崎宗右衛門が淵辺量右衛門へ、御記録方が高麗人に関して尋ねたい事項があるため、鎌田蔵人の伝言に従い、その日のうちに平田清右衛門宅へ出向くよう通知した八月十七日付書状。返事の際に詳細を聞くよう伝え、徒歩での出頭が困難なら乗物を手配させるとの配慮も記す。
(文禄2年)5月朔日 / 冊子 687~688頁
高麗在番衆と各使者に、大友吉統が小西行長の守る拠点を十分に援助せず、敵情を確かめないまま退却したことを「臆病」として厳しく告知した覚書。豊臣秀吉が、九州征伐時にも大友氏救援のため自ら出馬した経緯を挙げ、吉統の所領没収と毛利輝元への預け置きを命じる一方、その子には扶持を与えて加藤清正の配下に置く方針を示す。朝鮮出兵中の軍紀維持と、大友氏改易の処分過程を具体的に伝える重要史料。
年月日未詳 / 冊子 514~517頁/原整理番号 327-1
佐多久英の覚書。豊臣秀吉の朝鮮出兵に際する島津家の軍役、龍伯・惟新らの動き、出兵の準備や褒賞に関する経緯を述べる。
年月日未詳 / 冊子 637~647頁
大島忠泰が、薩摩で仕えた島津義弘を頼って高麗へ向かう道中を、宿泊地・人々との応対・贈答・風景とともに記した紀行。 旅先で詠んだ多数の和歌、金剛経読誦や神仏への祈り、故郷や知人を思う心情が随所に入り、従軍の道程を内面的に伝える。 軍事記事だけでは見えにくい、朝鮮出兵期の主従関係、旅の不安、宿の交流、武士の信仰と文芸活動を知る上で貴重な長編史料。
年月日未詳 / 冊子 835~856頁
文禄三年八月二十五日から十二月三十日まで、朝鮮在陣中の出船・帰館・使者往来・軍務・宴会・寺社参詣をほぼ日々書き継いだ「高麗入日記」。島津義弘・忠恒の行動に加え、寺沢志摩守、小西行長、福島正則ら諸将との交流を、太刀・馬・青銅・魚・茶・酒などの贈答まで含めて具体的に記録する。 船の渡航と水主の手配、武庫での弓・鉄炮・武具の出し入れ、夜討・射芸・舞・風呂・病気見舞い、暴風雨による船の難破など、陣中の日常と軍事運用を同時に描く。戦闘のみでなく、食事・天候・贈答・信仰・人間関係まで追える、文禄の役の島津軍を理解する上で極めて価値の高い長期記録。
年月日未詳 / 冊子 858頁
文禄四年正月十五日付で仰せ渡された高麗国への動員人数帳から、島津勢に関わる一隊一万八千人の記載を抜き出したもの。 全体の余部は省略される一方、島津家の石高を五十五万九千五百三十三石と付記し、軍役負担の根拠をうかがわせる。
文禄4年正月15日 / 冊子 859~861頁
朝鮮へ動員する諸大名の軍勢を番組ごとに分け、小西行長・加藤清正・黒田長政・島津義弘・鍋島直茂・宗義智らの名と人数を列挙する。 各隊の構成に加え、高麗国内の城の留守衆や関白側近衆の人数も集計し、文禄四年段階の再動員計画を数量的に示す。朝鮮出兵の軍団編成を比較できる重要史料。
年月日未詳 / 冊子 929~936頁
文禄四年十二月一日から三十日まで、高麗再渡海を控えた島津義弘周辺の日々を記す。天候、寺社参詣、連歌・茶・舞、贈答、使者・書状の往来に加え、船・馬・人員・武具・衣類・兵糧の手配、家臣への給付や知行処置、出仕・帰館を日次で列挙する。 比志島紀伊守・寺沢志摩守・伊集院幸侃・上井仲五らの動向も現れ、軍役準備と島津家中の日常が交差する様子を連続的に追える重要な日記。
慶長二年二月廿一日 / 冊子 82頁
高麗再度の陣立を定めた豊臣秀吉の文書。本文は後掲の同文書と同文のため省略されている。
慶長二年二月廿一日 / 冊子 83~84頁
豊臣秀吉が高麗への再出勢に際して定めた法度。先手衆の城攻めと備の順序、番替り、相互支援、船手との連携、軍勢の勝手な行動禁止、戦功申告の手続などを条項ごとに命じる。
慶長二年二月廿一日 / 冊子 84頁
前年同日付の高麗再度出勢法度と同案であるため、毛利壱岐守・毛利豊前守宛の本文を省略した記録。
慶長二年二月廿一日 / 冊子 84頁
豊臣秀吉が島津豊久に示した高麗再出勢の法度。先手の行動は加藤清正・小西行長以下が相談して定め、軍勢運用を統制するよう命じる。一般的な出勢規定とは別に、宛所が「嶋津又七郎とのへ」と明記される。
年月日未詳 / 冊子 85~87頁
豊臣秀吉が高麗再度の陣立として、先手・備ごとに加藤清正、小西行長、黒田長政、島津義弘ら諸将と人数を割り当てた文書。総勢を組ごとに集計し、釜山浦周辺の諸城に置く守備人数と担当武将も定める。
年月日未詳 / 冊子 45~46頁
高麗陣に参加する諸大名の持口・左右の配置と兵数を列挙し、陸上勢計四万九千七百人、船手計四千八百人などの軍勢編成を示した陣立写。
年月日未詳 / 冊子 58~59頁/原整理番号 56
高麗日記から、文禄三年十月十一日に北郷殿から幌を借りて見本とし、翌十二日に幌の件を主膳へ申し付けたことを記す。十一月六日には本陣へ参上し、帰館して幌と鎧を召し合わせ、御祝をしたという。文書55の行間朱書として載る記事。
(文禄4年)1月15日 / 冊子 78頁/原整理番号 63の16
文禄四年正月十五日付の高麗国動員人数帳の第二番から、羽柴薩摩侍従(義弘)の八千人を抄出し、その他を省く。当時の御高頭55万9532斛との張紙注を添える。人数と石高は別項目として記す。
年月日未詳 / 冊子 82~83頁/原整理番号 63の24
文禄三年九月から四年十二月の馬船到着、馬の贈進と馬奉行、名護屋津・壱州勝元の出着船、高麗唐嶋への到着や乗馬を記す。御供船別十二隻、十月三十日の御船を始め十七隻の到着、翌年十二月六日の大唐人の馬船七隻出船などを記録する。各日付の船数は別記事として扱う。
文禄三年十月十一日~十二月六日 / 冊子 237頁/原整理番号 22
文禄三年の高麗入日記から北郷殿の江規制書成と御本陣における御旗に関する記事を引く。朝鮮出兵期の旗役の動きを示す。
天正20年6月3日 / 冊子 566~568頁
豊臣秀吉が、小西行長・加藤清正ら朝鮮出兵諸将を複数の先懸隊に分け、各隊の人数と指揮官を詳細に列挙したうえで、一日交替で進軍するよう定めた書立・法度。総勢十二万人規模の編成、三組による番替、軍律の遵守、後続部隊との連携を命じ、渡海兵を順次投入して明国へ進む構想を具体化した、朝鮮出兵初期の動員・作戦計画を知る重要史料である。
年月日未詳 / 冊子 758頁
朝鮮の日本軍本陣における在番・警備担当を記した番帳。諸将・家臣を一定の組や日程に割り当て、本陣防衛の勤務編成を示す文書である。 本冊では旧記雑録後編の同文書を参照して本文を省略しているため、担当者名や番次の詳細は参照先での確認を要する。
(慶長2年)2月21日 / 冊子 78頁/原整理番号 63の17
朝鮮への再渡海にあたり、第五番の備えとして羽柴薩摩侍従に一万人を割り当てた陣立書の一部である。付記は慶長二年二月二十一日、秀吉の朱印により命じられた人数備えからの抄出とする。
文禄2年5月朔日 / 冊子 688~690頁
朝鮮国内の十八城を九州諸将へ割り当て、各城の担当者と城数を列挙したうえで、築城・土塁構築・守備人数・兵粮蔵・塩・火薬・鉄砲薬などの備蓄を命じる。 城の大小や必要兵力を検分し、翌年の海上防備と在番体制まで整えるよう指示した、講和期の日本軍占領地再編を具体的に示す大規模な朱印状。