渋川満頼安堵状
応永四年九月廿日 / 冊子 175頁
渋川満頼が佐多豊後守に、大隅・薩摩両国の本領地について従来どおり知行・領掌し、相違がないことを認めた安堵状。
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応永四年九月廿日 / 冊子 175頁
渋川満頼が佐多豊後守に、大隅・薩摩両国の本領地について従来どおり知行・領掌し、相違がないことを認めた安堵状。
宝徳二年八月十日 / 冊子 421~422頁
島津忠国が羽嶋豊後守に対し、羽嶋その他の諸所の知行地に相違がないことを認め、先例どおり領掌するよう安堵した。
宝徳二年八月十日 / 冊子 424頁
島津忠国が羽嶋豊後守に対し、羽嶋その他の諸所の知行地に相違がないことを認め、先例どおり領掌するよう安堵した文書。No.1334と同文。
(大永元年)十二月八日 / 冊子 634~635頁
島津忠朝が島津豊後守に宛て、伊東尹祐の助言を踏まえた伊集院忠武・北郷関係者との交渉経過を報告した書状。各方の主張と仲介の動きを説明し、対立の拡大を避けて和睦を成立させるため、豊後守にも関係者の説得と取り計らいを求める。
(慶長四年)七月九日 / 冊子 399頁
徳川家康が伊東豊後守に、伊集院源次郎がなお居城を抱えていると聞いたため、島津父子への見廻使者を派遣したと知らせる。龍伯父子の指示に従い、伊東自身も現地で奔走することが肝要だと求め、後便を期す。
(慶長四年)八月六日 / 冊子 421頁
島津義久が伊東豊後守に、たびたびの使札と懇意に謝し、とりわけ今回早急に注進を寄せた厚意を喜ぶ。事情の詳細は使者に申し含めたので、書中では重ねて述べないとする。
(慶長四年)八月六日 / 冊子 422頁
島津義弘が伊東豊後守に、庄内へ伊東家中から塩などを通用しているとの風聞を、当初は虚説と思ったが国元から重ねて確報されたと問いただす。源二郎と同心して庄内へ物資を通わせるのが事実なら反乱への加担に当たり、伊東のためにも不利益だと警告する。内府が山口勘兵衛尉を派遣して源二郎の出城を求めているので、龍伯・少将と相談し、庄内への支援を止めて解決に尽力するよう求める。
(慶長四年)八月十日 / 冊子 424頁
本文は、No.840と同文のため省略すると注記される。内容は、島津義久が伊東豊後守に、たびたびの使札と懇意に謝し、とりわけ早急な注進を寄せた厚意を喜び、事情の詳細は使者に申し含めたので書中では重ねて述べないとする書状である。
(寛永七年)五月十五日 / 冊子 166~167頁
豊後守が安元へ赴いた労苦をねぎらい、子息藤次郎の不慮の死を聞いて意外の仕合に驚いたことを述べ、詳しい弔意は使者から伝えるとした島津家久の書状。
(寛永十一年)五月八日 / 冊子 421頁
島津久慶・久元が、諸所の合戦での戦功と政務参与の功労を賞し、太守家久の命により薩摩国伊佐郡黒木村を食邑として島津豊後守久賀へ与えた連署宛行状。
閏六月十七日 / 冊子 90頁
細川高国が島津豊後守に宛てた書状。渡唐船について先に詳しく申し入れた件を重ねて頼み、今後も懇意にしてもらえれば本望であると述べ、詳しい説明は桂樹院に託している。
四月廿七日 / 冊子 111頁
近衛尚通が島津豊後守に、長く音信を欠いたことを詫び、乱世で諸事が滞るなか相互に力を合わせたいと伝えた書状。九澤軒の口上を通じて用件を伝え、助力を依頼する。
四月廿七日 / 冊子 111頁
進藤長英が島津豊後守に、公方の祝言と若公誕生を祝し、近衛家門の慶事を伝えた書状。一方で都鄙の乱逆により家領が押領され断絶の危機にあるとして、九澤軒を介した扶助・奔走を依頼する。
四月廿七日 / 冊子 111頁
近衛植家が島津豊後守に、国中が無事であるとの報を喜び、深い由緒がありながら無音であったため短冊を送った書状。九澤軒を通じて依頼した件への奔走を求め、詳細は長英朝臣に託す。
正月九日 / 冊子 115頁
川上久国が豊後守に、陣中の大将役二人と談合衆六人が任命され、今後の調整はこの体制で行うとの命令を伝えた書状。児玉筑後守からの仰せを受け、甲斐掃部介・有馬左近将監にも申し含めたとしている。
九月二日 / 冊子 121頁
進藤長英が島津豊後守に、未だ直接交信していないため書状で事情を伝え、家門や匠作への助成・取り成しを依頼した書状。公私の零落を訴え、委細は使節の節春色山伏に託す。
十二月十五日 / 冊子 151頁
伊勢貞陸が島津豊後守に、渡唐船に関する忠節について池水新左衛門尉から注進があり、上聞に達したところ神妙で感賞すべき旨が示されたと伝えた書状。相手の面目を祝し、詳細は潮口孫右衛門尉が申し伝えるとする。
七月廿七日 / 冊子 172頁
北条泰時が豊後四郎左衛門尉に、薩摩国御家人の揖宿平四郎忠秀と頴娃平太との間で争われた開門神領の件について、豊後三郎左衛門尉とともに双方を召して裁決し、その結果を申告するよう命じた書状。
二月十一日 / 冊子 257頁
島津久豊が、前年に三か国の安堵と官途・御剣・御鎧を下賜されたことへの礼を述べ、御礼として金覆輪の太刀一腰と万疋を進上し、上意への披露を遊佐豊後へ依頼した書状。
享徳元年六月十二日 / 冊子 427頁
島津忠国が北郷持久へ、豊州飲肥福嶋への移動に伴って召し移された美作守の本地日置八十町に代え、宮之浦ほか九十五町を合わせた百十町の替地を申請して受けるよう命じた宛行状。
(慶長四年)八月六日 / 冊子 423頁
旧記雑抄は、本文がNo.841と同文のため省略したと注記する。内容は、伊東家中が庄内へ塩などを通わせ源二郎に加担しているとの確報を示し、事実なら反乱への同意に当たるとして支援を止め、山口勘兵衛尉による出城交渉と龍伯・少将の対応に協力するよう求める書状である。
慶長七年九月十一日 / 冊子 847頁
島津忠長が歌道門弟となることを許された際、伝授された内容を一言も他言しないと誓った起請文。違反時には日本国中の神々、とりわけ住吉・玉津島の神罰を受けるとする。
七月廿七日 / 冊子 538頁
薩摩国御家人指宿平四郎忠秀と頴娃平太忠継が争う開聞神領について、双方を召して裁決し、事情を注進するよう命じた北条泰時書状。
八月十四日 / 冊子 745頁
唐船に不慮の事態が起きた場合は忠節を尽くすよう島津方へ論旨が下されたので、万一の際にはその趣旨を心得るよう命じた書状。
(慶長四年)四月三日 / 冊子 372~373頁
吉田豊後が、島津忠恒の昇進を祝し、急ぎの作事で暇がなく参上できないため、まず使札で祝意を伝える。また高麗での手柄が一段の面目となり、末代まで島津家の誉れとなることを喜ぶ。本文注記は、この祝儀を忠恒の少将任官に対するものとする。
暦応二年五月四日 / 冊子 719頁
豊後国井田郷について御教書を受け、戸次豊前太郎代へ引き渡して以後は守護代が関与しない旨を請け負った豊後国守護代正全請文。
暦応五年二月六日 / 冊子 746頁
豊後国井田郷地頭職について、先の御教書を承知し、守護代として戸次豊前太郎頼時代官妙性へ下知・執行することを請け負った正全請文。
天明七年正月廿九日 / 冊子 926~927頁/原整理番号 2546/整理ID 2546
家督相続が首尾よく命じられて安堵したとして、相伝の家宝を別の目録に記して豊後守に譲り与える。子孫万代に至るまで譲り渡すよう命じる。天明七年正月廿九日付、薩摩守重豪の御判を据え、松平豊後守に宛てる。上包にも「松平豊後守殿」とある。
天正20年6月3日 / 冊子 566~568頁
豊臣秀吉が、小西行長・加藤清正ら朝鮮出兵諸将を複数の先懸隊に分け、各隊の人数と指揮官を詳細に列挙したうえで、一日交替で進軍するよう定めた書立・法度。総勢十二万人規模の編成、三組による番替、軍律の遵守、後続部隊との連携を命じ、渡海兵を順次投入して明国へ進む構想を具体化した、朝鮮出兵初期の動員・作戦計画を知る重要史料である。
寛政元年五月十九日外包(本文日付なし) / 冊子 1036・1037頁/原整理番号 2802の2/整理ID 2802-2
松平豊後守が御縁頬へ出て御奏者番の披露を受け、上意の後、御敷居の内の右方に着座することを定める。月番老中が祝儀を申し上げる旨を取り次ぎ、その後退去するという御礼の手順を記す。
九月廿日 / 冊子 467~468頁
細川勝元が島津陸奥守に、大内新介の分国である長門・周防への発向を伝え、大友豊後守と相談して速やかに軍功を挙げ、菊池重朝を先に攻めるよう求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 567頁
明応四年四月十五日、豊後守忠朝・修理亮忠廉らが串良方面へ進み、陣尾で合戦したことを記す島津忠昌譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 824頁
天文十四年三月十八日、北郷忠相・豊後守忠親らが島津貴久に国政と守護職の継承を勧めた経緯を記す。貴久へ玉札・御衣などを贈り、島津家の統領として推戴し、一族・国衆が共同して支える意思を示して、混乱した領国の統治権を確立しようとした。
(永禄六年)十月廿一日 / 冊子 126頁
佐々木宗綱が島津方からの要請を大友氏の重臣へ伝え、各人が了承して上聞に達したことを報じた書状。日向へ一軍を送る予定は豊前の戦争で遅れているが、終結後は豊後・肥後勢を残して派遣すると伝える。
天正四年八月 / 冊子 488頁
高原城攻めの初対陣で、城内の勇士落合豊後守が若い樺山久高へ弓を引いた。傍人が、美しい若者を殺して得るのは一時の名声にすぎず後世に非道の評判が残ると諫めたため、落合は弓弦を切り、久高は命を救われた。
天正四年八月 / 冊子 500~502頁
竹崎の白坂式部丞の内応を契機とする高原城攻めを記す。島津軍は諸口で激戦し、新納忠実が先駆け、樺山久高は落合豊後介に助命された。多くの戦死者を出したが、夜日詰めと断水で城兵を降伏させ、三山・温水・小林・須木も帰属、上原尚近を高原地頭とした。
(天正六年) / 冊子 541頁
島津方の老臣が鍋島氏へ、以前の懇書への返礼として賀雲を遣わしたが、交通困難のため途中から帰ったと伝える。日向は累年の反心により前年冬に島津義久の領国となり、豊後から防戦の動きがあるなら今後いっそう深く相談したいと申し入れ、色絹布を贈った書状案。
天正六年八月五日・九月十五日 / 冊子 547頁
八月五日、大友宗麟が梓山・矢ヶ峰を越えて無鹿へ着陣し、薩摩侵入を評議した。九月十五日には豊後諸勢が耳川を渡り、百町原北方の残付山へ陣を取って、六か国の軍勢の集結を待った。
(天正九年八月) / 冊子 692頁
島津氏老臣が伊勢貞知へ、豊後方からもたらされた計策に表裏があるとして、添付の一通を京都で詳しく披露するよう求めた書状案。現地情勢との相違を懸念し、国境の陸路往来を停止すべきだと述べ、詳しい説明を後日に期す。
天正九年九月二十六日 / 冊子 701~702頁
新納忠元が星野九郎へ、音信が滞ったところ丁重な見舞いを受けた礼を述べる。肥後方面が残らず制圧されたことを祝い、太刀一腰と百疋への謝意を示し、筑後方面では談合中に豊後勢敗北の報が届いたので諸口も間もなく静謐になるだろうと伝え、賢慮と忠節を求める。
(天正13年)12月13日 / 冊子 136頁
島津義久が新納忠元に、上杉方から届いた書状への返答と、京都方面の使者・仲介をめぐる情勢を知らせた書状案。 豊後との戦いが続くなか、諸勢力の和睦や上使派遣に関する情報を共有し、忠元へ今後も尽力するよう求める外交上の指示案である。
年月日未詳 / 冊子 137頁
天正十三年十二月、島津家久・上井伊勢守らが宮崎方面へ進み、高知尾からの情報を受けて豊後勢と戦った経過を記す島津義久譜。敵兵を多数討ち取る一方、退路や補給に苦しみ、家久が高知尾へ援兵・兵糧を求め、入田氏にも働き掛けた。豊後方面の前線での苦戦と補給要請を具体的に伝える。
年月日未詳 / 冊子 139頁
新納忠元が忠増らを率いて豊後方面の城々を攻め、城兵を討ち取った経過をまとめた譜記事。忠元は兵を分け、平田豊前守ら諸将と連携しながら権現城・城ケ尾城・茶飯城などを攻略したとされ、豊後侵攻における新納勢の軍功を顕彰する。
年月日未詳 / 冊子 164~168頁
天正十四年四月から五月にかけて、上井覚兼が豊後方面への出陣準備、入田氏・志賀氏・高知尾衆との連絡、軍勢・兵糧・船・使者の手配を記録した長大な日記区間。近衛家・京都からの書状や羽柴秀吉方への返答をめぐる相談が続き、使者の遅延、情報不足、家中の意見の食い違いに覚兼が苛立つ場面も見える。寺社参詣、法華経講、狩猟、酒宴、贈答、病気見舞いなどの日常と、九州停戦令への外交対応・豊後侵攻の実務が同時進行する。
年月日未詳 / 冊子 169頁
天正十四年六月七日、兵庫頭島津義弘が、前日の評議を踏まえて豊後への進軍をこれ以上ためらうべきではないと主張した島津義久譜の記事。三之山今宮の託宣が今月中の出陣を促したことを根拠とし、前年に堅志田・三船を手に入れた際にも神託があったとして、今回の出兵にも疑いはないと説く。軍議と神託が作戦決定を支えたことを示す。
年月日未詳 / 冊子 285~286頁
京勢の下向を受け、島津方に従っていた豊後国衆が離反し、陽城などをめぐる戦況が逆転した経過を記す。日向へ退く島津軍が各城で敵の攻撃を受け、味方の帰趨が急速に変化して豊後支配が崩れていく様子を伝える。
(慶長三年)十一月三日 / 冊子 273頁
長束正家・増田長盛・前田玄以ら奉行衆が(慶長三年)十一月三日付で島津義弘・忠恒へ出した連署状。泗川で明軍約二十万騎を追い崩し、父子自身も敵を討ち取った戦功を詳しく称える。蔚山・順天の戦況を踏まえて、毛利秀元・浅野長政・石田三成、四国・豊後勢、九鬼・脇坂ら舟手や鉄砲衆の渡海準備を伝え、敵が退けば諸城を釜山浦へ集約して帰朝するよう改めて命じる。
〔慶長三年〕十一月六日 / 冊子 277~278頁
近衛前久が〔慶長三年〕十一月六日付で島津義弘・忠恒へ出した書状。明の数万騎を即時に切り崩して三万余を討ち取った戦功を比類ないと称え、竜伯の喜びとともに禁裏へ報告したところ叡感があったと伝える。日州で豊後勢六万余を破った旧功にも触れ、秀吉死後は在陣を続ける必要がないとして、勢いを保ったまま早々に帰朝するよう求める。
十月十九日 / 冊子 598頁
本文はNo.1247と同文のため省略されている。No.1247では黒田如水(円清)が伊那掃部・長倉三郎兵衛へ、関ヶ原後に豊後守が徳川方への忠節を内々に決して宮崎へ赴いたと伝える。島津氏が徳川家康から深い遺恨を受けているとの風聞を踏まえ、相手方も徳川方へ忠節を示す意向なら近隣として相談を承りたいと申し入れる。
(慶長五年)十月十九日 / 冊子 599頁
本文はNo.1247と同文のため省略されている。No.1247では黒田如水(円清)が伊那掃部・長倉三郎兵衛へ、関ヶ原後に豊後守が徳川方への忠節を内々に決して宮崎へ赴いたと伝える。島津氏が徳川家康から深い遺恨を受けているとの風聞を踏まえ、相手方も徳川方へ忠節を示す意向なら近隣として相談を承りたいと申し入れる。