島津元久安堵状
応永十年十月九日 / 冊子 210頁
島津元久が執印豊前守へ、薩摩国阿多郡内五代院、指宿郡内石堂村、万徳上村入道跡について、当時忠節を致すなら祈所として相違ない旨を認めた安堵状。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
320 件 (全巻)/ 1–50件を表示
ページ 1 / 7
応永十年十月九日 / 冊子 210頁
島津元久が執印豊前守へ、薩摩国阿多郡内五代院、指宿郡内石堂村、万徳上村入道跡について、当時忠節を致すなら祈所として相違ない旨を認めた安堵状。
応永十七年二月十八日 / 冊子 237頁
島津玄喜が内倉豊前介に、由緒のある日向国内倉帖について、先例に任せて知行することを認めた安堵状。
応永廿年六月廿九日 / 冊子 281頁
沙弥願真が豊前入道義忠に、薩摩国八幡新田宮の執印職・五大院主職と散在する田畠を、相伝の手継・本証文を添えて永代譲渡した譲状。
天正20年12月6日 / 冊子 617頁
薩州羽月のうち、石林庵先の青木の本・窪牟田などの田地を早水豊前守へ宛行った領知目録。 複数の小字と地積を列記し、羽月地域における知行地の構成を具体的に示す。
文禄3年11月16日 / 冊子 827~828頁
島津忠恒は平田豊前守と川東善左衛門尉に、奥方に関する事情を二人に特に頼んでおいたと伝え、女房の法度に反する者があれば身分に関わらず厳格に処置するよう命じる。 男女の私通や家中の風紀を厳しく取り締まり、たとえ親しい女房でも例外にしないと記す。忠恒が在陣中から国元の奥方と家政を統制した書状。
文禄4年2月17日 / 冊子 865頁
平田豊前守が度々の合戦で挙げた軍功を忘れないとし、その娘が長年京都に滞在して夫婦で数年奉公したことも高く評価した感状。 軍功だけでなく、家族ぐるみの在京奉公を忠節として認定し、今後も忠貞を尽くすよう求める。
文禄4年2月21日 / 冊子 865~866頁
平田豊前守が七年間京都に在住し、夫婦で重ねた辛労を島津義久が「感悦」と評価した感状。 長期の在京奉公を今後も忘れず、いっそう忠勤に励むことを求める。直前の感状とは、軍功よりも七年間の夫婦の奉公を中心に顕彰する点が異なる。
文禄五年二月八日 / 冊子 8頁
No.23と同文の宛行状が外中馬十郎左衛門尉・市来豊前入道にも存在したことを記す雑抄記事。先年の川内出向時に御輿を担いだ働きに対する恩賞知行である。
文禄五年二月廿三日 / 冊子 9~10頁
川上肱枕忠智・新納旅庵長住・伊勢貞昌が井尻豊前房へ、大隅国帖佐の餅田村内にある上前薗・住吉村内浮免・實幸院野宮村内などの田畠を列記し、合計九十九石四斗九升を無親疎に配分するよう命じた領知目録。違乱する者があれば申し出るよう伝える。
文禄五年八月六日 / 冊子 36~37頁
伊集院右衛門入道幸侃が、市来豊前入道へ、先年の御輿上げを理由として、薩州伊集院内田村の余分地のうち高二石と、これに加えて市来湯田の三石を宛行った署判領知目録。
慶長二年二月廿一日 / 冊子 84頁
前年同日付の高麗再度出勢法度と同案であるため、毛利壱岐守・毛利豊前守宛の本文を省略した記録。
五月廿四日 / 冊子 386頁
島津龍伯(義久)が伊東豊前□□へ、庄内との通融をめぐって伊東方の領内で成敗が行われたと聞き、祝着の意を示す。今後も庄内との往還が生じないよう、引き続き取り締まることを依頼した書状。宛所末尾二字は原資料でも欠損記号となっている。
(元和四年)三月五日 / 冊子 667頁
島津義弘が、病気のため押判を用いたことを断り、自身は高齢なので今後の相談は島津家久にするよう伝え、朝鮮産の寒鱈三尾の贈答に謝意を述べた書状。
十月廿八日 / 冊子 508頁
大坂の唐物屋伏見屋作兵衛・金兵衛が所持していた、朝鮮での軍功に関する豊臣秀吉政権五奉行の感状らしき文書を譲り受けた経緯を記す。島津家の重宝になるとして内見を経て御記録所へ納めるよう命じた島津帯刀覚書。
元禄四年二月三日 / 冊子 509頁
島津家先代が借銀した際の借状を上原五郎左衛門が提出し、不要なら捨てるべきか尋ねた件について、昔の借銀事情を子孫へ伝える資料になるため御記録方へ納めるよう命じた佐多豊前書下。
永禄十二年五月六日・廿五日 / 冊子 217頁
永禄十二年五月六日の大口戸神尾・稲荷山伏兵戦に参加した島津一門・諸将を列挙する交名。島津義久・貴久・家久、新納忠元、肝付兼寛、大野駿河守、宮原景種、前田豊前守らを掲げ、同月二十五日の祁答院長野城攻めで勇功を挙げた比志島氏、新納久鏡、鎌田政年らも付記する。
永禄十二年五月六日 / 冊子 217~218頁
五月六日、家久を一番の伏兵大将として戸神尾に、大野・宮原勢三千騎を稲荷山に置き、番替え部隊を餌に大口・相良勢を誘った。敵が荷物を奪おうと戸神尾へ殺到すると、家久の合図で伏兵が起こり、前田豊前守を太刀初めとして敵を崩し、百三十六首と捕虜一人を得た。家久の装束・武具・月毛の馬を詳しく描き、その姿を摩利支天のようだと称える。
年月日未詳 / 冊子 139頁
新納忠元が忠増らを率いて豊後方面の城々を攻め、城兵を討ち取った経過をまとめた譜記事。忠元は兵を分け、平田豊前守ら諸将と連携しながら権現城・城ケ尾城・茶飯城などを攻略したとされ、豊後侵攻における新納勢の軍功を顕彰する。
文禄3年正月16日 / 冊子 761頁
豊臣秀吉が長期在番の辛労をねぎらい、島津豊久へ小袖一重を下賜した朱印状。毛利豊前守・平野新八からも詳細を伝えるとしている。
年月日未詳 / 冊子 823頁
龍伯に対して決して油断せず心を配り、常日頃から養生を勧めることを書き留めた覚書。「おくかた」への見舞いについては平豊前・川善左へ固く申し含め、折々の音信に礼を述べることも記す。 龍伯の健康管理と家中の人間関係に関わる、短いながら私的で具体的な備忘記録。
文禄4年5月21日 / 冊子 882頁
小谷光秋は、相手の帰朝が決まり無事に出船したことを喜び、豊前守が在陣しているため又八様へも詳しく意向を伝えたので安心するよう知らせる。 贈られた二百疋への厚礼を述べ、細部は使者へ口上で託した、帰航直前の連絡と贈答を示す書状。
文禄4年10月6日 / 冊子 917~918頁
滝重時は上井仲五を介して京都での謁見や渡海、城替えの処置について指示を仰ぎ、遅滞なく進めたいと伝える。 加藤主計頭・毛利豊前守らの動向や現地の軍事情勢も報告し、使者から詳しく聞くよう求めた、朝鮮在陣中の長文連絡。
(慶長元年)正月十六日 / 冊子 2頁
豊臣秀吉が島津又八郎の長期にわたる在番の辛労をねぎらい、小袖一領を下賜し、詳しいことは毛利豊前守・平野新八郎から伝えるとした朱印状。
(慶長元年)五月朔日 / 冊子 19~20頁
島津義弘が宰相殿へ、平松の家作が粗末で雨漏りし、家中の者も難儀しているため、平松の役人に修築を申し付けたことを述べる。使者や家臣の動向、伊東孫八の書状到着、又八郎忠恒の帰朝・上洛と迎えの国分左京亮派遣、高麗への出船、求聞持修行や平田豊前の子の大峯入峰に祈念を命じたことなどを報告し、返書を求めた書状。
(慶長二年)二月十日 / 冊子 77頁
長束正家が羽柴薩摩侍従へ、来年の人数渡海と赤国での軍事行動を確実に進めるよう求めた書状。遠路のため無音であったことを詫び、詳しいことは毛利豊前守・平野新左衛門から申し伝えるとしている。
年月日未詳 / 冊子 415~416頁
上野隼人は、伊集院幸侃の成敗後、源次郎が庄内十二城に籠もって島津家に反したため、慶長四年六月に軍勢が催された経過を回想する。須木を発して村尾源左衛門入道・長介が幟を整え、上野隼人と逆瀬川豊前が二組を率い、夜道で高崎から庄内へ入り、楠牟礼口・津間霧島などで戦った。火矢・鉄砲・濃霧・風雨のなか敵城へ攻め込み、負傷者を出しつつ戦い、のち志和地城に対して塀・堀などを構えて長期に備えたという。
十一月廿三日 / 冊子 22頁
北郷時久が、益田勘解由左衛門尉の逗留で返書が遅れたことを詫び、今後の協力を約した書状。日杵院南方は土持太郎兵衛入道の恩賞地で豊前介が知行し、北方には土持宮大丸に関する事情があると説明し、公方の裁定に委ねる意向を示して御教書案文を確認する。
(文禄五年)正月十六日 / 冊子 157頁
長期間の朝鮮在番を大いにねぎらい、小袖一領を下賜し、詳細を毛利豊前守と平野新八郎に託した豊臣秀吉朱印状。
年月日未詳 / 冊子 827頁
天文十四年九月晦日の戦いを中心に、島津方で戦死した武士の名と戦死地・状況を列記する。
年月日未詳 / 冊子 324~325頁
為俊を追悼する一連の和歌。武士としての名残、春の花、水の清さ、夢路、月などに寄せ、故人への哀惜と追善の思いを各人が詠む。
九月十日 / 冊子 325頁
島津義久(龍伯)の御歌と六名の詠草。米と水、春風、夢路、花、月などを題材に、変わらぬ忠節と主君への思慕を唱和する。
建久二年三月廿三日 / 冊子 79~80頁
梶原景時が新宮豊前守へ、頼朝の御教書を受領して門人らが喜んだかと問い、先年の瀬多での忠節の恩賞として江州三郡一荘を知行すべき旨が仰せ出されたことを伝える。さらに実秀が薩摩へ下向して公私とも満足であり、一族末代の功勲であると述べる。署名部分には「頼朝歟」とする注記があり、編者も本文書の真偽を疑いながら後考のため収載したと付記する。
建武元年十一月廿六日 / 冊子 629頁
豊前国草美彦三郎入道跡の所領を、軍忠の勲功賞として山田道慶に充て行う旨を伝えた後醍醐天皇綸旨。
十一月廿六日 / 冊子 911頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2481
島津綱貴が佐多豊前へ、光久への殉死を申し出た者の人数書付を一覧の者へ見せ、殉死禁止の趣旨を速やかに申し渡すよう命じた達書。
十一月廿六日 / 冊子 911頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2482
島津綱貴が佐多豊前へ、殉死禁止の別紙を申し渡す際、佐多豊前・島津縫殿・伊集院遠江が列座し、契諾者を一人ずつ召し出して右筆に達書を読ませるよう命じた達書。
正月9日 / 冊子 584~585頁/原整理番号 622
川上久国が加治木衆を率いる町田勘解由次官に一刻も早い島原出陣を命じる。鎌田豊前守へ、留守役を定め、児玉筑後守の指図に従って人数を整えるよう求める。
応永10年10月9日、応永20年6月29日 / 冊子 311~312頁/原整理番号 119-34
応永十年十月九日、島津元久(陸奥守)が執印豊前守へ与えた宛行状。薩摩国阿多郡内五代院、同国指宿郡内石堂村、同国万徳上井入道跡について、今この時に忠節を尽くすならば、新所として相違なく保障すると伝える。付随系譜は新田宮執印職の友令(豊前守、法名義忠)を掲げ、応永二十年六月二十九日に父友弟の譲状があったと注記する。『旧記雑録前編二』709号文書と同一と注記される。
応永28年8月23日、文安3年12月13日、永正11年頃 / 冊子 312頁/原整理番号 119-35
応永二十八年八月二十三日、島津存忠(久豊)が執印豊前守へ与えた宛行状。薩摩郡で十町分を割り当て、先例を守って領知するよう命じる。付随系譜は、新田宮執印職の康令(左衛門大夫、法名義光)、文安三年十二月十三日に父康令の譲状を受けた康秀(三郎、法名賢趙)、同職の友秀(三郎、法名浄官)、永正十一年頃に同職を襲った康隆(亀熊丸、遠江守、法名雪窓)を掲げる。宛行状は『旧記雑録前編二』1006号文書と同一と注記される。
年月日未詳 / 冊子 729頁
天文元年二月から同三年十二月までの北郷忠相方の行動を日付順に記した日記。北郷信濃守父子、山内豊前守、北原・新納・島津諸氏との使者往来・会合・饗応、神事への参列、軍勢移動、城郭の攻略・守備を連続して記し、軍事と日常政務の実態を示す。
永禄十二年正月廿日~五月六日 / 冊子 211~212頁
前年から相良・菱刈方が求めていた和睦は、日新没後の永禄十二年正月二十日に成立した。しかし三月十八日、大口城を守る深水頼兼が平泉へ向かう蒲池越中守と従者十七人を殺し、往来は再び断絶した。島津方は羽月城に肝付兼寛・新納忠元を置き、五月六日、家久を囮として戸神尾・稲荷山の伏兵へ敵を誘導し、前田豊前守らが四方から攻めて敵首百三十六を得、一人を捕虜とした。
文禄4年3月7日 / 冊子 868頁
島津義弘が書状と贈物の到来を喜び、在京する供衆の苦労にも配慮するよう三名へ頼んだ書状。明から新たな来訪がないため、朝鮮での在陣は長期化すると見込んでいる。 吉美作・喜大炊・平豊前らから届いた音信や樽への返礼ができない事情を伝え、後日あらためて連絡するとする。長期在陣中の国元連絡と贈答実務が分かる。
元和五年六月四日 / 冊子 702~703頁
島津忠朗が寺田将監・酒井雅楽助・山口駿河入道・石川太郎兵衛尉・牧野豊前守・御幸八幡などへ贈る銀子・太刀・馬代・帷子等の品目と数量を列記した進物目録。
応永廿三年二月廿八日 / 冊子 295頁
応永二十三年二月二十八日に行われた犬追物の手組を、殿方・射手方などの組別に列記した記録。島津・蒲生・吉田・平田・安楽・柏原・市来ら参加者の配置と人数を示す。
年月日未詳 / 冊子 591~592頁
島津忠治が島津忠昌の長子として生まれ、幼名を安房丸と称し、のち又三郎忠治と名乗ったことなど、その誕生・系譜・名乗りを記す西藩野史の記事。
永正十一年九月十四日 / 冊子 604頁
永正十一年九月十四日、鹿児島殿中で蘭窓(島津忠治)の代に初めて行われた犬追物について、参加者別の疋数と検見・喚次を記した手組。
(永禄三年)十月四日 / 冊子 79~81頁
永禄三年十月四日から二十七日まで、幕府上使伊勢貞運が末吉へ下向し、島津・伊東両氏の飫肥をめぐる和平を調停した経過を樺山善久が日次で記録する。島津方は飫肥を公領として伊東へ渡さないことを主張し、上使との会見・返答・贈答を重ねた。
永禄十二年正月廿日~五月六日 / 冊子 212頁
永禄十二年正月二十日に大口方との和睦が成立したが、三月十八日に深水頼兼が蒲池越中守主従十七人を殺害し、再び敵対した。義虎が維持できなくなった羽月城へ肝付兼寛・新納忠元を派遣し、五月六日、家久が大口城下で敵を挑発して戸神尾西まで誘い出した。戸神尾・稲荷山の伏兵が前後を遮断して敵を破り、百三十六の首級と捕虜一人を得て大口方の勢力を削いだ。
永禄十二年五月六日 / 冊子 218~219頁
五月六日の戸神尾合戦を詳述する。家久が兵糧輸送を装い、三十余騎で大口方数千騎を誘引した。伏兵が早く起とうとした際、忠元・兼寛が団扇で制して好機を待ち、家久が敵中深く引き込むと一斉に挟撃した。相良・菱刈方は大敗し、武将の首百三十六、雑兵の首八百余を数え、討ち漏らされた者は大口城へ籠った。
天正四年四月・八月 / 冊子 478頁
天正四年四月、近衛前久下向中に義久が初めて催した歌合へ新納忠元も召された。八月の高原城攻めでは十三歳の嫡子忠実が大手城戸口から先駆けて負傷し、敵将にも称賛された。落城後の三山城勝鬨では忠元が太刀を進上した。
天正四年八月十九日~廿八日 / 冊子 483~485頁
天正四年八月の高原城攻めを詳述する。義久は霧島祭祀と領内防衛のため出陣し、城の水路を断って攻囲、家久・忠長らが鎮守尾に陣した。人質交換後に伊東方が開城し、高原・三山・須木など八か所が島津領となり、義久は三山を義弘に与え、上原尚近を高原地頭とした。