入来院重時知行宛行状
天正21年正月4日 / 冊子 663頁
安藤二介に関する算用として、百石を田中源介へ遣わすことを入来院重時が認めた知行宛行状。 同日付の三通のうち最大の石高で、給付対象と数量を明記した家中の配分文書。
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天正21年正月4日 / 冊子 663頁
安藤二介に関する算用として、百石を田中源介へ遣わすことを入来院重時が認めた知行宛行状。 同日付の三通のうち最大の石高で、給付対象と数量を明記した家中の配分文書。
天正21年正月4日 / 冊子 663頁
安藤二介に関係する一か所について、春口屋敷用として「三十三反こたか先地石」を勝田平左衛門尉へ遣わすことを認める。 同日付の宛行状の中でも、屋敷用途と土地・数量の表現を具体的に示す文書。
天正21年正月4日 / 冊子 663頁
安藤二介に関する算用として、三十石を勝田源左衛門尉へ遣わすことを入来院重時が認める。 百石・屋敷用土地の宛行状と同日に出された一通で、受給者と石高の違いを比較できる。
(慶長十一年)四月一日 / 冊子 63頁
島津義弘(惟新)がゆの殿に、世継ぎに関わる縁談について返答した書状。弥二郎を望む意向を承知した一方、藤二郎の妹との縁組について少将殿から話を受けているため、まず少将殿へ内意を伝えて返事を得たうえで、その意向に従って取り計らうよう述べ、弥八郎や平松への伝達にも触れる。
四月一日 / 冊子 112頁
入来院家の世継ぎに弥一郎重高を望む意向を良縁と評価し、藤二郎妹との縁組話が平松方へ未通達であるうちに、船本に滞在する少将へ内意を伝えて了承を得るよう急がせた書状。
本文三月(日不記)、交付首尾注:辰三月朔日 / 冊子 529頁/原整理番号 689の2/整理ID 689-1
近来諸所に暗殺があり布告してもなお止まらず、重ねて済まし難いとして一層厳重な取締を命じる旨を伝える。諸藩に心得違いの者はいないはずだが、各所に多人数が詰めているので十分に監督を行き届かせるよう求める。取締は裁判所にも命じてあるため、承知の上で相談して取り計らうよう付記し、本文末は三月。首尾注は、朔日に太政官代へ重臣・留守居の内から出頭するよう刑法局から廻状が届き、隈元敬一郎が出て五条少納言から渡されたこと、触下にも写しで廻達するよう求められて処置した旨の、新納嘉藤二から伊勢様への首尾書があると記す。その首尾書正文は略す。
三月8日、翌9日行幸への心得。末同日新納首尾注 / 冊子 532頁/原整理番号 691の3/整理ID 691-3
明九日の行幸に際し、列奉行が脇路から通行することもあり得るため、道筋の警衛側へ心得として伝えておくよう加州・薩州・長州へ求める。三月八日付。末注は、辨事局からの呼出しで隈元敬一郎が出て松室甲斐から書付一通を渡され、毛利側へ廻達し写しを添えたことについて、同日新納嘉藤二から紘様への首尾書があると記す。
本文三月(日不記)、交付首尾注:辰三月19日 / 冊子 536~537頁/原整理番号 695の3/整理ID 695-3
在京諸侯は五節句と毎月朔日に祝詞のため参内し、毎月一度ずつ、二十九日を除いて都合のよい日に天機を伺うよう伝える。参内の着服は、上京初回には官位のある者が衣冠・直垂を選び、無官の者は素直垂を着る。二度目以降は直垂・上下を任意に用い、羽織袴は禁止とする。追書は、近来申合わせて日々禁中仮建所に用務伺いで出る者は、規則ができるまで当分従前どおり心得るとする。本文末は三月。三月十九日に急な太政官代への召出しで書付を受け、触下へ廻達した旨の、新納嘉藤二から伊勢殿への首尾注がある。
戦闘記事五月15日、届書七月2日薩摩少将内新納嘉藤二 / 冊子 563頁/原整理番号 729/整理ID 729
太政官日誌中にある薩州藩届書写。五月十五日未明に大下馬へ集まり、西郷吉之助の指揮で命を待ち、六ツ時過ぎに湯島へ進んだと記す。小倉壮九郎の一番遊撃半隊・川路正之進らの足軽隊八十人ほどが上野正面へ、飯牟禮喜之助の大砲隊が砲五門で黒門口御徒町へ進み、鈴木武五郎・篠原冬一郎らの小銃隊等も戦ったと報じる。黒門の台場は堅く、本郷側の長州・肥前・肥後・久留米の戦闘と火箭・町家の火災を述べ、不忍池の堤側から突入した藤堂・因州勢と薩藩鈴木隊の山内戦を記す。本郷側の長州・大村・佐土原等は根岸辺でも戦い、朝六字頃から五字頃まで続き、戦死・負傷も相応あったとの江戸からの報を受けたとして、七月二日に新納嘉藤二が届ける。戦況・火災原因・死傷は届書の報告に帰属させる。
辰六月8日、新納嘉藤二 / 冊子 569頁/原整理番号 741の2/整理ID 741-2
太守の国許への暇を命じられた件につき、非蔵人口からの呼出に出頭し、大原左馬頭から書付一通を渡されたので報告しておく旨を述べる。この用務を留守居附役勤小野半左衛門が勤めたことを、辰六月八日に新納嘉藤二が主殿へ知らせる。
辰六月5日、新納嘉藤二の主殿宛報告 / 冊子 569~570頁/原整理番号 741の3/整理ID 741-3
天杯、錦御旗一流、御剣一振、扇子一本、反物一疋、勅筆御写一通、御直衣一領、御襯袖(ママ)一領、書付を添えた金三万両、達書一通の一覧を掲げる。当初は六月五日の辰刻に参内し、そのまま東征へ出馬して南門で軍列を叡覧する予定と承知していたとする。細袖細袴の軍装で議定職の席へ通り、天杯を頂き、中山前大納言を通じ賜品を受けたと報じる。勅筆は拝見後返上して御写を受け、酒肴を頂いた後、江戸大総督府の急報により太守の進発は追って沙汰し兵隊だけを直ちに出す旨が伝えられたとする。南門で軍列叡覧が済み七ツ時に帰殿し、賜品の礼を岩倉側が取り次ぎ奏聞したこと、中将側の礼も重臣と雑掌を通じたことを記す。私も供を務めたとして、辰六月五日に新納嘉藤二が主殿へ報告する。
辰五月20日、新納嘉藤二、主殿様宛 / 冊子 573~574頁/原整理番号 746の5/整理ID 746-4
今日午半刻に召され衣冠で参内し議定の詰席へ通り、八景間で岩倉右兵衛督から別紙の書付と議定職免の書付を渡され承知したと記す。外様一同と御学問所の御前へ召され、馬術を叡覧に供し菓子・包物を頂き、七半時過ぎに帰殿したと報じる。礼の扱いを尋ねたところ申し上げるに及ばない旨を松室土佐から承知したこと、私も供を務めたことを、書付写を添え辰五月二十日に新納嘉藤二が主殿へ知らせる。
永正十一年十一月十九日 / 冊子 605頁
永正十一年十一月十九日の犬追物について、殿以下の参加者と検見・喚次を配列した手組。
現地届五月26・18日、転送届はいずれも七月2日 / 冊子 566~567頁/原整理番号 737/整理ID 737
太政官日誌中の薩州藩届写二件を収める。五月二十六日の届は、昨二十五日に二番・四番半隊と大垣・長州各二十人を大田川宿へ探索に出し、仙台側約百人を撃退して再屯集を防ぐため焼き払い、夕七時に白川へ引き取ったと報じる。二番隊東郷助之丞の戦死、四番隊堅山荘八の深手を記し、七月二日に新納嘉藤二が現地からの別紙を転送する。もう一件は五月十八日、島津式部の届で、昨十七日三字頃から大谷地村方面で二番・四番・足軽隊と大垣・土州が攻め、五字過ぎに相手が退き六字過ぎに引き揚げたとする。白川の要所を焼き払い、大谷地村の戦で十五六人位の死骸、ほかの山中の戦で四斤半大砲一挺と弾薬を分捕り、敵千人ほどがいたとの報を記す。浅手の西吉左衛門・美坂彦八、深手の松崎寛次を掲げ、これも七月二日に新納が届ける。戦況・死傷・概数は各届の報告として示す。
辰正月29日、新納嘉藤二から伊勢様 / 冊子 517頁/原整理番号 674の3/整理ID 674-1
御官名の書付一通として、豊後日田・長崎に出している兵隊の人数引揚げに関する件を掲げる。松室伊勢へ持参して面会し差し出すと、披露する旨を聞いたと報じる。今日自分たちが差支えたため留守居付役隈元敬一郎がこの用務を勤めたとして、辰正月二十九日に新納嘉藤二が伊勢様へ首尾を知らせる。
三月29日、沙汰と新納嘉藤二の伊勢宛報告 / 冊子 553~554頁/原整理番号 714/整理ID 714
薩州に命じておいた山陰道鎮撫使の警衛を免じる旨を、三月二十九日付で伝える。書付一通を付し、軍防局に呼び出され出頭したところ、愛宕大夫が出会い別紙を渡したと報告する。また川南東右衛門には用務があるため、暫く西園寺殿が借用することになったので、その旨を伝えておいたと記す。留守居附役を遠武橘二が務める間の事情として報告を添え、新納嘉藤二が同日伊勢へ送る。
閏四月20日、末は新納嘉藤二の閏四月23日首尾書注 / 冊子 560頁/原整理番号 724の3/整理ID 724-3
右兵衛督・中山前大納言を名書し、当職を免じ、別段の思召によって今後御前に日参するよう命じる。日付は閏四月二十日。御仮建所から渡された趣の、新納嘉藤二による閏四月二十三日の首尾書があると末に記す。
原2~4:10月、原4報告卯10月14日/原5~6:卯10月16日 / 冊子 416~417頁/原整理番号 592の2~6/整理ID 592-2
原第592号の2~6を収める。原2は重大事・外夷の衆議と両役の取扱い、諸侯上京までの従前取締と早い上京命令。原3は去る十三日に渡した御書取を奏聞し、昨日十五日に御所から別紙どおり命じられたと伝える十月の書付。原4は建白趣意受容の詔写と京都留守居の届書四通との注を掲げ、国家の大事の見込を聞くため十二日・十三日四時に二条城へ出る指示、重役の参集、太守宛封物一通の受渡を報告する。卯十月十四日に内田仲之助・新納嘉藤二が帯刀へ知らせる。原5は外夷の衆議・諸大名の両役取扱いの書付を日野大納言の雑掌近藤外記から受け取った十六日内田の報告。原6は同日新納から、二条城で戸川伊豆守らと同席し、太守宛封書一通を国元へ早く送るよう命じられて渡されたとの報告。各命令・受領・伝送を区分し、重複する書付や封書の表示を合算しない。
第一通知三月2日・明3日午刻、第二通知三月(日不記)。両首尾は三月2日 / 冊子 529~530頁/原整理番号 690/整理ID 690
三月二日付の第一通知は、明三日午刻に英国公使が参内するので御門内外を警固するよう薩州へ命じる。軍務局への用務で永山左内が出て松室豊後から受け、請書を差し出すよう求められて提出した旨の、新納嘉藤次と記す伊勢様宛首尾注を伴う。第二通知は、仏国公使の警衛を引き受けている薩州に、下坂の中途警衛と必要な手当てを一切取り計らい、不都合なく大坂まで護送するよう求める。下坂の日は追って伝えるとし、三月二日に辨事御役所の書中で伝達された旨の、新納嘉藤二から伊勢様への首尾注がある。
交付三月2日、通知は明3日巳刻の参内と装束を指定 / 冊子 530頁/原整理番号 691の1/整理ID 691-1
衣冠・巻纓・差貫・帯剣を着用し、明三日巳刻に参るよう伝える。三月二日に禁中の仮建から急な御用があり、永山左内が出頭したところ、勘解由小路弁から鴨脚和泉をもって書付を渡されたと記す。明日の参内は先日の仏・蘭参朝の節のとおりとの連絡もあり、その旨を申上げるよう伝えられたとして、新納嘉藤二から伊勢殿への首尾書が添う。
三月12日の任命沙汰と同日交付首尾注 / 冊子 533~534頁/原整理番号 693の1/整理ID 693-1
中原猶介に海軍参謀を命じる三月十二日の沙汰で、尚勇の原注がある。末注は、同日に太政官代へ留守居一人が出頭するよう切紙が届き、出頭すると軍防局の松尾但馬から書付一通を渡されたこと、この用務を付役隈元敬一郎が勤めた旨の、新納嘉藤二から伊勢様への首尾書があると記す。
三月12日薩摩少将、明後14日の参詣願。同日隈元の提出・附札交付注 / 冊子 534頁/原整理番号 693の2/整理ID 693-2
明後十四日に先帝の山陵へ参詣したいと、三月十二日に薩摩少将が願い出る。島津忠義の原注がある。附札は「可為勝手」とし、衣冠・直垂・狩衣の内を着用するよう求める。末注は、同日に隈元敬一郎が持参して松尾伯耆に面会し、しばらく待つよう言われて再び会い、張紙のとおり仰せ渡されたとして附札を受け取った旨の、新納嘉藤二から伊勢殿への首尾書が添うと記す。
本文二通とも三月(日不記)、交付注:三月13日 / 冊子 534頁/原整理番号 694の1/整理ID 694-1
第一の通知は、王政復古を神武創業の始めに基づく祭政一致の制度への回復とし、神祇官の再興・造立を先に行い、追って祭典も興す旨を伝える。五畿七道へ布告し、諸家の執奏・配下の取扱いを止め、諸神社・神主・禰宜・祝・神部を神祇官に附属させ、官位その他の願いを同官へ出すよう求める。神社の取調べ・祭典を追って定めるが急務があれば訴え出てよいとする。第二の薩州宛通知は、大坂市中の取締を免じ、市中巡邏を命じる。各通末は三月。末注は、松室甲斐からの三月十三日の切紙で書付二通が留守居へ届き、遠武橘二が代役を勤めた旨の、新納嘉藤二から伊勢様への首尾書があると記す。
本文三月(日不記)、交付首尾注:辰三月13日 / 冊子 534~535頁/原整理番号 694の2/整理ID 694-2
酒井雅楽頭について「被止入京官位候事」として、入京と官位を止める旨を伝える。姫路藩主・忠績の原注があり、本文末は三月。交付注は、三月十三日に太政官代から急な出頭を求められ隈元敬一郎が出たところ、松室甲斐から書付一通と太政官日誌一冊を渡されたこと、触下へ写しで廻達した旨の同日新納嘉藤二から紘様への首尾書があると記す。
三月16日通知・同日交付首尾注 / 冊子 540~541頁/原整理番号 699の2/整理ID 699-2
行幸の上で海軍を天覧するため、軍艦・蒸気船が大坂へ着いたら天保山沖に碇泊させ、天覧が済むまで出帆を差し留めるよう薩州へ命じる。その趣旨を早く大坂へ伝えるよう但書で求める。三月十六日付。末注は、同日の軍防局の呼出しに隈元敬一郎が出頭し、松室豊前から書付を渡された旨の、新納嘉藤二から紘殿への首尾書があるとする。
三月17日、来る21日の行幸・八幡一泊警衛の指示と同日交付注 / 冊子 541頁/原整理番号 699の3/整理ID 699-3
来る二十一日の親征・行幸で八幡に一泊するため近辺の警衛を命じ、場所は奉行坊城頭辨へ問い合わせるよう求める。俊政の原注を伴う三月十七日の通知。末注は、同日に松田遠江から書付を渡され、既に渡された警衛人数の内で宜しく取り計らい、別に人数を差し出す必要はない旨を遠武橘二が承知したことについて、新納嘉藤二から伊勢様への首尾書があると記す。
三月23日通知・同日交付首尾注 / 冊子 541頁/原整理番号 700/整理ID 700
大坂行幸の留守中、竹田街道・東洞院近辺の巡邏を高松頼聰の家来に命じたので心得るよう薩州へ伝える。三月二十三日付。末注は、軍備局の用務で太政官代へ出るよう切紙が届き、赤井直之進が出て松尾豊前から渡された旨の、新納嘉藤二から紘殿への首尾書があると記す。
正文三月24日軍防局、交付注は原三月23日(異同留保)、期限当26日 / 冊子 541~542頁/原整理番号 701/整理ID 701
軍防局が三月二十四日に、当時の在京人数等を別紙雛形に従って調べ当二十六日までに出し、以後増減があればその都度届けるよう各藩へ求める。覚の雛形には総人数、銃隊人数、その内の出兵先・警衛先人数と在京残人数、役人人数、大砲の門数、月日・差出者を記す形を示すが、数値は何百人・何門などの空欄である。交付注は三月二十三日として、太政官代軍防局からの留守居呼出しに永山左内が出頭し、松尾豊前から渡され触下へ布告するよう伝えられた旨の、新納嘉藤二から紘様への首尾書があると記す。
三月、交付記:辰三月20日 / 冊子 553頁/原整理番号 712/整理ID 712
雑録中の本文は711号文書と同文につき略すとの編纂注を置く。辰三月二十日、内国事務掛から禁中の仮建へ出頭するよう求める切紙が留守居へ届き、附役赤井直之進が出頭したところ、亀の杉戸際で徳大寺大納言から書付を渡された旨を記す。新納嘉藤二から紘様への首尾書を添えると表示する。
正文三月、交付注:辰三月23日 / 冊子 553頁/原整理番号 713/整理ID 713
朝敵を除いて一切大赦とする大綱について、逆罪や人を殺し免じ難い情罪のある者は別扱いとすることを伝える。癸丑以来、皇国のためと考えて矯激な行為に及び、国法に触れて死亡し祭られない者も少なくないとの認識を述べ、そのうち実情が忠奮に出て憐れむ事情のある者については程度に応じて扱い、跡式再興などにより霊を慰めるよう求める。また現に禁錮または落魄している者にも、この趣旨をもって寛容な措置を及ぼすよう命じる。末は三月。辰三月二十三日に太政官代辨事局が呼び出し、永山左内が出頭して松尾伯耆から書付を受け、触下・廻達する旨を新納嘉藤二が紘殿へ報じたとの注を伴う。
正文閏四月、伺い指定10・11日、交付注:辰閏四月9日 / 冊子 559頁/原整理番号 722の3/整理ID 722-3
機嫌よく還幸されたことに伴い、在国任邑の諸侯は十日・十一日のうち、重臣をもって太政官代辨事傳達所で天気伺いをするよう命じる。ただし仮建で取り急ぎ一度済ませた者は、改めて申し上げるに及ばないとする。正文末は閏四月。辰閏四月九日に禁中仮建の用務で留守居附役田中清之進が出頭し、非蔵人を通じ書付二通を渡された趣の新納嘉藤二の首尾書があると末に記す。
正文閏四月、交付注:閏四月15日 / 冊子 559~560頁/原整理番号 724の1/整理ID 724-1
諸侯の参朝制度は追って命じるが、親征出発前に誓約を済ませた者に先に暇を与えたのと同様に、留守中の上京や還幸後に誓約を済ませた者も、長く滞京して疲弊し藩の任を果たし難くならないよう、五十日余り京都に滞在した者には順次暇を与えるとする。帰国後は誓約の趣旨に従い家政を速やかに改革するよう求める。松平・肥後等を賊徒と呼び勢いを増して官軍に抗していると述べ、形勢次第で再度の親征もあり得るため、不虞への備えを固くし、国邑で指揮して待機するよう命じる。兵隊を残すことなど従前の指示も守るよう付す。正文末は閏四月。十五日に太政官代から渡され、肥前様衆から廻章が来た趣の新納嘉藤二の首尾書があると記す。
正文閏四月、交付注:閏四月19日 / 冊子 560頁/原整理番号 724の2/整理ID 724-2
堀田攝津守に謹慎を命じる。正文末は閏四月。十九日に太政官代から伝えられた旨を、肥前様衆からの廻状が届いた趣の新納嘉藤二の首尾書に記す。謹慎の理由・期間は本文に示されない。
慶長七年十二月廿四日 / 冊子 868頁
島津忠長ら四名が連署し、祈願成就のため日向国諸県郡加久藤栗下村内の三十石を加久藤二宮社へ付与した証状。公役は他の寺社領と同様に免除し、正式な目録は京都から帰国する際に交付すると定める。
卯12月14日新納・内田報告、九~十三日の記録と追書 / 冊子 427~430頁/原整理番号 606の1/整理ID 606-1
十二月九日の太守の衣冠参内、同夜七ツ時分の帰殿と召書写の送付から、警衛箇所、参朝停止名書、総裁・議定・参与の名書、五藩からの人材差出しを報告する。三條實美一族の入洛・復位等と御室宮の還俗命令、酒・菓子・鰑などの賜品を掲げ、太守側・兵隊・詰合五藩・個人の対象と原の単位を区分する。京都は静謐としつつ市中の動揺・会桑の暴発の風聞も記し、警衛交替、太守の参内、岩下・西郷・大久保三名の参与、十二日の徳川家・会桑両侯の下坂の報告を収める。九日から十三日までの参朝・兵隊繰出しの記録を卯十二月十四日に新納嘉藤二・内田仲之助が伊勢・佐次右衛門へ送る。追書は議定宣下と家来三人の参与に伴う礼式、口宣・献上物、家来と兵隊の賜品、中将へ連署で知らせる使礼と使番の吟味を問う。命令、報告、風聞、未定の礼式相談を分け、名書や繰返す賜品を総人数・総量へ加算しない。
本文日付:文和三年三月 日 / 冊子 322頁/原整理番号 四六七/整理ID TMP-P02-NENE4-D0467
清増が楡井四郎頼仲・又四郎頼重等の籠る大始良城、木谷城、鹿屋院壱谷城の攻略で軍忠を致したと申告する。 観應三年十二月三日夜からの大始良城合戦、文和二年七月の木谷構城郭・壱谷城への合戦等を記す。 木谷大始良城等への攻入・対治について軍御奉行人野本藤二が見知すると述べ、早い沙汰と一見状を求める。
発給/言上年紀:文和參年三月 日 / 冊子 457~458頁/原整理番号 七〇四/整理ID TMP-P03-IKEHATA-GOSHOHAN-D0704
祢寝弥次郎入道々種が急速な御沙汰と御一見状を求める。 御敵として楡井四郎頼仲・同又四郎頼重を挙げ、大姶良城・木谷城・壱谷城での軍忠を申す。 観応三年十二月の大姶良城包囲と、去年七月十二日・去月廿二日・同廿四日夜の合戦を記す。 軍御奉行人野本藤二の見知を掲げ、御一見状を求める。
書付七月、首尾辰七月6日、外包慶応4辰八月11日保管記 / 冊子 586~587頁/原整理番号 762/整理ID 762
白木御文書十一番箱中四十四番の薩州重役宛書付。積年の王事勤労と当春以来の出兵を褒め、藩主の精忠と重役の朝命奉戴・士気振作が行き届いたと評価し、賜品を与え今後も藩主を輔翼し忠節を尽くすよう求める。七月の書付一通と晒一疋の品目を掲げる。辰七月六日の新納の報告は、重役用務の呼出に代理出頭し、他の九藩も同様に小御所下之間へ召され、四卿列座のもとで書付を読み上げ渡されたと記す。礼は岩倉右衛門督・勘解由小路左中辨を通じ二卿へ述べると承知し、後に太守の承知を得て飛札で礼をする意向を主殿へ伝える。外包は慶応四辰八月十一日に内膳が町田孫大夫へ当座の格護を命じた旨を承知し、白木十一番箱へ納め置くと記す。評価と受渡は各書付・首尾の叙述として示す。
〈寛延三年〉十月二日~十日 / 冊子 286頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0821
前年に江戸で襲封・元服した重年が、薩府から諸使を遣わし、十月二日に東照宮の大雄山寶前へ太刀一腰・白銀四枚を奉献した記事。麑府五社の正一位諏訪・正一位稲荷・祇園・若宮八幡宮・春日と福岡淀縄方神社には白銀一枚ずつ、満家院花尾権現社には白銀六枚を納めた。太刀・白銀については、襲封の礼に前年の元服の礼も兼ねた旨の注を伴う。四日は曽於郡霧島権現・末吉住吉及び徳神社・加久藤二之宮・頴娃枚聞・出水加紫久利、六日は国分正八幡宮・志布志即心院・加世田日新寺、七日は水引新田八幡宮・隈之城釈名寺、八日は吉田津友寺・谷山皇徳寺、九日は市来龍雲寺、十日は伊集院妙圓寺へ、それぞれ白銀一枚を献納した。元注は島津周防忠紀の代行と勅幣使の役、入来院石見定敦・島津小平太久金・肝付弾正兼昌ら諸使を記す。
発給/言上年紀:建長六年五月八日 / 冊子 458頁/原整理番号 七〇五/整理ID TMP-P03-IKEHATA-JOJO-D0705
佐汰村内五女分の配分を列挙する。 水田七段、竹原田二段六十歩、湊田内四段三百歩などを記す。 小藤二外薗と壱所の記載も伴う。 御下知の旨に任せた配分として親綱と後家比丘尼代藤原の在判を記す。