島津義久譜
年月日未詳 / 冊子 44頁
弘治三年四月十五日、島津義久が貴久とともに蒲生方の菱刈氏陣を攻め、即日に陥落させたことを記す。詳細は貴久譜に譲る。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日未詳 / 冊子 44頁
弘治三年四月十五日、島津義久が貴久とともに蒲生方の菱刈氏陣を攻め、即日に陥落させたことを記す。詳細は貴久譜に譲る。
年月日未詳 / 冊子 107~109頁
北原兼守死後の真幸院で、樺山玄佐と白坂氏らが球磨から北原兼親を迎え、馬関田を奪って飯野へ入れた経過を詳述する。島津方は横川城を攻略して菱刈氏へ与え、北原兼親から栗野を献上させ、相良方の番衆を帰国させて飯野を守備した。
年月日未詳 / 冊子 110頁
北原家中の宗論と離反により白坂美濃守らが島津方へ付き、栗野・吉田・馬関田・吉松へ番兵を求めた経過を記す。横川城の北原伊勢守・新介を攻めて数百人を討ち、城を落としたのち、貴久・義久は忠勤への恩賞として横川を菱刈氏へ与えた。
年月日未詳 / 冊子 112~113頁
樺山玄佐が白坂氏らと協力して球磨の北原兼親を真幸院へ戻し、飯野へ入れた工作を中心に記す。横川城攻略後は菱刈氏に城を与え、白坂下総介らを説得して栗野を島津方へ献上させ、飯野の守備を薩隅兵へ切り替えた。
永禄五年七月廿四日 / 冊子 116~117頁
伊集院孤舟が球磨から届いた複数の書状への返答や使者の扱いについて肝付氏へ相談した書状。球磨との恩義を鹿児島へよく相談し、真幸の所領問題と横川を菱刈氏へ与える方針を伝えるよう求め、旅宿へ酒も贈った。
永禄十年十一月七日・廿四日 / 冊子 167頁
永禄十年十一月七日夜に福昌寺の直歳寮だけが焼けたことを記す。同月二十四日、伯囿貴久・義久が出陣して菱刈氏の馬越城を攻め落とすと、翌日に本城以下八箇所が放棄され、横川も数日後に島津方へ渡された。
永禄十年十一月廿三日~廿五日 / 冊子 169頁
菱刈氏が島津家に背き相良氏と結んだため、永禄十年十一月二十三日、貴久・義久が栗野から湯尾へ、義弘が飯野から馬越へ向かったことを記す。翌朝、義久が諏訪山に旗を掲げて総攻撃し、井手籠氏父子以下二百余級を討って馬越城を陥落させたため、周辺八城と横川が退去・献上された。
永禄十年十一月 / 冊子 171頁
菱刈氏が島津家に背いたため、永禄十年に貴久・義久が出陣して馬越城を攻め、横川城主菱刈中務少輔が同地を島津方へ献じて退去したことを記す。途中の詳細は省略される譜中記事。
(永禄十一年五月以後) / 冊子 198頁
山野をめぐる和睦後、相良氏・菱刈氏が出水の感応寺を仲介者として、島津方へ改めて和議を求めたことを記す短い譜中記事。
永禄十二年八月十八日~九月十八日 / 冊子 213頁
本文は後掲No.506記事の後半と同文のため省略される譜中記事。大口城受取、新納忠元の大口地頭・武蔵守任命、諸城への守兵配置と菱刈氏安堵に関する部分を参照する。
永禄十二年八月十八日~九月十八日 / 冊子 221頁
八月十八日に大口城を四方から包囲して作毛を払い、守兵の兵器・弓弦が尽きると降参を許した。九月十日に双方が人質を交換し、十四日に球磨勢が退去、十八日に貴久・義久が入城した。新納忠元を大口地頭・武蔵守とし、諸城へ守兵を配置、菱刈氏には降参を許して平城を与え、軍を解いた。
永禄十二年五月廿五日~九月廿日 / 冊子 222頁
五月二十五日の祁答院長野城攻めで下城を破ったが、島津方にも多数の戦死者が出た。桶比良の伊東陣撤退後、八月十八日から大口城を包囲し、諸将自ら秋作を刈って兵糧を断った。相良・菱刈方は度重なる敗戦で和睦を願い、九月中旬に球磨兵が撤退した。大口城で太平の祝宴を行い、菱刈氏に平城を残し、他城へ地頭を配置して貴久・義久が凱旋した。
永禄十二年五月廿五日~九月廿日 / 冊子 223頁
五月二十五日の長野城攻めでは下城を破ったが多数が戦死し、いったん退いた。その敗報で伊東方が桶比良陣を撤収すると、八月十八日から大口城を包囲して秋作を刈った。相良氏は島津への旧恩を思い和平へ傾き、九月に球磨勢が退去した。大口城を受け取り、相良の請願で菱刈氏に本城一所を残し、新納忠元を大口地頭・武蔵守として諸城へ地頭を置いた。
天正二年十月二日~五日 / 冊子 345~346頁
天正二年十月二日、大乗院法印に法華経一千部を百十人の僧と十日間で読誦させたことを記す。続いて五日、菱刈氏の使者へ、蒲生救援、横川城・三山城・馬越城をめぐる過去の背反や義弘暗殺未遂を列挙して責め、再度の叛逆なら滅亡は免れないとして居所を替えるよう求めた。
永禄十年十一月廿四日~永禄十二年五月 / 冊子 172頁
永禄十年十一月二十四日、義弘が般若寺越から馬越城へ押し寄せ、城兵を多数討って攻略した結果、横川・本城・曽木・湯尾・羽月・平和泉・青木・市山が同日に島津方へ入ったとする覚書。大口城は球磨の援軍を得て永禄十二年五月まで抗戦したが、援軍が引き揚げて開城し、新納忠元が地頭となったこと、各地から住民が移されたことも記す。
永禄十年八月~十一月廿五日 / 冊子 174~175頁
菱刈方の野心を察した島津方が、小林出勢と披露して軍勢を横川へ通しながら、実際には軍路を変えて永禄十年十一月二十四日早朝に馬越城を急襲した経過を記す。義弘らが井手籠父子を討って城を落とすと九城が一日で退去し、菱刈方は大口城へ籠った。相良頼房は球磨・八代・葦北勢を動員して大口城へ援軍を入れた。
永禄十年十月廿五日 / 冊子 176~177頁
永禄十年十月、菱刈方が三之山へ島津方の襲来を知らせたため、城内が十分に防備を整えたことを記す。島津歳久・義弘・家久らの大軍が城を囲んで攻めたが、米良弥九郎ら城兵が激しく防戦して多数を討ち、島津勢は退却した。島津家がこの通報を恨み、ただちに菱刈征討へ向かったとする日向方の記事。
永禄十年十二月廿九日以後 / 冊子 177頁
菱刈方が大口城一城を保持し相良勢が入って堅固に守っていた時、新納忠元が市山城の番を命じられたことを記す。忠元は当時小身であったが貴久の直命を受け、蒲生の蔵入地を与えられて馬越から市山へ移り、守備を勤めた。
永禄十二年 / 冊子 209~210頁
永禄十二年の主要事件を編年で記す。琉球漂流民送還への謝状、相良・菱刈両氏との和睦と蒲池越中守殺害による破綻、羽月城救援、戸神尾・稲荷山の伏兵による大口勢撃破、祁答院長野城攻略、伊東軍の桶比良・田原撤退を載せる。八月以降は大口城を包囲し、相良・菱刈方の降伏を受けて質を交換、九月十八日に義久・義弘が入城し、新納忠元を大口地頭に任じた。あわせて功賞・社寺領寄進などを記す。
永禄十二年八月十八日~九月十八日 / 冊子 213頁
本文は後掲No.506記事の前半と同文のため省略される譜中記事。大口城包囲から相良・菱刈方の降参、人質交換へ至る部分を参照するものとして収録されている。
永禄十二年八月十八日~九月十八日 / 冊子 221頁
永禄十二年八月十八日、島津方が大口城を包囲すると、武器・兵力の尽きた守兵が降参を願い、貴久が許した。九月十日に相良方と島津方が人質を交換し、十四日に敵兵が球磨へ退去、十八日に貴久・義久が入城して凱歌を唱えた。約束により新納忠元を大口地頭に任じ、武蔵守へ改めて功績をたたえた。
永禄十二年九月七日 / 冊子 227頁
相良頼房が北郷時久に、菱刈方との二年間にわたる不慮の戦いを振り返り、島津氏の取りなしで菱刈家を存続させると聞いたことへの大きな喜びを伝えた書状。今後は従来どおり相談し、別儀なく付き合うと述べ、時久の出陣に対する礼を使者に託している。
年月日未詳 / 冊子 526~531頁
伊集院久春(元巣)が十七歳以来、牛根・横川・飯野・馬越・敷根・長野城・荒平・穂北・安徳城・岩屋城などで負傷を重ねながら戦った軍功を詳述する譜。朝鮮へ七年間供奉し、撤兵時にも諸将を救った忠節までを『決勝記』として顕彰する。
年月日未詳 / 冊子 45頁
弘治三年四月十五日、島津忠将が尚久とともに副将として蒲生北村の菱刈氏陣攻めに参加し、軍務を励ましたことを記す。
永禄十二年五月十日~九月 / 冊子 220頁
永禄十二年五月十日、島津忠親が河野筑前守・大岩根河内守を串良へ派遣し、島津義久と肝付家の和睦を取り持とうとしたが不成立に終わった。五月二十二日には義久の命で菱刈へ兵を送り、北郷小次郎を大将とした。九月、菱刈氏は降参して一命を許され、平城を安堵された。
永禄十二年五月廿二日~九月 / 冊子 227頁
永禄十二年五月二十二日、義久の命で菱刈へ兵を送り、北郷小次郎を大将とした。九月に菱刈氏が降参すると一命を助けて平城を安堵した。その後、相良頼房が北郷時久へ和睦成立を述べる書状を送った経緯を記し、正文としてNo.519を掲げる。
保元元年十一月朔日 / 冊子 18頁
菱刈氏の由緒として、九州の所領七百余町に関する伝承と、崇徳院方に属した悪左府、平清盛らとの関係を記した書上。遠国の所領と朝廷・藤原家の政治的関係を述べる。
年月日未詳 / 冊子 302~304頁
松尾城・鹿児島・谷山をめぐる攻防を詳述する長編記事。久豊が籠城救援の軍勢を集め、伊集院・川邊・伊作方と各地で交戦し、城門突破、渡河戦、援軍投入、退却と再攻撃が続いた。家臣・一族の戦死と負傷、軍勢の動揺や和睦策も記す。
年月日未詳 / 冊子 304~305頁
松尾城・谷山方面の戦いで、籠城軍救援の是非をめぐる軍議と出陣を記す。久豊方が存忠らの援軍を得て城外へ進み、伊集院方と交戦しながら城門・渡河点を確保しようとした。多くの戦死者を出した後の撤退・再集結と和睦論も述べる。
年月日未詳 / 冊子 48頁
弘治三年四月十五日に北村の菱刈陣を攻め崩し、菱刈・祁答院・真幸・東郷・蒲生方に多数の戦死者が出たこと、同月十九日に蒲生城が明け渡されたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 48頁
蒲生馬立・荒平の陣と菱刈陣攻めを回想し、樺山玄佐の嫡男・助太郎忠副が先陣で深手を負い、四月二十八日に死去したことを記す。貴久が長浜から荼毘の煙を見た情愛にも触れる。
永禄十一年正月廿日~二月三日 / 冊子 184~185頁
永禄十一年正月二十日、大口城から出た球磨勢との戦いで、貴久が無評議の出勢を戒めたにもかかわらず先陣が接戦したため、川上久朗が義久・義弘を守って殿軍を務めた経過を詳述する。久朗は別府安芸守らと戦って七箇所の傷を負い、家臣に助けられて退いた。両将から軍功を感謝された後、二月三日に三十三歳で死去した。
(永禄十一年)二月廿二日 / 冊子 192頁
志岐麟泉が新年の賀意を述べ、前年冬以来、島津貴久が菱刈領で在軍していると聞き、勝利を祝した書状。後代まで相談し合い、同心忠貞を変えないと誓い、吉例の印として弓五張を贈って披露を求める。
永禄十一年八月十九日~十二月十三日 / 冊子 203頁
大口方の勢力が増すなか日新が重病となり、義久が馬越城で諸所を警戒し、貴久は十一月に菱刈から加世田へ移って看病した。その隙に敵が川上丹後守・堀内某を討ち、救援した是枝大膳坊も戦死した。相良・菱刈両氏は感応寺を介して和睦を求めたが成立前の十二月十三日に日新が七十七歳で没した。貴久は日々供養し、翌年の四七日忌に梅花と追悼歌を献じた。
永禄十一年五月~十二月十三日 / 冊子 203~204頁
大口方の勢力増大と島津方の戦死者増加を受け、日新の意見に従って山野を相良氏へ渡し和睦した。その後、菱刈方は堂崎に陣を築いて平泉への通路を断ち、田中川内の伏兵が番替えの川上丹後守・堀内氏を討った。相良・菱刈両氏は感応寺を介して再三和睦を求めたが、許可される前の永禄十一年十二月十三日に日新が没した。貴久は十一月から加世田で病床に侍していた。
永禄十二年正月廿日~五月六日 / 冊子 211~212頁
前年から相良・菱刈方が求めていた和睦は、日新没後の永禄十二年正月二十日に成立した。しかし三月十八日、大口城を守る深水頼兼が平泉へ向かう蒲池越中守と従者十七人を殺し、往来は再び断絶した。島津方は羽月城に肝付兼寛・新納忠元を置き、五月六日、家久を囮として戸神尾・稲荷山の伏兵へ敵を誘導し、前田豊前守らが四方から攻めて敵首百三十六を得、一人を捕虜とした。
永禄十二年三月~元亀元年六月 / 冊子 214~215頁
羽月城救援後、新納忠元・肝付兼寛が島津家久と相談し、永禄十二年五月六日に戸神尾・稲荷山・白木河内へ伏兵を置いた。家久が兵糧輸送を装って敵を誘い、前後から挟撃して百三十六首を得た。八月の大口包囲と九月の降伏後、忠元は大口地頭・菱刈両院惣押となった。さらに喜入季久の家存続を願う伊勢・愛宕への立願、忠元のもとへ飛来した鎌を祀る飛諏訪大明神、菱刈両院の地理・名称由来も記す。
永禄十二年三月十八日~五月六日 / 冊子 216~217頁
蒲池越中守主従の殺害で平泉への通路が断たれ、平泉撤退も議論された。肝付兼寛・新納忠元は、山野を譲っても百日足らずで蜂起した相良方へさらに譲歩すれば横川・加治木・帖佐・真幸まで脅かされると反対し、二人で平泉を百日守って勝負を決すると申し出た。義久が感賞して募兵すると数百人が応じ、三月末から両人を番大将として守備した。相良兵の長柄鑓による優勢を見て、島津方は伏兵による反撃を企てた。
永禄十一年正月~元亀二年九月 / 冊子 241~242頁
永禄十一年正月から元亀二年九月までの北郷家周辺の軍事・外交を日付順に記す。飫肥・酒谷城の伊東方への引渡し、泰心による北郷・肝付和睦、菱刈口での島津方戦死、大口・戸神尾合戦と首級数、肝付との和睦交渉、菱刈番衆派遣、大口城受取などを載せる。末尾は元亀二年九月に伊東方が下河内高小場へ陣を置き、時久が弓箭相談のため供衆を伴って鹿児島へ参上したと記す。
(天正二年)三月四日 / 冊子 337~338頁
島津義虎が鹿児島へ伺候できなかった事情を述べ、義久に敵意はなく、以前から神名に誓って忠節を約していると弁明する。出水・高城・水引・山野・東郷・中郷をめぐる風説を否定し、疑義があればまず照会してほしいと喜入季久に取り成しを頼み、詳しくは伊地知勘解由助へ口達したとする。
永禄ノ初年五月朔日 / 冊子 349頁
島津貴久が又三郎へ、入来院をめぐる交渉と河内の明渡し、東郷・祁答院・菱刈・相良・北原・蒲生・肝付らの動向を詳述した書状。加世田への報告を求め、各勢力との調略・出頭・奉公をどう進めるか判断を促す。
巻二/冊子 14~15頁
弘治二年、貴久が蒲生氏の本城と松坂の要害を攻めた戦いを記す。城は険阻で守りも堅かったが、義久に続く若い忠平(後の義弘)が城門へ迫り、敵と組み合って初めて首級を得た。鎧には五本の矢を受けていたとされ、二十二歳の忠平の武勇を強調する。蒲生を支援する菱刈氏に対しても、貴久・義久・忠将・尚久らが出陣し、山地の要害を攻めた。敵の矢で島津方にも損害が出たが、諸軍の奮戦と策によって蒲生城を圧迫し、周辺勢力の連携を崩していく。義弘の初陣的武功を中心に、蒲生退治の軍事過程を描く。
巻二/冊子 19~20頁
永禄七年に貴久が陸奥守、義久が修理大夫へ任じられた宣旨と、貴久の剃髪を掲げた後、真幸院・菱刈方面の戦いを記す。伊東氏が三山に要害を築いて飯野の忠平を圧迫し、島津方はいったん攻略に失敗して戦死者を出した。続いて菱刈氏が恩に背き相良氏と結んだため、貴久・義久父子は栗野へ出陣し、忠平は飯野から馬越へ進む。稲荷神の瑞火を吉兆として攻撃を開始し、忠平や新納忠元らの奮戦で馬越城を落とした。菱刈方は大口城へ退き、相良の援軍も入ったため、市山・羽月・曾木などに守兵を配置する。官位と宗教的権威を示しつつ、大口攻略へ向かう軍事的足場を築いた記事である。
建仁三年七月二十三日 / 冊子 80~92頁/原整理番号 19
建仁三年七月二十三日、遠江守が大隅国禰寝郡司入道の御下文を島津左衛門尉に送った旨を伝える書状。後続の長篇考証は建部清重・禰寝氏の出自を平維盛後裔説などと比較し、田代・佐多・菱刈・北原・栗野等の諸氏の婚姻、系譜、所領、合戦と所伝を検討する。
年月日未詳 / 冊子 160~161頁/原整理番号 43
菱刈氏嫡家十二代の家督重時から始まる略系図。重時を左兵衛佐、重衆を右兵衛佐とし、女子が肥州阿蘇惟永、島津出羽守忠明、相良伊勢守長皎へ嫁いだ婚姻関係を示す。重副は大和守で両院を知行し嫡家を継いだ。重政は次郎・伊勢守を称し、父重時の命で大口地頭職に補され大口に在城、法名を徳翁道盛居士とする。重根は兵庫頭で大口地頭職を相続し、法名天真道龍居士、天龍寺葬。重清は右衛門太夫で花北氏の猶子となり、肥州久木野で戦死した。重昌は四郎・越後守を称し、嫡家の大和守重猛が所知を島津義久へ献じて降った際に同じく旗下へ入り、曽木一所を賜ったのち花北へ替地され居住した。末尾は、この処遇について国老伊集院忠金・川上忠克(意釣)・三原重秋が新納忠元へ送った書簡を次文書として導く。
巻一/冊子 11~12頁
天文十八年、加治木城主肝付越前守が蒲生・渋谷勢と結び、貴久への礼を欠いたため、貴久が伊集院忠明を進ませて黒川崎に陣を築かせた。肝付方も向かいに陣を構えたが、陣中で火災が起こり、肝付・渋谷・蒲生方は動揺して北郷忠相と菱刈氏を介して降伏を求めた。貴久はこれを赦し、肝付父子・蒲生・渋谷らは清水で謁見する。島津軍が鹿児島へ戻る途中、彼らは酒肴を整えて迎え、和睦成立を祝った。続いて貴久が鹿児島へ移ったことと、天文二十一年六月十一日に従五位下藤原貴久が修理大夫へ任じられた宣旨を収める。軍事対立の解消と官位上昇を結びつけた記事である。
年月日未詳 / 冊子 468~469頁
相良氏が大口城を奪って高城の相良殿を攻め、菱刈智嶽が島津方の援軍として参戦し、大口・本城をめぐって戦った経緯を記す旧記記事。
文明六年八月頃 / 冊子 18~21頁/原整理番号 1
文明六年八月頃の行脚僧の見聞として、薩摩・大隅・日向の島津守護家と一族、在地の武士・寺社・城郭・所領を地域ごとに列挙する。室町後期の三州における人物と拠点の配置を伝える名簿的記録。
巻二/冊子 21頁
相良・菱刈・入来院・祁答院・東郷の諸勢力が連携し、曾木城と市山を攻めた事件を記す。宮原筑前守・佐多久政らが曾木城を守って敵を退け、敵方に数十人の損害を与えた。敵が馬越を経て市山へ進むと、負傷中の新納忠元も出陣し、白坂・永福寺方面で防戦した。敵の赤衣の先鋒に対して鉄砲を放ち、これを倒したことで敵勢は退却した。反島津諸勢力の共同攻撃を、城の守備と鉄砲戦で防いだ短い戦闘記事である。
巻二/冊子 21~22頁
大口勢が和議を破り、伊東氏も飯野・桶比良へ陣を築いたことから再戦となった経緯を記す。島津方は伊東陣を揶揄する狂歌を送り、貴久も出陣を図るが、長雨や兵の動揺のため作戦は進まなかった。その間に大口勢が守兵を襲い、双方に死者を出す。同年十二月、島津忠良が死去し、法号・称号が記される。翌年、忠平の弟家久、新納忠元、肝付兼寛らは二段の伏兵を設け、家久が大口城下で敵を挑発して神尾方面へ誘い込み、大勝して多数を討った。さらに祁答院長野城を攻め、補比良の伊東陣も撤退させる。大口城は兵器・糧食を失って降伏し、相良方から人質が出され、貴久・義久が入城した。忠良の死という家中の転機と、伏兵・鉄砲を用いた大口平定を一体として記す。