島津元久宛行状
応永六年十二月三日 / 冊子 186頁
島津元久が菱刈安芸守久隆へ、日向国求仁郷内十五町を祈祷所として宛行い、先例どおり沙汰するよう命じた宛行状。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
451 件 (全巻)/ 1–50件を表示
ページ 1 / 10
応永六年十二月三日 / 冊子 186頁
島津元久が菱刈安芸守久隆へ、日向国求仁郷内十五町を祈祷所として宛行い、先例どおり沙汰するよう命じた宛行状。
八月廿二日 / 冊子 535頁
島津忠昌が菱刈左兵衛尉に、久しく音信が途絶えていることを惜しみ、以前どおりの関係を望むと伝えた。伊地知周防守への返答を明確にすれば今後も厚意を忘れないと述べる。
大永八年九月十日 / 冊子 695頁
島津勝久が菱刈大和守の忠節に報い、薩摩国牛尿院内の青木・長尾両名を宛行った書状。
永禄四年十月二日 / 冊子 99頁
島津貴久が菱刈大和守重猛の望みにより、大隅国栗野院百二十町を先例どおり知行するよう命じた宛行状。
永禄十二年八月廿六日 / 冊子 226~227頁
島津義久が菱刈鶴千代に、大隅国平院内の本城および曽木を宛行った文書。今後長く二心なく忠功を尽くし、この命令を守るよう求める。本文注記は「平院」を太良院と解すべき可能性を示す。
応永十八年八月十日 / 冊子 248頁
大隅国菱刈院の地頭職と収益配分を整理した注文。篠原武右衛門家関係者を含む知行人ごとに、地頭分・留名・名田・門などの構成を掲げ、米・銭その他の負担や得分を項目別に記して、複数の地頭分が併存する菱刈院の支配・収納関係を示す。
年月日未詳 / 冊子 468~469頁
相良氏が大口城を奪って高城の相良殿を攻め、菱刈智嶽が島津方の援軍として参戦し、大口・本城をめぐって戦った経緯を記す旧記記事。
「享禄三年」二月七日 / 冊子 707頁
菱刈重副が肝付方に、求められた馬の手配や先月以来の事情を伝え、今後も従前どおり相談・協力するよう求めた書状。
宝暦九年七月朔日 / 冊子 728頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2204
宝暦九年七月朔日付の加冠仮名書出は、菱刈虎治の加冠に際し、孫兵衛と称するよう定める。本文に「御判」と記す。
安永六年酉十月朔日 / 冊子 535頁/原整理番号 1487/整理ID 1487
加冠に際して藤馬介とすべき旨を記す。安永六年酉十月朔日。菱刈源藤治の名が記され、花押には島津重豪の注がある。
寛政2年3月6日(朱注) / 冊子 3~4頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0013
元服後の長袴・素袍着用をめぐる照会と朱書返答。主書は島津石見(久邦)から菱刈大炊へ宛て、加治木・垂水両家も同様に扱う指示、辰年9月に示された総州様の意向、太守家に伝わる元服式を取り上げる。記録奉行が家伝の礼法を調べ、書抜を添えて報告したことを述べ、相手の意見を求める。朱書では、中将様への上聞と張紙の朱書による取扱い、以後の元服で長袴を着用させる申渡しを伝える。目録は「菱刈実祐返書」とするが、本文の主書署名は島津石見、宛名の人物注は隆邑であり、署宛と目録の人名を区別する。
5月22日(本文年不記) / 冊子 260頁/原整理番号 358/整理ID 358
浪人鎮静について不容易な勅命を承知しているはずで、御手当が付き石見を上京させ多くの守衛も当地に置いたまま三郎久光が出府したので、今後何が起きるか分からないと述べる小松帯刀の書状。久光は江戸御用後に当秋上京する予定なので、それまでは菱刈と汾陽次郎右衛門が滞京して指揮するよう沙汰されたと伝える。自分は汾陽とも相談して大坂に留まるので承知してほしいとする。五月廿二日、帯刀から菱刈宛。予定・指揮体制とその後の実施を分ける。
年月日未詳 / 冊子 368~369頁
島津忠国のため菱刈三河守元隆が川辺で戦死したこと、川田三郎太郎義清が肥後津奈木の戦いで宗徒数十人とともに戦死したことを記し、いずれも年月不詳として考証を付す記事。
年月日未詳 / 冊子 466~467頁
島津氏と桜島の名称・由来を考証した国史記事。大岳公・節山公の歌、桜島忠信の伝承、菱刈智嶽らが語る説話を引用し、向島・桜島という地名と島津氏歴代の系譜、菊池氏との争いを結び付けて、氏名と地域名が成立したとする諸説を比較する。
年月日未詳 / 冊子 512頁
三か国の騒動が続くなか、島津忠昌の病を機に祁答院・北原らが出仕を停止した経過を記す。入来院・東郷・吉田・菱刈と同盟して守護方に背き、修理亮忠廉にも加勢を求めたが拒絶された。忠昌の統率力低下から反守護同盟が形成された過程を示す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 516~517頁
鹿児島をめぐる雑説と対立が収まらず、島津相模守忠幸・薩摩守重久らが参越して拠点を築いた経過を記す。祁答院・北原長門守・菱刈孫三郎方と緊張が高まり、築城・軍勢配置と使者交渉を繰り返して、武力衝突を避けながら鹿児島支配を調整した。
年月日未詳 / 冊子 517頁
文明十七年正月十二日、一揆方との対面と修理亮忠廉の返答から、和議・契約をめぐる往復を記す。伊集院氏、北原長門守、菱刈孫三郎、祁答院氏らとの調整後、島津忠昌方は帖佐平山へ進発し、都城・鹿児島方面の情勢へ対応した。交渉から軍事行動への転換を示す。
年月日未詳 / 冊子 517~518頁
鹿児島方の雑説が続く中、島津忠昌を城外へ誘い出そうとする企てと和議交渉を記す。国方修理亮を介した申入れ、匠作による仲介、北原長門守・菱刈孫三郎・新納越前守らの返答を追い、条件が整わないまま諸勢が撤収するまでを示す。
年月日未詳 / 冊子 518頁
『文明記』が文明十七年の弓箭合戦の次第を記す。薩州勢が伊良山で勝利した後、祁答院・伊牟田など各地で戦闘が続き、北原長門守・菱刈孫三郎・新納越前守らをめぐる交渉と退去が進んだ。戦場の推移と諸勢力の帰属変更を連続して伝える。
年月日未詳 / 冊子 522~523頁
文明十七年三月、加治木・吉田・正八幡宮社中らが上井城を攻め、菱刈右京亮らの討死を経て城を陥落させたのち、和泉・高城・湯田・水引・帖佐方面で攻防と城主交替が続いた経過を記す文明記記事。
年月日未詳 / 冊子 525頁
同月十五日以降、薩摩守重久と相良為續が牛屎へ進み、修理亮忠廉らと菱刈方面の軍議を行ったのち、五月一日に鹿島で参会し、忠昌の使者を介して加治木・入来院・東郷・吉田・菱刈・羽月・山野らが鹿児島へ参上した経過を記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 698頁
大島忠明の子忠次が十六歳で戦死したことや、菱刈方との戦いで敵を討ち、忠次の首を取り返した家臣の働きを記す。
年月日未詳 / 冊子 21頁
弘治二年の島津氏関係事績を編年で記す。三月、貴久は蒲生本城が険固なため先に松坂塁を攻めるが落とせず、八月十七日には島津忠親が大崎で肝付兼続を破り三百余人を討つ。十月十九日に松坂塁を落として中原父子以下百余人を討ち、十一~十二月に蒲生城へ向け七曲・馬立・蒲生新城に陣した。菱刈氏の援軍、琉球王尚元の即位も記す。
年月日未詳 / 冊子 24~25頁
弘治二年三月十五日、島津貴久が蒲生城の支塁・松坂塁を攻めた。梅北国兼が諸兵を督励し、二男忠平は三尺の剣で城門を破り、城壁を越えて現れた強敵を斬って初めて首級を挙げた。退いた後、鎧に敵矢五本を受けていたことが判明し、当時二十二歳という。十月十九日の松坂落城、十一月以降の蒲生包囲と菱刈援軍も記す。
年月日未詳 / 冊子 36~37頁
弘治三年の島津氏関係事績を編年で記す。四月十五日、貴久父子らが北村の菱刈陣を攻め、忠平が先登して楠原某を討ち、火矢で塁壁を焼いて陥落させた。忠平は重傷、菱刈左馬権頭は自害。十七~十九日、蒲生範清が降伏し、貴久は降人を殺さず祁答院へ送った。蒲生・松坂・帖佐・山田の地頭配置、後奈良天皇崩御・正親町天皇践祚、南林寺建立も記す。
年月日未詳 / 冊子 42~43頁
島津方が菱刈陣を攻め、忠平自ら敵二人を斬り、村田越前守・三原右京亮らが奮戦、樺山助太郎らが戦死し、敵首三百余を挙げたとする。蒲生方は降伏して祁答院へ退去。境目で悪口過言を重ねた白尾半右衛門尉は落人に紛れたところを猿渡大炊入道に捕えられ、口を裂き舌を抜かれたという苛烈な処罰も記す。戦後の蒲生・帖佐・山田・松坂以下、大隅各地の地頭・領主配置を詳述する。
年月日未詳 / 冊子 44頁
弘治三年四月十五日、島津貴久父子らが蒲生を救援する菱刈氏の陣を攻めた記事。険阻な陣で忠平が敵将楠原某を討ち、島津軍が陣を陥れて多数を斬り、四月二十日に蒲生方が城を焼いて退去した経過を記す。
年月日未詳 / 冊子 44頁
弘治三年四月十五日、島津義久が貴久とともに蒲生方の菱刈氏陣を攻め、即日に陥落させたことを記す。詳細は貴久譜に譲る。
年月日未詳 / 冊子 44~45頁
蒲生を救援して北村境に築かれた菱刈氏の陣を、弘治三年四月十五日に島津軍が攻めた経過を記す。忠平(義弘)が楠原某と一騎討ちして首を取り、陣を攻め落としたが、自身も刀傷を負って退いた。
年月日未詳 / 冊子 45頁
弘治三年四月十五日、島津忠将が尚久とともに副将として蒲生北村の菱刈氏陣攻めに参加し、軍務を励ましたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 45頁
弘治三年四月十五日の菱刈氏陣攻めで、尚久が忠将とともに副将として出陣した記事。険しい陣を諸軍が必死に攻め破り、敵数百人を斬り、菱刈左馬権頭が自害したと記す。
年月日未詳 / 冊子 45頁
弘治三年四月十五日の菱刈陣攻めで、樺山玄佐の嫡男・助太郎忠副が先駆けて深手を負い、同月二十八日に二十一歳で死去したことを記す。貴久がその死を悼み、長浜で荼毘の煙を見届けた。
年月日未詳 / 冊子 47~48頁
菱刈勢が蒲生を救援して北村表に陣を構えたため、弘治三年四月十五日に島津軍が攻め破った経過を回想する。忠平が荒平に陣を進めて蒲生城を攻め、蒲生方が降伏・退城した後の地頭配置まで記す。
年月日未詳 / 冊子 48頁
弘治三年四月十五日に北村の菱刈陣を攻め崩し、菱刈・祁答院・真幸・東郷・蒲生方に多数の戦死者が出たこと、同月十九日に蒲生城が明け渡されたことを記す。
年月日未詳 / 冊子 48頁
蒲生馬立・荒平の陣と菱刈陣攻めを回想し、樺山玄佐の嫡男・助太郎忠副が先陣で深手を負い、四月二十八日に死去したことを記す。貴久が長浜から荼毘の煙を見た情愛にも触れる。
年月日未詳 / 冊子 107~109頁
北原兼守死後の真幸院で、樺山玄佐と白坂氏らが球磨から北原兼親を迎え、馬関田を奪って飯野へ入れた経過を詳述する。島津方は横川城を攻略して菱刈氏へ与え、北原兼親から栗野を献上させ、相良方の番衆を帰国させて飯野を守備した。
年月日未詳 / 冊子 110頁
北原家中の宗論と離反により白坂美濃守らが島津方へ付き、栗野・吉田・馬関田・吉松へ番兵を求めた経過を記す。横川城の北原伊勢守・新介を攻めて数百人を討ち、城を落としたのち、貴久・義久は忠勤への恩賞として横川を菱刈氏へ与えた。
年月日未詳 / 冊子 112~113頁
樺山玄佐が白坂氏らと協力して球磨の北原兼親を真幸院へ戻し、飯野へ入れた工作を中心に記す。横川城攻略後は菱刈氏に城を与え、白坂下総介らを説得して栗野を島津方へ献上させ、飯野の守備を薩隅兵へ切り替えた。
永禄五年七月廿四日 / 冊子 116~117頁
伊集院孤舟が球磨から届いた複数の書状への返答や使者の扱いについて肝付氏へ相談した書状。球磨との恩義を鹿児島へよく相談し、真幸の所領問題と横川を菱刈氏へ与える方針を伝えるよう求め、旅宿へ酒も贈った。
年月日未詳 / 冊子 154頁
島津貴久の飯野進出と三之山への軍勢派遣、飫肥口・真幸口の守備をめぐる経過を記す。貴久が伯囿と号した後、北原兼親と伯父左兵衛尉が球磨勢を吉松へ引き入れて島津方を討つ計画が露見し、兼親の召還・移住を経て飯野を義弘に与えたこと、三之山攻撃で菱刈方の注進により島津方に多数の戦死者が出たことを述べる。
永禄十年 / 冊子 160~161頁
永禄十年の菱刈氏征討を中心に記す。七月に義久が樺山幸久と盟約し、冬には貴久・義久・義弘らが各方面の軍勢を率いて馬越・湯尾・横川などへ進撃、十一月二十四日に義弘が馬越城を攻略したため周辺諸城が相次いで退去した。大口城には相良方の球磨・八代勢が入り、各城へ島津方守兵を配した後、市山城への攻撃を受けて新納忠元を守将とした経過も載せる。
永禄十年十一月七日・廿四日 / 冊子 167頁
永禄十年十一月七日夜に福昌寺の直歳寮だけが焼けたことを記す。同月二十四日、伯囿貴久・義久が出陣して菱刈氏の馬越城を攻め落とすと、翌日に本城以下八箇所が放棄され、横川も数日後に島津方へ渡された。
永禄十年十一月廿三日~廿五日 / 冊子 167~169頁
菱刈氏が島津氏の旧臣でありながら相良氏と結んだため、永禄十年十一月二十三日、貴久・義久父子が栗野から湯尾へ、義弘が飯野から馬越へ進んだ征討を詳述する。進軍中に烽火を認めて敵の謀略を警戒したのち、翌二十四日に総攻撃し、義弘らが城門・城壁を破って井手籠父子を討ち、二百余級を得て馬越城を陥落させた。周辺八城と横川が退去・降伏した一方、菱刈隆秋は大口城に籠り、相良氏の球磨・八代援軍が入城した。
永禄十年十一月廿三日~廿五日 / 冊子 169頁
菱刈氏が島津家に背き相良氏と結んだため、永禄十年十一月二十三日、貴久・義久が栗野から湯尾へ、義弘が飯野から馬越へ向かったことを記す。翌朝、義久が諏訪山に旗を掲げて総攻撃し、井手籠氏父子以下二百余級を討って馬越城を陥落させたため、周辺八城と横川が退去・献上された。
永禄十年十一月廿二日~廿四日 / 冊子 169~170頁
永禄十年十一月の馬越城攻めを義弘の働きを中心に記す。城壁を越えようとした辻・有馬・久富の三人が井手籠氏父子に討たれると、義弘が自ら太刀を取って強敵を斬り、諸将も門壁を破って井手籠父子以下多数を討った。勝利後、菱刈の諸城は大口城へ退き、隆秋は相良氏の援軍を得て同城を守った。
永禄十年十一月~永禄十一年正月十八日 / 冊子 170頁
永禄十年十一月、義久・義弘が菱刈院へ進み馬越城を陥落させたため、周辺諸城が大口城へ退いた経過を記す。相良方の球磨・葦北勢が大口城へ入る一方、家久は樺山玄佐・忠知らと平泉城を守り、のち横川城を与えられて飯野警衛を命じられ、翌年正月に長陣を終えた。
永禄十年十一月 / 冊子 171頁
菱刈氏が島津家に背いたため、永禄十年に貴久・義久が出陣して馬越城を攻め、横川城主菱刈中務少輔が同地を島津方へ献じて退去したことを記す。途中の詳細は省略される譜中記事。
永禄十年十一月~十二月廿九日 / 冊子 171~172頁
菱刈重猛が伊東方へ内通したため三之山攻めが失敗し、重猛死後の降参交渉も老臣らの反対でまとまらなかった経緯を述べる。永禄十年十一月の馬越城奇襲で新納忠元が度々奮戦して矢傷を負い、周辺八城が大口城へ退いた後は各城に守兵が置かれた。十二月二十九日に市山守将の市来家利・伊集院久慶らが戦死すると、忠元が市山城守備を命じられ、蒲生の蔵入地などを与えられた。
永禄十年十一月 / 冊子 172~173頁
菱刈重猛が三之山攻めを伊東方へ漏らし、死後も一族の帰服がまとまらなかったため、永禄十年十一月に馬越城を攻めた経過を記す。新納忠元は新納武久・伊集院久宣・有馬純秀らと先登して井手籠父子以下二百余級を討ち、城を陥落させたが矢傷を負った。菱刈隆秋は八城を捨て大口城へ籠り、相良義陽の援兵を得た。
永禄十年八月~十一月廿五日 / 冊子 174~175頁
菱刈方の野心を察した島津方が、小林出勢と披露して軍勢を横川へ通しながら、実際には軍路を変えて永禄十年十一月二十四日早朝に馬越城を急襲した経過を記す。義弘らが井手籠父子を討って城を落とすと九城が一日で退去し、菱刈方は大口城へ籠った。相良頼房は球磨・八代・葦北勢を動員して大口城へ援軍を入れた。