石田三成書判人質番組
天正十九年十二月二日 / 冊子 6~7頁/原整理番号 173
石田三成が島津義弘に示した人質番組。島津歳久の孫、肝付兼演・新納忠元・島津忠辰・種子島久時・入来院重時らの実子または親類年寄の子を三組に編成し、北郷忠虎・伊集院忠棟・新納忠元の質人三名を常詰とする。本田親貞・町田久倍・平田増宗も各組に加え、必要に応じ一人を京都へ召し置くことなどを定める。天正十九年十二月二日付。
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天正十九年十二月二日 / 冊子 6~7頁/原整理番号 173
石田三成が島津義弘に示した人質番組。島津歳久の孫、肝付兼演・新納忠元・島津忠辰・種子島久時・入来院重時らの実子または親類年寄の子を三組に編成し、北郷忠虎・伊集院忠棟・新納忠元の質人三名を常詰とする。本田親貞・町田久倍・平田増宗も各組に加え、必要に応じ一人を京都へ召し置くことなどを定める。天正十九年十二月二日付。
二月二十九日ほか / 冊子 276~294頁/原整理番号 24の30
二月二十九日付の石田三成書状は、猿渡掃部兵衛の遠国での辛労と無事帰陣を賞し、今後の用向きへの配慮を伝える。後半は伊地知季安が猿渡氏の系譜、島津氏への奉公、知行・家格、武具・家財、相続と分家間の争論を諸記録から考証し、元禄十五年十一月六日付猿渡信安書状までを収める。
天正十九年十二月二日 / 冊子 355~356頁/原整理番号 5
京に置く質人を一番・二番・三番に分け、各組の人員を示す。交替の際は新しい者を上洛させてから旧組を帰国させ、島津家の在京者を途切れさせないよう指示する十二月二日付の番組。
巻六/冊子 86~88頁
関ヶ原合戦で義弘が石田三成方に属し、敗戦後に敵中突破して帰国した経過を記す。義弘は本来、家康と秀頼への忠節・相互不害を誓う起請文を交わし、伏見城を守ろうとしたが、鳥居元忠・内藤家長に入城を拒まれ、身を守るためやむなく石田方へ加わったと弁明される。九月十五日の関ヶ原では小早川勢の寝返りで西軍が崩れ、島津勢は二百人に満たない小勢となった。正面突破の退却で島津豊久が身代わりとなって戦死し、阿多盛淳も義弘を名乗って敵を引き受ける。川上忠兄弟らは追撃する赤備えの将を鉄砲で落馬させ、義弘を近江・伊勢・伊賀・大和・河内から住吉・大坂へ逃す。大坂では義久の娘、忠恒の母ら人質を船に乗せ、薩摩へ帰還した。西軍加担を義弘の本意ではないと説明しつつ、退き口での家臣の犠牲と武勇を顕彰する記事である。
天正十四年~元和二年(高橋元種主要記事)、慶長十二年~宝永年間(後続系譜) / 冊子 501~506頁/原整理番号 23
高橋氏の出自を漢高祖・後漢霊帝の後裔から大蔵春実へつなぐ伝承で説き、筑前諸郡を領した大蔵姓高橋家に秋月氏から種時を迎え、顕種・元種へ続く系譜と軍歴を記す。顕種は大友方の攻撃を受けた筑前宝満城を守り、後に和睦した。元種は幼少で秋月種実の養子となり、天正十四年の島津勢による筑前攻略では父とともに大友勢を破り、七月二十七日の岩屋城落城・高橋紹運討死後、宝満城などをめぐる軍事行動に関与した。慶長四年、島津忠恒が伊集院忠真を都城で攻めた際には徳川家康から救援準備を命じられ、翌関ヶ原では当初西軍に属したが、福原・垣見・熊谷・木村らの処置をめぐり秋月種長・相良頼房らと共謀し、垣見・熊谷・木村の首を家康へ献じて本領安堵を得たとする。しかし同年冬、秀忠の命で領地を没収され奥州棚倉へ移り、元和二年十月九日に三十七歳で没した。後継の種直は慶長十二年に日州臼杵郡縣城で生まれ、旧臣の助力を受けて日州縣・高岡などに住み、光久の恩許により高橋姓を復した。以後の種長・種次・種栄・種良らについて、婚姻、知行、江戸勤仕、地頭職、没年・法名を宝永期まで載せる。
(慶長十九年)十月十三日 / 冊子 359頁/原整理番号 28
島津家久が豊臣秀頼側へ提出した返書。上洛の求めを受けたものの、関ヶ原合戦の際に父義弘が石田方に属した事情と、その後に徳川家康が島津家を安堵した恩義を述べ、以来徳川方へ忠勤しているため要請に応じられない旨を説明する。拝領した正宗の脇指も返上すると記す。
文禄二年正月 / 冊子 275頁/原整理番号 24の28
『征韓録』巻十一から、文禄二年正月に加藤清正が甲山から帰陣して北青城の相良頼房を救援した記事を抄出する。島津義弘が敵地を通る使者に猿渡掃部兵衛らを選び、鉄砲火の中を突破して軍情を伝えた軍功を考証し、義弘・久保の感状と石田三成書状へ続くことを示す。
巻四/冊子 52~62頁
朝鮮征伐の背景と軍役命令、梅北一揆と歳久自殺、薩摩・大隅・日向諸県郡の太閤検地・知行配分をまとめた大部の記事である。冒頭では朝鮮八道の位置・州郡数・地理・物産・中国との関係を説明し、薩摩が朝鮮に近いことを踏まえて秀吉が島津氏へ鉄砲・兵船・兵粮・奉公人を整え、名護屋・壱岐・対馬を経て渡海するよう命じた朱印状を掲げる。義久は病のため渡海を免じられ、義弘と嫡子久保が軍勢を率いて朝鮮へ向かった。その間、梅北国兼が君命を偽って薩隅・肥後の浪人らを集め、加藤清正領の佐敷城を奪うが、統制を欠いて鎮圧される。秀吉は島津氏の関与を疑うものの、家康が義弘父子の在陣や人質提出を理由に弁明し、義久の嫌疑は解かれた。一方、秀吉は過去の不参・祁答院での抵抗などを理由に歳久誅殺を命じる。歳久は鹿児島から祁答院へ向かう途中、竜ヶ水で追撃を受け、家臣百余人と抗戦した末に首を差し出す。遺書は主家への反逆を否定し、自身の死で累代の家を守ろうとする趣旨を述べる。後半では細川幽斎を検使として梅北残党・歳久一族の処分、寺社領・代官勘定・蔵入地の整理を進め、石田三成らが三州検地を実施する。文禄四年の朱印状は薩摩二十八万余石、大隅十七万余石、日向諸県郡十二万余石、合計五十七万八千余石を算出し、太閤蔵入、石田・幽斎知行、義弘・伊集院忠棟・島津右馬頭らの知行、寺社領・給人領を村別石高で配分する。朝鮮出兵が国内反乱・粛清・領国再編へ連動したことを、命令書・遺書・検地帳によって示す重要記事である。
12月20日、天正4年2月彼岸日 / 冊子 161~164頁/原整理番号 43-1
二つの文書と菱刈氏系譜記事を現行一件に収める。第一は十二月二十日付で、伊集院忠金・川上忠克(意釣)・三原重秋が新納忠元へ送った連署状。菱刈四郎が曽木を差し上げた後も在所が定まらないため、従前の奉公に報いて花北一所を与え、追って加扶持する上意を伝える。続く隆豊の伝記は、文禄元年に島津義弘・久保に従って朝鮮へ渡り、江原道・南原・唐島番船で軍功を挙げ、慶長三年の交戦で負傷して壱岐から帰国したこと、慶長四年の伊集院忠真による庄内の乱、同五年の関ヶ原で義弘旗下に戦ったことを記す。帰国後は重秀の家督代を務め、重栄を後嗣として花北へ戻り、慶長十五年には琉球へ渡航し、元和四年に没した。重種は島原の乱・上洛に供奉し、大口衆頭、鹿児島城下勤仕を経て加久藤で養老した。第二は本文中に『43の2』とある天正四年二月彼岸日付の菱刈一族並他門交名注文で、菱刈・曽木・長池・入山・藤島・井手籠・得光・柿木原・花北等の一族・他門名を列挙し、菱刈大膳亮隆商が証判する。
巻四/冊子 46~47頁
秀吉が博多滞在中に九州諸国を諸大名へ配分した内容と、義久の上洛を記す。筑前・筑後・豊前・日向・肥後などが小早川・立花・黒田・伊東・秋月・相良らへ割り当てられ、島津氏は六州制覇の望みを失ったものの、薩摩・大隅・日向の家領が安定したことを慰めとする。木食応其の督促を受けた義久は鹿児島を発ち、牛屎院・佐敷・八代・高良山・岩屋を経て博多で秀吉に謁見する。その後、海路で下関・厳島・堺を通って京都へ向かい、聚楽第で再び秀吉に会って鞍・馬・長刀などを賜った。細川幽斎からも招待と饗応を受け、在京費用として米五千石を給付する朱印状が示される。豊臣政権による九州再編と、義久が上洛・参勤して新秩序へ組み込まれる過程を具体的な旅程と贈答で伝える。
巻五/冊子 63~73頁
朝鮮在陣中の義弘・久保父子の軍功、久保の死と忠恒の家督継承、豊臣軍の人数・配置を記す。まず秀吉の軍法を掲げ、放火・人取り・百姓への非分な課役を禁じ、兵粮管理、飢民救済、城郭普請など占領地統治の規則を示す。久保は忠清道で敵を単騎追撃して首級を得たとされる一方、秀吉の朱印状には木曾城・釜山浦・金海・加徳島などを攻守する各大名の人数と配置が詳細に列記される。久保は金海で虎狩りを行った逸話の後、文禄二年九月に巨済で病没し、二十八歳で世を去った。翌年、弟の忠恒(のち家久)が家統を継ぎ、義弘とともに巨済・加徳島へ在陣する。秀吉の求めに応じた虎狩りでは、義弘・忠恒の家臣が危険を冒して虎を仕留め、その肉を献上して褒賞を受ける。さらに文禄四年および慶長二年の軍勢帳・陣立書を大量に収め、小西・加藤・鍋島・島津・黒田・毛利・宇喜多・小早川・船手衆などの人数、釜山浦から各城までの在番、先陣の順序、軍議・注進・築城・野陣の規則を示す。末尾は南原攻略へ向かう陣立に続く。個々の武功や家督継承だけでなく、朝鮮役における全国大名軍の編成・兵数・占領統治を具体的に伝える軍事記録である。
巻五/冊子 73~77頁
慶長二年、義弘・忠恒父子が朝鮮沿岸の敵船団を攻撃し、続いて南原城を攻略した経過を記す。巨済付近で日本軍の往来を遮断していた朝鮮水軍に対し、夜襲で百六十余艘を焼き、多数を海際まで追撃したとする。この戦果に秀吉は朱印状で賞し、明軍が進出した場合は軽挙せず対陣して注進せよと命じた。八月、諸将が南原城を包囲すると、義弘は久保を失った経験から忠恒に血気の勇を戒めるが、自ら三首を得たことで忠恒も単騎で城へ突入し、敵が退いた後に戻る。島津勢は首四百二十一を得て鼻を切り、日本へ捷報とともに送ったとされ、秀吉から再び賞状を受ける。その後、父子は泗川の旧館城・新城へ移る。後半には秀吉政権の在番・講和方針を示す朱印状、諸城から釜山浦へ兵粮・鉄砲・玉薬を集める命令、朝鮮王子や貢物を条件とする撤兵案、徳永寿昌・宮木長次の起請文などを収める。海戦・南原攻略の武功と、戦争終結を見据えた講和・撤兵の実務が併記された記事である。
巻六/冊子 88~93頁
関ヶ原で西軍に属した義弘と、これを責める義久の不和、忠恒の上洛による島津家存続の確定を記す。義久は家康との誓約に反して石田方へ付いた義弘を非難し、義弘は伏見城への入城を拒まれてやむなく従ったと弁明する。寺沢広高・山口直友・井伊直政らは義久・忠恒へ事情説明と出仕を求め、本田正信らも義弘の本意ではないこと、関ヶ原での退却が武名を高めたことを伝えて安心させる。慶長六年には正信・直友が薩摩・大隅・日向諸県郡の安堵と義弘への取り成しを誓い、翌年家康も所領・家督を変えない旨の誓書を与える。義久自身の上洛は伊集院久真党の再起や家康への畏れから進まず、重臣らは家督を受けた忠恒が代わって謝罪すべきだと進言する。忠恒は出立前に久真とその母・弟・一党を各地で誅し、兵庫で福島正則の斡旋を得て伏見へ入り、家康へ謁見した。慶長八年に帰国し、重臣を集めて家の安定を祝う。敗戦後の弁明、徳川重臣の仲介、所領安堵、反対勢力の粛清、忠恒の出仕という政治交渉の全過程を示す。
(慶長二年)七月十六日 / 冊子 119頁
島津義弘ら六名が、唐島沖へ進出した明・朝鮮水軍を日本側諸将が共同で迎撃した経過を言上する連署状案。一番船の配置、敵艦との交戦、拿捕・首級、各隊の働きを列挙し、戦功の披露を求める。
(天正16年)5月3日 / 冊子 386頁
端午の祝儀として帷子五領のうち生絹三領が届いたことを喜び、詳しい返礼は石田三成から伝えるとした朱印状。 島津義弘と伊東祐兵を連名の宛所とし、日向の隣接領主間に対する豊臣政権の儀礼的統制を示す。
(天正18年)8月27日 / 冊子 479~480頁
豊臣秀吉が日本へ漂着した外国船について、乗員を保護し、積荷の生糸は商売として適正に買い取らせるよう命じる。 船を修理して朝鮮へ帰航させ、買い取った生糸の一部を石田三成へ届けるよう指示した、海難救助と交易統制の朱印状。
(文禄元年)6月12日 / 冊子 570頁
豊臣秀吉が、島津義久から朝鮮渡海についての言上と白糸二十斤が届いたことを喜び、詳しくは石田木工頭から伝えるとした朱印状。 軍事報告への返答と多量の白糸の贈答受領を一通にまとめており、秀吉と義久の間を石田三成が取り次いだことが分かる。
文禄4年9月3日 / 冊子 910頁
薩摩国河辺郡野崎名の土地について、惣高九百四拾石余の内訳と返地分を示し、京の石田三成との相談どおり本田六右衛門尉へ給与する。 今後加増があれば両名の判断で配分する旨も記した、検地後の知行再編を数量で追える連署証状。
文禄4年9月3日 / 冊子 911頁
財部の米良家に伝わった証状で、宮里一所を打ち替え、石高三百五拾九石余の土地を米良勝右衛門へ給与する。 返地分を差し引き、残余は京都で石田三成と相談して配分するという、領国検地後の所替えと知行算定の実務を示す。
年月日未詳 / 冊子 582頁
石田三成の挙兵で東西が分かれた際、北郷忠能は在国したが、西郷孫一久永は七十五人を率いて伏見にあり、島津義弘(惟新)に従って伏見城攻撃に参加し、家臣和田仲蔵義吉が戦死したと記す。その後、北郷忠泰・久栄が数百兵を率いて上洛し、九月十五日の関ヶ原合戦では根占清右衛門尉・小杉頼長・知覧忠清・津曲兼親以下、多数の忠能家臣が討死したことを列記する。
天正十二年~文禄期 / 冊子 252~253頁/原整理番号 5
季安が島津家と豊臣政権の交渉、伊集院幸侃の先行降伏や人質としての出頭、石田三成らとの関係を旧記から考える。幸侃の出世と宗門を通じた内通の可能性を論じる。
年月日未詳 / 冊子 583頁
新納久无は八月中旬に薩州から伏見へ向かう途中、島津義弘(惟新)が石田三成方に加わったと聞き、九月に大垣で義弘へ謁した。十五日の関ヶ原合戦に従軍して多くの家臣を失い、敗走時には伊吹山から近江路を経て京都へ到着した。喜入忠政・川上助七らと平道正庵宗古の宅に潜伏し、近衛信尹の厚意と宝刀を受け、翌年三月に帰国した経緯を記す。
年月日未詳 / 冊子 638-639頁
関ヶ原で大谷吉継・宇喜多秀家・石田三成の諸陣が崩れ、敵が島津陣へ迫った際の木脇休作の働きを記す。休作は拝領の長刀を手に「島津兵庫頭内之小弁慶」と名乗って敵中へ切り入り、多数を討って島津義弘(惟新)の側へ戻った。山田有栄・木脇刑部左衛門らと退却を支え、信楽でも危機を切り抜け、七か国を通って帰国するまで供奉した。
宝暦十二年十一月十三日 / 冊子 937~938頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2739
十一月十三日、幕府が若君誕生を祝って御能を催し、重豪は命に応じて登城し、猿楽を観覧した。家治が大広間に出御して諸侯が拝謁し、三成の奏楽を経て、午頃の休演中には帝鑑間で膳食を賜った。終演後、再び家治に拝謁して退出し、この日は先例に従い御折を献じた。
宝暦十年九月二十一日~二十三日 / 冊子 790頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2421
重豪公御譜に、九月二十一日、将軍宣下の祝儀の能に重豪が早朝から登城し、大広間で家治に拝謁したと記す。舞曲三番が昼に及び、帝鑑の間で食事を受けた後、さらに能を見て再び拝謁し、退出した。翌二十二日は御台所の従三位叙任を祝う登城の日だったが、重豪は病欠し、留守居を老中武元・輝高、側用人板倉土佐守勝清の邸へ遣わして祝意を述べた。さらに翌日、番頭を登城させ、御台所の叙任祝いに家治と御台所へ各二種千匹、家重へ一種千匹を献じた。
文禄4年6月17日 / 冊子 890~891頁
安宅秀安は、取次役の決定、老中役の免除、家中の訴訟や処分、京都と国元の連絡方法などを箇条書きで定める。 竜伯への奉公や三成との関係にも触れ、讒言・私的対立を避けて法度を堅固に運用し、家中の秩序を保つよう求めた政務覚書。
(天正18年)8月 日 / 冊子 477頁
島津義弘が在陣中の労苦を述べ、国元に所領が残らない状況と軍務遂行のため、帰国または暇の許可を求める。 千秋万歳の祝意を添え、上京時には直接事情を説明するとした石田三成宛の書状。
(天正19年)10月2日 / 冊子 520~521頁
島津竜伯が石田三成へ、兵庫頭義弘の下向時に相談した所領処置について改めて裁定を求める。朱印地でありながら薩摩から離れているため管理が難しく、水帳・石役などをめぐって国中との調整にも支障があると説明し、替地を含む解決を依頼する。
(文禄元年)12月6日 / 冊子 617頁
豊臣秀吉が増田長盛・石田三成・大谷吉継へ、来春三月に渡海して一揆を成敗し、仕置を行う方針を伝え、それまで諸城を堅固に守って軽率な動きをしないよう命じた。 中川右衛門大夫が無人の番所へ出て待ち伏せに遭い戦死した件は忠節と認め、弟小兵衛に跡目を許す。一方、今後は物見や弓・鉄砲衆を先行させ、無謀な戦死者には相続を認めないと軍規を示す。
文禄2年9月26日 / 冊子 740頁
鎌田政近・伊集院抱節・長寿院盛淳が、石田三成へ石火矢五十挺を進上することを記した連署覚書。内訳として幸侃から二挺、抱節から一挺など、各人の負担分を明記する。 朝鮮在陣期の火器調達と、島津家臣から三成への軍需品提供の実態を示す。
文禄3年8月5日 / 冊子 805頁
義弘は国元から「百石につき五人」の軍役を出すと聞き、兵員到着を待っていたが、実際には在国の者が一人も渡海していないと訴える。伊集院忠棟・比志島国貞・又八郎らの供衆だけが名護屋まで来たものの、先へ渡海せず、手元が無人同然である窮状を記す。 石田三成宛書状の一部を抜き出した抄録で、朝鮮在陣軍への補充が約束どおり進まず、義弘が深刻な兵力不足に直面していたことを示す。
(天正15年)10月21日 / 冊子 360頁
細川玄旨と石田三成が新納忠元へ、肥後の処置について豊臣秀吉の朱印状が出され、伊集院忠棟が派遣されたことを通知した連署状。詳しい命令は朱印状に示されているため重ねて述べないとし、その趣旨を理解して伊集院忠棟と示し合わせ、遅滞なく行動するよう求めている。
(天正16年)4月23日 / 冊子 385頁
細川幽斎・石田三成が新納忠元へ、二月五日付の書状を京都で受け取ったと知らせ、寒中の肥後出兵と島津義弘の働き、とりわけ忠元が先手を務めて一国平定に貢献したことを賞した連署状。相良氏の逆心で上洛路が塞がれているため通路を整えるよう求め、八代・芦北の処置を了承する。忠元の子・左京亮についても、希望に沿うよう秀吉へ申し上げ、追って返事をすると伝える。
(天正16年)8月10日 / 冊子 407頁
義久の知行について、播磨国の所領が各地に散在していることや、能勢郡の年貢収納・奉行派遣の扱いを石田三成が説明する。 安三郎兵衛に事情を言い含めたこと、給人・代官の不正や収納遅滞を避けるため、現地の所務を明確にする必要を伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 423頁
細川玄旨・石田三成の連署覚書として収録されるが、この箇所には「島津義久譜中にあり、天正十六年との朱書がある」とする典拠注記のみが見える。 本文が省略されている可能性があり、具体的な用件・宛先は本頁から確定できない。
(天正17年)正月20日 / 冊子 435頁
石田三成・細川玄旨が、秀吉の大仏材木調達命令を受け、伊集院忠棟と島津図書入道の二人が自ら屋久島へ渡って杉・檜を調査するよう指示した連署副状。 島内では私用の伐採を一本も許さず、材木を残らず書き上げ、判断しにくい点は照会するよう命じる。
(天正17年)正月21日 / 冊子 436~437頁
石田三成・細川玄旨が、大仏殿造営用材の調達について、国ごとの割当や材木の寸法・本数、船による搬送方法を島津義弘へ詳しく指示した連署副状。 材木の不足や遅延を許さず、現地で検分して帳面を作り、指定分を確実に積み出すよう求める、豊臣政権の大規模資材動員を示す史料である。
年月日未詳 / 冊子 440頁
石田三成が島津義弘からの書状を拝見し、義弘の帰国時期は公儀の判断に属するため確約できないと返答した書状。 義弘の心情を気遣いつつ、早期の帰国が実現するよう働き掛ける意向を伝えている。
(天正17年)11月25日 / 冊子 455頁
石田三成が、島津家からの礼状を拝見し、当日は暮れるまで御前に詰めていたため返答が遅れたと説明した書状。 今後も用件を取り次ぎ、義久・久保らの意向に沿って対応する旨を伝える、豊臣政権中枢との日常的な連絡文書である。
(天正19年)7月15日 / 冊子 512頁
石田三成が島津義弘へ、薩州から近況の連絡がなく、帰国の用意を専一にすべきだと伝える。盆の祝儀として義久から帷子五領、義弘から五領が進上され、大津で披露すると秀吉が喜んで朱印を下したと報告し、自身に帷子三領が贈られた礼も述べる。
天正19年12月2日 / 冊子 519~520頁
石田三成が島津家に対し、京都に置く人質の番組と交替方法を定めた書状。島津一門や北郷・新納・肝付・種子島・入来院・根占・喜入などの親類・年寄の子を三組に分け、本田下野入道・町田出羽守・平田左近将監も加えて一組四人ずつ在京させる。義久・義弘・久保が在国する場合の補充、交替期限、私的な相談による勝手な交替の禁止まで規定し、豊臣政権下で島津家臣団を組織的に人質管理した実態を示す。
天正19年12月2日 / 冊子 520頁
本文はNo.789と同文のため省略されている。石田三成が島津家の親類・年寄の子らを三組に分け、京都に一組四人ずつ在京させる人質番組と交替方法を定めた文書の別写である。
(天正19年)12月5日 / 冊子 521頁
細川玄旨と石田三成が、大隅・薩摩・日向の蔵入地、寺社領、給人方の諸成物を残らず指出させる覚書。家作・人数についても屋数を付して報告させ、男・女・中間などを分け、判形を添えて提出するよう命じる。豊臣政権による領国把握の実務を示す。
(天正廿年)正月21日 / 冊子 530頁
石田三成と細川玄旨が、出水の扱いは朱印状により薩州と同様、島津方の一手として命じられたと伝える。琉球については、亀井茲矩への旧命があったものの島津方の取次と琉球国の礼参が上聞に達し、亀井には替地を与えて従来どおり島津方の手力とすると説明する。渡海人数を整え、名護屋で指示を受けるよう求めた連署状。
天正20年3月14日 / 冊子 537~538頁
石田三成が、島津久保の内儀がまだ上洛していないため秀吉の機嫌を損ねていると伝え、早急な上洛と細川幽斎による取次を求めた書状。渡唐軍勢の人数不足、船・兵糧・武具の手配にも触れ、島津父子の出陣準備を細かく督促する。
天正20年10月13日 / 冊子 610頁
石田三成が新納忠元へ、二度の書状と三郎兵衛の口上を受け取ったと返答し、長く京都にいる次郎四郎の帰国希望について説明する。 朝鮮出兵に伴い中国・九州から人質を再び召し上げているため、以前からの人質だけを今帰国させることはできないとする。一方、幽斎在国時の朱印では忠元への配慮が示されているとして、状況を踏まえた判断を求めた。
文禄2年8月22日 / 冊子 724頁
名護屋から秀吉朱印が届いたので内容を確認した後に返送し、兵糧米や諸道具を受け取る奉行人を急いで釜山浦へ派遣するよう命じる。 大谷吉継・石田三成が島津義弘・豊久ら四将へ連署で伝えた、朱印の回覧と補給物資受領の実務指示。
文禄2年8月23日 / 冊子 724頁
島津勢の扶持米を蔵米で賄い後日精算すること、番船の火矢を避けて小屋や船を陸へ上げること、蔵を増設することを指示する。 家中船による刈田・乱妨を禁じ、船の帰国・再招集、普請人員や大豆の扱いまで列挙した、朝鮮在陣の兵站・軍紀に関する石田三成の覚書。
文禄2年9月25日 / 冊子 739~740頁
石田三成が名護屋へ着岸し、翌日に大坂へ上る予定を知らせる。相手方の病が快方に向かい帰国したことを喜ぶ一方、又一郎久保の急死を思いがけない悲事として悼む。 義弘も京都にいると聞くため、三成の弔意を義弘へ伝えるよう依頼した書状。
文禄3年9月24日 / 冊子 810頁
増田長盛と石田三成が、羽柴薩摩侍従(島津義弘)の陣所へ、岡田勝五郎の到着と豊臣秀吉の意向を伝えた連署状。大明との和議は真の平和ではないとし、九州にいるのと同じ覚悟で在番し、諸城の普請を進めて堅固に守るよう指示する。秀吉が再び出馬して「赤国」を攻め、大明の詫びを受けて初めて処置するという強硬方針を補足している。No.1381・1382の翌日付で、秀吉の朱印状を奉行人が解説・補足した史料として重要。