比志島立阿譲状
元中四年十二月日 / 冊子 138頁
比志島立阿が嫡子河内守へ、比志島名内の所領を少しずつ譲った仮名書き譲状。『をきのくほ』二反、『つゝみの丸』『ゆのきの丸』『みねさき』など計七反、北村から契約した薗一所、河田女しやうにあてた『いしり』三反、ひくに(比丘尼)にあてた『かきの木山』一反などを列挙する。御公事は分限や作人に応じて勤仕すること、ひくにを扶持して安穏に暮らさせることを定め、後日の証とした。
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元中四年十二月日 / 冊子 138頁
比志島立阿が嫡子河内守へ、比志島名内の所領を少しずつ譲った仮名書き譲状。『をきのくほ』二反、『つゝみの丸』『ゆのきの丸』『みねさき』など計七反、北村から契約した薗一所、河田女しやうにあてた『いしり』三反、ひくに(比丘尼)にあてた『かきの木山』一反などを列挙する。御公事は分限や作人に応じて勤仕すること、ひくにを扶持して安穏に暮らさせることを定め、後日の証とした。
七月十九日 / 冊子 569頁
島津忠昌が山田河内守に、今度の合戦で当初から忠節を尽くし坂上郡を守った働きを賞し、子孫まで忘れず、今後も守方として奉公するよう求めた書状。
十月十三日 / 冊子 572頁
島津忠昌が山田河内守に、先年敵方に同心した心を改め、今後二心がない旨の神名起請文を提出したことを喜び、誓約に相違がなければ等閑に扱わないと伝えた書状。
天正15年9月13日 / 冊子 353~354頁
吉田清在が執印河内守へ、新田神社の祭礼に例年どおり太刀・馬を奉納したことを伝えた書状。馬屋を預かる立場から、七歳で置いた馬が九歳となったが、戦乱のため鹿児島領内から移して飼育し、傷んで見苦しくなった事情を説明し、今後の祭礼用の馬をどうするか判断を求めている。
二月八日 / 冊子 47頁
伊集院忠棟・町田久倍・平田光宗が、寺社の造営と千部会について執印河内守へ連署した書状。八城へ上る諸人の中でも執印は造営に特に尽力すべきこと、千部会の実施や祈祷を滞りなく進めることを求める。
七月十九日 / 冊子 306頁
島津忠昌が、今回の軍事で当初から示された忠節を賞し、寄郡から坂上まで奔走した功を忘れず、子孫にもその礼を与えるので、今後も忠節を尽くすよう山田河内守へ求めた書状。
十月十三日 / 冊子 306~307頁
島津忠昌が山田河内守に、先年の合戦では敵方に同心したものの、今は心を改め、今後二心を抱かない旨の神名起請文を差し出したことを受け、誓約に相違がなければ疎略には扱わないと告げた書状。
三月二日 / 冊子 516頁
山田聖栄が、所領を得るため判物を携えて有力者へ披露するよう山田河内守に勧める。肝付兼重時代の知行、足利尊氏判、京都から島津貞久らへ下された文書など古い証拠を活用し、速やかに訴え出るよう促した書状。
天正16年閏5月21日 / 冊子 394頁
以前知らせた祈願用の馬を当日送り届けたため、雨が続く翌日・翌々日を避け、吉日を相談して祈念を行うよう求める。 特に祈念すべき一頭であるとして、日延べせず実施することを念押しした町田一玄・本田三清親の連署状。
(元和四年)二月十三日 / 冊子 665頁
島津義弘が、長く無音であったことを詫び、江戸に長期滞在する娘親子に対する厚い配慮に謝し、今後も退屈させず万事指導するよう頼んだ書状。
(天正八年比定カ)正月十二日 / 冊子 171頁
前日に招かれたにもかかわらず、ひどく酔ってしまい参会できなかったことを詫び、詳しい事情は使者が申し述べるとした島津家久書状。
十二月廿七日 / 冊子 540頁
帰朝する唐船が大隅国内へ着岸したとの注進を受け、抑留を企てる者がいれば説得し、早急に京都へ到着するよう手配してほしいと求めた細川政元書状。詳細は蔭涼軒から伝えるとする。
永享十年三月十四日 / 冊子 379~380頁
河内守重政が松五郎へ、薩摩国高城郡・東郷および相模国小津合郷などにある代々相伝の所領、屋敷、田地を永代譲渡した譲状。松五郎に子がない場合は重政の兄弟の中へ譲ることも定め、遠隔地を含む所領の継承順位と一族内相続の条件を明記する。
四月十二日 / 冊子 87頁
年頭の使札と太刀一腰・沈香二斤に謝し、島津陸奥守の無事帰国を祝い、徳川家康が三月十七日に入洛して機嫌よく静謐に滞在していると報告した書状。
(元和三年六月)七日 / 冊子 644頁
島津家久が将軍から暇を与えられ、行平の太刀・正宗の脇差・八塚を含む馬二疋を拝領した厚遇を報告し、木曽路を通って上洛する予定を伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 451頁
寛正六年二月二十九日、島津立久が鶴戸城で伊東大和守祐堯の娘を迎え、末弘十郎四郎・宮丸太郎三郎が輿寄を務め、落合河内守が進物を贈ったことを記す。
(明応九年)十月十七日 / 冊子 578頁
喜入忠弘が加世田河内守に、菊三郎をめぐる相談への返答がないことを述べ、事情を確認して早急に返事をするよう求めた仮名書きの書状。
年月日未詳 / 冊子 889頁
天文二十年三月二十日、豊州忠親の家臣鮫島宗四郎が伊東勢との戦いで梁瀬に討死し、同年九月五日には新納河内守も目井城攻めで討死したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 897頁
豊州方が目井城の守備を新納河内守に求め、伊東相州の意向を受けつつ、火縄・弓・鉄砲などを用いて城を固めた経過を記す。
永禄十二年五月十日~九月 / 冊子 220頁
永禄十二年五月十日、島津忠親が河野筑前守・大岩根河内守を串良へ派遣し、島津義久と肝付家の和睦を取り持とうとしたが不成立に終わった。五月二十二日には義久の命で菱刈へ兵を送り、北郷小次郎を大将とした。九月、菱刈氏は降参して一命を許され、平城を安堵された。
天正四年八月十六日~九月 / 冊子 493~496頁
上井覚兼が高原城攻めの出陣・陣立・交渉を日記体で記す。覚兼は城方の肥田木河内守から断水による降伏意向を聞き、喜入季久らと人質交換を調整した。開城後は三山での勝鬨や諸将の太刀進上を記し、北郷時久へ田野城攻略の可否を問い、霧島で神慮を伺う方針をまとめた。
天正四年八月 / 冊子 502頁
高原城を詰めた際、友野元真が市来玄蕃左衛門・谷山佐渡介・四本越中守とともに垂之口から城を越え、敵方の肥田木河内守と対した奉公を記す。
慶長十一年十一月廿六日 / 冊子 96頁
慶長十一年十一月二十六日、二日目の犬追物手組を記した一覧。殿以下、島津式部太輔・島津摂津守・島津河内守・本田弥六らの射手名と割当てを列挙する。
慶長十一年十一月廿六日 / 冊子 96頁
慶長十一年十一月二十六日の犬追物手組を記した一覧。殿以下、島津河内守・島津杢右衛門尉・伊勢平左衛門尉らの射手名と組合せ・割当てを図示する。
慶長十一年十一月廿七日 / 冊子 97頁
慶長十一年十一月二十七日、犬追物三日目第三番の手組を記した一覧。殿以下、島津河内守・島津式部太輔・島津勘解由次官・平田新三郎らの射手名と割当てを列挙する。
慶長十一年十一月廿七日 / 冊子 98頁
慶長十一年十一月二十七日の犬追物手組を記した別一覧。殿以下、島津河内守・島津式部太輔・島津勘解由次官・平田新三郎らの射手名と割当てを列挙する。
(慶長十二年)十一月廿日 / 冊子 135頁
慶長十二年十一月二十日、山口直友が島津家久へ、本郷次郎が上向するので同族の河内守と相談して取り計らうことを知らせ、当地での勤務について安心するよう伝えた書状。
八月十二日 / 冊子 131~132頁
相手や若者たちの成長を喜び、河内守の在京で心労があったものの大坂の件が早く決着して帰国の供ができたことを祝った。河内守・陸奥守との懇意な関係を今後も取り持つよう頼み、縮緬一端と赤地紗一端を贈った書状。
九月六日 / 冊子 441~442頁
松平河内守頼重が島津光久に、薩摩での船舶建造をめぐり酒井讃岐守忠勝の内意を伝える。法度に反する船は早々に取り崩し、規定内の船はそのまま置くこと、現在までに完成した船以外は新造を控え、翌春の参勤時に老中へ内談した後、必要なら再開するよう求めた。この話は公儀の正式な沙汰ではないため隠密に扱うよう命じる。追而書では、今回命じられた船のうち五百石以上の船は早々に受け取るよう伝えており、大船を一律に取り崩させたのではなく、法度適合性と既発注分を区別して処置したことが分かる。
永享四年八月吉日 / 冊子 358頁
肝付兼元が山田氏へ、大小の事を相談し、私的な縁故に左右されず大事には奉公し、和議を害する者の言葉を信じず面談で疑いを解くことを誓った契状。本文年紀は『永享三年八月吉日』。
永享六年六月廿四日 / 冊子 367頁
肝付兼元・伴兼忠が山田殿へ、世情が変転しても島津好久のため一味同心して奉公することを約した連署契状。本文は冒頭条項以外を前文同文として省略し、年紀は『永享六年六月廿三日』。
年月日未詳 / 冊子 388頁
伊作島津久逸の出生と伊作家継承を記す系譜記事。久逸は永享十二年に島津忠国の三男として生まれ、母は新納近江守忠臣の娘。伊作家の大安丸が早世したため、忠国の意向で久逸が迎えられ、大安丸の妹を妻として伊作家を継いだ。
二月十日 / 冊子 388頁
島津久逸が坊津一乗院へ、例年の大般若経祈念に加え、屋形から国名を拝領するための祈念が成就したことを謝した書状。宝生院が使僧として巻数を持参した際、久逸は鹿児島にいて対面できなかったため、改めて参上して礼を述べるとする。
年月日未詳 / 冊子 827頁
天文十四年九月晦日の戦いを中心に、島津方で戦死した武士の名と戦死地・状況を列記する。
慶長十一年十一月廿六日 / 冊子 96頁
慶長十一年十一月二十六日の犬追物で、二日目第三番に当たる手組を記した一覧。殿以下の射手名と組合せ・割当てを列挙する。
慶長十一年十一月廿七日 / 冊子 98頁
慶長十一年十一月二十七日、犬追物三日目第二番の手組を記した一覧。殿以下の射手名、組合せ、各人の割当てを図示する。
(寛永元年)十月十四日 / 冊子 820頁
島津義弘の息女屋地が帖佐十郎兵衛へ、女性が上方や江戸へ人質として赴き、縁組を通じて島津家へ奉公した際に無公役の知行を受けた先例を列挙した覚書。自身への加増を求めるのではなく、宝寿院殿と娘の今後の奉公が続くよう、知行を給付してほしいと申し入れた。
正月十二日 / 冊子 176頁
第四〇二号文書と同文であるため本文を省略した島津家久書状。
年月日未詳 / 冊子 17~18頁
天文二十四年から弘治元年の戦闘における島津方の戦死者を補記する。九月五日の新納尾張守忠征・新納河内守忠照、十一月十六日の本田宗左衛門、十二月五日の前田長門守らについて、日付・所属・従者の戦死を列記する。
元亀二年十月九日 / 冊子 256頁
元亀二年十月九日、北郷時久が軍議のため鹿児島へ赴いた際の随行者を列挙する。北郷紀伊守忠徳・和田越中入道起雲・津曲備後守兼庚・亀津河内守・河野筑前守・大岩根兵部少輔が供奉した。
享保七年六月六日 / 冊子 541頁/整理ID 1402
井上河内守の死去を知らせる書状を受け、水野忠之が将軍家の御機嫌と安泰を伝え、返答する。
天正14年(1586)~慶長4年(1599)頃の記事 / 冊子 421~422頁/原整理番号 9
家嫡太郎左衛門尉重豊の二男・伊地知河内守を祖とし、越前守・刑部少輔以下へ分かれる系図。重位は朝鮮で戦死し、石原助兵衛の長子を実子として系統へ迎えたこと、重清は朝鮮役で功を立て蒲生で戦死したこと、重徳は日新公に仕えて蒲生で戦死したことを記す。重増は比志島河内守の二男を実子とし天正十四年に豊後で戦死、重鑑は朝鮮役で功を立て庄内役では兵具奉行を務めて戦死するなど、石原・比志島両家との養子関係と、豊後・朝鮮・蒲生・庄内での軍歴を各支流に付記する。
年月日未詳 / 冊子 245頁
『殉国名藪』が、応永十八年に山田孫四郎を攻めた際、肝付兼元が兵を起こして鹿屋忠兼の鹿屋城を救援した戦いでの戦死とみられる事績を記す。年月は不明と注記する。
宝徳三年九月八日 / 冊子 426頁
宝徳三年九月八日の犬追物について、島津忠国以下の参加者を組別に配し、それぞれの定数を記した手組。
享徳三年九月廿日 / 冊子 429頁
享徳三年九月二十日の犬追物について、島津氏・肝付氏・餅原氏らの参加者を組別に配した手組。
享徳三年九月廿三日 / 冊子 430頁
享徳三年九月二十三日の犬追物について、島津氏・肝付氏らの参加者を組別に配し、各人の定数を記した手組。
康正二年三月八日 / 冊子 431頁
康正二年三月八日の犬追物について、島津氏・市来氏・肝付氏らの参加者を組別に配し、各人の定数を記した手組。
文明三年十二月廿日 / 冊子 474頁
室町幕府奉行の国通・貞秀が島津忠光に、播磨国布施郷の地頭職について幕府命令を遵行し、違乱する者を処罰するよう命じた連署奉書。
年月日未詳 / 冊子 568~569頁
明応四年六月末から七月初めの加治木方との合戦について、喜入忠弘らが坂口の守備・反撃にあたり、敵を討ち退けた経緯を記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 715頁
天文二年二月十日、知覧・川辺の士卒と桑波田孫六らをめぐる勝久方との対立を背景に、日新方が武略によって南郷城を奪取し、地名を永吉と改めた経緯を記す。