島津惟新書状
年月日未詳 / 冊子 425頁
慶長十八年十一月頃、島津惟新が江戸の娘へ、豊後守母から届いた呉服に添える書状を送り、上臈や局らとともに披露して見るよう伝えた短い書状。
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年月日未詳 / 冊子 425頁
慶長十八年十一月頃、島津惟新が江戸の娘へ、豊後守母から届いた呉服に添える書状を送り、上臈や局らとともに披露して見るよう伝えた短い書状。
申12月14日(本文年不記、目録は安政7年);外包:万延2年酉3月2日 / 冊子 231~232頁/原整理番号 317の1/整理ID 317-1
参勤猶予が公辺の例格として容易でないところ、特別な評合で願いどおり認められたことをありがたく思い、来々年の参府までの間、江戸屋敷の取締をさらに厳重にするよう命じる御筆仰出。公義の法令を守って精勤し、末々の諸士まで古代の国風を失わず質素節倹を用い、奢侈放肆を避け、正実に交わって風儀を正し、文武の道に励むよう求める。改革を廃弛せず万事行き届かせるため、出府した式部と相談して向々へ伝えるとする。申十二月十四日、年は本文に記さず目録は安政七年と補う。外包には御筆仰出一通、万延二年酉三月二日に登から森喜藤太へ渡したとある。
(慶長四年) / 冊子 376頁
島津義久の事書案で、冒頭を欠く。陣取の報告、加治木御蔵米の未進と複雑な出納、石田□蔵米の調査、内府と羽柴肥前守との間に生じた問題、財部境の軍事、江戸中納言の使者が未着であること、多数の書状を諸方へ送ったことを列挙する。
(慶長四年)十月一日 / 冊子 449頁
島津義久が又八郎に、出立日の好天を喜ぶ一方、供奉する人数が少ないとの報告を受け、山田方面へ参着する兵は供に加えるよう指示したと述べる。翌日の陣取りが無事に済めば早打を送り、三日までに知らせること、江戸中納言の使者が来た場合も直ちに注進することを求める。
(慶長四年)十月三日 / 冊子 451頁
島津義久が秋月に、たびたびの使書に謝し、庄内には当面新たな動きがないと伝える。少将が先月晦日に山田方面へ出馬したので、ほどなく一途に決着するだろうと見込み、江戸中納言の使者が来着するとの風聞もあるため、詳しくは使者の説明に委ねる。
(慶長四年)十月四日 / 冊子 451頁
島津義久が又八郎に、前日の出陣を祝し、宝口へ出した兵が不意の敵と遭遇して奮戦したことを神妙と評価する。七日に伏見へ早打を送るので用件を書き送ること、江戸中納言の使者が来れば注進することを求め、志和池口へ陣を寄せる場合は水の手が断たれないか注意を促す。
(慶長四年)十月四日 / 冊子 453~454頁
島津義久が又八郎に、去る二日に敵陣へ乗り込んだとの注進を祝し、宝部口へ援兵として出した人数が思いがけず敵と遭遇し、奮戦して損害がなかったことを神妙とする。境近くに陣を付ければ水の手を断てるか詳報を求め、七日に伏見へ早打を上せるため用件を書き送ること、江戸中納言の使者が来れば知らせることを求める。
(慶長四年)十月六日 / 冊子 455頁
島津義久が兵庫入道に、内府の使者が無事上国したことを喜び、毛利輝元から伝えられた大坂での置目の詳細と山口勘兵衛への書状取次ぎを求める。庄内では源二郎が和議後に違変したため二日に志和池境へ着陣し、財部口へ出した兵が敵四、五人を討った一方、平田三五郎・宮内式部左衛門が戦死し、吉田大蔵が深手を負ったこと、寺沢殿の到着予定、江戸中納言使者の下向、宰相殿の病状を報じる。
十月六日 / 冊子 456頁
島津忠恒が龍伯に、森田の陣所は十分に取り固めて無事であり、志和池も今日から攻め掛かるので近日中に決着する見込みだと伝える。北郷作左衛門尉の動向や詳細は村田雅楽助に申し含め、江戸中納言の使者に関する情報は誤りだったと報告する。
(慶長五年)十月廿七日 / 冊子 602-603頁
立花親成が九州各地の軍事情勢と自身の和談成立を報じ、天下が静謐へ向かい江戸中納言の薩州出馬も見込まれるとして、島津方に早急に八代へ使者を送り、加藤清正・黒田如水らを介した詫言を進めるよう勧告する。
(慶長八年)五月十日 / 冊子 893頁
果法院某が忠恒へ、三月二十五日に徳川家康が参内して将軍となり、豊臣秀頼が内大臣となったこと、秀頼の祝言が七月中旬に定まり、江戸大納言秀忠の娘千姫が近く上洛することを報じる。龍伯・惟新の息災を喜び、来秋の忠恒上洛を待つと述べ、虫薬二十包を贈った。
(慶長十八年)三月十一日 / 冊子 392頁
慶長十八年三月十一日、江戸若君の病気、大坂火事、分国中検地帳、御書二通、伊集院半右衛門尉への付託、相良家若子の祝儀、加治木内証などの用件を列記した覚書。
(慶長十八年)四月十四日 / 冊子 395頁
慶長十八年四月十四日、島津義弘が宗善らへ、先の見廻りと礼に謝し、江戸から使者が到来して重要な用件があるため、引き続き配慮を求めた書状。
(慶長十八年)十一月晦日 / 冊子 423~425頁
慶長十八年十一月頃、島津家の女性年長者が、江戸へ赴く女性親族に対し、道中と在府中の身持ち、女房衆や家臣の統率、贈答、他家との交際、親子・家族への配慮を細かく説いた長文書状。
(慶長十八年)十二月十四日 / 冊子 428頁
慶長十八年十二月十四日、福島正則が六月二十五日付の書状に返答し、息女と孫の無事を喜び、自身の娘が江戸に在府していること、将来の帰国や奉公について気遣いを述べた書状。
(慶長十九年) / 冊子 428~433頁
慶長十九年頃、島津義弘が江戸へ証人として赴く女性親族と家中へ、道中・江戸在府の心得、贈答品の管理、奉公人と女房衆の統率、他家との交際、風聞への警戒、親子・孫への配慮を詳細に説いた長文書状案。
(慶長十九年)正月二日 / 冊子 520頁
江戸にいる妹のもとへ年始の使者を遣わす件について、田舎者を取次に置くことへの心遣いを述べ、遠方からの使者を適切に取り次ぐよう北郷讃岐守へ求めた書状案。
年月日未詳 / 冊子 521~522頁
慶長十九年日記のうち正月三日以降の記事。年頭の拝礼、家臣や使者の参上、進物、酒宴、江戸・駿河方面との往来など、年初の儀礼と政務を記録する。
(元和七年)二月五日 / 冊子 764頁
喜入忠政・伊勢貞昌が島津家久へ、江戸で大火が起こり、強風で家久邸にも延焼が迫ったため家財の搬出・避難を行ったこと、火災後に銀子五百貫目の拝領があったことなどを報告した連署状。
四月六日 / 冊子 767頁
島津家久が中城王子へ、年頭の祝詞と使札を帰国後に披見したことを述べ、江戸で公方の機嫌がよかったとの知らせを喜び、上布・蕉布・焼酒の贈物に謝意を表した書状。
年月日未詳 / 冊子 772頁
島津家久が六月二十七日に大坂へ着岸し、将軍の命によって翌二十八日早朝に大坂を発って江戸へ向かったこと、関西諸侯が大坂城修築を命じられる一方、薩摩国はその役に加わらなかったことを記す系譜記事。
(元和七年)六月廿八日 / 冊子 772~773頁
伊勢貞昌が喜入忠政・三原重種へ、島津家久が六月二十七日に大坂へ着き、相次ぐ注進を受けて翌朝江戸へ急行したことを報告した。また和子入内の供奉、大坂普請での巨石運搬と費用、家久進上材木の利用などを伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 774頁
十月中旬に徳川秀忠が島津家久へ暇を告げ、秀忠から黄金三百枚・絹百端・脇刀一柄、家光から白銀千枚・時服百領・駿馬三匹を拝領したこと、家老島津久元・伊勢貞昌が供奉し、十月下旬に江戸を発って十一月下旬に鹿児島へ入ったとみられることを記す系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 777頁
島津家久が徳川和子の入内祝賀と将軍家への年賀のため正月上旬に鹿児島を発って上洛し、二十八日に喜入忠政・比志島国隆を先に江戸へ遣わして賀礼の幣物を献じたことを記す。京都滞在中、今年は在国してよいとの老中奉書を受け、二月二十九日に京都を辞して帰国した。
年月日未詳 / 冊子 778頁
島津家久がこの春、島津久元を江戸へ留守役として派遣し、久元が将軍に拝謁したことを記す系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 778頁
島津久元が元和八年二月に江戸へ向けて出発し、翌元和九年五月に帰国したことを記す系譜記事。
(元和八年)四月廿二日 / 冊子 779頁
寺沢広高が島津家久へ、年頭祝儀の太刀・馬代銀子などへの礼を述べ、又八郎の息災、江戸城本丸作事に伴う西丸への移転予定、家久に在国を命じる年寄衆の指示を伝え、当地の様子は島津久元と相談するとした書状。
(元和九年)十月十九日 / 冊子 799頁
スペイン国王から日本将軍への礼使であるトム・アントニヨとドン・ヘルナンドが、閏八月八日に山川へ着いた後、上方からの指示を待っているが届かないと訴えた。翌年三月までにルソンへ帰帆する必要があるため、薩摩側に案内者の付与と江戸奉行宛書状の発給を求め、江戸で使命を果たせるよう依頼した連署状。
寛永五年九月十日 / 冊子 69~70頁
喜入忠続が琉球側に、江戸への言上・役人の召し出し、知行・進物・船舶と交易品、年々の産物上納、芸能や武具、翌夏の参上などについて処置を指示する条書。国元との連絡と役人の配置を整え、定めた規則を守るよう求める。
年月日未詳 / 冊子 82頁
寛永六年春、徳川家光が痘疹を患ったため、その安否を確かめる使節として喜入忠続が江戸へ参候したことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 226~227頁
徳川秀忠の不例を受け、江戸留守居家老の伊勢貞昌らから飛脚・書状で相次いで情報が届いたため、家久は江戸へ向かおうとして日向で船を用意した。しかし秀忠から参府を許さない旨が伝えられ、日向で次の病状報告を待ったと記す家久譜の記事。
九月十八日 / 冊子 60頁
仁礼頼景が、江戸到着後の拝謁・饗応と今後の行程を報告した書状。八月二十四日に江戸へ着き、翌日御前に出て振舞を受け、九月十一日に京都へ向かったことを述べ、勝利して帰国する願いと、若衆に舞・兵法を励ませるよう求める。
三月三日 / 冊子 61~62頁
島津忠廣が川上篠右衛門尉に、久しく会えず音信も途絶えていたことを詫び、互いの近況を尋ねた書状。上様が下向して当地へも来訪する見込みなので、その際に積もる話をしたいと述べ、江戸からも便りを送れなかったことを謝する。
十月十五日 / 冊子 68頁
川上久國らが、江戸から下向する上使を迎えるため発した連署廻文。通行路の道・橋を念入りに普請し、上使通過時は下々まで見物に出ないこと、途中で出会った場合は平伏して慎むことを厳命する。
四月十六日 / 冊子 170頁
島津久慶と頴娃久政が諸所の噯衆に、江戸奉行衆の奉書が早飛脚で下されたため写しを地頭衆へ回したことを伝え、前年の指示と相違なく油断せず申し付けるよう命じた廻文。御兄弟衆が巡見するので、不行届きの場所は直ちに報告されることを心得、少しも疎略にしないよう戒める。
九月 / 冊子 198~199頁
島津重豪が、江戸・京・大坂での借金増大、利払い、諸用金、産物収入不足など藩財政の窮迫を示し、産物・勤事の立て直しと倹約を命じた達書。派閥や私情に流されず、諸役人が一致して改革を進め、国中の飢渇を避けるため速やかに処置するよう求める。
四月十九日 / 冊子 452頁
領内の諸法度執行を新納右衛門佐に任せているため、その命令に少しも背かず、北郷式部太輔配下の江戸詰衆へも申し渡すよう命じる。新納にも遠慮なく指揮するよう伝えよとした島津光久書状。
寛政十年二月二十四日(本文) / 冊子 1046・1047・1048頁/原整理番号 2822の7/整理ID 2822-7
明姫を兵庫の実子として扱う指示と、出生前の旧指示との関係をめぐり、当時の照会・帳面処置・書付捜索の経緯を列記する。安永三年六月八日、江戸で山岡市正から、兵庫の奥女中が懐妊し男児なら養子として下す旨が伝えられた旧件や、その後は明姫を兵庫の直子として扱い、旧書付・帳留を不要とする指示が出たことを記す。加治木役人川上左織への口達、書付を探したが見つからず十月に再捜索・報告した経緯も述べる。さらに御子様方の母付について、家老の指図に基づく記載の可否や、国元で決まった扱いを照会し、将来用事が生じた際に事情を知らないと支障があるため回答を求める。
本文年月日不記(執事方帳留、出府時の伝達経緯注付き) / 冊子 234頁/原整理番号 323/整理ID 323
執事方帳留にある参勤猶予後の訓示。公辺の例格もある容易でない猶予が特別な評合で願いどおり認められたことをありがたく思い、来々年の参府まで江戸屋敷の取締を一層厳重にするよう命じる。公義の法令を守って一統が精勤し、末々の諸士まで古代の国風を失わず質素節倹を用い、奢侈放肆を避け、正実と文武を肝要として改革を廃弛させず万事行き届かせるよう求める。出府した式部と相談して向々へ伝えるとする。注には嶋津左衛門の出府時に御筆を渡し、出府後に国許へ差し回して伝達した経緯がある。本文に年月日を記さない。
4月17日(報告年不記);写注:戌4月18日、同5月国許へ伝達 / 冊子 252頁/原整理番号 350/整理ID 350
雑集中の二内容。前段は浪士の蜂起・不穏な企てを島津和泉久光が取り押さえたことを賞し、御膝元での発起を悩むので当地に滞在して鎮静するよう求める思召の写。続く西筑右衛門の御名内宛報告は、修理太夫の実父久光が江戸への用向で出府する途中、大坂に集まった浪人へ家臣を差し立てて申諭し、騒乱を防ぐ手当を命じ伏見へ移ったこと、近衛殿との内約を置き酒井若狭守の住居から上京して事情を内諭した結果、叡慮の書付を渡されたことを伝える。十七日に京都屋敷へ移って滞留する旨を報告し、四月十七日と記す。末注は本文戌四月十八日の書付写を江戸御長屋詰人数へ拝見させ、同五月に国許へ伝達した記録。各本文と伝達日を分ける。
正徳五年十一月 / 冊子 242~243頁/整理ID 595
江戸家老座へ、領知の内外での書付の差出し、高札や役所間の文書取扱い、琉球との通達などについて申し渡した長文の書付。複数項目と宛先名が続く。
安政二年十二月 / 冊子 165~166頁/原整理番号 231/整理ID 231
海防手当や費用増に加え、地震で芝屋敷を始め諸屋敷が大破し修復に莫大な費用を要するが、近年一同困窮しているので追加の出銀を一切命じず、節倹と士道を厳重に守るよう求める仰出。江戸の長屋が近年広大になり、広い住居に比べ人数や各役の必要間数、定府と家内の者の住居も一律には定め難いとして、大略の定めを作るよう吟味させる。交代の家老・用人のため西向屋敷に長屋があるが、以後は上屋敷内に設け、西向屋敷には家老・用人の長屋を置かないよう求める。海防以外の入費も続き今後の臨時の費用も予測できないので、無用の費を避けて十分に倹約し、膳所等を始め諸方面へ同じ心得を申し出て、節倹が行き届くよう調べることを命じる。意見のある者には遠慮なく存寄書を出させ、漏れなく申し渡すよう求める。末尾は安政二年十二月。
明治2年四月(日不記)知政所、招魂祭は来る25日予定 / 冊子 663~664頁/原整理番号 861の2/整理ID 861-2
去春以来畿内その他東北諸道へ出軍して戦亡した者、一昨冬江戸邸で徳川氏の原文いう暴挙の際に戦亡した者、一昨春以来大坂または新潟で原文いう賊徒に殺害された者を列記する。延期中の招魂祭を来る25日に御対面所で命じ、親族の拝礼と引き続く御目見を予定する。貴賎・男女によらず親族の内一人ずつが当日四ツ時の時刻に合わせて出席し、差引方へ届け出るよう求める。時刻後の字形の厳密な読みは留保する。但書は足軽以上を改服または戎服とする。朱明治二年己四月、知政所。対象の三類型、各親族の一人と予定時刻、通知日不記を分け、全対象を軍人としたり実参列者総数・祭礼完了を補ったりしない。
(慶長元年)六月朔日 / 冊子 27頁
島津義弘が忠恒へ、家門様を帰京させる命令が徳川家康・前田利家を通じて太閤から伝えられ、使者を下したので早々の上洛を言上するよう求める。一方、忠恒の帰朝命令は変更され、中途まで帰っていても再び高麗へ渡って在番するよう諸大名同様に命じられたため、本田讃岐守を使者に知らせ、兵員・屋形など高麗への支援を怠らないよう指示した書状。
年月日未詳 / 冊子 776頁
島津久元が弓術を本郷義則・東郷重尚、犬追物を川上久慶、馬術を島津義弘と荒木元満に学び、免状・馬書・手綱秘奥・印可を受けたことを記す。さらに鷹術を義弘に、茶を景活火から老湯の法まで学び、武芸と茶道に通じた経歴を述べる系譜記事。
5月9日横浜記事/5月6日付江戸状(月日原記載、年不記) / 冊子 297~298頁/原整理番号 416/整理ID 416
二内容の雑集。第一は高崎猪太郎が江戸の攘夷事情を聞いて注進し、中川宮へ申し上げたという記事。五月九日の横浜で三十三万両を外国人へ渡したとの話と、外国側の威圧や応接者への批判を載せる。さらに三十二万両を殺された者の妻子養育のためと名付けた由、幕府の朝敵名義を失わせるという話、近く以前の世態へ戻るとの見方、家康死去の元和二年から文久三年まで二百四十八年とする叙述がある。第二は五月六日付の江戸状抄。大樹の大坂滞在、水府の江戸着、前年の焼打ちが町家へ費用を求めた話、家財運送や警戒、神奈川・芝口海岸の臺場見分、浅草の浪人集会と金銭借入、淀谷邸への移動の噂、井伊の神奈川警衛に伴う多数出張と町家の疑いを記す。「由」「とやら」「口説」等の報告・風聞として編集し、三十三万と三十二万を整合させたり合算したりしない。
8月16・21・26日、閏8月11・16・21日(出立表示、年不記) / 冊子 270頁/原整理番号 374/整理ID 374
八月十六日・廿一日・廿六日、閏八月十一日・十六日・廿一日の六つの出立日ごとに、人名と出府する郷別人数を掲げる一覧。最初は谷村十右衛門・宮里新次郎と樋脇・東郷・隈之城各五人。続く各群には国分・清水・串木野、櫻島・小根占・高山・鹿屋、加世田・志布志・蒲生、始羅郡山田・帖佐・伊集院・市来、福山・伊作・指宿・羽月を列記する。江戸の守衛のため出府を命じたとの末注がある。郷別人数の表示合計は第一群十五人、他の五群各二十人、参考合計百十五人。前に掲げた人名十四人が郷別数へ含まれるかは記さないので加算しない。
安永二年十二月十九日(末尾)、冒頭朱正月二十一日・取替指示正月二十五日、去十三日七夜賀 / 冊子 411~412~413頁/原整理番号 1135/整理ID 1135
虎寿丸の出生・七夜に関する贈答と使者の手配を列記する。虎寿丸から太守へ御太刀一腰・御馬代金一枚・二種一荷を進め、御近習役を使者とする。朱に正月二十一日、祝物の御取替を正月二十五日に命じる旨を受け、御使番へ首尾を伝え書付を渡したとの注。於篤・妙心院・嶺松院へは二種二百足宛を記す。御前様から太守へ一種三百足、妙心院・嶺松院へ祝詞一通、使者は納殿役人。太守から妙心院・嶺松院へ二種宛、両院から太守へも二種宛を進め、御近習役が使者となる。去十三日の七夜祝が済んだことを受け、産婦から太守へ二種二百足と祝詞を御年寄によって進める。虎寿丸から太守へ鯛一折・榛代三百足、また七夜に太守が幼名を与えて鯛一折・榛代三百足を贈り、虎寿丸も同じ品を進めたことを記す。帯刀殿から太守への二種一荷には御肴代二百足・御弓勤の指示を添え、その妻から太守へ金子三百足を進めて拝領させる。贈答と下付を取替える手配について、去九日に帯刀殿が若松十左衛門へ伝え、白木の調え方は御門の目録を基に仕出すよう求める。太守からは独立の使者を差し越さず、七夜祝時の側御用人・御近習役を使者として祝物・産婦と帯刀殿への拝領物等を進め、十三日に整った分以外も当日の取替下付に合わせる。使者下付は、虎寿丸祝物と賜名祝物の御近習役へ金二百足宛、太守から虎寿丸祝物の御近習役へ金子百足ツを記す。太守・御前様・妙心院・嶺松院相互の祝物の使者には下付不要、於篤から虎寿丸祝物の使者へは金子百足を拝領させる。虎寿丸・敬姫・於篤相互の祝物の使者と下付も検討し、妙心院・嶺松院から於篤への七夜祝物は納殿役人を使者とし金子百足を下す。虎寿丸の使者にも同様に下付するため取り合わせる。於薫殿の御髪立と、それに伴う進上品・遣物も祝当日に合わせる。帯刀殿の妻から虎寿丸への品と拝領物は帯刀殿名代で整え、御髪立道具の進上使者川田甚四郎には金子百足を拝領させる。産婦への進上・下付品は再吟味不要とし、真含院から妙心院・嶺松院への祝詞使の時は御ふくを用いて差し越し、納殿役人へ伝える。末尾は安永二年十二月十九日、江戸御使番。各贈答方向・使者・下付の有無、済んだ七夜と後の取替手配を分ける。
文化15年(編纂前置、月日なし。所収先例は寛政10年・文化7年・寛政8年・天明7年) / 冊子 526~528頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1600-1
御記録所の問合書留。白木八番箱二十一番、文化十五年の前置を持ち、産穢・忌服中の代参を江戸留守居経験者に照会し、返答を引札に記す。朱張紙は、産穢中の代参は流れ、御正統方年回法事で穢明け後の代参を命じる場合は祭主のない事として区別する。忌中の法事は延期も申し付けないが、芳蓮院等格別の年回は法事延期の筋、慎中の仏事は不苦とする。御宮・神前代参は紅葉山が流れ、日光は延期例があり、首途の神祇服忌令は伊勢・山王と同様。名代や前文差立・東照宮祭式神事の問いには、代参・供物をせず流れる場合と、穢明け後の聖堂春秋祭式を区別する。先例は寛政十年大樹寺道幹(徳川広忠)二百五十回忌で三月六日産穢中につき八日松平伊賀忠済が代参。文化七年六月十二日惇信院五十回法事は大納言忌中で名代なし、七月十二日は松平能登守を名代とし忌中を後らせ香奠を用意。六月十五日の山王代参祭礼を十三日の大奥女中安産で延期した例は寛政八年、七月廿三日高井飛騨守を名代とし供物は例通り。天明七年正月二日の伊勢・日光名代は服中につきなし、十月朔日の服明けには命じた。聖堂代参が流れる例も度々あるとし、類例を認拔置く。慈光院法事の照会文は次の1600-2へ連結し、本件の編纂年と篠原書状の発給日を区別する。
享保二十年卯十月二十八日 / 冊子 336頁/整理ID 786
屋敷修繕届の先例を照会し、絵図添付・御用人への伺い・届書差出しの手続きを整理する。