永禄九年戦死者交名
永禄九年三月五日・四月廿七日・六月十六日・八月十六日 / 冊子 146頁
永禄九年の戦死者を月日別に掲げた交名抄。三月五日、四月二十七日、六月十六日、八月十六日の各戦闘で亡くなった篠河左衛門兵衛、蓑輪狩野介重親、久木崎丹後、野村助三郎経長らを列記する。
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永禄九年三月五日・四月廿七日・六月十六日・八月十六日 / 冊子 146頁
永禄九年の戦死者を月日別に掲げた交名抄。三月五日、四月二十七日、六月十六日、八月十六日の各戦闘で亡くなった篠河左衛門兵衛、蓑輪狩野介重親、久木崎丹後、野村助三郎経長らを列記する。
永禄九年 / 冊子 141~142頁
永禄九年、島津貴久が将軍足利義輝一周忌のため二月彼岸に剃髪し法名を称したことを記す。六月の肝付氏による岩川攻撃、九月九日の霧島山火災、伊東氏の三山築城と飯野侵攻計画を述べ、十月二十六日に義久を大将、義弘・歳久を副将として三山を攻め、義弘が重傷を負って退いた経過を載せる。
永禄九年二月彼岸 / 冊子 145頁
永禄九年、前年に没した将軍足利義輝の一周忌に当たり、島津貴久が二月彼岸に剃髪して法名を称したことを記す。
永禄九年三月廿二日・四月廿日 / 冊子 145頁
永禄九年三月二十二日に伊東勢が目井へ陣を置いたことを記す。四月二十日、飫肥宮之浦の兵が海上で伊東勢と戦い、敵二十九人を討ち九人を生け捕り、合わせて六十三人を討ち果たし、船五艘を奪った。
永禄九年五月十八日~七月十七日 / 冊子 145~146頁
永禄九年五月、北郷時久が松山へ初陣し、忠徳らと出立の儀礼を行った後、福島方面で伊東勢を待ち伏せして十一人を討ったことを記す。六月十六日の肝付勢による岩川攻撃と双方の損害、七月の時久の飫肥出陣、肝付勢による福島攻撃と守兵の戦果も載せる。
永禄九年二月彼岸・三月・十月廿六日 / 冊子 146頁
永禄九年、島津貴久が将軍足利義輝一周忌のため二月彼岸に剃髪したこと、三月に福昌寺で季節外れの桜が咲いたことを記す。十月二十六日には島津勢が三山を攻め、城周辺を焼いたものの落城には至らなかった。
永禄九年六月十六日 / 冊子 146頁
永禄九年六月十六日、肝付氏が岩川へ出兵した際、北郷時久が配置していた城兵が防戦して敵の首二十六級を得た一方、味方も久木崎丹後以下十余人が戦死したことを記す。
永禄九年十月 / 冊子 150頁
永禄九年十月、日新の孫である義弘・歳久が大将として軍勢を率い三山城を攻めたが、城壁が堅固で陥落させられず、多数が戦死したことを記す。日新が戦没者の成仏を願って詠んだ弔歌二首を載せる。
永禄九年十月廿六日 / 冊子 150~151頁
伊東義祐が三山に要害を築き飯野侵攻を企てたため、永禄九年十月二十六日、義久を大将、義弘・歳久を副将として大軍で攻撃した経過を記す。諸将が奮戦したが義弘が深手を負い、阿多中務丞・末弘又左衛門尉・本田治部少輔らが戦死し、城を落とせず退いた。
永禄九年十月廿六日 / 冊子 151頁
伊東義祐が三山城を拠点に飯野侵攻を企てたため、永禄九年十月二十六日、義久を大将、義弘・歳久を副将として三山城を攻めたことを記す。義弘が強敵と戦って深手を負い、将士が動揺したため落城させられず退却した。
永禄九年十月廿六日 / 冊子 151~153頁
永禄九年十月二十六日の三山合戦で戦死した島津方将兵を多数列挙した交名抄。阿多中務允久宗、末弘又左衛門尉、本田治部少輔、本田興五郎、鮫島文左衛門宗明らをはじめ、各地・各家に属する人々の名と戦死注記を載せる。
永禄九年十月廿六日 / 冊子 152~153頁
伊東義祐が三山城を築いて相良氏と通じ、飯野侵攻を企てたため、永禄九年十月二十六日、義久を大将、義弘・歳久を副将として数万騎で攻めたことを記す。勝利を得たものの義弘が深手を負ったため、城を落とさず退去した。
永禄九年十月廿六日 / 冊子 153~154頁
永禄九年十月二十六日の小林三の山攻めに参加した将兵を、戦闘配置や戦功とともに列挙した交名。城口から二之丸までの攻撃に加わった市来・加世田など各地の武士を掲げ、阿多中務丞、末弘又左衛門尉、本田治部少輔らには戦死の注記を付す。
永禄九年十月 / 冊子 154頁
本文ではNo.343と同文のため省略される記事。永禄九年十月、義弘・歳久が三山城を攻めたものの堅固な城壁のため落城させられず、多数が戦死し、日新が戦没者の成仏を願う弔歌を詠んだ内容に当たる。
永禄九年十月十五日 / 冊子 156頁
永禄九年十月十五日、島津義久が大軍を率いて小林城へ向かい花立口に陣し、義弘が大豆別府口から二之丸へ攻め入って戦ったことを記す。伊東方の援軍が来たため島津勢は陣を開いて退いた。
永禄九年十月十九日 / 冊子 156~157頁
永禄九年十月十九日、島津貴久の使者伊集院下野守が、高原所領を霧島六所大権現へ寄進する旨と祈念を伝えたことを記す私覚。高原は神代以来の神地であるとし、証跡として太刀を座主に渡した後、頼継が日数を置いて返進したこと、使者の子が冠嶽和光院の僧となったことも書き留める。
永禄九年十月下旬 / 冊子 157頁
永禄九年十月下旬、三之山で戦死した人々を弔うため、島津貴久が阿弥陀の六字名号を連ね、成仏を願ったことを記す。命のはかなさ、残された者の悲嘆、先立つ人への思いを詠んだ追悼の詞歌を載せる。
永禄九年 / 冊子 157頁
永禄九年の三之山合戦で戦死した敵味方の霊の成道を願い、日新が南無阿弥陀仏の六字を各句に織り込んで詠んだ詠草。討死によって名を上げた者への追悼、世と身の無常、悲しみを仏教的に表現する。
永禄九年正月十六日 / 冊子 142~144頁
「賦何船」を題として、日新・義久・忠元・珠玄らが詠み継いだ連歌一巻。発句以下、春夏秋冬、恋、旅、述懐、仏道などの景物と心情を取り合わせ、多数の参加者による付合を収める。
永禄九年二月吉日 / 冊子 144~145頁
大隅国帖佐郷で田中越中守に付与する田地を列挙した島津氏老臣の連署坪付。餅田名・堀町・税所内上門・深見名内門などに所在する各筆について、地名、門名、面積や位置を具体的に記す。
永禄九年二月彼岸 / 冊子 145頁
将軍足利義輝の一周忌に島津貴久が剃髪したことを記し、樺山玄佐の経歴記事へつなげる譜中記事。
永禄九年五月吉日 / 冊子 146頁
龍盛院領として定める田地などの所在を記した坪付。問毛名内および松原湊に関わる土地を掲げ、村田経定・伊集院忠金・川上久朗が連署する。
(永禄九年)六月十日 / 冊子 146~147頁
島津義久が義弘から軍事行動と日取りについての書状を受け、詳細を了承して必ず勝利するであろうと応じた書状。肝付弾正忠へ申し付けることを伝え、求められた薬種を少量ながら送る。
(永禄九年)六月廿一日 / 冊子 147頁
島津義久が、義弘が三之山境で軍事行動を行い大勝利を得たことを祝した書状。まず書面で祝意を伝え、現地の状況についても気遣い、後日の対面を期す。
永禄九年七月二日 / 冊子 147頁
日新が本田九郎右衛門の各地での度重なる忠節を忘れないとし、その褒賞として伊作入来名内の原薗および水田一町・畠地一町を永代にわたり違乱なく与えるとした鑑札。
永禄九年八月六日 / 冊子 147頁
弓射の一流相伝の内容を他言しないことを誓った島津義久の起請文。本文では同文のNo.339により省略されており、違反すれば天帝・四大天王・日本国中の神祇などの罰を受けるとする。
永禄九年八月六日 / 冊子 149頁
島津義久が弓射の一流相伝の内容を他言しないと誓った起請文。偽りがあれば天帝・四大天王・堅牢地神・日本国中の大小神祇冥道、当地の諸神の罰を受けるとする。
(永禄九年)閏八月十八日 / 冊子 149~150頁
島津貴久が歳久から久しぶりの音信を受けたことに応じ、こちらからも無沙汰していたと述べた書状。軽少ながら贈物を送り、重ねての音信を期す。
(永禄九年)九月十六日 / 冊子 150頁
相良頼房が、島津方の三之山での軍事行動を聞き及んだとして、吉日を知らせてもらえれば軍勢を派遣して協力すると申し入れた書状。諸方の調略を進めるべき時であり、西光寺を介して連絡すると述べる。
(永禄九年)十月十一日 / 冊子 150頁
島津義久が三之山攻撃に備え、肝付兼盛に他行せず待機し、真幸直からの注進次第に軍勢を催して速やかに駆け付けるよう求めた書状。自身の到着が一、二日遅れても、義弘と相談して時宜を整えるよう指示する。
永禄九年十月廿八日 / 冊子 151頁
細川藤孝が畿内の政変を先代未聞の事態とし、一乗院が甲賀和田へ退いたこと、近国への出勢命令を受けて入洛を急ぐことを伝えた書状。島津貴久・義久に忠功を求める御内書が出され、使者として上野大蔵入道を下向させたと述べる。
(永禄九年)十一月八日 / 冊子 153頁
島津義久が、所持していた引導の書・行の書二巻を見失ったため、相手方所持の二巻を借用したいと求めた書状。伯囿貴久が図子書を必要としていることにも触れ、相手に所持がなければ別人の本を借りて大殿へ差し出すよう依頼する。
永禄九年十月十五日~廿六日 / 冊子 154~155頁
飯野を境目として伊東・相良両氏と対抗するため、小林三之山城を攻撃した経過を詳述する。義久・義弘・歳久の軍が花立口・大豆別府口・寝谷口から攻め、義弘勢は二之丸まで進んだが多数が戦死・負傷したため退却し、追撃する伊東勢には伏兵で損害を与えた。帰陣後、横川側の不穏な振る舞いを諸将が訴え、成敗を求めたことも記す。
永禄九年十月十五日~廿六日 / 冊子 155~156頁
飯野防衛のため小林三之山城を攻めた経過を、各軍の進路と将兵の働きに即して記す。義弘勢が二之丸、歳久勢が二重城戸へ迫り、田尻荒兵衛らが奮戦したが、義弘が負傷して兵が動揺したため、義久の命で順次退却し、追撃兵を伏兵で討って飯野へ引き上げた。
年月日未詳 / 冊子 154頁
島津貴久の飯野進出と三之山への軍勢派遣、飫肥口・真幸口の守備をめぐる経過を記す。貴久が伯囿と号した後、北原兼親と伯父左兵衛尉が球磨勢を吉松へ引き入れて島津方を討つ計画が露見し、兼親の召還・移住を経て飯野を義弘に与えたこと、三之山攻撃で菱刈方の注進により島津方に多数の戦死者が出たことを述べる。
永禄九年正月十六日 / 冊子 352~355頁/原整理番号 56
永禄九年正月十六日の「賦何船連歌」。日新・義久・忠元らが句を連ね、春雨や雪解けから秋の月、旅と別れ、花、寺、恋などへと題を移して詠む。忠元は十一句を担当し、末尾には参加者の句数をまとめる。最後は波と風の句から山の陰を詠む句へ続けて結ぶ。
記事成立日:未確認 記事内参照年紀:永禄九年丙寅四月九日 / 冊子 199頁/整理ID TMP-P02-CONT-A73
「△重張」の主列に字菊千代丸・七郎・右近大夫・安藝守の表記を置く。 永禄九年丙寅四月九日の誕生年紀と、「母肝付河内守兼/續女也」の折返し母注がある。人物・系線への帰属は未認定。
永禄9年10月26日、慶長5年9月15日、慶長10年4月20日 / 冊子 21~23頁/原整理番号 7
本田氏十二代兼親の三男・親賢(源二郎、兵部少輔)を祖とし、肥駄隼人介の後嗣となった系統。親豊が肥駄氏を去って本田氏に復したこと、親次が永禄九年十月二十六日に三之山で戦死したことを記す。親商は惟新公の加治木在城時の家老で、関ヶ原退去の際に忠志を尽くし、蒲生地頭を務め、慶長十年四月二十日に没した。ほか、親昌(初名親信、実は比志島源右衛門国家)の慶長五年九月十五日関ヶ原戦死、上井・宇宿・友野・木脇・川畑諸氏との婚姻、養子・早世・法名を収める。
年月日未詳 / 冊子 111~113頁/原整理番号 22-1
舒明天皇・天智天皇・大友皇子を起点に伴姓の祖系を示し、兼経・兼益以下の肝付氏と庶流を配する系図。萩原・救仁郷・安楽・検見崎・北原・和泉・岸良・野崎・川南・鹿屋・小野口・山下など各氏の分出を明記する。兼尚が鎌倉在府中、兼重が留守・番代を務め、その子秋兼が兼尚の養子となって嫡家を相続した経緯を載せる。後段では兼続(法号省釣)の永正八年誕生、永禄五年の松山・志布志知行、永禄九年十一月十五日の志布志での死去、良兼・兼勝・兼樹・兼包・兼政らの続柄を記す。兼政は早世した良兼の娘を妻として嫡家を相続し、慶長五年九月十五日に美濃国関ヶ原で戦死したとし、兼元の島津元久上京供奉や兼忠の頴娃拝領にも触れる。
年月日未詳 / 冊子 352頁/原整理番号 55
日新と貴明が永禄九年正月十六日に連歌を催した時、忠元が呼ばれて十一句を詠んだことを記す勲功記。同様の催しは毎年の恒例だったらしく、いちいち書き出さないと述べる。
永禄元年~永禄九年 / 冊子 157~159頁
永禄元年から九年までの北郷氏と守護島津方の軍事行動を、年月日、城の攻防、戦死者数などとともに編年で記す。飫肥・末吉・廻・竹原山・松山・志布志・新山・福島・岩川などをめぐる伊東・肝付両氏との戦い、城の受け渡し、北郷時久の初陣に伴う神社奉納、各戦闘の討取・捕虜・負傷者を載せる。