島津氏老臣連署坪付
天正八年閏三月吉日 / 冊子 652~653頁
大隅国蒲生の久末名・北村名などにある公田・浮免、合計一町三反余を御重恩として浜田民部左衛門尉へ宛行った坪付。確定版年月日は『月間三月』だが、本文年紀は天正八年閏三月吉日と読める。
SEARCH THE ARCHIVE
『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
54 件 (全巻)/ 1–50件を表示
ページ 1 / 2
天正八年閏三月吉日 / 冊子 652~653頁
大隅国蒲生の久末名・北村名などにある公田・浮免、合計一町三反余を御重恩として浜田民部左衛門尉へ宛行った坪付。確定版年月日は『月間三月』だが、本文年紀は天正八年閏三月吉日と読める。
文禄2年5月28日 / 冊子 700~701頁
薩摩国大口内の「かつけの門」ほか多数の田畠を、地名・旧給人・面積ごとに列挙し、合計四町九反余を濱田民部左衛門尉へ与えた領知目録。 島津義久が袖判を加え、長寿院盛淳・町田久倍・鎌田政近が連署しており、大口地域の土地配分と給付規模を具体的に確認できる。
十一月廿三日 / 冊子 160~161頁
伊勢貞昌が有川治部左衛門尉・八木民部左衛門尉に、吉加江内膳の居屋敷を早急に渡すよう求めた書状。自らの知行や屋敷が荒れていることを受け、田掃部・東長左らに管理を命じ、孫八・甚左衛門らの働きや掃除・馬場の整備、小姓らの派遣について具体的に指示する。
慶長六年二月廿日 / 冊子 749頁
伊東方の策謀に従わず敵使者を捕縛して差し出した忠節を賞し、薩摩国祁答院紫尾村小市八重之門の二十三石二斗五升三合を加増する。島津忠長ら四名が連署した目録。
六月八日 / 冊子 28~29頁
新納忠元が、和野太夫や寺院に関する所領問題を列挙して取り成しを求めた書状。肥後隈府の沙汰人であった和野太夫の扶持・神領、文珠院の隠居付所領、松限寺東堂が願う所領交換などを説明し、事情を聞き分けて配慮するよう頼む。
年月日未詳 / 冊子 257頁
『佐多民部左衛門覚書』が、順天・泗川方面の瀬戸口で行われた水戦と帰陣を記す記録。兵船を揃えた翌朝に明の兵船が攻めかかり、双方で多数の船を焼失した。樺山權左衛門らが島へ追い上げられたものの、潮時を得て釜山浦へ退き、日本帰陣のため諸手が合流した。島津の船団は全軍の殿を務めたとする。
十二月二日 / 冊子 161頁
十二月二日、渋谷重将が、前年に阿久根寺家中へ与えた墨付を根拠に、今回の寺領への竿入・検地も免除されたことを伝え、その扱いを関係者へ周知するよう求めた書状。
(慶長元年)十二月廿一日 / 冊子 61~62頁
島津義弘が忠恒へ、八木民部左衛門尉が使者として帰朝し浜之市・帖佐を回って早く参陣したいと述べていること、図書頭・鎌田出雲守の報告で現地の無事を知ったことを伝えた書状。京からの番手衆や上洛の段取り、米・物資の差渡しについても指示する。
(慶長二年)五月廿三日 / 冊子 102~103頁
島津忠恒が本田源右衛門尉に、三原諸右衛門尉を通じて先に伝えた事項を確認し、奥地への出勢が決まったため、人馬を早急に渡海させるべく八木民部左衛門尉・関帖右衛門尉を派遣したと報じた書状。幸侃が上洛した場合の情報収集を命じ、遅滞や讒言を戒める。
年月日未詳 / 冊子 392頁
町田久幸譜は、慶長四年六月二十三日、島津忠恒が大軍を率いて伊集院忠真の山田城を攻め落とした際、町田久幸が大口衆を率いて自ら城へ乗り込み戦功を挙げたと記す。一方で、久幸の軍では町田新介・木場民部左衛門以下、多くの戦死者を出したとする。
年月日未詳 / 冊子 308頁
殉国名薮の記事。慶長十六年二月二十日に島津義久へ殉死した市来清左衛門・濱田民部左衛門らについて、年齢・役職・姓名を列挙し、義久への殉死者名簿を補う。
(寛永五年)正月八日 / 冊子 51~52頁
島津家久が、比志島宮内少輔国隆の重大な不行跡をこれまで表面に出さなかったが、今後は国家のためにならないとして処分方針を示す。一度の折檻で改まる人物ではないため、三名の担当者が遠慮なく協議するよう命じ、詳細は国分民部左衛門に伝えさせる。
(寛永六年)正月八日 / 冊子 81~82頁
島津家久が喜入忠続・川上久国に、比志島宮内少輔の曲事は深刻で、今後国のためにならないとして処分を徹底するよう命じる。先に派遣した三人への指示どおり、情実を交えず相談し、詳しくは国分民部左衛門尉から聞くよう伝える。
二月十一日 / 冊子 340頁
島津貴久が左衛門尉の書状を了承し、所領問題の処置と義久による検討、自身の判断、談合の必要を述べた返書。帖佐・山田・清水の状況に触れ、追而書で正八幡領と民部左衛門尉の件を確認する。
年月日未詳 / 冊子 324~325頁
為俊を追悼する一連の和歌。武士としての名残、春の花、水の清さ、夢路、月などに寄せ、故人への哀惜と追善の思いを各人が詠む。
年月日未詳 / 冊子 587~588頁
永正三年七月十一日の土川合戦後、山崎助左衛門が捕虜・被官・領知の処置をめぐる交渉を記した覚書。和泉氏・阿多民部左衛門尉ら当事者の申し分を整理し、誰を返還・召し抱えるか、所領をどう扱うかについて島津忠興が下した裁定を伝える。
年月日未詳 / 冊子 761~762頁
天文七年の末吉・加世田などの合戦で戦死した家臣を列挙する『殉国名藪』記事。山崎民部左衛門成通、城ヶ崎右衛門儀実、井尻祐秀、猿渡信資らについて戦死日と戦場を記し、北郷忠栄の藤野原での戦死にも触れる。複数戦役の死者情報を人物別に検索できる。
年月日未詳 / 冊子 107頁
永禄五年六月三日の横川城攻防に参加した島津方の従軍者と働きを列記する交名。箕匂舎人佐・村田雅楽助・瀧聞美作守・本田刑部丞らを挙げ、濱田民部左衛門が敵七人を切り捨てたことなどを記す。
年月日未詳 / 冊子 81頁
大野久武・高崎能乗・平田純正の三名が島津家久の使節として、比志島宮内少輔の処分など数条の命令を携えて江戸から帰着したことを記す。政務停止や宝福寺への移動を命じ、国分民部左衛門尉が正月八日付書簡を持参して領内処置を伝えた。
五月廿三日 / 冊子 164頁
奥入りが決定したため兵員・馬を早く渡海させるよう八木民部左衛門尉らに命じ、伊集院忠棟が上洛した場合は三人で事情を聞いて尽力するよう求めた。少しでも油断すれば国家滅亡に至ると強く警告した書状。
慶安五年正月吉日 / 冊子 211~212頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0422
召し寄せを受けた木脇民部左衛門が、奉公の忠実、秘密保持、他者との結託禁止などを誓約した起請文前書。
正保四年七月七日 / 冊子 476頁/原整理番号 614
長崎への黒船着岸により蒲生衆士161人が出立するに当たり、主取5人に相談して軍役を滞りなく整えるよう求める。想定外の事項は5人から日記に記して地頭へ報告し、急用時に遅れぬ配置とし、召し連れる者が狼藉しないよう主人から厳命させる。地頭留守中のため野村新兵衛・谷山民部左衛門尉がこの趣旨を申し渡す。
慶長十六年辛亥二月十八日 / 冊子 543~548頁/原整理番号 92
濱田民部左衛門の軍功と奉公を書き上げた高名帳。蒲生久瀬戸山口での初分捕をはじめ、吉田・蒲生・帖佐・高城・朝鮮などでの戦闘、負傷、使者、城詰め等を列挙する。慶長十六年辛亥二月十八日付。
(永禄十二年頃) / 冊子 224~225頁
島津忠良(日新)に加世田で仕えた人々を列挙した交名。大田・稲富・玉利・奈良原・鹿島・河崎・指宿・中条・富松・阿多・有馬・宮原・鮫島など多数の家臣名を掲げる。後世の奥書は村田市助の写本で、日新没後に子孫が鹿児島その他へ移住した者も多いと説明する。
慶長四年四月卅日 / 冊子 377~378頁
西俣七兵衛が、幸侃の縁者らを東福寺へ見舞った際の交際と談話、庄内へ置いた者への書状の伝達、幸侃家中の桃山蔵允へ刀を譲った経緯を証言する。処罰に及んでも偽りは申さないとして、後日の証拠となるよう条々を書き上げる。
年月日未詳 / 冊子 451~452頁
島津忠恒が十月五日に森田へ陣を移し、北郷長千代丸らが志和池城周辺に布陣した後の戦闘経過を記す。高木村方面で高城勢を追撃し、伏兵戦や志和池城からの出撃で双方に戦死者が出たこと、北郷勢の高橋武蔵・白坂式部・財部武蔵らの討取、小杉太郎左衛門尉らの戦死を列挙する。
九月十日 / 冊子 325頁
島津義久(龍伯)の御歌と六名の詠草。米と水、春風、夢路、花、月などを題材に、変わらぬ忠節と主君への思慕を唱和する。
(寛永五年)二月晦日 / 冊子 54頁
島津家久が、比志島国隆は過ちを改めず再び奉公できる人物ではないとして、寺領から種子島へ人を付けずに厳しく移送するよう命じる。異議や抵抗があれば厳罰に処し、少しも処置を緩めないよう指示する。
六月廿一日 / 冊子 104~105頁
奥州の無事上着と伏見から駿府への下向予定、桑秀坊による佐土原安堵の見通しを報告し、伊勢家の煙草に関する風聞を厳しく取り締まうと約し、上方静謐と尾張・丹後普請の辛労を伝えた書状。
11月21日 / 冊子 391頁/原整理番号 356の6
『飯米賦渡送状』は、十一月二十一日、小松原の主取民部左衛門へ赤米九斗を割り当てる。末尾では、五枚帆船の水手六人に同日以後二十日分の海上飯米を一人一日赤米七合五勺で算用し、天草一乱に伴い小松原から出水へ送る船用として渡すよう三原源左衛門(本文『本まゝ』注記)・永山覚右衛門へ命ずる。
寛永廿一年正月廿一日 / 冊子 441頁/原整理番号 551-2
前件の兵糧不足銀を支給するため、吉田二郎兵衛尉・黒田三左衛門・土持左馬権頭から正月十七日に通知を受けた九名は、市来八左衛門保管の米受取証文が火災で焼失していたため、関係者を三日間集めて出陣日数と人数を照合し、算用した旨を添える。鹿児島への使者は佐濱車右衛門である。
(寛永15年)正月18日 / 冊子 746頁/原整理番号 776
谷山衆人躰百三十六人分の真米十二石六斗、小者七十九人分の赤米七石九斗を記す。天草出陣に伴い、正月十八日から二月七日までの二十日分の引飯米として渡すよう求め、御曖衆の差紙に従うとする。寅正月十八日、五代助五郎・野元種右衛門尉・黒川民部左衛門尉の連署。谷山士有馬氏所蔵の手形留。
正保四年七月七日 / 冊子 460頁/原整理番号 580
長崎への黒船着岸により蒲生衆士161人を派遣し、谷口助右衛門ら5人を主取とする。軍役は5人と相談して滞りなく整え、その指示に難渋する者は日記に記して地頭帰任時に報告すること、宿をなるべく一所にまとめ、従者の狼藉を主人から厳禁することを定める。
慶長三年九月廿七日 / 冊子 257頁
『佐多民部左衛門覚書』が、慶長三年九月廿七日に明兵・朝鮮兵が晋州方面から泗川へ攻め寄せた際の戦闘を記す記録。島津勢が防戦する中で、相良玄番が戦死したことを簡潔に記す。
年月日未詳 / 冊子 257頁
『佐多民部左衛門覚書』が、明軍による日本側諸陣への攻撃と島津勢の救援を記す記録。明軍は加藤清正の陣を攻めた後、小西行長の陣を追い払い、小島まで追い詰めた。窮地に陥った小西勢を島津勢が助けたとする。
慶長三年十月 / 冊子 257頁
『佐多民部左衛門覚書』が、十月の泗川城奪回と追撃を記す記録。明軍が鉄炮と石火矢を備えて城へ攻めかかると、義弘・忠恒父子の軍勢が城から打って出て敵を崩し、晋州川まで追い詰め、多数を討ちまたは溺死させた。さらに敵の兵糧蔵を焼き、帰城後には討ち取った者の塚を築いて松を植えたとする。
年月日未詳 / 冊子 257頁
『佐多民部左衛門覚書』が、戦後の講和交渉を記す記録。明軍の大将孟老爺・盤老爺が龍淵という者を使者としてたびたび派遣し、島津側へ懇ろに働きかけたため、和議の動きが生じたとする。
年月日未詳 / 冊子 532~533頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1208
同年六月七日からの幕府浦廻上使高林又兵衛貞義・向井八郎兵衛正興の領内巡行を記す。日向福島を経て志布志へ入り、光久は岩切六右衛門信吉・相良民部左衛門頼常を郷導、歩行十四人、船奉行鎌田五太夫政辰、殿役奉行谷山平左衛門忠宣が率いる荷担人馬等を手配する。内之浦・大泊・佐敷・小根占・高洲・垂水・桜島・福山・加治木・脇本・鹿児島・喜入・山川などの泊休・迎接を記し、鹿籠・片浦・白木野・阿久根・長島等を経て二十五日に米之津から肥後へ出船する。郷導・挽舟・乗船を継送し接待する。
年月日未詳 / 冊子 784頁/原整理番号 864
忠政らの船が柳瀬戸へ着いたこと、久元・三原重庸・山田有栄が島原から鮫島民部左衛門を巣本へ遣わし、久賀・忠政へ数件の返答をしたことを記す。その夜、原城から逃れて来た者が、長い籠城で薪などの物資に窮していると語った。二十六日付の忠政らの案文を参照する注がある。
正月廿六日 / 冊子 5~6頁/原整理番号 3-3
島津久賀・喜入忠政が山田民部少輔らへ、正月二十六日四ツ時前に上津浦へ着船し、越中守配下の清田石見守から番所を受け取ったことを報告する。二千人ほどを率いて陣屋建設を命じ、残る人数は北郷佐渡守・入来院石見守のもと「かうね」に留めて山狩を相談中であるため、川野監物・鮫島民部左衛門尉を使者とした連署書状。
年月日未詳 / 冊子 352頁/原整理番号 54
貴久の代の宴席で忠元を居頭とした役配を記す書上。嗣の又八郎、初献の八郎四郎忠秀、二献の藤四郎忠明、三献の次郎五郎、相伴の民部左衛門尉を列挙し、それぞれの父子関係や後の官途を注記する。
11月21日 / 冊子 385~386頁/原整理番号 354の6
五枚帆一艘の水手六人へ二十日分の海上飯米として赤米九斗を配分し、主取民部左衛門へ渡して是枝喜右衛門が扱う送状である。
年月日未詳 / 冊子 379頁/原整理番号 349の1
小松原から立てる船の船頭・浦水子を人別に列挙し、合計二十三人を天草一乱に赴く軍衆の乗船加子として請け取らせる送状である。水手の実名と人数を具体的に示す。
寛永15年正月15日 / 冊子 704~708頁/原整理番号 734
加世田士人相徳新介蔵本による人数賦。仁禮右京亮以下の主従人数を次第不同で列記し、追加申出や乗船勤務、夫丸の割付、小松原・出水米之津での飯米支給を注記する。途中に軍士156人・外117人夫と記す。末尾では正月十二日以来二十日分の飯米として真米15石・赤米10石7斗を出水六月田御蔵から受け取り、人躰一人に真米一斗、夫丸一人に赤米一斗ずつ渡したと記す。寛永十五年正月十五日付。
寛永18年2月12日 / 冊子 715~718頁/原整理番号 747の4
有馬陣立人数差出として加久藤衆の人躰・被官・夫丸を主従95人と掲げ、帰還日別に氏名と人数・在陣日数を計算する。正月十六日から二月八日・十五日・十八日・十九日、三月二日・八日までの各組のほか、正月十四日出発者、夫丸11人、自力で参加した3人を記す。延べ日数3686日、うち66日は自力衆3人分とする。寛永十八年二月十二日付、谷口・伊地知連署。
年月日未詳 / 冊子 747頁/原整理番号 779
正月十八日を中心に、米之津へ参着した各郷の人躰・卒者・夫丸と、主だった者が連れた人数を記す。恒吉・日当山・飯野・曽木・加久藤・須木・馬関田・踊・高原・出水・山之口・小林・諏訪神・曽於郡・野尻・真幸吉田・志布志・清水・蒲生・百引・庄内高城・東郷・高岡・高山・横川・穆佐・串良・垂水・伊集院などを列記し、十日または二十日分の飯米支給を注す。高山の名簿に載る以益について白坂氏譜を引いて帰還時期を考証し、兵糧不足による減員帰還と読む。末尾は十九日条への分載と十八日着津者の補記。
正月廿六日 / 冊子 6頁/原整理番号 3-4
島津久賀・喜入忠政が三原左衛門佐らへ、上津浦の番所を受け取り、二千人ほどが同地へ越し、残る人数を「かうね」の山狩に残したことなどを箇条書で伝える。黄門の松平主税助・伊東大和守宛書状、御袖判条書案への意見、在郷の扱い、渡海衆からの段階的帰還と人数過多の見込みについて返答を求める連署達。
文治年間・貞治元年・永和3年・寛文10年ほか(系譜・由緒記事) / 冊子 462~468頁/原整理番号 無番号_0003
『諸家系図文書 二』の巻扉・収録諸氏一覧に続き、印刷番号15として平姓平田氏の系図と家伝を収める。桓武天皇―平宗盛―宗正―大炊助信宗に始まる系線、源平合戦後に佐能宗が一族を薩州草院へ隠したという由緒、信宗以来の帖佐・平田への移住、島津氏久・元久への奉公を記す。さらに寺社・城郭をめぐる討捕、川遊・狩猟時の警護、相良・北原・伊東勢との合戦、所領の給付・召返しなどの家伝と、宗次・宗保・宗光・宗勝以下の官途、婚姻、養子、没年、法名を寛文期まで詳述する。
(延宝八年)十月廿三日 / 冊子 3頁/原整理番号 3
藤野家に伝わる調度・文書の進上記録から、天正五年十二月に末原右京進を介し、御幡と御ほろを島津義久へ進上した記事と使者名を抄出する。続いて島津勝久の嫡子修理忠良入道休庵から島津忠平(義弘)への書状を掲げる導入が続く。
現行年紀:元亀四年貳月廿一日 / 冊子 143頁/原整理番号 248/整理ID KW1-P01-39f4516f-D0248
忠金・盛親・清通・久治・常尚・家諸・忠元・季久の連署と花押を掲げる。 「旧記雑録後編一」660―3号同文の刊本注を伴う。この切片には条文を独立掲載せず、日付と八名の連署を掲載する。参照先本文は未読・未補充。