朝鮮日々記(島津義弘渡海記事)
慶長二年二月上旬 / 冊子 70~71頁
慶長二年二月上旬、島津義弘が朝鮮へ渡海するため帖佐を出立し、蒲生・鹿児島・串木野方面を経て乗船した行程を日次に記す朝鮮日々記。各地の留守居・供衆の配置、船頭や馬の手配、風雨による滞留、忠恒方との合流など、出国から海上移動までの実務を詳しく記録する。
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慶長二年二月上旬 / 冊子 70~71頁
慶長二年二月上旬、島津義弘が朝鮮へ渡海するため帖佐を出立し、蒲生・鹿児島・串木野方面を経て乗船した行程を日次に記す朝鮮日々記。各地の留守居・供衆の配置、船頭や馬の手配、風雨による滞留、忠恒方との合流など、出国から海上移動までの実務を詳しく記録する。
慶長二年六月六日 / 冊子 104頁
雑抄のうち、慶長二年六月六日付の友枕斎如貴から伊勢弥九郎への書状に、宰相が前日に上洛したと記されていることを抄出した記事。
慶長二年七月廿八日~十一月十九日 / 冊子 153~167頁
慶長二年七月二十八日から十一月十九日までの唐島追渡・朝鮮在陣日記。固川・南原・全州・海南・羅州・淳昌・泗川新城などを往来する島津勢と諸将の動きを、日々の天候、出発・到着時刻、行程、陣替え、使者・書状・贈答、兵粮や会食とともに記す。住民の拘束、城や在郷の状況、戦闘・討死の報、明軍来襲への対応までを連日の実務記録として残す。
慶長二年十二月一日~十二月廿九日 / 冊子 167~173頁
慶長二年十二月一日から二十九日までの泗川古城を中心とする在陣日記。毎日の天候、諸将・使者の出仕と宿直、書状・礼物・兵粮の受け渡し、古城・新城間の移動、軍勢の召集や警固を記録する。月末には漢南方面から蔚山へ明の大軍が来襲したとの報を受け、諸将への援軍要請、泗川城の備え、明側との接触に関する使者派遣までを記す。
(慶長二年)七月廿八日~十二月十九日 / 冊子 412~435頁/原整理番号 67
面高連長坊による朝鮮在陣日記。慶長二年七月二十八日の固川・唐島付近での渡海と布陣から始まり、軍勢の移動、兵糧、攻城・合戦、使者や書状、傷病・戦死、天候などを日次で記す。泗川・晋州方面の戦況と撤収・帰国過程を経て十二月十九日に至り、のちの豊作を喜ぶ記事で結ぶ。『旧記雑録後編三』三四六・三四七号文書と同一との注記がある。
慶長二年二月廿二日 / 冊子 264~265頁/原整理番号 18
義弘が先祖以来の一向宗禁制を記す慶長二年二月二十二日付書状を引く。季安はその後の検地・伊集院幸侃の権勢を照らし、門徒化が幸侃の与党を増やした可能性を考える。
年月日未詳 / 冊子 680頁
島津忠倍が朝鮮で島津忠長とともに軍務を続け、慶長元年冬にいったん帰国したのち、翌年二月に再渡海した経歴を記す。 慶長二年八月の南原城攻略では強敵を斬り、その後は泗川城に在陣したといい、忠倍の朝鮮役での戦歴をまとめた家譜記事。
年月日未詳 / 冊子 68頁
慶長二年正月、小西行長が肥後から船を出したことを記す島津義弘譜の記事。秀吉は二月を出陣期としていたが、行長は秀吉の怒りを恐れて先発し、加藤清正も行長に先を越されることを恐れて諸将より早く渡海したとする。
年月日未詳 / 冊子 75頁
慶長二年、前年の地震で崩れた家屋の再建に追われる一方、国中の軍勢が高麗へ渡って陣を張った時期の事情を記す樺山紹剣の自記。家中の祈籤・儀礼にも触れ、国内復旧と朝鮮出兵が重なった状況を簡潔に記録する。
年月日未詳 / 冊子 84頁
慶長二年、諸将が再び加徳島へ出勢するに際し、島津豊久が豊臣秀吉から全羅道方面の担当と行伍・軍勢編成を記した文書を賜ったことを記す島津豊久譜の記事。
年月日未詳 / 冊子 111~112頁
『征韓偉略』から、慶長二年七月十五日夜に日本水軍が漆川周辺の朝鮮船団を攻撃した海戦を記す記事。夜襲から翌朝の追撃に至る戦闘、敵船の拿捕・焼却、多数の敵兵討取り、諸将の戦功と戦利品を叙述する。
年月日未詳 / 冊子 113~116頁/原整理番号 22-3
兼清治右衛門を起点とする肝付氏庶流系図。兼清は没年月・法名不詳とし、志布志士永山主計の二男兼陳を嗣子がないため養子に迎えたことを記す。兼陳は慶長二年生、万治三年没・六十四歳、法名亭月陳長上坐。兼林・兼高以下についても、寛永・明暦・寛文・天和・宝永・享保・宝暦・明和期の出生・没年、法名、母方を列記する。志布志士川野・久保・愛甲・瀬戸口、皿良・大脇・平田・大迫・吉国・坂元などとの婚姻を示し、別家、肥後源五左衛門・河野佐市兵衛・吉国次郎右衛門への養子、女子の嫁家を系線で整理する。末尾は兼典四郎の明和九年五月二十九日出生記事で終わる。
年月日未詳 / 冊子 167~169頁/原整理番号 47
那須五左衛門家の系図。那須氏祖を頼賢(為義四男)とし、為信を備中守行家の一男、宗高を八島で扇の的を射た与市とする。宗治は文治二年に島津忠久の薩州下向に先陣して日向国臼杵郡に住したといい、義祐は楠正成に従って北条高時・大仏貞直方と戦い、河内国千剣破城で戦死した。元祐は応永四年、筑後国上妻で菊池武政方として大内義弘と戦い、大津主水祐を討つ。高久・祐英らを日州椎葉山小崎城主とし、高治が島津義久の旗下となったこと、慶長十八年の椎葉山一揆後に祐実が安藤対馬守へ預けられ上州高崎で没したことを記す。曽我祐巻は日州宮崎城主曽我祐郷の子で島津義弘に属し、貫祐の養子となる。末尾は祐為が慶長二年に江戸で島津光久へ御目見した記事と、天正六年に高治が近国境警備を命じられ義久旗下に属したとする伝を載せる。
年月日未詳 / 冊子 82~83頁
島津義弘譜のうち、豊臣秀吉が慶長二年の朝鮮再出勢を命じ、諸将ごとの軍勢・人数と担当を定めた陣立を記す記事。
年月日未詳 / 冊子 88頁
『征韓偉略』から、慶長二年二月の朝鮮再渡海と諸将の配置、秀吉の前鋒指定、島津忠恒らの渡海準備を記した記事。渡海後の作戦、敵船への対応、在陣中の窮乏と援軍・兵糧をめぐる事情へ叙述が続く。
年月日未詳 / 冊子 111頁
『征韓偉略』から、慶長二年六月十八日、小西行長の使者が海辺に来て伝えた日本軍諸将の朝鮮各地における守備配置を記す記事。宇喜多秀家を中心に、釜山・竹島・安骨浦・蔚山・加徳島・順天などへ諸将が分かれて布陣したことを列挙する。
年月日未詳 / 冊子 118~119頁
『豊州家歴・平山氏系図』所収の「対馬守久清譜」によれば、平山久清は文禄元年春に島津義弘が朝鮮へ渡海して以来、その側を離れず従軍した。慶長二年七月十四日の唐島海戦では、朝鮮救援に来た明国軍船数十艘を日本諸将が争って撃破し、唐島を焼いた際、久清が敵一人の首を取ったと記す。
年月日未詳 / 冊子 123~124頁
『殉国名薮』から、慶長二年の唐島・南原など朝鮮出兵中に戦死した島津家臣を、七月十五日、八月十五日、同廿八日、十一月十八日などの日付ごとに列挙する。小字で人物の所属や戦死事情を注記する。
年月日未詳 / 冊子 131頁
『島津以久譜』から、慶長二年八月、義弘・忠恒ら日本諸将が南原城を攻撃して守備軍を破り、同城を占領したことを簡潔に記す。
年月日未詳 / 冊子 147頁
「御系図」として、日本諸将が慶尚道泗川の海辺に城を築いて新塞と号し、島津義弘父子を守将としたため、慶長二年冬に新塞へ移ったことを記す。泗川新城への配置を系図中の記事として伝える短文である。
年月日未詳 / 冊子 148~149頁
『島津義弘譜』から、慶長二年十一月に明の邢玠が鴨緑江を渡って朝鮮王城に至り、楊鎬・麻貴と軍議した記事。日本側の松島・蔚山・西生浦・機張・釜山などの配置、蔚山新城の守将、在朝鮮兵約十三万六千人、諸将の兵数と鉄砲・弓などの装備を列挙し、明軍来襲前の戦力構成を示す。
年月日未詳 / 冊子 150~151頁
『島津義弘譜』から、慶長二年十二月の蔚山城攻防を詳述する。明軍が未完成の蔚山城を急襲し、加藤清兵衛らが籠城、加藤清正・浅野幸長らが入城して防戦した。城内では兵粮と水が尽き、紙や壁土を煮、馬を食べ、夜間に池水を汲むほど窮乏したが、日本側援軍の接近で明軍が退却し、追撃戦となった経過と双方の死傷を記す。
慶長四年六月上澣 / 冊子 388~389頁
島津義弘・忠恒が、慶長二年八月十五日の南原表と同年十月朔日の泗川表で討ち取られた明軍、ならびに海陸で戦死・病死した敵味方の軍兵を等しく仏道へ入れるため建立した供養碑文である。南原では島津勢の討取四百二十人、泗川では大明軍八万余の敗亡を記し、度重なる朝鮮の戦場での死者を弔う。
(天正18年)1月17日 / 冊子 74~75頁/原整理番号 63の8
町田久倍・平田歳宗が川上大炊助・町田右衛門佐へ、関東立の際に梅北宮内左衛門尉を乗馬させる旨を飯野の意向として伝え、梅北と相談するよう指示する。又一郎の出立は今月十七日に決まり、油断なく備えるよう求める。後評は別に、出立・大坂着の経路と唐入り当初の軍役予定、朱印による一万人、慶長二年の増兵免除などを考証する。
(慶長2年)2月21日 / 冊子 78頁/原整理番号 63の17
朝鮮への再渡海にあたり、第五番の備えとして羽柴薩摩侍従に一万人を割り当てた陣立書の一部である。付記は慶長二年二月二十一日、秀吉の朱印により命じられた人数備えからの抄出とする。
文禄5年12月2日 / 冊子 77頁/原整理番号 17-3
文禄五年十二月二日、伊集院右衛門入道幸侃が松崎采女正へ与えた領知目録。薩摩国伊佐郡大口のうち北柿原村五十石、栗野稲葉崎村九石、曽於郡姫城村一石、合計六十石を記し、このうち五十九石を加増とする。続く経歴記事は、松崎采女正が慶長二年に島津義久の上洛へ供奉して伏見で眼鏡を拝領し、慶長十年の国分移居に伴って国分へ移され、慶長十六年の義久死去時に剃髪して宗泉と号し、同年十一月に鹿児島へ移されたことを記す。
寛文元年十二月廿五日 / 冊子 112頁/原整理番号 25
慶長二年十二月二十七日の朝鮮在陣記事。島津義弘・忠恒らが泗川の新城へ移り、祝言の寄合を開いたことを記す。続いて蔚山の加藤清正の城へ明軍が大軍で押し寄せたとの注進を受け、陣中の諸大名や野村・毛利・伊東・秋月・高橋らに使者と書状を送った次第を伝える。末尾に年越しの年男の任命を記す。
年月日未詳 / 冊子 143~144頁/原整理番号 38
月の五節供を正月一・二・三・七・十五日とする説明に、正・五・九月の禁忌に関する考証を添える。さらに諸士の定例出仕を朔日・十五日に二十八日を加えた由来として、忠宗の意向を龍伯が継いだと記し、慶長二年・寛文七年の関連条目を引用する。五節供と月々の出座に関する先例を集めた史官の覚書。
本文年月日未詳 / 冊子 272~274頁/原整理番号 32
季安が島津家の宗派の沿革と一向宗禁制の開始時期を考える。日新公の禁制、慶長二年の上井日記、北原氏と伊集院幸侃、本願寺光佐の勢力を照らし、禁制を先祖以来と呼んだ理由を探る。
巻五/冊子 63~73頁
朝鮮在陣中の義弘・久保父子の軍功、久保の死と忠恒の家督継承、豊臣軍の人数・配置を記す。まず秀吉の軍法を掲げ、放火・人取り・百姓への非分な課役を禁じ、兵粮管理、飢民救済、城郭普請など占領地統治の規則を示す。久保は忠清道で敵を単騎追撃して首級を得たとされる一方、秀吉の朱印状には木曾城・釜山浦・金海・加徳島などを攻守する各大名の人数と配置が詳細に列記される。久保は金海で虎狩りを行った逸話の後、文禄二年九月に巨済で病没し、二十八歳で世を去った。翌年、弟の忠恒(のち家久)が家統を継ぎ、義弘とともに巨済・加徳島へ在陣する。秀吉の求めに応じた虎狩りでは、義弘・忠恒の家臣が危険を冒して虎を仕留め、その肉を献上して褒賞を受ける。さらに文禄四年および慶長二年の軍勢帳・陣立書を大量に収め、小西・加藤・鍋島・島津・黒田・毛利・宇喜多・小早川・船手衆などの人数、釜山浦から各城までの在番、先陣の順序、軍議・注進・築城・野陣の規則を示す。末尾は南原攻略へ向かう陣立に続く。個々の武功や家督継承だけでなく、朝鮮役における全国大名軍の編成・兵数・占領統治を具体的に伝える軍事記録である。
巻五/冊子 73~77頁
慶長二年、義弘・忠恒父子が朝鮮沿岸の敵船団を攻撃し、続いて南原城を攻略した経過を記す。巨済付近で日本軍の往来を遮断していた朝鮮水軍に対し、夜襲で百六十余艘を焼き、多数を海際まで追撃したとする。この戦果に秀吉は朱印状で賞し、明軍が進出した場合は軽挙せず対陣して注進せよと命じた。八月、諸将が南原城を包囲すると、義弘は久保を失った経験から忠恒に血気の勇を戒めるが、自ら三首を得たことで忠恒も単騎で城へ突入し、敵が退いた後に戻る。島津勢は首四百二十一を得て鼻を切り、日本へ捷報とともに送ったとされ、秀吉から再び賞状を受ける。その後、父子は泗川の旧館城・新城へ移る。後半には秀吉政権の在番・講和方針を示す朱印状、諸城から釜山浦へ兵粮・鉄砲・玉薬を集める命令、朝鮮王子や貢物を条件とする撤兵案、徳永寿昌・宮木長次の起請文などを収める。海戦・南原攻略の武功と、戦争終結を見据えた講和・撤兵の実務が併記された記事である。
慶長二年三月八日 / 冊子 55頁
正宮中門の再興に伴う茶番について、担当者を番ごとに列記した交名。
(慶長二年)正月十五日 / 冊子 68頁
島津義久が兵庫頭へ新春を祝い、旧冬に上井甚五郎・旅庵から届いた書状を見たと伝えた書状。当年の赤国成敗は延期されたが、分国中の人数・兵具については石田治部少輔と相談して整えるので安心するよう述べ、歳暮の祝儀として縮三端を贈る。
(慶長二年)正月十六日 / 冊子 68頁
豊臣秀吉が羽柴薩摩侍従の重ねての奉公を賞し、小袖一重を与えて今後も精勤するよう命じた朱印状。
(慶長二年)正月十九日 / 冊子 68~69頁
島津義久が忠恒へ、加増や知行割付をめぐる風聞を戒め、軍役の始末に伴う総支配の改定は浮地帳が不完全なため、前年の割付を基礎に手直しすべきだと述べた書状。中原坊から宝泉坊への移転にも触れ、義弘と軍役を相談するため上洛を延期して在国しているが、急ぎ出国すると伝える。
(慶長二年)正月廿日 / 冊子 69~70頁
安宅秀安が忠恒へ、国の仕置・知行配分・軍役の改定は、義久・義弘に深く相談して決めるべきだと説いた書状。浮地や役料、公儀への奉公を踏まえて加増・没収地を処理し、渡海前に国中の配分を整えて、軍役を負う家臣の扶持に不足が出ないよう求める。
(慶長二年)正月廿八日 / 冊子 75頁
島津義弘が伊集院下野入道へ、旧冬に石田治部少輔が渡海した際に革二枚を贈られた礼と新年の祝意を述べた書状。今回、新納将監・波多彦兵衛尉を使者として渡海させるので、両人の申し入れを聞き届け、諸事に力添えするよう求める。
(慶長二年)二月六日 / 冊子 76頁
伊集院幸侃が伊勢弥九郎へ、忠恒の書状を拝見し、高麗奥への出張に備えて軍衆の渡海を進め、武庫の下向によって遅れていた人数も順次渡すと伝えた書状。返上米については京都での取決めどおり銀子を数量に合わせて上納することなど、軍役と財務の処理を指示する。
(慶長二年)二月十日 / 冊子 76頁
寺沢正成と小西行長が連署し、番船の出動と牧島方面の動きを島津又八郎の陣所へ知らせ、対応の相談を求めた書状。
(慶長二年)二月十日 / 冊子 77頁
小西行長が島津又八郎に、今晩、番船が動いて牧島へ向かったことを報じ、事態が定まり次第あらためて知らせるとした書状。
(慶長二年)二月十日 / 冊子 77頁
長束正家が羽柴薩摩侍従へ、来年の人数渡海と赤国での軍事行動を確実に進めるよう求めた書状。遠路のため無音であったことを詫び、詳しいことは毛利豊前守・平野新左衛門から申し伝えるとしている。
(慶長二年)二月十一日 / 冊子 77~79頁
島津忠恒が武庫に、使者を釜山浦へ送ったこと、対馬・釜山間の船の動き、兵糧や武器の輸送、航路上の支障を詳しく報告した書状。渡海人数と船の確保、現地からの指図を待つ状況も伝える。
(慶長二年)二月十二日 / 冊子 79頁
伊集院抱節久治が圖書頭方へ、津への到着後の兵糧・食料の不足、紙や船・人員がそろわない状況を報告し、補給と手配を求めた書状。
(慶長二年)二月十二日 / 冊子 79~80頁
伊勢入抱節が図書頭へ、新年の祝意と無沙汰の詫びを述べ、現地の無事を喜んだ書状。帰朝を待っていたが、武庫が渡海したため当分は帰朝できない事情を伝え、今後の勤仕を励ますとともに、元珠の名代として樽一桶を贈る。
慶長二年二月廿一日 / 冊子 80~81頁
島津義弘が家中に残した置文。怒りや喧嘩を慎み、女性・他家との交際、飲酒、奉公人の扱い、宿泊者、火の用心、馬や物資の使用など、留守中の生活と家政を細かく規制する。
慶長二年二月廿一日 / 冊子 81~82頁
島津義弘が家中の規律を定めた掟書。勤番、口論・喧嘩、奉公人と商人の扱い、京都での宿所、飲酒、外出、市場での売買などを条項ごとに命じ、違反を禁じる。
慶長二年二月廿一日 / 冊子 82頁
高麗再度の陣立を定めた豊臣秀吉の文書。本文は後掲の同文書と同文のため省略されている。
慶長二年二月廿一日 / 冊子 83~84頁
豊臣秀吉が高麗への再出勢に際して定めた法度。先手衆の城攻めと備の順序、番替り、相互支援、船手との連携、軍勢の勝手な行動禁止、戦功申告の手続などを条項ごとに命じる。
慶長二年二月廿一日 / 冊子 84頁
前年同日付の高麗再度出勢法度と同案であるため、毛利壱岐守・毛利豊前守宛の本文を省略した記録。
慶長二年二月廿一日 / 冊子 84頁
豊臣秀吉が島津豊久に示した高麗再出勢の法度。先手の行動は加藤清正・小西行長以下が相談して定め、軍勢運用を統制するよう命じる。一般的な出勢規定とは別に、宛所が「嶋津又七郎とのへ」と明記される。