忠実・忠堯連署坪付
文禄3年5月吉日 / 冊子 782頁
大隅国清水の北辰社領について、寺田・上田・下田などの坪ごとに面積と分米を列記した坪付。橋口伴左衛門先、田中備後助先などの旧名義を示し、合計一七石四斗七升四合と算出する。 社領の所在と旧給人、石高を照合できる土地台帳で、谷口安房介忠実と忠堯の連署を伴う。
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文禄3年5月吉日 / 冊子 782頁
大隅国清水の北辰社領について、寺田・上田・下田などの坪ごとに面積と分米を列記した坪付。橋口伴左衛門先、田中備後助先などの旧名義を示し、合計一七石四斗七升四合と算出する。 社領の所在と旧給人、石高を照合できる土地台帳で、谷口安房介忠実と忠堯の連署を伴う。
天正三年三月十六日 / 冊子 431頁
天正三年三月十六日の犬追物手組として、島津以久・新納忠実・頴娃久虎らの射手、各人の射犬数、検見・喚次を列挙する。
天正四年四月・八月 / 冊子 478頁
天正四年四月、近衛前久下向中に義久が初めて催した歌合へ新納忠元も召された。八月の高原城攻めでは十三歳の嫡子忠実が大手城戸口から先駆けて負傷し、敵将にも称賛された。落城後の三山城勝鬨では忠元が太刀を進上した。
天正四年八月十九日 / 冊子 489頁
天正四年八月十九日の高原城合戦に従軍・軍労した者を、竹崎表・霧島越山路などの大将と各地域別に列挙する交名。北郷時久、新納忠実、上井覚兼、樺山久高、柏原勝監らの名を載せ、後の戦死地などを注記する。
天正四年八月 / 冊子 500~502頁
竹崎の白坂式部丞の内応を契機とする高原城攻めを記す。島津軍は諸口で激戦し、新納忠実が先駆け、樺山久高は落合豊後介に助命された。多くの戦死者を出したが、夜日詰めと断水で城兵を降伏させ、三山・温水・小林・須木も帰属、上原尚近を高原地頭とした。
天正五年春・十二月 / 冊子 509~510頁
天正五年春、城詰衆に伊東方との私戦を禁じた後、福島へ伊東勢が迫ると島津方が出馬して退けたことを記す。肝付兼護には高山だけを残し、志布志など諸領を没収した。十二月の日向出陣では嫡子忠実が従軍し、忠元は相良氏への備えとして大口・求麻境を守った。
天正六年十月~十一月十二日 / 冊子 553~554頁
大友宗麟が伊東氏を案内に高城を攻め、島津義久軍が十一月十二日に大友軍を破った際、新納忠元は球磨境の警固で参陣せず、嫡子忠実を送った。球磨勢が大口をうかがうため、忠元は義虎・忠実・伊地知重康と計り山野に伏兵を置き、自ら囮となって早牟田城之介を誘い込み、主従七人を討ち取った。
天正六年十月 / 冊子 554頁
伊地知重範が十六歳で初具足し、新納忠元が山野と球磨の境の深下で早牟田城之介を計略により討った戦いに参加した自記。重範は城之介の郎等に後ろから腰を斬られたが、新納忠実・伊地知重康らが伏兵から起こって主従七人を討ち、重範は褒美として飾りと兼光の刀を拝領した。
年月日未詳 / 冊子 869頁
島津彰久が義弘に従って昌原浦辺の大山で虎狩りに参加し、家臣の安田某が剣で虎を討ち、忠恒から宝刀を与えられたことを記す。 彰久は同年七月五日に朝鮮国巨済の陣中で二十九歳で病没した。死後は家老の川上忠実が軍勢を率いて在陣を続け、義弘の命で旧館岩を守ったという。
慶長三年九月廿八日 / 冊子 239~240頁
『島津家久譜』が、董一元配下が内応者郭国安を用いて望津の兵糧を焼き、明軍が望津・永春の砦を破って新寨へ迫った経緯を記す記事。董一元は金印を示して和親を求めたが島津義弘は拒絶し、九月廿八日の撤兵時に明軍が泗川を急襲して相良玄番ら約百五十人が戦死、川上忠実も多数の矢を受けながら退却した。忠恒は反撃を望んだが、義弘は敵数不明のため城門を閉じ、旗や鉄砲で応じず静観させた結果、明軍は退いたとする。
慶長三年九月廿八日~十月朔日 / 冊子 241~242頁
『島津義弘譜』が、董一元・茅国器らが内応者郭国安を用いて望津の兵糧を焼き、望津・永春・昆陽の三砦を攻略した後、泗川・新寨へ迫った経過を詳述する記事。島津義弘は金印を示す和親案を拒み、九月廿八日の撤収時には相良玄番ら約百五十人が戦死し、川上忠実は鎧に三十六本の矢を受けながら退却した。忠恒が反撃を望む一方、義弘は敵数不明として城門を閉じて応戦を控えさせ、明軍を退かせた。翌廿九日には明側が新寨より固城を先に攻める策を論じ、明兵が十月朔日の新寨攻撃を予告する標木を立てたとする。
年月日未詳 / 冊子 253頁
『島津彰久譜』が、晋州城周辺から新寨へ守備兵を撤収させた際の殿戦と負傷を記す記事。九月廿七日未明、旧館の守兵が密かに城を出ると敵が追撃し、忠実が殿を務めて苦戦しながら新寨へ退いた。味方の戦死者約百五十人の中、忠実の甲冑には矢三十六本が立ち、医師が鏃を抜いて吸血した。義弘は自ら傷を撫で、妙薬と宝刀を与えてその労を慰めたとする。
年月日未詳 / 冊子 921頁
島津久元譜は、嗣子のなかった新納四郎忠実が島津久元(初名忠在)を猶子として家統を継がせたと記す。慶長八年十二月、久元は日向国真幸院木永村へ移住し、領内一千石を与えられた。
慶長十四年三月廿八日 / 冊子 215~216頁
慶長十四年三月二十八日、市来家元ら五名が、四十九所大明神に二夜三日参籠し、旅中の海上安全と無事帰朝、願望成就を祈った連署願文。
文永十二年二月十七日 / 冊子 279~280頁
山田忠実が谷山の所領を二郎・三郎へ譲る仮名書き譲状。大隅入道殿から給わった本領を二人へ配分し、兄弟が互いに助け合って所領を守り、後日の争いを避けるよう申し置く。
文化12年亥10月(本文)/12月25日(朱書の下付・帳留) / 冊子 483~484頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0101
1462の2、周防守(水野忠実注)の続書。養父は壱岐守、養母はその奥方。叔父欄に水野内記・書院番頭水野遠江守・交代寄合溝口摂津守・内田近江守を掲げる。従弟欄は長五郎の惣領小濱徳太郎、内記の惣領藤五郎、その男安五郎、従弟女は同娘お喜代。養母方は伯母に南部伊勢入道(左衛門尉の養父)の内室、叔母に池田山城守の内室、和泉守の兄藤堂主殿頭の内室、山内遠江守の内室。従弟欄は南部左衛門尉、山城守嫡子池田帯刀、溝口古永之進惣領常太郎とその男鐵之丞。従弟女欄は松平飛彈守の内室、備後守の養母峻光院、縫殿頭の内室、古永之進娘お悦。実方欄に「御甥・実御兄・松平大膳太夫」と記す配置があり、単純な甥の氏名とは断定せず原欄を留保し、従弟松平淡路守を記す。亥十月で結ぶ。末朱書は、右二通を文化12年亥十二月廿五日に安房から受け、記録所で帳留すべき旨を本田休七が承知し、白木御文書八番箱へ入れたと記す。「右一冊トナレリ」の注もある。養家・養母方・実方の関係を混ぜず、本文十月と保管十二月を区別する。
文政13年10月20日(年次は朱注、月日は本文) / 冊子 841~842頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2380
大久保加賀守忠実が榮翁へ、重陽の御内書を渡すため翌日五半時に家来を登城させるよう通知した書状。十月二十日付、文政十三年は朱注。御内書の受渡し時刻と家来差出の指示を保持する。
天正四年八月十九日以後 / 冊子 499~500頁
高原城攻めを叙事的に記す自記。島津軍が諸口から門壁を破り、多数の死傷者を出しながら断水して城を孤立させた。伊東援軍は猿瀬に陣したが救援できず、城兵は降伏して退去、三山・小林・温水・須木も放棄され、義久・義弘は番兵を置いて凱旋した。
文化12年亥10月(本文。表紙は12月) / 冊子 482~483頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0100
1462の1、壱岐守様御続書。内室はお八重で、伯耆守の曽祖父溝口古浩軒の娘と記す。嫡子は周防守(忠実注)、松平大膳太夫の実弟とする。弟は水野内記(壱岐守の御手前にいた旨の注)、書院御番頭水野遠江守(忠善注)、交代寄合溝口摂津守(富静注)。甥欄は内田近江守(正肥注)、寄合長五郎(壽隆注)の惣領小濱徳太郎、内記の惣領水野藤五郎、その男安五郎を列記し、姪は同娘お喜代。養母方の従弟女として、弾正少弼の父本多越中守の内室と、細川和泉守の内室を記す。右の通りとして亥十月で結ぶ。人物と続柄は欄の配置を保持し、「同男」「同娘」の指示先を残す。本文に年月日付き署名はなく、年は1462表紙の文化12年亥による。壱岐守の実名注は忠韶候補として扱い、入力の忠嗣を確定名にしない。
文政2年12月25日(年は朱書) / 冊子 570頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1715
国王の尊書を拝見したと述べる。立姫は水野壱岐守の養子である水野甲斐守との婚姻が整い、その祝儀として大御隠居へ喜屋武親方をもって太刀一腰・馬代白銀百両および目録のとおり差し上げたことを、江府到来後に披露したところ御満悦であると伝える。この旨を伝達するよう求める。立姫には重豪の女子、壱岐守には水野忠韶、甲斐守には忠実との傍注がある。朱書の文政二年、十二月廿五日、新納内蔵・市田長門・嶋津安房・川上美濃が実名判で連署、宜野灣王子・三司官宛。本文の贈品数量は太刀一腰と馬代白銀百両で、目録に記すその他の内訳は示さない。婚姻が整ったことへの国王の祝儀と重豪の満悦の伝達を記す書状である。
年月日未詳 / 冊子 278~282頁/原整理番号 11
近衛家の系図を、藤原忠実・忠通から基実・基房・兼実らの分流に沿って掲げる。各人の摂政・関白などの官職、法名、没年、姻戚、寺院との関係を付記し、一乗院・近衛家の荘園領有をたどるための資料とする。
文政5年12月15日(末尾年は朱注) / 冊子 642~643頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1897
十二月十五日、吹上御庭拝見が滞りなく済んだ内祝として、亀之甲舞台で能を催し、有馬玄蕃・水野甲斐(忠実注)・有馬臺作を招いた記録。能組には岩船・俊成忠度・綾鼓・船弁慶・海士・乱を挙げ、虎之助・又三郎・玄蕃頭・桃次郎・甲斐守・豊後守などの名を各曲の下に配列し、狂言・間として末廣・宗八・福の神および船弁慶間の幸之助を記す。「乱」の欄には溪山の名がある。囃子方や地謡等に当たる名列もあり、曲ごとに出演者の名列を添える。夕暮れまで無事に済み、赤羽からの供頭へ初めて見せ、装束所に二、三人が来たため甲斐の仕なども一緒に見せたと結ぶ。名列の役割の細分と、卯太郎・覺次郎と読める二名の第一字は未確定。この記録の十二月十五日と、次の贈答覚書の十月十五日とは月が異なる。
天文3年4月3日(系中の久礼橋討死記事) / 冊子 528~529頁/原整理番号 28
惟宗氏の宗大納言・紀中納言から忠方(若狭守)・知国へ続き、友兼・国光(筑前介)・成光(山城介)・国広(筑前介)の諸流へ分かれる執印家の古系図。国広系は忠友(民部大夫)―忠康(橋口右衛門尉)―忠久(豊後守)―忠時(大隅前司)へ続き、忠広(上総前司)・忠秀(兵衛尉)も掲げる。友兼系からは友広・友家・友久・康弘・康郷・重兼・友成・師久・光久らを出し、国分家元祖や佐包・新田宮執印などの注記を伴う。別に忠継―忠実、小嶋右衛門入道、久時―宗忠―貞久―宗久―氏久―元久―久豊―忠国―立久―武久―忠昌へ至る系線、重友(宮内允)から友郷・友雄・友弟・友令・康令・康秀・康貴らへ続く系統、政家・友氏から友繁・友豊・友俊・友孝へ分かれる市来・国分系の関係を図示する。末尾には興国寺殿玄鑑が天文3年4月3日に久礼橋で29歳にて討死した記事や、政家を市来政家とし、執印家が惟宗姓を名乗る由緒を記す。
文永十一年九月日 / 冊子 279頁
薩摩郡平礼石寺内の所領について、故大隅入道殿の免除状に従い、諸方の使者による濫妨を停止して土民らを安堵させるよう命じた守護代書下。
文久4年甲子正月21日 / 冊子 330~331頁/原整理番号 467/整理ID 467
文久四年甲子正月廿一日の勅書。小御所に大臣・公卿が列座し、大樹と列藩四十八人へ示した由、尹宮の席で拝読して回覧後に元へ納めたと冒頭に記す。天皇は内外の政治秩序が崩れ人民が苦しむ危機を憂え、自分の罪と悲嘆を述べ、忠実な家臣の尽力、国家回復と人民救済を求める。會津・越前・伊達・土佐・島津の将らを挙げながら、成果がなければ自他の罪であるという強い自責と訴えで結ぶ。本文は孝明天皇紀により補正したとの編注を持つ。政治状態・宗教的な罪責の表現は勅書の叙述として整理し、列藩四十八人を発給文書四十八通に換算しない。
文永十二年二月十七日 / 冊子 280頁
山田忠実が二郎へ所領を譲る仮名書き譲状。譲渡した所領を確実に領掌し、将来も相伝するよう定める。
享和2年9月吉日(本文) / 冊子 207頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0671
白木御文書五番箱111中の御実名勘考。辛亥生・御歳12、本命は金、御字は忠として忠温にハルの訓を付し、帰納は敦とする。忠字が火に属して本命の金と相剋するため、温字を配して忠火が温土を生み、温土が本命の金を生むので、相生が尽きず吉になると説く。二字の点画を八卦数へ配すると震となって上吉であり、帰納の敦は厚・勉の意味を持つとする。忠実・温和の徳を厚く勉め、進んでやまず、山が高く日が昇るように徳業を成し、上に奉じ下へ臨めば天下の民が安らかに百禄を受け、名を無窮へ垂れると結ぶ。享和2年壬戌9月吉日、臣平田正明候補の謹考署。字画の「二十局」候補、小字を伴う署名末字の読みを留保し、五行・卦・徳目の説明は本書の命名理拠として採録する。
文政4年2月吉日(辛巳) / 冊子 596頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1793
白木御文書五番箱百七十号にある実名の考書。冒頭に己巳・御歳十三、忠の字・本命木・帰納張を記し、実名「忠方」の意味を論じる。筆者は忠を火、本命を木、方を水に配し、水が木を生じ木が忠の火を生じるため、生生として窮まりなく吉であるとする。二字の点画を八卦数に配して震となり、「大命風」の讃も上吉とし、帰納の張は張大の意味と説明する。忠実方正の徳と大度寛仁の道で治めれば、上の風俗が隆盛し下の民は至治の恩沢を受けるとして、日長・月盛、万年の長寿と天の福を願う。文政四年辛巳2月吉日、臣碇山久陽謹考。これらは筆者の命名論として整理する。包紙の朱書百七十号には、忠方公の実名考書の折紙一通を江戸の美濃から碇山八郎右衛門へ渡し、記録所で格護するよう指示したと記す。文政五年午6月7日に承知し、八郎右衛門が持ち下って納置した旨も記す。考書の日付と翌年の授受・保管記録を分ける。
正嘉三年四月日 / 冊子 235頁
僧尊忠が蒲生庄山内の寺領秩序を定めた置文。山内四至、寺所・薬師堂・屋敷・水田などの境界を示し、忠実な住人による管理、勝手な譲渡・質入れ・押領の禁止、子孫・弟子への相伝条件を規定する。違乱時は証文と沙汰に基づき処理するよう命じる。
延元二年六月四日 / 冊子 692頁
薩摩国市来院内河上名地頭職について、忠実に上裁を待つ所領であるとして、濫妨を止め、先例どおり沙汰するよう命じた三条泰季御教書。
嘉吉二年五月十二日 / 冊子 404頁
伊集院照久が三郎左衛門へ、坊津は島津持久から所領として預けられている間は知行してよく、御所から照久へ返付された時は坊津を忠実に返すよう定めた安堵状。
元亀元年七月十四日以前 / 冊子 232~233頁
広済寺の由緒として、同寺が泰定山南禅寺派で寺領三十石を有したこと、七代雪辱和尚が義久の時代に琉球使僧として渡海し、七月十四日に出帆したことを記す。使節を忠実に勤めた賞として、旧来の末寺を寄附された置文が伝わるとする。
(慶長四年)八月二日 / 冊子 418頁
船越景直が島津又八に、敵の出城を奪い首七百ほどを討ち取った戦功が当地にも伝わり、内府へ報告したところ大いに感心されたと祝う。遠路のため見舞いに行けないことを詫び、兵庫様からの相談を受けて、医術にも武辺にも心得があり忠実に奉公する人物を差し下すので召し抱えるよう勧める。あわせて猪介の消息を尋ねる。
慶長十一年四月一日 / 冊子 63~64頁
瀬戸口勧之丞ら三名が、預け置かれた御物について内容を漏らさず、命令に忠実に取り扱うことを誓った連署起請文。違背した場合は梵天・帝釈・四大天王、九州の諸社、霧島・八幡などの神罰を受けるとする。
慶長十二年六月吉祥日 / 冊子 122頁
慶長十二年六月吉祥日、白濱重昌が弓箭の古儀を守り、同僚を重んじ、秘密を漏らさず、上意に忠実であることを諸神に誓った起請文。
寛永十八年十一月吉日 / 冊子 170~172頁
種子島時寿が島津光久に対し、忠実に奉公して出仕・勤役を怠らず、命令に従い、退けられた場合にも事情を明らかにし、忠節を欠く者を親兄弟であっても隠さず申し上げることなどを誓った起請文。末尾に多数の神仏を列挙し、違背すれば神罰を受けるとしている。
「寛永廿一年」五月十四日 / 冊子 333~334頁
島津光久が琉球側へ、両使から事情を承知したとして、従来の国法・置目を変えず、官人・侍・百姓に至るまで忠実に奉公するよう厳命した書状。緩怠や違反があれば厳しく処置するとし、使者の口上と合わせて統制を徹底させている。
正保三年二月吉日 / 冊子 33頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0057
春山直紀が、奉公に忠実であること、他家へ奉公せず、主君への讒言・不調法を避け、二代の奉公に背かないことを誓った起請文前書。
慶安五年正月吉日 / 冊子 211~212頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0422
召し寄せを受けた木脇民部左衛門が、奉公の忠実、秘密保持、他者との結託禁止などを誓約した起請文前書。
慶安五年三月吉日 / 冊子 213~214頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0424
奉公上の忠実、秘密保持、他者との相談・結託禁止、召し出しへの随時応答を誓った塩官長介翁次の起請文前書。
寛文五年二月十四日 / 冊子 501頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1107
賀山久興ら三名が、御家の兵術に関する他言や雑事への関与を慎み、親子兄弟の情に左右されず、私意を挟まず忠実に勤めることなどを天罰霊社に誓った連署起請文前書。
〈寛延二年〉八月九日〔本文による。目録日付なし〕 / 冊子 200頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0556
種子島久鴻が八月九日に宗信へ供物を捧げた祭文。七月十日に病で亡くなり、二十四日に玉龍精舎で葬礼を行ったと記す。対句では宗信の仁義、兄弟への思い、忠実な行動と威を誇らない姿、民衆への恩をたたえる。医療と祈祷にも効果がなかった無念、残された家中の悲嘆を述べ、将来の家を支える願いを託す。末尾に種子島久鴻献納の注がある。
〈寛延二年〉宗信百日忌〔本文。月日記載なし〕 / 冊子 200~201頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0557
十殿久柄が宗信の死を悼んだ祭文。七月十日の死去と二十四日の福昌寺での葬礼を記し、自分は江戸で公務に就き千里離れていたため葬礼に従えなかったと述べる。本文は百日の期に当たり、供物を備えて献祭する旨を記す。詩句では君主の文武、民と弟への徳、忠実な政務をたたえ、医療も及ばなかった無念と遠方での悲嘆を表す。
元禄十四年三月 / 冊子 215~216頁
林信篤が鎌倉将軍右大将公の自筆文書の後に記した跋文。文書が永禄年間に器中へ封蔵され、豊臣氏滅亡後も島津家に伝わった経緯と、頼朝以来の由緒ある自筆を忠実に保存する意義を述べる。元禄十四年春三月に閲覧して作成した旨を記す。
十一月廿五日 / 冊子 726頁
地頭不在の時期にも一味同心して忠実に奉公した曾於郡衆の懇志を喜び、特に川上十郎左衛門ら諸士の入魂を頼もしく評価する。番所の用心を堅固にして油断しないよう命じ、雪花の件には急ぎ合力すると約した島津忠兼書状。
文永7年8月(日欠) / 冊子 556頁/原整理番号 59
島津庄預所は、鹿屋院の弁済使職を兼賢相伝の職とし、子息らの中から兼世を補任していたが、兼世は職務に忠実でなく庄家の事を沙汰しなかったと記す。兼世の職を停止して実兼を補任し、鹿屋院の土民らにこの交代を承知し違失しないよう命じた。文永7年8月の日付欠落の下文で、預所法眼和尚位の花押を据え、『旧記雑録前編一』723号文書と『家わけ二』肝付文書193号文書との同文注記を付す。先行する58号が実兼への補任だけを記すのに対し、本書は兼世停職の理由も述べる。
文化十五年寅五月吉日 / 冊子 543頁/原整理番号 91の3
川上親郁が『有田将監記』の伝来と書写経緯を記した後書。都城の荒川某が所蔵する本を、友人佐久間盛陽の依頼で借り受け、公務の合間に文字を改めず忠実に書写したことを述べる。文化十五年寅五月吉日付。