北郷久加後見役辞任記事
年月日未詳 / 冊子 554頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1287
北郷久加が病気のため後見役を辞して許され、寛文九年二月十六日に江戸を発った記事。光久・綱久と両夫人から餞別を受け、綱久から肩衣袴を拝領し、三月十九日に平佐へ着いた。晩年は平佐などへ移居し、綱貴の参勤・帰国時には隈之城仮屋へ招かれて盛膳を献じ、長年の勤労を賞された。
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年月日未詳 / 冊子 554頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1287
北郷久加が病気のため後見役を辞して許され、寛文九年二月十六日に江戸を発った記事。光久・綱久と両夫人から餞別を受け、綱久から肩衣袴を拝領し、三月十九日に平佐へ着いた。晩年は平佐などへ移居し、綱貴の参勤・帰国時には隈之城仮屋へ招かれて盛膳を献じ、長年の勤労を賞された。
正徳六年六月八日 / 冊子 269頁/整理ID 684
井上正岑が吉貴へ、中納言が後見を命じられ二之丸に入ったことについて、吉貴からの書付を受け、返答する書状。六月八日付。
4月16日(正文年不記) / 冊子 250~251頁/原整理番号 348の2/整理ID 348-2
口上に添えた別紙趣意書。粟田口宮・左府公・鷹司公父子と一橋・尾張・越前等の寛解を求め、寛解後に左府を関白、越前前中将を大老とすることを願う。家格上の先例はないが非常時には特別な処置が必要とする。将軍が若年であるため一橋の後見と越前の上洛を求め、朝廷を尊崇し邪正を明らかにして外国への処置を天下の公論から明判するよう願う。勅慮を浪人等へ漏らさず取締を厳重にし、その妄説を信用しないこと、久世大和守を速やかに上洛させ朝命を履行させ、妨げる幕役へ弁事させることを求める。安藤對馬守の勤務には人心上の問題があるとして退職を、田安の後見は実がないとして免許を願う。各条の採用を勅命で早く決めてほしいと結ぶ。四月十六日、源久光拜、上。人事・罷免等は久光の願いとして扱う。
9月18日(願い、年不記);外包:文久2年戌11月9日 / 冊子 272頁/原整理番号 379/整理ID 379
修理太夫が、実父三郎は家督後から国政に精勤し、参府後も国許政務へ心を用いるようにとの前年三月の内達を承知したが、方今の時勢は心配なので三郎を自分の後見に命じ、国政を厚く相談して指揮してもらいたいと内意を願う。九月十八日、松平修理太夫。附紙は書面の願いの取計は本人の勝手次第とする。外包は三郎正御後見の願書付一通・公義附紙一通を列記し、文久二年戌十一月九日に筑後から従来どおり格護する旨を千田伝一郎へ承知させ、白木御文書十一番箱に収納した記録。願いと附紙の応答、後年の収納を分ける。
正文年月日不記;外包:文久3年亥正月18日 / 冊子 279頁/原整理番号 389/整理ID 389
六番外包は、三郎の後見任命と政事向等の相談を命じた公義の御書付壱通と記す。正文は松平修理大夫宛で、島津三郎を願いどおりその方の後見に命じたので、国政をはじめ諸事を厚く相談して取り計らうよう命じる。正文の年月日は不記。外包注は文久三年亥正月十八日、式部から格護を命じられたことを伊東彦介が承知し、白木御文書拾壱番箱へ納めたと記す。後見願に対する任命の書付と後日の収納注を区別する。
4月丹波;子4月8日申渡注 / 冊子 355頁/原整理番号 502の2/整理ID 502-2
一橋中納言を京都守衛総督・摂海防禦指揮に命じ、後見職は内願によって免じるという通知。大樹が京都にいる間はこのとおり心得るよう御所から命じられたとし、京都の御老中酒井雅楽頭から伝えられた知らせが到来したので向々へ周知する。四月丹波、子四月八日の申渡注。任命・免除と国内への伝達を記す書付で、実際の指揮や勤務成果は記載しない。
明治11年3月23日 / 冊子 976頁/原整理番号 1259の1/整理ID 1259-1
十九歳十一か月までの未成年者が家督を相続するときは、士族・平民を問わず親族または適任者を後見人とする。十五歳以上は親族の協議によって後見を免じてもよく、女子の家督相続にも同様の扱いを適用する。
暦応四年九月十一日 / 冊子 741~742頁
河内国丹下郡西嶋地頭職をめぐる相伝争論を裁いた足利直義下知状。三池本助入道道智の譲状、女子・孫への相伝、後見、嘉元以来の知行と押領の主張を検討し、関係証文に基づいて所務・領掌を定める。
年月日未詳 / 冊子 620頁
島津忠隆に嗣子がなかったため、頴娃氏との関係を背景に島津勝久の家督継承と後見の経緯を記す譜記事。
天正15年6月10日 / 冊子 341頁
豊臣秀長が、島津中務少輔家久の突然の死を受けた島津又七郎(豊久)へ、生死は世の習いなので分別を失わぬよう慰めた書状。藤堂某を派遣して諸事を相談させ、豊久の覚悟次第で今後取り立てると約しており、父を失った若い豊久の後見と処遇を示す。
(元和七年)四月十一日 / 冊子 767頁
島津家久が中山王へ、王位相続を祝し、中城王子が後見として国政を担うことを了承して国民安泰の政道を求め、太刀一腰・馬代銀子五十枚などの祝物を贈った書状。
(寛永十四年)九月十九日 / 冊子 678~679頁
両殿から与えられた条書を守ることを前提に、家中諸士・百姓への統治、後見役や家老衆との相談、家中の融和と風聞の抑制、外城・役人の配置、神社仏閣、狩猟・武具検分、軍馬・兵具、借銀返済など、光久の政務運営上の心得を列挙した覚書。
(寛永十五年)三月八日 / 冊子 789~790頁
黄門の死去に弔意を示し、薩摩守後見について伊勢兵部少輔の尽力を求めたうえで、有馬一揆が二月二十七・二十八日に鎮圧されたこと、自身も戦闘で鉄砲傷を負い療養中であることを詳しく報じた書状。
年月日未詳 / 冊子 527頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1186
北郷佐渡久加譜中の記事。寛文七年正月三日、光久は幼年とする又三郎延久(十八歳との注)の後見・指南を久加へ命じた。病気隠居中の久加は再三固辞したが、命を辞しきれず五月十五日に平佐を発ち武陽へ赴任し、大嶺少兵衛安親・弟子丸権右衛門盛張らが随従した。七月五日に江府で光久の使者相良吉右衛門・桂杢之助を介して覚書を頂戴した。又三郎の側での相談・守役の仰出を掲げ、末尾に前出二通を略すとする。
(寛文十一年)二月九日 / 冊子 576頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1380
島津光久が、島津外記の跡目を島津権十郎に継がせるよう命じた仰出。庄内の事情が未解決であるため当面の措置とし、後見人を選んで政務を改めさせる一方、代々忠節を尽くした北郷家の血筋が断絶するのは本意でないので、後日適任者を選んで血統を立てる可能性があることも承知させるよう命じた。
(寛文十一年)二月十二日 / 冊子 576頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1382
島津光久が、庄内の跡職を島津権十郎へ継がせ、島津帯刀を後見に任じるよう命じた仰出。庄内では近年家政が乱れ、祖母の指図のもとで統治が緩み、領内が衰微し若者も登用されず役人が不足したとして、帯刀に責任をもって改革させ、従来と変わらない場合は帯刀の落度とすると厳命した。
安政5年12月(記録);本文「午十二月」 / 冊子 192頁/原整理番号 271/整理ID 271
橋口助之丞安利・勘之丞行安について、禁裏御所御太刀を行安が打つ叡慮により、宰相に調進が頼まれ、近衛左大臣忠熙からの伝達で打方を命じたことを記す。受領を願い出て行安に大和介が許され、無類の事柄として特別に身分を引き上げ一代御小姓與に召し出す。安利も御用の後見を勤めたため、褒美として一代御小姓與とし、兄弟の者へ申し聞かせるよう求める。刀袋の錦地には行安の紋柄を織り出す注文があり、御織を調進する旨も記す。玉里御殿で兄弟へ伝達して書付を渡したため、御記録所の帳へ記し、宰相の沙汰に従って取り扱うよう命じる。午十二月、永江休之丞の記載と安政五年十二月の記録表示を伴う。
戌4月25日・戌5月18日(本文の年月表示、年不記) / 冊子 252~253頁/原整理番号 351/整理ID 351
雑集中の朝廷指示群。戌四月廿五日の段は、浮浪徒が攘夷から蜂起し、先に鎮静を引き受けたものの再び猛暴の形勢を聞いたとする。赤心報国を賞しつつ、攘夷は深慮を尽くしており血気の暴論より国中一致を第一とし、島津家の勤王への賞意も挙げ、勅命を待たず乱妨する者には加制を命じる。中山忠能ほか公家五名の名を掲げる。次の段は一橋・越前の宥免に関する書取と、田安後見の許可経緯に触れ、一橋の補弼・越前の政務取扱を願い、名称に差し支えれば政事総裁職とする案を記す。内外危迫の時に国是を議論し、越前が上京する際は三郎も続いて上京するよう求める。戌五月十八日の段は、島津家の尽力を喜び、関東へ勅使を差し向け君臣合体・国内一致を目指すので三郎も同行すること、先月十二日の越前への書取による国政取扱を踏まえ安心する旨などを述べる。指示と希望・職名の案を区別する。
本文:4月十二三日・16~18日・27~28日頃等の動静(年不記);文久3年癸亥正月20日写注 / 冊子 256~258頁/原整理番号 355/整理ID 355
平田延太郎の京師世態間合の書付写。久光上京は朝廷・幕府のため薩摩の力で周旋する趣旨とし、堀次郎が大原卿に聞いた叡慮や、伏見から上京した久光を近衛邸で中山・正親町三條・岩倉らが迎えて政治の存意を尋ねた経緯を記す。幕府の違勅を寛大に許し公武合体を求めること、一橋後見・諸侯寛罪・幕政賞罰・将軍謝罪等を叡慮として伝えるが、書付が聞いた内容として区分する。久光への問答では勅命決定後に従い、諸藩が争わず国力を尽くすよう求める姿勢を記し、長州山田又助や長井雅樂の説、久光の病気と蒸気船二艘による帰国案も伝える。後半は諸藩同盟の志士が京都・伏見に集まり、薩摩側に企てがあるとして久光が無是非に討取を命じたという記述と、六人討取・森山新五左衛門切腹、指導者名列を載せる。これに動揺した崎宅一郎らへ書状を送り、朝廷を守護するため京師での企てを急ごうとする内々の相談や、二十七八日頃に大坂へ暫時退いたとの情報を記す。末尾は文久三年癸亥正月廿日写之との注。本文の動静・伝聞と後年の写日を分ける。
明治6年1月22日太政官・2月27日鹿児島県庁 / 冊子 910~911頁/原整理番号 1126の2/整理ID 1126-2
華族の家督相続について、総領男子を養子に出す場合、幼少当主の後見、当主や養子の病死、嗣子のない場合、婦女への相続などの取扱いを定める。家族・親族の熟談を基本とし、管轄庁を経て正院へ伺い出る手続を示す。
〔承応二年〕八月十九日 / 冊子 568~569頁/原整理番号 4の11
福屋兼昭が白坂以益へ送った書状。以益が老齢のため内之浦の曖役を退く願いが認められ、子息勘左衛門へ役を仰せ付けること、以益には後見として相談に加わるよう求める。後半に白坂家の系譜注記を伴う。承応二年八月十九日付。
七月十三日 / 冊子 402頁
島津義弘が山田越前入道に、国元が無事であるとの知らせを喜び、上方も平穏だと伝える。庄内の状況を案じ、若輩の少将には龍伯から万事よく教え諭すよう、山田も内々に心を尽くして支えることを求める。
七月三日 / 冊子 79~80頁
袈裟菊丸の成長を案じ、良質な知行を蔵入に選んで将来困窮しないよう年寄衆へ指示したと述べ、義弘不在中の支配の緩み、高麗在番や普請の負担、若年の袈裟菊に家臣が勝手をしないよう厳しく監督することを祖母へ求めた書状。
天正十二年春~秋 / 冊子 866~867頁
島津義久が佐敷に在陣し、家久へ三千人を付けて有馬を救援させた記事。島原合戦では忠元が豊久の後見として軍勢を指揮し、川上忠堅が隆信を討ち、敵三千余を倒した。忠元・忠増と大口衆の働きで三十六人を討ち、森山・三重城など六か所を領し、忠元は同年秋に隈府地頭を兼ねた。
正保二年閏五月二十日 / 冊子 21頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書0029
水野元吉が使者と国元からの進物への謝意を述べ、その後見廻りを申し上げず無音となったことを詫び、面会の折に改めて礼を申したいと伝えた書状。
文化12年5月10日(年は目録・一件、月日は本文) / 冊子 472~473頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1432
全上・扣正文在文庫。五月十日の来邸が決まったため、辰之口の旅館へ側用人の使者を出し、当日の来訪を確認する。後刻、高輪西門から入り芝門を経て亀之甲茶屋へ案内、望洋亭上段で着座し熨斗・茶・たばこ盆を出す。御隠居・太守・奥平大膳太夫・有馬肥前守・島津筑後守の目見が済むと、暫く庭を見て、前々案内の玉窓臺御庭から休息所二階へ上がり飾付を見学、庭中門から大奥へ案内する。子様方一同が目見し、それぞれから贈物を出して披露。再び庭口から亀之甲茶屋見物所に着座し、能を見物する。合間に中入、大奥で料理を出し、皆が寄合、その後見物所へ戻る。上り物を出し、能が済むと夜食ほか饗応、暫在の後退出。当日詰の医師は山崎宗運・堀本一甫。近衛の来邸に伴い「御臺様、仰御文を以」肴一折・重一組を拝領し、すぐに近衛へ進めたと記す。脇息一箱・肴一折を土産とし、他の惣方にも贈物がある。白綸子三端・鯛一折はこの御方様から進めたもの、その他別段の贈物は別冊にあるため省略すると明記する。本文は当日の手順を列記し、返礼・土産の記載を含む。独立年注・署名はなく、年は文化12年の一件・目録による。
文政7年2月4日(本文) / 冊子 695~696頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書1980
重豪公御譜中の年賀祝能興行の記録。二月四日に年賀の祝いや拝領物があり、客を迎えたため翌日に本丸大奥へ差し上げると述べ、能組の明細を続ける。翁・老松・間狂言・羽衣などの曲目と、シテ・ワキ・囃子方・地謡・小鼓・大鼓・笛・太鼓・後見などの役、須磨長次郎・甲斐守ら出演者の名を列挙する。末尾には御くわし・御樽を差し上げたことと別紙の折掛包に触れる。演能の番組と参加者を示す資料である。
天保2年4月3日(本文・朱注) / 冊子 875頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2455
重豪公御譜中の四月三日付覚書。虎之助の望月の演技を機に亀之甲で能を催し、奥向き・表向き双方に客が来訪したことを記す。能組、望月の後見、草紙洗、忠度、巻絹などの番組・役名に出演者を対応させ、多数の姓名を上下二段にわたって列挙する。役名と人名を混同せず、原本875頁の上段・下段の一覧全体を一件として保持する。
(慶長五年)九月二日 / 冊子 549~550頁
関ヶ原直前の政局について、織田信長以来の忠節と近年の懇意から疎略にできないと述べ、長岡忠興の関東出陣を豊臣秀頼後見の徳川家康への奉公と位置づける。八条宮へ古今伝授の箱・証明状・短冊・源氏抄・二十一代集などを進上したことも伝えた長岡玄旨書状案。
年月日未詳 / 冊子 633~634頁
新納友義以下の加世田・市来系譜。忠澄が伊作久逸に従い、幼い島津忠良の後見として田布施へ移ったこと、康久が田尻荒兵衛の案内で加世田城攻略に功を立て地頭職を得たこと、市来で渋谷氏勢力と戦ったこと、久韓以下の家系を詳述する。
〔承応二年〕八月十九日 / 冊子 569~580頁/原整理番号 4の12
福屋兼昭が白坂勘左衛門へ送った書状。父以益の老齢に伴い内之浦の曖役を勘左衛門へ継がせること、以益を後見として相談するよう命じる。続いて白坂氏歴代の婚姻・役職・居住地・没年などを幕末・明治期まで記した詳細な系譜を収める。承応二年八月十九日付。
年月日未詳 / 冊子 346~347頁/原整理番号 95
近衛家と島津家の由緒を述べる記録。島津忠久の出生・後見、島津家久らの上洛や御家の扱い、近衛家との縁を系譜と先例に沿って説明する。