伊集院幸侃忠棟祭文
年月日未詳 / 冊子 747~748頁
伊集院忠棟(幸侃)が、朝鮮で没した島津久保の霊前へ精進の供物を備えて捧げた祭文。久保の死から十余日を経て、遺骸が万里を越えて薩摩へ帰還したことを記す。 若き主君の武徳を称え、異国での死と遺骸帰還を長い韻文で悼む、久保葬送の経過を知る重要史料。
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年月日未詳 / 冊子 747~748頁
伊集院忠棟(幸侃)が、朝鮮で没した島津久保の霊前へ精進の供物を備えて捧げた祭文。久保の死から十余日を経て、遺骸が万里を越えて薩摩へ帰還したことを記す。 若き主君の武徳を称え、異国での死と遺骸帰還を長い韻文で悼む、久保葬送の経過を知る重要史料。
文禄3年4月7日 / 冊子 773頁
幸侃が、又八郎の渡海準備をいったん止め、龍伯の上洛と家中の諸事・祝儀を済ませた後に渡海させるという石田三成の内意を極秘に伝える。龍伯到着までは他言しないよう念を押す。 国元検地の時期は未定で、安宅某の病が治らなければ実施困難とも報告する。京都滞在中の又八郎が各家の招きや舞に参加する様子まで記した機密性の高い書状。
文禄3年5月2日 / 冊子 783頁
幸侃が、渡海予定者がまだ到着せず出発が延びていること、又八郎が秀吉への御目見えを済ませて京都から下向する予定であることを知らせる。龍伯の上着を大坂で待ち、石田三成の指示を受けている状況も報告する。 国元と家中の諸事が三成一人の取次で進むこと、船不足で渡海が遅れていることを伝え、両名へ対応を求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 793~794頁
幸侃が検地の際には薩摩衆の過半を補助として付けるとの話を喜び、それが実現すれば万事残りなく進むと述べる。あわせて又八郎忠恒の祝儀も無事に済み、関係者が同席して上下ともめでたいと伝える。 検地実務への大規模な家臣動員と、忠恒の婚礼祝賀を同時に報告した書状。冒頭数文字は原資料でも判読しにくいため、その部分は断定を避けた。
文禄3年7月12日 / 冊子 796頁
幸侃が義久の書状を頂戴し、国元へ下る検地衆に対して特に念を入れて奉公すると誓う。百姓・町人が罪を犯した場合は経験者と相談して処置し、主家の不利益となる事実を知れば遠慮なく報告すると定める。 自身の振る舞いに関する疑いも直ちに知らせてほしいと求め、条項違反には梵天・帝釈以下の神罰を受けると誓約した検地実施期の起請文。
文禄4年9月28日 / 冊子 915~916頁
大隅国桑原郡栗野の上村・御前野村・石作などについて石高を列挙し、土持弾正忠へ給与する領知目録。 新知分を確定し、加増がある場合は伊集院幸侃・本田三清の判断で配分すると定め、同日付証状に対応する具体的な土地明細を示す。
文禄五年二月八日 / 冊子 7頁
伊集院幸侃が中河又十郎へ、薩州市来湯田村内の三石を与えた宛行状。先年、川内へ出向いた際に御輿を担いだ働きへの恩賞として知行を認めた。
文禄五年二月八日 / 冊子 8頁
伊集院幸侃が春口土佐守へ、薩州市来湯田村内の五石を与えた宛行状。先年、川内へ出向いた際に御輿を担いだ働きへの恩賞として知行を認めた。
文禄五年三月卅日 / 冊子 14~15頁
伊集院幸侃が一乗院へ、薩州河辺郡平山村内で諸侍へ配分した残余のうち三十二石余を割り付け、加増として与えた署判領知目録。
文禄五年八月二日 / 冊子 36頁
伊集院幸侃忠棟が、先年の御輿上げの忠恩により、薩州伊集院内大内田村の余分地のうち一作・高五石(原文「五斛」)を中馬十郎左衛門へ宛行った署判領知目録。
文禄五年八月六日 / 冊子 36~37頁
伊集院右衛門入道幸侃が、市来豊前入道へ、先年の御輿上げを理由として、薩州伊集院内田村の余分地のうち高二石と、これに加えて市来湯田の三石を宛行った署判領知目録。
文禄五年八月九日 / 冊子 38頁
伊集院右衛門入道幸侃が、隅州桑原郡吉松の般若寺領のうち、般若寺村内の右田島屋敷分について、米高百三十石余を記して与えた署判領知目録。
文禄五年九月十五日 / 冊子 46~47頁
伊集院右衛門入道幸侃が大迫五郎左衛門尉へ、薩州伊集院の飯牟礼之村にある余分のうち高五斛を割り付け、加増として与えた書状。
文禄五年十一月二日 / 冊子 51頁
伊集院右衛門入道幸侃が羽嶋藤右衛門尉へ、隅州肝付の内、新富之村の作分から高四斗二升を割り付け、右の地は五斗出来として返地に差し遣わす旨を記した宛行状。
文禄五年十一月四日 / 冊子 52頁
伊集院幸侃が薩州菱刈大口之内、大儀寺之村の余分地から高六石七斗余を割り付けた署判領知目録。
文禄五年十二月二日 / 冊子 55頁
伊集院幸侃が児玉主水佑に、隅州肝付郡西俣村・河原村内の土地を、村別・名寄別の石高を掲げて充行った領知目録。
文禄五年十二月二日 / 冊子 55~56頁
伊集院幸侃が蓮光坊に、これまでの奉公を賞して日州諸県郡野尻・三ケ山内の五石を充行った領知目録。
文禄五年十二月二日 / 冊子 56頁
伊集院幸侃が安楽大炊助に、隅州桑原郡吉松内の諸所を名寄別の石高とともに充行った領知目録。
文禄五年十二月二日 / 冊子 56頁
伊集院幸侃が米良勝右衛門尉に、薩州大口内の柳田村・大儀寺村にある土地を石高別に充行った領知目録。
文禄五年十二月二日 / 冊子 56~57頁
伊集院幸侃が源七郎に、日州諸県郡田尻村内の土地を名寄・石高別に充行った領知目録。
文禄五年十二月二日 / 冊子 57頁
伊集院幸侃が蒲地孫四郎に、日州諸県郡志布志の寺見・姫城・内之蔵村などの土地を充行った領知目録。
(慶長二年)二月六日 / 冊子 76頁
伊集院幸侃が伊勢弥九郎へ、忠恒の書状を拝見し、高麗奥への出張に備えて軍衆の渡海を進め、武庫の下向によって遅れていた人数も順次渡すと伝えた書状。返上米については京都での取決めどおり銀子を数量に合わせて上納することなど、軍役と財務の処理を指示する。
(慶長二年)七月十三日 / 冊子 117頁
伊集院幸侃忠棟が伊勢弥九郎に、又八郎の書状を受け、赤国出勢の人数確保について答えた書状。在京衆や軍役免除者もいて二十万石分の人数を整えるのは困難で、小給人衆も千人ほど不足しているため、残る人数を差し渡すよう求める。
(慶長二年)十月十六日 / 冊子 148頁
伊集院幸侃が大迫新左衛門入道へ、山川屋敷の公役について船頭から免除を申し付けられたとの報告を受け、山川の役人にも趣旨を伝えて処理するよう命じた書状。
(慶長三年)七月九日 / 冊子 222~223頁
伊集院幸侃が島津忠恒に、石田治部少輔と竜伯から示された軍役人数・兵糧・船・城番の扱いについて申し送った書状。知行高に応じた人数を不足なく出すこと、諸城の守備を維持すること、船不足への対応、薩摩から上せる米や大坂蔵の蔵米を無断で流用せず、自然に減耗した分は調査して補うことなどを指示する。
七月十三日 / 冊子 223頁
伊集院幸侃が図書頭に宛てた返書。本文は別号文書と同文のため省略されている。
年月日未詳 / 冊子 358頁
伊集院幸侃が慶長四年三月九日、山城国伏見で島津忠恒に誅殺されたことを記し、法諡は幸侃、別号は諸宗とする。
文禄4年5月2日 / 冊子 878頁
本文は「第二三〇七号文書と同一」として転記を省略しており、この箇所だけでは宛先や具体的用件を確認できない。 同一文書との照合が必要なため、内容を推測せず参照関係のみを記録する。
文禄4年9月3日 / 冊子 910頁
薩摩国河辺郡野崎名の土地について、惣高九百四拾石余の内訳と返地分を示し、京の石田三成との相談どおり本田六右衛門尉へ給与する。 今後加増があれば両名の判断で配分する旨も記した、検地後の知行再編を数量で追える連署証状。
文禄4年9月3日 / 冊子 911頁
財部の米良家に伝わった証状で、宮里一所を打ち替え、石高三百五拾九石余の土地を米良勝右衛門へ給与する。 返地分を差し引き、残余は京都で石田三成と相談して配分するという、領国検地後の所替えと知行算定の実務を示す。
文禄4年9月28日 / 冊子 915頁
薩摩国菱刈本城内の南浦村・荒田原内町屋敷などについて、各地の石高を示して東郷源七郎へ給与する。 新知分の数量を列挙し、加増時は両名の判断で配分するとした、検地後の知行宛行を具体的に示す連署証状。
文禄4年10月7日 / 冊子 919頁
川内の平佐村・天辰村・宮里村・高江村、入来院塔之原村、祁答院久富木村など、返地となる村々と石高を列挙する。 北郷宗次郎に宛て、所領替えに伴って返還すべき土地の範囲を数量で確定した連署目録。
文禄4年11月6日 / 冊子 926頁
薩摩国永吉村の土地百六石余を本田助允へ配分し、残余分についても返地令に従って処理する。 永吉村内の具体的な石高と宛行先を示す、検地後の知行再編に伴う連署宛行状。
文禄4年12月25日 / 冊子 928頁
薩摩国谷山郡福本村の高百三十五石余を一乗院へ給与し、加世田の返地分を差し引くよう定める。 寺院領の石高と返地処理を具体的に示し、検地後の寺社領再編を確認できる連署証状。
年月日未詳 / 冊子 326~327頁
島津家久の長女で根占右近大夫重張の妻となった女性について、天正十五年四月、父家久が羽柴秀長に降伏した際に人質となり、秀長の帰洛に従って上方へ送られたことを記す。上方に長く滞在し、のちに命を受けて豊臣秀吉へ拝謁した際、伊集院幸侃らわずかな随員だけが付き従ったという。九州征伐後に島津家の女性が政治的人質として扱われた事実を示す短い女性譜。
年月日未詳 / 冊子 354頁
島津義久・義弘が根占七郎へ、肝付郡は御朱印どおり伊集院幸侃が拝領したため、大姶良・西俣・鷹城の三か所がその郡内に組み込まれると伝えた連署状。細川幽斎・石田三成の判断で鷹城は返付され、大姶良には替地を与えるとし、今後は義久・義弘へ忠節を尽くすよう求める。九州国分に伴う具体的な知行替えを示す。
(天正16年)正月13日 / 冊子 376頁
新春を祝い、五明二本を贈る。前年冬に帰国した幸侃の報告から、関白秀吉の島津家への機嫌がよく、京都の諸人もその評判を認めていると伝え、忠元の信心深い奉公を今後も続けるよう求めた島津竜伯の書状。
(天正19年)9月19日 / 冊子 515~516頁
島津竜伯が又一郎へ、公儀用の船十艘を造るため、材木・船大工・道具を急ぎ整えるよう命じる。石田三成の使者が来着して催促した事情、幸侃や長寿院を介した船五艘の分担、京都での人質交替にも触れ、朝鮮出兵を前に造船負担を国元で調整するよう求めた。
(文禄元年)5月8日 / 冊子 562頁
加藤清正が、翌日の陣替えについて自分の分は八年衆へ申し付けたことを伝え、前夜に右馬・幸侃が訪れて相談できたことへの満足を述べる。 先陣で改めて話すとして筆を省いた短い書状で、朝鮮陣中における部隊交替と武将間の打合せが分かる。
文禄3年2月21日 / 冊子 768~769頁
義弘が塩漬け桶二つを贈り、又八郎の上着と秀吉への出仕の成否、現在の滞在先を尋ねる。諸事は幸侃の指南に従うよう勧め、野副帯刀・久四郎の在京や下向についても消息を求める。 こちらは異状ないと知らせつつ、急便のため供衆への伝言を簡略化した、上方の動静を細かく気遣う私信。
文禄3年4月29日 / 冊子 779頁
忠恒が烏丸兵部少輔を急ぎ差し渡すこと、自身の渡海も近いこと、龍伯の上着が迫ることを知らせる。さらに秀吉の意向で左遷された近衛信輔が坊津に下るため、道中案内の人選を詳しく協議する。 幸侃との折衝の末、本田源右衛門尉に鹿島右衛門祐を添えて案内させる方針を報告した、配流受け入れの舞台裏が分かる書状。
文禄3年5月7日 / 冊子 785頁
元親が帰朝前に確認すべきことがあり出発を延ばしていると知らせ、島津侍従から石田三成へ飛脚を立てる件を取り次ぐ。大坂へ直行する船を用意し、船中の賄いも手配すると申し出る。 飛脚と書状を幸侃へ確実に届けるよう求めた、朝鮮から上方への連絡・輸送を具体的に示す書状。
文禄3年7月 / 冊子 793頁
文禄三年七月、国元検地に関して島津義久から幸侃(伊集院忠棟)へ出された書状と、幸侃が提出した起請文の存在を一項として記す。 続いて七月十八日付の「御分国中御検地御掟条々」と殿下の朱印を掲げる。島津家内部の誓約文書と、豊臣政権による分国検地の規則・公認文書を対応させて整理した、検地関係史料の目録的な覚書である。
文禄3年7月17日 / 冊子 797頁
御料人を急いで迎える件について、伊集院幸侃が石田三成の前で命じられた経緯を記す。内城の女房衆から御供を選ぶ必要があるが、適任の年長女性がいないという奥向きの事情も挙げる。 久四郎の在京生活は順調なので心配無用とし、五代右京亮の上洛、祈念のための医王院派遣、鎌田与兵衛による費用相談も指示する。婚姻後の家族・供奉体制を整える覚書。
文禄4年6月6日 / 冊子 889頁
竜伯は、知行方の処理は国元ではおおむね済んだとし、家久のもとでさらに熟談させるため伊集院幸侃を使者として渡海させたと伝える。 事情を聞き届け、父子で相談して今回の知行処理を滞りなくまとめることが肝要だと求める。
文禄4年6月29日 / 冊子 892~894頁
大隅国始羅郡、隅州・日州の諸村について、村ごとの石高を細かく列挙し、石田三成知行分や伊集院幸侃入道知行分などの区分を示す。 木田村・高井田村・帖佐村など多数の村名と端数まで記し、太閤検地後の領地編成を地名単位で復元できる目録。
文禄4年6月29日 / 冊子 895頁
薩摩国分について、先高・出来高、寺社領、給人領、義久・義弘の蔵入、伊集院幸侃入道知行などを項目別に集計する。 国別総高から各人・各用途への配分を示し、島津家中の直轄領と家臣知行の構成を比較できる知行方目録。
文禄4年9月13日 / 冊子 912~913頁
義弘は二人の処罰や関係者の処置について、竜伯・石田三成との熟談を踏まえて幸侃と帰国し、知行配当を進めていると報告する。 京都・九州衆・在陣衆の動向や帰朝後の配置にも触れ、講和・撤兵期の家中再編を又八郎へ細かく指示した長文書状。
文禄4年10月2日 / 冊子 916~917頁
義弘は京都での処置が延引している事情を伝え、領内の人員移動や知行配当を急いで進めるよう又八郎へ指示する。 食糧不足や物資輸送への配慮、幸侃らとの相談にも触れ、帰朝後の混乱を抑えながら国元再編を進める苦心が表れる。
年月日未詳 / 冊子 919~920頁
竜伯・幸侃・貞親ら八名が、桜島、春の花、時雨、紅葉、鶴、月などを題材に詠んだ和歌をまとめる。 軍事・知行文書が続くなかで島津家中の文芸交流と季節感、各人の表現の違いを一度に比較できる貴重な詠草。