市来惟清覚書
寛永元年五月八日 / 冊子 817頁
市来惟清が、島津家久の伴右衛門屋敷への御成りと連歌会に又三郎・又十郎も若年時に同席し、鎌田源八が執筆を務めたため、懐紙を子孫まで秘蔵するよう記した覚書。併せて、当日の膳・汁・魚・菓子などの献立と、座奉行を務めた国分十右衛門・相良玄蕃允らを記録した。
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寛永元年五月八日 / 冊子 817頁
市来惟清が、島津家久の伴右衛門屋敷への御成りと連歌会に又三郎・又十郎も若年時に同席し、鎌田源八が執筆を務めたため、懐紙を子孫まで秘蔵するよう記した覚書。併せて、当日の膳・汁・魚・菓子などの献立と、座奉行を務めた国分十右衛門・相良玄蕃允らを記録した。
延文二年五月十九日 / 冊子 6頁
右京大夫一色直氏が市来彦七郎に、薩摩国日置内恒吉名の田地六町と若松の田地六町の地頭職を勲功の賞として宛行い、先例を守って沙汰するよう命じた宛行状。
嘉慶三年十月日 / 冊子 141頁
島津元久が市来崎入道に、薩摩国知覧院内の田三町を恩所として宛行い、先例どおり知行するよう命じた宛行状。
嘉慶三年十月日 / 冊子 141頁
島津元久が市来崎入道に、薩摩国山門院の上市来崎三町・下市来崎三町を本領として認め、残らず先例どおり知行するよう命じた宛行状。
文禄五年二月八日 / 冊子 8頁
No.23と同文の宛行状が外中馬十郎左衛門尉・市来豊前入道にも存在したことを記す雑抄記事。先年の川内出向時に御輿を担いだ働きに対する恩賞知行である。
文禄五年八月六日 / 冊子 36~37頁
伊集院右衛門入道幸侃が、市来豊前入道へ、先年の御輿上げを理由として、薩州伊集院内田村の余分地のうち高二石と、これに加えて市来湯田の三石を宛行った署判領知目録。
十一月三日 / 冊子 351頁
十一月三日、伊勢貞昌が市来八左衛門へ、白鳥山座主は前年の庄内弓箭刻の功により公役を免許されており、所領・出物の引除も高に応じて認めるよう命じた書状。
十月十五日 / 冊子 74頁
島津久元・川上久國・喜入忠政(のち忠続)が、新納仲左衛門尉・市来備前守・比志嶋掃部助に、薬師寺内蔵丞が養子となって当地の役儀を勤めているため、水引へ移すよう伊東二右衛門尉から申し入れがあったと伝え、支障がなければ相談するよう求めた連署書状。切り抜きにより、別掲されていた島津久元の署名を含む三名連署と確認した。
九月廿日 / 冊子 75頁
川上久國が新納仲左衛門尉・市来備前守に、大脇主馬丞の子息舎人佑へ肥後内膳正の知行の一部を分け与え、当地へ移すよう御老中が命じたことを伝えた書状。山田民部少輔が使者を務め、詳細は主馬丞から伝えるとする。
七月二日 / 冊子 75頁
喜入忠政(のち忠続)が市来備前守・新納仲左衛門尉に、又八郎様に奉公する局が近頃ことに患い、老齢のため当地での養生が難しいと伝えた書状。意向を得てこちらへ帰し、永吉などで療養させたいので、病中のうちに早々に暇を与えるよう取り計らうことを求める。
八月九日 / 冊子 91頁
酒匂伊景が市来殿に宛てた書状。満色殿から申し入れのあった所領・田数の件について、在所に関わるため私的に決められないとし、相手方からの申入れを受けて等閑なく処理すると回答する。河辺の情勢を待つと遅れるため、急ぎ道行きについて談合するよう求め、厚地殿にも詳しく伝えたとしている。
林鐘二十日 / 冊子 101頁
琉球国三司官が市来因幡守ら五名に宛てた書状。文船派遣の依頼に対し、古来の交流は重んじるものの、近年は日本の賊船往来で海路が不穏となり、島々や港の警固に追われているため、現時点では要請に応じ難いと説明する。贈物への返礼として鹿錦三十把を進呈している。
八月九日 / 冊子 183(本文はNo.230・冊子頁91参照)頁
酒匂伊景が市来殿に宛てた書状。満色殿から申し入れのあった所領・田数の件について、在所に関わるため私的に決められないとし、相手方からの申入れを受けて等閑なく処理すると回答する。河辺の情勢を待つと遅れるため、急ぎ道行きについて談合するよう求め、厚地殿にも詳しく伝えたとしている。 No.230と同文。
慶長十四年三月廿八日 / 冊子 215~216頁
慶長十四年三月二十八日、市来家元ら五名が、四十九所大明神に二夜三日参籠し、旅中の海上安全と無事帰朝、願望成就を祈った連署願文。
「慶長十六年」三月廿二日 / 冊子 328頁
慶長十六年三月二十二日、市来家繁が伊地知重康に、二月二十六日付の命令を受けた後の検地・渡海事務を報告した書状。残米処理、役人配置、税所への書状、帰国時期について裁可を求める。
慶長廿年四月二日 / 冊子 577頁
知行高に応じ、出陣時の軍役人数九人と騎馬・馬取・具足・弓・鑓などの装備構成を示し、遺漏なく準備するよう命じた市来家繁の書下。
十二月七日 / 冊子 2頁
市来惣兵衛尉が児玉筑後守へ、銀子四枚と「ひさや」二反について、寛永三年正月十九日に江戸から上る途中の伏見で御納戸から出され、取次を介して渡す品であるため受け取るよう求めた書状。以前は慌ただしく受け渡しが完了しなかった事情を記す。年紀は不明で、十二月七日付。
年月日未詳 / 冊子 764頁
寛永十五年二月二十八日未刻、肥前有馬原城の本丸で一番槍を務めたことを、新納加賀守・市来五兵衛尉の立会を示して証明した市来八左衛門尉の差出。
年月日未詳 / 冊子 764頁
寛永十五年二月二十八日未刻、肥前有馬原城の本丸で一番槍を務めたことを、新納加賀守・市来八左衛門尉の立会を示して証明した市来五兵衛尉の差出。
四月十五日 / 冊子 56~57頁
市来家親が、京都御門柱に関する処置と日程について土持大膳亮へ相談した書状。関係者の到着・引き渡し時期を調整し、刑部左衛門尉とも内談したうえで日限を知らせるよう求める。
寛文二年六月十三日 / 冊子 104頁
市来次左衛門尉惟宗家賀が正宮へ鎧一領、甲一頭、籠手・佩楯一具を奉納し、現病平癒、息災延命、武運長久、如意成就を祈願した寄進状。本文の日付は「寛文元年辛丑六月十三日」だが、巻末目録は「寛文二年六月十三日」とする。
八月十二日 / 冊子 157頁
山田有栄と市来家繁が本田源右衛門らに、蒲生衆の天辰二右衛門から瀬口主税助が知行高九石余を永代買得した件を伝えた連署書状。現地で事情を詳しく聞き、従来から異儀がなければ、その高を瀬口の知行に加えるよう認める。
八月四日 / 冊子 183頁
市来家親が澁谷五郎に、たびたびの相談で望みが満たされたと喜び、荒河の件は自身が初めて申し沙汰したため、まず当該在所を知行できれば外聞・実益とも望ましいと述べた書状。ほかの在所についても總州方へ申し入れ、決して等閑にしないことを使節に説明させる。
慶長十二年四月廿四日 / 冊子 112頁
慶長十二年四月二十四日、関東往還に出る主従十二人・騎馬一疋の編成と、往還日数・宿賃・飯米・馬飼料・雇賃などの支給額を列挙した達書。
慶長十二年四月廿四日 / 冊子 112頁
慶長十二年四月二十四日、関東往還の二か月分として主従十二人に支給する飯米三石六斗を定め、出米の扱いを指示した連署達書。
(寛永十五年)三月朔日 / 冊子 777~783頁
二月二十八日の有馬原城本丸攻めに参加した薩摩方諸衆を広く列挙し、乗入れ・太刀打・槍働き・鉄砲・手負・討死・首取得などの戦功と被害を人別・組別に整理した大部の注文。三月朔日付で、二十三葉をもって巻を終える。
目録年月日記載なし / 冊子 518~519頁/原整理番号 62
市来官城の新宅で太守と尊母の平安を祈願し、三州太守が厳設した件と浄伯への書付を記す。文明十二年九月二十三日の記事を引用する。
八月廿一日 / 冊子 66頁
新納忠清・肥後盛行・大寺政安が、大脇舎人佑の知行高十四石の算入先について連署した書状。当初は相手方の高へ籠めるよう伝えたが、改めて山田民部少輔を通じて当地の高へ算入せよとの命が出たため、その処理を通知する。
正月十一日 / 冊子 72-73頁
島津久慶・川上久國・伊勢貞昌が、根占殿の御蔵入方を會木弥兵衛尉と黒葛原吉左衛門尉へ命じたことを知らせた連署書状。吉左衛門尉は病気で参上が遅れたが当日出仕したため、その事情を披露するよう求める。
二月十四日 / 冊子 77頁
島津久慶と島津久元が、羽嶋蔵人家の事情により、その子一人を当地へ置く願いが認められたと伝えた連署書状。蔵人の宗領の子へ知行四十五石を付け鹿児島へ召し置くため、相手方の高から分けるよう求める。
元禄16年10月22日(末尾日付) / 冊子 506頁/原整理番号 44-1
元禄四年に肥後仁右衛門盛香とともに御記録所見習を命じられ、古記録・系図・文書の探索と諸所への出張、記録奉行への差出を記す。元禄十六年十月二十二日付。
明徳五年四月九日 / 冊子 153~154頁
伊予守が楠橋対馬守・設楽駿河守に、薩摩国山門院内の田地などを市来崎弾正忠へ付すよう命じた宛行状。
年月日未詳 / 冊子 177頁
応永記の記事として、応永五年正月に伊久が串木野へ越山・逗留し、市来・吉田方面から伊作方への対応を求められ、各方へ書状を送って情勢調整を図ったことを記す。
年月日未詳 / 冊子 198~199頁
島津国史の記事として、応永八年三月以降、島津久哲が田代清久らを市来へ派遣して城攻め・救援を行い、渋谷氏諸族や鶴田・高城などをめぐる戦闘が続いた経過を記す。多数の合戦・人名を含むため、主要な派兵と攻城の流れに限定した。
年月日未詳 / 冊子 199~200頁
応永八年春以降、市来・鶴田方面で続いた合戦を記す島津伊久譜記事。元久方が各地を攻撃して苦戦すると、伊久方は田代清久ら救援軍を派遣した。市来氏・鶴田氏・渋谷氏を含む各隊の陣配置、兵数、戦死傷、進退を詳述し、戦闘の合間に試みられた和議とその不調までを追う。
年月日未詳 / 冊子 254~255頁
応永十八年、久世忠朝が渋谷方と結んで蜂起し、三千余騎が碇山周辺へ進出したため、市来・伊集院方が河川・舟・柵を用いて防戦した経過を記す。のち忠朝方の進退、京都への赦免申請、高城への帰還、久豊方との和睦交渉に及ぶ。
年月日未詳 / 冊子 256頁
島津久豊が伊地知縫殿助を碇山へ派遣し、久世忠朝方との和睦を進めた経過を記す義天譜。市来備後守家親も提携を歓迎し、久豊・久世・市来方は伊集院頼久を共通の敵として軍勢を統合した。碇山・市来・吉田周辺で交戦して敵を退け、島津一族間の和解を反伊集院連合へ発展させた。
嘉吉元年十二月十二日 / 冊子 402頁
右京大夫持之が将軍家の命を奉じ、島津持久・高木孫三郎・市来太郎以下を治罰するため、吉田若狭守に島津忠国へ合力して忠節を尽くすよう命じた御教書。
嘉吉元年十二月十二日 / 冊子 402~403頁
右京大夫持之が将軍家の命を奉じ、島津持久・高木孫三郎・市来太郎以下を治罰するため、樺山孝久に島津忠国へ合力して忠節を尽くすよう命じた御教書。
嘉吉二年十月廿五日 / 冊子 405~406頁
畠山持国が将軍家の命を奉じ、先に治罰を受けながら再び出張して島津忠国を難儀させる島津持久・高木孫三郎・市来太郎らに対し、吉田若狭守へ速やかに忠国へ合力して戦功を励むよう命じ、命令に背く者は三人と同罪とすると伝えた御教書。
嘉吉二年十月廿五日 / 冊子 406頁
沙弥徳本が将軍家の命を奉じ、島津持久・高木孫三郎・市来太郎らの再挙により島津忠国が難儀しているため、入来院弾正少弼へ直ちに忠国へ合力して戦功を励み、命令に背く者を三人と同罪とするよう伝えた御教書。
康正二年三月八日 / 冊子 431頁
康正二年三月八日の犬追物について、島津氏・市来氏・肝付氏らの参加者を組別に配し、各人の定数を記した手組。
年月日未詳 / 冊子 436頁
寛正元年以後の出来事を年代順にまとめる国史記事。改元と琉球王尚徳の即位、島津庄薩摩方の火災、永利・山田城をめぐる軍事動向、市来久家の帰参を記し、島津立久による龍雲寺などの寺院建立も掲げて、戦乱・災害と復興を一連に示す。
(享禄二年)五月二日 / 冊子 700頁
島津貴久が攝津介に、加世田へ移る意向、市来野から来た栗毛馬の扱い、串木野方面で敵十人ほどを討ち取った戦況を伝えた書状。
(享禄二年)六月一日 / 冊子 700頁
日新が攝津守に、市来衆が串木野に現れたことと五か所の動向を伝え、境界での立場や今後の対応を尋ねた書状。
(享禄二年)六月 / 冊子 702~704頁
享禄二年六月十一日以降の島津忠良・貴久方の軍事・外交を日次で記す。隈江匡久、本田紀伊守、山田安藝守らの使者派遣、指宿・市来・串木野・清水方面の軍勢と物資の移動を追い、祢寝・肝付・豊州方との贈答・交渉内容を具体的に記録する。
天文四年十一月七日 / 冊子 737頁
島津実久が河上上野守に、薩摩国串木野井荒河・市来院内河上の所領について、忠義に報いて抽賞し進め置く旨を伝えた感状。
年月日未詳 / 冊子 779頁
島津実久方として市来城を守った新納忠苗が、天文八年閏六月十七日に貴久軍の攻撃を受け、城の陥落後も夜陰に紛れて脱出したことを記す。
年月日未詳 / 冊子 781頁
貴久が伊集院から市来へ夜間に進軍し、各隊が敵城を攻めた経過を樺山玄佐が記す。城の攻略、平良方面への展開、蒲生・山田勢の参加にも触れる。
年月日未詳 / 冊子 30~31頁
蒲生城攻略に先立ち松坂要害を落とす作戦を詳述する。島津貴久父子と諸将約五千余騎が出陣し、忠平の提案で三千人をもって松坂を攻撃。梅北宮内左衛門の先登に続いて忠平らが攻め込み、忠平は敵将を斬り、鎧に矢五、六本を受けながら無傷で、二十二歳にして初の分捕を得た。中村父子以下を討って落城させ、市来内藤助を地頭に置いた。後の横尾口戦で勝部主殿助が戦死したことも記す。