島津義久書状
(元亀二年)正月十一日 / 冊子 242頁
島津義久が島津義虎へ年始の吉兆と多幸を祝った書状。豊州・北郷・新納・典厩・金吾らへの年頭書状と書式を区別したとの注記を伴い、祝儀として五明一本を贈り、後日さらに諸慶を申し加えるとする。
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(元亀二年)正月十一日 / 冊子 242頁
島津義久が島津義虎へ年始の吉兆と多幸を祝った書状。豊州・北郷・新納・典厩・金吾らへの年頭書状と書式を区別したとの注記を伴い、祝儀として五明一本を贈り、後日さらに諸慶を申し加えるとする。
年月日未詳 / 冊子 336~337頁
島津義虎が喜入季久の禰寝口での比類ない働きを使者から聞いて称賛し、慰労のため馬を贈りたいと申し出る。また季久側の慶事を祝し、先の使者への謝意と、不慮の事情で面会できなかったため後日参上して積年の話をしたい旨を伝える。
(天正二年)三月四日 / 冊子 337~338頁
島津義虎が鹿児島へ伺候できなかった事情を述べ、義久に敵意はなく、以前から神名に誓って忠節を約していると弁明する。出水・高城・水引・山野・東郷・中郷をめぐる風説を否定し、疑義があればまず照会してほしいと喜入季久に取り成しを頼み、詳しくは伊地知勘解由助へ口達したとする。
天正六年八月吉日 / 冊子 548頁
島津義虎が専修寺へ、近衛前久が天正三年十二月の下向時と翌年七月の帰洛時に同寺へ滞在し、接待に感謝して勅願所とする書状を与えた経緯を述べる。天正六年八月二十二日に綸旨が下されたことを前代未聞の大慶として祝った。
天正十二年正月十一日 / 冊子 840~841頁
島津義虎が伊集院忠棟・平田光宗・村田経平・上井覚兼へ、新年の大慶と例年以上の満足を祝い、慶書と五明を贈り、今後も互いの吉兆を伝え合いたいと述べた年賀書状。
年月日未詳 / 冊子 70頁
薩州家の島津義虎が天正十三年七月二十五日に没したことと、子女・妻の系統を簡潔に示す譜記事。 法号や妻が母川上上野守忠克の娘であることなどを掲げ、薩州島津家の親族構成と後継関係を確認できる。
六月八日 / 冊子 15頁
島津義虎が、以前借りた六巻書について、弓箭が続いて写し取れなかったため、なお借用して静かに書写したいと頼んだ書状。必要な時にはすぐ返すとし、書札の書や残存する巻についても確認を求め、あわせて近況と贈物を伝える。
十二月廿七日 / 冊子 17頁
島津義虎が、若手火矢の狙いに関する秘伝を贈られたことと、書物を多数借りたことへ謝意を述べた書状。書札の巻物は書写して返し、六巻書も静かに読み終えて来春早々に返すと約束し、年賀のしるしとして一品を贈る。
年月日未詳 / 冊子 123~124頁
永禄六年六月十六日に生まれた島津義久の女子について、島津義虎および島津彰久の室となったこと、母は種子島氏の女子であることを記す。寛永十八年八月十五日に新城で七十九歳で死去し、法名も載せる系図記事。
永禄八年 / 冊子 138~139頁
永禄八年、島津義虎が長島城主天草越前守を討って同地を得たこと、伊東義祐が飫肥新山城を落として日置忠光を討ったことを記す。五月の足利義輝殺害後、義昭が還俗して上洛を図り、島津貴久・義久へ忠節を求める使者が送られた中央政局も載せる。
永禄十二年三月十三日 / 冊子 213~214頁
島津義虎の二男忠隣に関する系譜記事。永禄十二年三月に出水屋地で生まれ、男子のなかった島津歳久の嫡女と婚姻し、歳久家を継承したことを記す。
元亀元年正月 / 冊子 234頁
元亀元年正月、渋谷党が降参し、川内郡が島津義久の知行となったことを記す。今回の忠節により、高城・水引および川向こうの地域が島津義虎へ宛行われた。
天正四年八月廿八日 / 冊子 488~489頁
天正四年八月二十八日、島津義久が義弘の多年の軍功を賞し、三山を与えたことを記す。その祝儀に島津義虎が良馬を献じた。
(天正四年)九月三日 / 冊子 504頁
近衛前久が八代滞留中、高原方面の戦勝を祝う。和泉滞在中に島津義虎と相談して出陣しようとしたが、義久が義虎を制止し、前久の出馬も負担になると聞いて遠慮した事情を述べ、加勢できなかった無念を伝えた。
(天正六年)四月七日 / 冊子 540頁
近衛前久が島津義弘へ、日向が望みどおり平定されたことを重ねて祝う。織田信長と一味して敵地を通れず祝使を送れないと断り、自身は信長と親密であるため情勢上心配はないと伝える。日向で得た大鷹を一居、出水の島津義虎を経由して早く送るよう求めた。
天正六年八月吉日 / 冊子 547~548頁
佐多大和守・寄田内記允・市来加賀守が専修寺へ、天正三年に近衛前久が出水へ下向した際の接待を賞して勅願所とする旨が示され、天正六年に綸旨を頂戴したことを祝う。前代未聞の栄誉で永代の亀鑑になると述べ、島津義虎も大いに喜んでいると伝えた連署状。
天正七年 / 冊子 634~635頁
耳川敗戦後、大友方の威勢が衰えて筑前・筑後・肥後の諸勢力が離反し、熊本の城親政も島津方への帰属を望んだ。義久は遠国支援を評議し、鎌田政年の進言で島津義虎を介して天草五人衆を味方につけ、政年・田尻荒兵衛尉ら足軽二百余人を熊本へ派遣して城親政・伯耆鑑高と連携した。
天正七年春 / 冊子 635頁
天草鎮尚から旧来の隣好回復を申し入れられたため、新納忠元が出水の島津義虎と天草を和睦させた。さらに大友宗麟から離反する勢力を取り込むため、忠元・鎌田政年が天草・志岐・上津浦・栖本・大矢野の島衆五人を出水へ招き、島津家へ奉公するよう説得して降伏させ、肥後進出の端緒を開いた。
(天正七年)四月七日 / 冊子 636頁
近衛前久が喜入季久へ、日向が島津方の望みどおり平定されたことを祝い、敵地に隔てられ使者を送れない事情を述べる。自身は織田信長から格別に厚遇されていると伝え、日向産の大鷹を島津義久にも頼んだので、季久も一居を調達して出水の島津義虎まで早く送るよう求めた。
天正八年 / 冊子 642~643頁
新納忠元と鎌田政年が肥後を島津義久の支配下へ入れる計画を立て、出水で島津義虎と密談し、志岐・上津浦・天草の諸氏を招いて協議した。天正八年に軍勢と多数の船を整え、天草へ渡って矢崎城・網田城を攻略し、豊前・肥前・肥後・筑前・筑後方面への進出の端緒を開いたとする。
天正八年閏四月十六日 / 冊子 653頁
鎌田政年と新納忠元が肥後を島津義久の支配下へ入れる計画を立て、出水で島津義虎、志岐・上津浦・天草の諸氏と協議した。天正八年、軍勢と船を整えて天草へ渡り、機を見て矢崎城を急襲・攻略し、豊前・肥前・肥後・筑前・筑後方面への進出の端緒を開いたとする系図記事。
天正八年十一月十三日~十四日 / 冊子 679~680頁
十二月十三日に島津軍が熊本を発って河尻へ下り、翌十四日早朝、順風を得て兵船三百余艘で出航し、一夜で出水米之津へ着いた。島津義虎は戦功を賞して酒肴を送り、翌日出水城へ主要な将と数百人を招いて饗応した。軍勢はその後本国へ帰り、領国の人々が祝った。
天正八年十一月十三日~十四日 / 冊子 682~683頁
十二月十三日に島津軍が熊本を開陣して河尻津へ着き、翌十四日早朝、兵船三百余艘で出航して一夜で出水米之津へ着いた。島津義虎が酒肴を送り、翌日出水城で数百人を饗応した。軍勢はさらに本国へ帰り、人々が凱旋を祝い、国土豊かで民の安らかな世になったと結ぶ。
年月日未詳 / 冊子 695頁
天正九年八月の肥後水俣攻めで、北郷忠虎が島津軍に従い、島津義虎らとともに陣を構えたことを記す譜中記事。
天正九年八月十七日 / 冊子 696頁
天正九年八月十七日、島津義虎を大将、北郷氏・喜入季久・上原尚近らを副将として、相良義陽の領地である肥後国八代方面を攻めたことを記す義久譜中記事。
年月日未詳 / 冊子 916頁
島津義久の息女に関する系図記事。天文二十年八月二十二日に生まれ、母は島津忠良の息女で、島津義虎の室となったこと、慶長八年十一月十二日に上井で五十三歳で没したことを記す。
四月七日 / 冊子 34頁
日向方面が望みどおり進んだことを祝い、織田信長との同盟のため使者を送れない事情を釈明し、日向で得られる無疵の大鷹を出水の島津義虎を通じて早く送るよう求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 906頁
薩州島津氏の系譜として、義虎の子女、志岐藤右衛門尉親重室となった娘、初忠永らの出生と母系を記す。
元亀元年正月五日 / 冊子 231頁
永禄十三年正月五日、新納伊勢守が隈城を受け取り、入来院氏が百次・平佐・高江・宮里・天辰・碇山を、東郷氏が水引・中郷・湯田・西方・高城を差し出した。清敷と東郷を両家に残し、宮里を平田狩野介、川向こうの諸地と山野城を義虎へ与えた。評定後、貴久は加世田へ、義久は鹿児島へ帰還した。
元亀元年正月五日 / 冊子 231頁
元亀元年正月五日、新納伊勢守が隈城を受け取り、入来院・東郷両氏が百次・平佐・高江・宮里・天辰・碇山・水引・中郷・湯田・西方・高城などを差し出した。清敷と東郷は両家に残し、高城・中郷・西方・京泊・川向こうと牛尿院山野を義虎へ与え、各地の給分・地頭職を定めた。貴久は加世田、義久は鹿児島へ戻った。
元亀元年正月 / 冊子 232頁
元亀元年、渋谷党が押領地を差し出して降参したため、義久が罪を許し領地を再編した。隈城を新納伊勢守に受け取らせ、入来院・東郷両氏には清敷・東郷を残した。宮里を平田狩野介、高城・水引・中郷・西方・京泊を義虎へ与え、家久を隈城地頭に任じた。
元亀元年正月 / 冊子 241頁
本文はNo.536と同文のため省略される譜中記事。元亀元年の渋谷党降参後、隈城以下の所領を再配分し、家久を隈城地頭、義虎・平田狩野介らを各地の領主とした内容に当たる。
(天正二年)八月七日 / 冊子 342~343頁
志岐麟泉が肝付方を島津氏が攻略したとの知らせを祝う一方、天草太夫との関係悪化で自らも面目を失ったとして調停を求める。義虎とも深く申し合わせているため、島津側から一人を派遣して協議したいとし、織物を進上する。
天正二年九月廿八日 / 冊子 345頁
天正二年九月二十八日、天草氏の使僧来迎寺が太刀・厚板物・馬代を携えて来訪し、先代以来の隣好回復を求めた。義虎の使者伊勢守も滞在していたため、島津側は義虎と天草氏の和睦を提案したが、義虎方が天草領一所の割譲を条件とし、天草方が拒否して双方は帰国後に復命することとなった。
天正二年十二月 / 冊子 348~349頁
天正二年十二月、志岐氏が肝付氏帰順の祝詞と進物を届け、義虎・天草氏の和平を仲介した。同行者が吉野で殺害され、犯人二人が福昌寺に逃げ込むと、捕縛の際に坂本吉右衛門が刺されて犯人を斬殺した。代賢和尚が寺の災厄を嘆いて退去したため義久らが慰留し、のち志岐氏へ和平方針を返答して馬・鉄砲を贈った経緯を記す。
(天正五年)四月七日 / 冊子 517頁
近衛前久が北郷時久に、日向の情勢が義久の望みどおりに進んだことを祝う。前久は織田信長方に属し、摂津一円が敵地のため使者を送れない事情を述べ、時久に取り成しを求めた。信長から格別の厚遇を受けていること、先年贈られた鶴を今も所持していることを伝え、手持ちの大鷹はすべて信長へ進上したため、義虎を通じて大鷹を送るよう依頼した。
(天正六年)四月七日 / 冊子 541頁
近衛前久が喜入季久へ、日向平定を祝い、織田信長方との戦陣で祝使を送れない事情を述べる。信長から格別の厚遇を受けているので心配はなく、日向で得た鷹を島津義弘に所望したため、季久にも一居を調達して出水の義虎まで送るよう取り成しを頼んだ。
天正六年十月~十一月十二日 / 冊子 553~554頁
大友宗麟が伊東氏を案内に高城を攻め、島津義久軍が十一月十二日に大友軍を破った際、新納忠元は球磨境の警固で参陣せず、嫡子忠実を送った。球磨勢が大口をうかがうため、忠元は義虎・忠実・伊地知重康と計り山野に伏兵を置き、自ら囮となって早牟田城之介を誘い込み、主従七人を討ち取った。
天正九年八月上旬 / 冊子 697~698頁
天正九年八月、相良義照の度重なる敵対を理由に島津義久が芦北出兵を決め、義虎を先陣として水俣城へ迫った経緯を記す。城下で出水衆が反撃を受け、島津出羽守・切通左馬允を失うが、義久が三州の大軍を率いて着陣し、相良方の主要将士が籠城した。
年月日未詳 / 冊子 556~557頁
島津実久の子女と婚姻、将軍から偏諱を受けて陽久・義利から義虎へ改名した経緯、忠継が大田忠綱の養子となったことなどを記した薩州家系図抄。
年月日未詳 / 冊子 661~662頁
熊本の城親賢父子が商人を介して島津義久への帰属を申し入れたため、鎌田政年が支援を進言し、島津義虎を通じて志岐・栖本・上津浦・大矢野・天草を味方につけた。鎌田ら足軽三百余を熊本へ派遣し、さらに佐多久政ら番手を送った。阿蘇方の甲斐宗運や矢崎・青田・合志勢と対立する中、新納忠元・伊集院久治らを加えて矢崎城攻めを決定するまでを記す。
永禄十年 / 冊子 160~161頁
永禄十年の菱刈氏征討を中心に記す。七月に義久が樺山幸久と盟約し、冬には貴久・義久・義弘らが各方面の軍勢を率いて馬越・湯尾・横川などへ進撃、十一月二十四日に義弘が馬越城を攻略したため周辺諸城が相次いで退去した。大口城には相良方の球磨・八代勢が入り、各城へ島津方守兵を配した後、市山城への攻撃を受けて新納忠元を守将とした経過も載せる。
永禄十年十一月廿三日~廿五日 / 冊子 167~169頁
菱刈氏が島津氏の旧臣でありながら相良氏と結んだため、永禄十年十一月二十三日、貴久・義久父子が栗野から湯尾へ、義弘が飯野から馬越へ進んだ征討を詳述する。進軍中に烽火を認めて敵の謀略を警戒したのち、翌二十四日に総攻撃し、義弘らが城門・城壁を破って井手籠父子を討ち、二百余級を得て馬越城を陥落させた。周辺八城と横川が退去・降伏した一方、菱刈隆秋は大口城に籠り、相良氏の球磨・八代援軍が入城した。
永禄十年十一月 / 冊子 172~173頁
菱刈重猛が三之山攻めを伊東方へ漏らし、死後も一族の帰服がまとまらなかったため、永禄十年十一月に馬越城を攻めた経過を記す。新納忠元は新納武久・伊集院久宣・有馬純秀らと先登して井手籠父子以下二百余級を討ち、城を陥落させたが矢傷を負った。菱刈隆秋は八城を捨て大口城へ籠り、相良義陽の援兵を得た。
永禄十年八月~永禄十一年十一月 / 冊子 175~176頁
菱刈家の幼主を立て新恩地を返上して帰服する案を樺山玄佐が仲介したものの、菱刈老臣らが三之山方と通じて破談となった経過を記す。玄佐は内談に関与したため島津諸将から疑われながら馬越攻めに従い、落城後は平泉城の警固を命じられた。羽月・平泉・山野の守備配置が大口城への通路を十分遮断できず、同城を強固にしたとの見方も述べる。
永禄十一年八月十九日 / 冊子 201~202頁
永禄十一年八月十九日、大口勢が深水三河守を大将として堂崎に陣を取り、伊東勢も桶比良へ進出した。義弘は飯野へ戻り、菱刈表から援兵が送られたが、大雨で誘引・伏撃策は実行できなかった。大口方は馬越・田中河内で番替え部隊を襲い、川上丹波守・堀之内二郎左衛門と是枝大膳坊が戦死した。日新は長陣と損耗を避けるため山野を相良方へ譲って一時和睦するよう勧め、感応寺和尚の仲介で和議が成立した。
永禄十二年 / 冊子 209~210頁
永禄十二年の主要事件を編年で記す。琉球漂流民送還への謝状、相良・菱刈両氏との和睦と蒲池越中守殺害による破綻、羽月城救援、戸神尾・稲荷山の伏兵による大口勢撃破、祁答院長野城攻略、伊東軍の桶比良・田原撤退を載せる。八月以降は大口城を包囲し、相良・菱刈方の降伏を受けて質を交換、九月十八日に義久・義弘が入城し、新納忠元を大口地頭に任じた。あわせて功賞・社寺領寄進などを記す。
永禄十二年正月廿日~五月六日 / 冊子 211~212頁
前年から相良・菱刈方が求めていた和睦は、日新没後の永禄十二年正月二十日に成立した。しかし三月十八日、大口城を守る深水頼兼が平泉へ向かう蒲池越中守と従者十七人を殺し、往来は再び断絶した。島津方は羽月城に肝付兼寛・新納忠元を置き、五月六日、家久を囮として戸神尾・稲荷山の伏兵へ敵を誘導し、前田豊前守らが四方から攻めて敵首百三十六を得、一人を捕虜とした。
永禄十二年正月廿日~五月六日 / 冊子 212頁
永禄十二年正月二十日に大口方との和睦が成立したが、三月十八日に深水頼兼が蒲池越中守主従十七人を殺害し、再び敵対した。義虎が維持できなくなった羽月城へ肝付兼寛・新納忠元を派遣し、五月六日、家久が大口城下で敵を挑発して戸神尾西まで誘い出した。戸神尾・稲荷山の伏兵が前後を遮断して敵を破り、百三十六の首級と捕虜一人を得て大口方の勢力を削いだ。
元亀元年 / 冊子 230~231頁
元亀元年の主要事件を編年で記す。正月、渋谷党が隈城以下の諸地を差し出して降伏し、義久は罪を許して領地を再配分、家久を隈城地頭とした。正八幡宮・興国寺などへの所領寄進、貴久・義久から琉球国王への国交継続書状、印判を持たない商船の取締要請を載せる。六月以降は幕府への祝賀、喜入季久の上洛と太刀・馬代・黄金の献上、福昌寺領寄進、将軍から義久への御内書・太刀下賜を記す。