山田玄威契状
応永十八年閏十月二日 / 冊子 257頁
山田玄威が、他人の企てを隠さず、私的な謀略や近隣との馴れ合いをせず、身に二心なく奉公することを神仏に誓った契状。案文が山田七郎右衛門久通所蔵と注記される。
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応永十八年閏十月二日 / 冊子 257頁
山田玄威が、他人の企てを隠さず、私的な謀略や近隣との馴れ合いをせず、身に二心なく奉公することを神仏に誓った契状。案文が山田七郎右衛門久通所蔵と注記される。
年月日未詳 / 冊子 842-843頁
山田四郎左衛門の聞書は、龍伯・惟新・忠恒の関係が疎遠となり、家臣も三方に分かれて不穏な風聞が広がった時期を回想する。忠恒の船行に供衆が緊張したことや、のちに押川強兵衛・中村氏へ命じて平田太郎左衛門を鉄砲で討たせたことを記す。
三月二日 / 冊子 516頁
山田聖栄が、所領を得るため判物を携えて有力者へ披露するよう山田河内守に勧める。肝付兼重時代の知行、足利尊氏判、京都から島津貞久らへ下された文書など古い証拠を活用し、速やかに訴え出るよう促した書状。
正平十三年五月一日 / 冊子 10頁
島津氏久が山田諸三郎に、鹿児島郡内上伊敷村の地頭職を給分として宛行い、先例どおり相違なく知行するよう命じた宛行状。
正平十三年七月一日 / 冊子 10頁
島津氏久が山田諸三郎に、鹿児島郡内上伊敷・下田両村の地頭得分のうち三分の二を給分として宛行い、相違なく知行するよう安堵した文書。
応安六年二月七日 / 冊子 66頁
今川了俊が山田友久の国中での忠節を賞し、今後も軍功に励めば恩賞を与えると伝えた感状。
応安七年五月廿二日 / 冊子 69頁
今川了俊が山田忠経の加賀守任官の希望について、京都へ推挙すると伝えた挙状。
応安七年五月廿二日 / 冊子 69頁
今川了俊が山田久興の右京亮任官の希望について、京都へ推挙すると伝えた挙状。
(応永八年)九月十一日 / 冊子 203頁
村田経安が山田加賀守へ、境目での長期の辛労をねぎらい、当面は現地に留まる事情を述べたうえで、谷山内山田の本領と吉田方の所領処置、屋形が難儀した際の借用などについて内々に伝えた書状。末尾の詳細は石井方へ申し伝えるとする。
応永十八年閏十月十一日 / 冊子 257頁
島津久豊が山田方に、今回の重大事で示された志に対し生涯変わらず親しくすること、相手の大事を自分の大事とし、不慮の和譲・凶害・風説があれば直ちに申し開くことを神仏に誓った契状。
応永十八年十一月十八日 / 冊子 259頁
島津久豊が山田方に、大隅国市成内の南持留を給分所として宛行い、先例どおり領掌するよう命じた宛行状。山田久興譜に正文があると注記される。
応永十八年十一月十八日 / 冊子 259頁
島津久豊が山田方に、薩摩国山田内の上別府は本領であり相違ないとして、先例どおり領掌するよう安堵した文書。
応永十九年十一月卅日 / 冊子 269~270頁
島津久豊が山田方に、荒説を信用せず、相手から受けた厚意に報いて将来助力すること、子孫まで大小事を相談し、三か国の情勢が変化しても二心なく協力することを神仏に誓った契状。
年月日未詳 / 冊子 311~312頁
川邊・知覧方面で続いた島津久豊方と伊集院頼久方の攻防を記す。知覧氏をはじめ阿多・山田・鮫島諸氏が所領防衛のため出兵し、戦況に応じて退去・帰服・再戦を重ねた動きを追い、南薩摩の国衆が所属を変えながら領地を維持した状況を示す。
永享四年八月吉日 / 冊子 358頁
肝付兼元が山田氏へ、大小の事を相談し、私的な縁故に左右されず大事には奉公し、和議を害する者の言葉を信じず面談で疑いを解くことを誓った契状。本文年紀は『永享三年八月吉日』。
永享四年十二月廿四日 / 冊子 360頁
島津好久が山田氏へ、島津荘大隅方恒吉内三町と薩摩国谷山内山田の先知行分を宛行い、先例どおり知行して相違があってはならないと命じた宛行状。
永享八年五月廿日 / 冊子 373頁
島津忠国が山田忠尚へ、島津御庄大隅方下大隅郡内の二河村を給分として宛行い、先例どおり領掌するよう命じた文書。
嘉吉二年三月十八日 / 冊子 404頁
島津持久が山田殿へ、島津荘大隅方小川院内の百引六町を祈所として宛行い、先例に任せて相違なく領知するよう命じた宛行状。
六月九日 / 冊子 404頁
島津忠国が山田殿へ、老衰しても狩猟・鷹狩への好みは変わらないと述べ、久しく無音であったことに触れたうえで、引目木を持たせてくれれば喜ばしいと依頼した書状。
文明十七年閏三月廿二日 / 冊子 523~524頁
平田兼宗が山田殿へ、北郷方へ送った書状の趣旨、伊東・北郷方面の情勢や江州の難儀などを伝え、詳しい返書を求めた書状。
文明十七年閏三月廿四日 / 冊子 524頁
島津武久(忠昌)が山田殿へ、酒谷や北郷方へ送った書状、伊東飫肥の陣、北郷方の困難について知らせ、返報を求めた書状。
七月十九日 / 冊子 569頁
島津忠昌が山田河内守に、今度の合戦で当初から忠節を尽くし坂上郡を守った働きを賞し、子孫まで忘れず、今後も守方として奉公するよう求めた書状。
十月十三日 / 冊子 572頁
島津忠昌が山田河内守に、先年敵方に同心した心を改め、今後二心がない旨の神名起請文を提出したことを喜び、誓約に相違がなければ等閑に扱わないと伝えた書状。
四月廿八日 / 冊子 658頁
隈江匡久が山田安藝守に、本田紀伊守が伯耆方へ礼に赴いたことを伝え、清水の番に人衆を立てることや翌月の番役について指示した書状。
「大永六年」五月四日 / 冊子 659頁
隈江匡久が山田安藝守に、伊東方・北郷方・都城から使者が相次いだこと、清水の番役、姫木・下大隅・曽於郡の動向を知らせ、世情を見聞するよう求めた書状。
「大永六年」五月廿三日 / 冊子 660頁
隈江匡久が山田安藝守に、北郷方の離反に備えて都城攻撃を準備し、城戸が開かれて双方の衆が合流した状況や、末吉へ寄った人衆の動向を伝えた書状。
「大永六年」六月十一日 / 冊子 660頁
隈江匡久が山田安藝守に、末吉・肝付方面と三俣の急変を知らせ、豊州方の参会、伊地知・梶原・池袋方による垂水攻撃、境目への足軽派遣を伝えた書状。
「大永六年」七月十日 / 冊子 661頁
隈江匡久が山田安藝守に、梶山殿・三河殿の来訪を伝え、十三日の出動に備えて年齢層を問わず人衆を立てるよう求め、油断を戒めた書状。
(大永六年)八月廿一日 / 冊子 667頁
隈江匡久が山田安藝守に、蒲生・祁答院・北郷・本田方の動向、御屋形衆と祁答院勢の二度の合戦と損害、白清水からの注進などを伝えた書状。
「大永六年」九月七日 / 冊子 667頁
隈江匡久が山田安藝守に、勝利を祝して一層の用心を勧め、急な山東への命令や鷹を捕らえたことなどについて述べた書状。
「大永六年」十一月廿一日 / 冊子 670頁
隈江匡久が山田安藝守に冬毛の皮を求め、初千代方の蒲生・邊川・佐多らの動向、北郷・北原方の和融が未成立であることを報じ、番城の用心と三夜留の準備を命じた書状。
(大永七年)七月卅日 / 冊子 683頁
隈江匡久が山田安藝守に、二十三日夜からの相州伊作城方の動き、斬り取った人数、三日間の軍勢の動向などを尋ね、油断なく報告するよう求めた書状。
「享禄二年」六月十三日 / 冊子 701頁
隈江匡久が山田安藝守に、祢寝・肝付両家への使者派遣、船津での会見・渡海準備などを伝え、急ぎの対応を求めた書状。
(享禄二年)七月十日 / 冊子 706頁
隈江匡久が山田安藝守に、名乗りの件は十分に勘案するよう求め、境界での滞留、音信、披露の扱いについて伝えた書状。
「天文四年」七月廿六日 / 冊子 735頁
日置伊勢守久参が山田殿に宛て、使者から得た諸方の動静を報告した書状。北郷・肝付・伊地知・入来院諸氏との連絡状況、各家の返答、領地と軍勢をめぐる相談を詳しく申し送り、情勢に応じた出兵・交渉について山田方の判断と協力を求める。
天正十二年八月十八日 / 冊子 890頁
島津義久が山田有信へ、出水郷の者を押さえるため多人数を入れても解決しなかったところ、有信の派遣によって無事に鎮まった忠勤を賞し、出水以下の大河内・鹿倉を与え、子孫も必要時に本証状を提示するよう命じた。本文には偽文書との注記がある。確定版年月日は『年月八月』と重複する。
(天正16年)7月5日 / 冊子 401頁
国元が無事であることを喜び、留守中に問題が起きないよう山田有信へ周到な統制を求める。 有信の上洛を求める声については義久へ詳しく伝えたとし、高城衆が生活に困っているとの情報を確かめ、堪忍できるよう処置することも依頼した。
(天正16年)11月12日 / 冊子 422頁
島津義弘が、島津義久の帰国を祝し、諸県郡の移衆・配当を飯野で行うため早々に出向くよう山田越前入道へ求めた書状。 前文書と同じ政策を別の担当者へ指示しており、地域再編を複数の家臣に分担させたことが分かる。
(慶長三年)十一月五日 / 冊子 276~277頁
島津義久(竜伯)が(慶長三年)十一月五日付で山田有盛(弥九郎・茂六)へ出した書状。高麗から届いた報告を写し、泗川戦で大手から白狐一匹、水の手から赤狐二匹が敵へ向かい、赤狐一匹が戦場で死んだという前代未聞の出来事を稲荷神の霊験とする。勝利は神慮によるものとして、稲荷社で神楽を奏し、祈念所で本地供百座を行って礼を尽くすよう命じる。
(慶長四年)三月三日 / 冊子 355頁
島津忠恒が山田越前入道に、新春の祝儀として使者を寄越し、小鉄砲一挺まで贈られたことを特に喜ぶ。竜伯が帰国したため相手も満足しているだろうと推察し、こちらも静謐であるので安心するよう伝え、詳しい様子は使者から聞くよう述べる。
七月十三日 / 冊子 402頁
島津義弘が山田越前入道に、国元が無事であるとの知らせを喜び、上方も平穏だと伝える。庄内の状況を案じ、若輩の少将には龍伯から万事よく教え諭すよう、山田も内々に心を尽くして支えることを求める。
(慶長五年)十一月九日 / 冊子 611頁
島津義弘(惟新)が、濃州表の戦場以来そばを離れず国元まで供をした者たちへの褒賞として、少分ながら知行を与えるため知行目録を送る。龍伯の了承を得たうえで各人へ渡すよう山田民部少輔に命じる。
十一月十九日 / 冊子 642頁
島津義弘(惟新)が、濃州表の戦場以来そばを離れず国元まで供をした者たちへの褒賞として、少分ながら知行を与えるため知行目録を送る。龍伯の了承を得たうえで各人へ渡すよう山田民部少輔に命じる。本文はNo.1278と同文のため省略され、日付のみ十一月十九日と注記される。
四月廿四日 / 冊子 224頁
四月二十四日、新納為舟が山田助左衛門に、犬童休矣の書状が夜前に届いたこと、奥州様の船衆からの注進は格別の事情ではないことを伝え、委細は書面に尽くせないとして早々に帰着するよう求めた書状。
(寛永十五年)二月三日 / 冊子 749~751頁
阿久根宿泊に際し、地頭衆の滞在で不自由が予想されるため、四郎左衛門を帰すか地頭衆を戻すか相談するよう指示し、出水までの宿泊・昼休みの割付を別紙で送る。黄門様の容体がこの三日軽快していること、薩州様の船が大雨で遅れていること、迎えの者を順次派遣したことを伝える。天草在番衆に油断なく警戒させ、富岡の状況を詳しく注進するよう求める。軍衆の祈念として六十六本の御神舞を行ったこと、兵粮を積めないため二千余人を召し戻す相談、天草番手を五、六千人とし江戸から三千人を遣わす案、百石につき三人の軍役を記す。さらに琉球船が米二百六十石・上布・焼酎などを積んで山川へ来たため、出水へ回航するよう岩切六右衛門へ指示した。川上久国・三原重庸の連署で、山田民部少輔・島津下野守宛。寛永十五年二月三日付。
(寛永十五年)四月朔日 / 冊子 796~798頁
薩州様(島津光久)が帰府するまで御番を務める件を確認し、大坂から届いた品の送状を火災後の分と照合して、見つかった分を三札にして送る。桑畑藤右衛門尉・大脇正右衛門尉の到着、光久の参府見込み、野村勘兵衛尉を松平伊豆守へ遣わしたことを報告する。有馬一揆の城が先月二十七、八日に落ちたが、銀不足のため祝儀使者を差し止めたこと、山田民部少輔・新納加賀守ら薩摩勢が約二百の首級を挙げたとの情報を記す。江戸・京・大坂で借銀できず、借銀の利息さえ払えない窮状を述べ、銀子の送付を求める。新納勘解由が奉行する大廻船の仕出しや屋敷の無事も伝える。島津久慶・鎌田政統の連署で、島津久元・伊勢貞昌・川上久国・三原重庸・山田有栄宛。寛永十五年四月朔日付。
(寛永十五年)五月十日 / 冊子 804~805頁
急な御使を命じられて江戸へ上った伊集院左近を先に帰国させ、家督相続の報を国元へ伝えさせる。五月八日、島津光久(薩州様)が土井利勝(大炊頭)の宿所へ赴き、酒井忠勝(讃岐守)・阿部忠秋(豊後守)らの出合いのもとで家督相続を申し渡された。島津久慶・島津久元・鎌田政統・伊勢貞昌も供をして申し渡しを聞き、近く将軍への御目見があり、進物を準備していると報告する。四名連署で川上久国・山田有栄・三原重庸宛。寛永十五年五月十日付。
二月廿三日 / 冊子 125頁
新納久利が山田安藝に、先日の使者と狩物に関する知らせへの対応を述べ、近日の出仕・会合や兵衆の手配について相談した書状。急用があれば中野方を通じて知らせるよう求める。
五月十六日 / 冊子 126頁
限江匡久が山田安藝守に、愛元の処遇や北原との親類関係、豊州の命令に伴う調法について相談した書状。鹿児への使僧を上洛させること、折節殿の道場法事、関係者の出仕などを取り計らうよう求める。
六月十七日 / 冊子 126~128頁
限江匡久が山田安藝守に、豊州への出船・旅程、紀伊守や池袋方との連絡、使僧・使者の取り扱いなどを相談した長文の書状。梶原・原殿らへの働きかけ、贈物や宿所、両所へ遣わす書状の処置を詳しく指示する。