某条書七慶長十五六年高帳J\寛永十六年十二月御分国中惣高井衆中乗馬究帳
慶長三年三月廿二日 / 冊子 356頁/原整理番号 3
慶長期以後の高帳や旧記を引き、給地の割当てと田租の変化を考証する。領内の諸士・役人に関する記録を照らし、知行高の算定に用いる史料を示す。
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慶長三年三月廿二日 / 冊子 356頁/原整理番号 3
慶長期以後の高帳や旧記を引き、給地の割当てと田租の変化を考証する。領内の諸士・役人に関する記録を照らし、知行高の算定に用いる史料を示す。
「寛永十六年」三月十九日(御譜は十一月) / 冊子 66頁
安倍正之が島津光久へ、将軍家光が健勝であると報じ、贈られた琉球酒一壺に謝した書状。江戸城本丸の作事が盛んに進み、翌年四月前には完成するとの取沙汰を伝え、伊勢貞昌と折々会って光久のことを話しているので、江戸で適当な用があれば命じてほしいと述べる。本文の日付本体は寛永十六年三月十九日で、脇注に「御譜ハ十一月トス、余カ寫誤カ」とあり、御譜では十一月とする異同を併記する。
年月日未詳 / 冊子 14頁
寛永十六年四月九日、汾陽理心の家臣とされる横山豊前が殉死したことを記す『殉国名藪』の記事。
年月日未詳 / 冊子 31頁
寛永十六年八月十一日に江戸城本丸で火災が発生し、島津光久が家老川上久国を走らせ、幕府へ鉄砲袋二百などの品を献上したことを記す譜記事。
年月日未詳 / 冊子 398~399頁/原整理番号 510
寛永十六年正月二十日、御祭礼が通例どおり行われ、伊集院宮内少が名代を務めた。家老中から届いた掟条書のうち、禁断日、キリシタン宗、耕作人等に関する事項を衆中へ申し渡したと記す。
年月日未詳 / 冊子 400頁/原整理番号 513
寛永十二年改めの男女二千三百二十六人から他方へ出た百四十二人と死去・逃亡した百七十五人を除き、残り二千九人に、その後の入人二百八十九人・出生百二十七人を加え、寛永十六年改めを男女二千四百二十五人(男千四百六十九人・女九百五十六人)とする。内訳は地頭・衆中・小者・出家・社人等千二百六十三人(男七百五十六人・女五百七人)と、町・在郷・座頭・行脚等千百六十二人(男七百十二人・女四百四十九人)で、後者の男女計は原記載上千百六十一人となり一人合わない。三月四日に白坂・谷口が記し、鹿児島から柳田喜左衛門尉が来て改めた目録の留と付記する。
年月日未詳 / 冊子 405頁/原整理番号 521-1
寛明日記が、寛永十六年己卯七月五日に条書が仰せ出されたと記す導入記事で、後続の文書521-2・521-3を日付とともに位置付ける。目録の年月日は空欄であるため、本文の七月五日はB列へ補入しない。
「寛永十六年」三月十二日 / 冊子 12~14頁
出典見出し「御文庫拾九番箱中」「光久公御譜中三在り」の連署書状。島津久元(下野守)と伊勢貞昌(伊勢兵部少輔)が国元重臣へ、相良某に与えられていた米之津の屋敷の処置について協議を求めた。相良の上洛時に設けられた屋敷について、返還または預置の可否、屋敷守・商人の往来・隠し置かれた物品、国元と江戸双方の用向きを検討し、相良へ問い合わせたうえで返答するよう求めている。
「寛永十六年」八月十二日 / 冊子 33頁
出典見出し「御文庫拾九番箱三拾九巻中」「光久公御譜中二在り」の細川忠利書状。細川忠利(越中守)が島津光久へ、八月十一日の江戸城本丸火災で天守だけが残り、将軍が西の丸へ移ったこと、下々の者まで無事であることを知らせた。進物等について申し入れたので、早々に使者を下して礼を述べるよう伝えている。
「寛永十六年」八月十二日 / 冊子 33~34頁
出典見出し「御文庫拾九番箱三拾四巻中」「光久公御譜中二在り」の島津久元書状。島津久元(下野守)が国元重臣へ、江戸城本丸火災の焼失範囲、将軍の西の丸移動、姫君らの避難と無事を報告した。松平伊豆守・松平薩摩守の留守居衆らと、火災見舞いの登城・御目見や進物を相談し、御成蔵の品や材木などの候補を検討して国元の意向を求めている。
寛永十六年七月五日 / 冊子 38~39頁
島津光久が領内へ示したキリシタン・異国船取締りの禁制。キリシタン宗門を厳禁し、浦々に監視役を置いて不審船を改め、異国船の乗員を上陸させず長崎へ送ること、密かな上陸者や協力者を取り締まることを命じている。
寛永十六年八月吉日 / 冊子 40~41頁
東郷弥十郎ら九名が、今後は私的な親交を結ばず、御前方のことを口外せず、親兄弟・親類にも秘密を漏らさず、悪心や不忠を抱かないことを誓った連署起請文。梵天・帝釈、八幡、天満大自在天神など多数の神仏を勧請し、違背すれば神罰を受けるとしている。
寛永十六年正月廿九日 / 冊子 399頁/原整理番号 511-2
八日町の五人組名簿に続き、キリシタン宗を法度どおり厳重に取り締まること、往来の旅人は一夜泊まりでも組内で詳しく尋ねたうえで宿を貸し、不審者は届け出ることを定める。先年の札改め後に住み着いた旅人や他国の医者・山伏に紛れた宗徒を組内で見逃せば、五人組一同を厳罰に処すとする。
寛永十六年三月十五日 / 冊子 400~401頁/原整理番号 514
赤川次兵衛尉・瀬戸山種左衛門尉は御改奉行柳元喜左衛門尉へ、寛永十二年の宗門改めで人を隠した三件の科人について報告する。八十歳余りの盲人、男女四人、三十七歳の病人孫七をそれぞれ隠したため捕縛され、五人組預けとなったが、長期拘束が難しく五人組の相談で縄を解いて引き続き預かった。第一・第三件では五人組一人につき二貫文を納め、第二件は隠し人を申告したため科料なしとする。第二・第三件には、寛永十五年二月に旧改奉行野村監介・後醍院喜兵衛尉から赦免の書状が曖衆へ届いたことも記す。
寛永十六年三月十六日 / 冊子 401~402頁/原整理番号 515
大膳亮内の上田三左衛門尉は加久藤御曖衆へ、妻の妹への宗門手札交付を依頼する。妹は先年の改めの際、加治木又八郎の御前に奉公しており、御内方には手札が下されなかったため現在も所持していない。寛永十三年八月に暇を得て上田のもとへ来た後、加久藤衆中小原織部佑方へ遣わしたので、今回の改奉行へ申し入れて手札を下すよう求める。
寛永十六年三月廿五日 / 冊子 402~403頁/原整理番号 517
柳元喜左衛門宗真は加久藤の改め結果と処理事項を列記する。改帳を納め、八十人分の切札のうち五十三人分は科料を添えて召し上げ、残る二十七人分を返却し、黒札三枚を交換、おろし札四人分の科料を納めた。牛馬死札三十一帳を有馬主馬首へ渡し、年・馬の区分が違う一札には銀二匁の科料を付した。先年改めの拘束者は、当時の改衆野村監介が江戸、後醍院喜兵衛尉が樋良へ材木奉行として出ており確認できず、庄屋衆の書付だけでは処理できないとする。竹木改めでは杉・檜を一尺廻り以上から付け出し、井手・川除け用の柴竹は従前どおりとし、天道宗は判断が定まらないため当面そのままに置く。
寛永十六年四月六日 / 冊子 403~404頁/原整理番号 518
市来八左衛門宗友は野村新兵衛・谷口助右衛門ら曖衆へ七か条を申し渡す。上様のため悪いとの風聞は小事でも早く報告すること、キリシタン宗門と一向宗を念入りに探索すること、老若を問わず気ままな者を調べること、御立狩倉へ行司衆以外が立ち入れば報告すること、諸事を曖衆三人で十分相談すること、宗友自身についても善悪を問わず注進すること、その他の情報も遠慮なく報告することを命じ、奉公として油断なく心得るよう求める。
寛永十六年七月五日 / 冊子 405頁/原整理番号 521-2
幕府年寄衆七名は、日本で禁制のキリシタン宗門について、伴天連や宗徒がなお密かに渡来して布教し、宗門の者が徒党を結んで邪義を企て、海外から隠れ場所へ物資を送り与えているとして処罰を命じる。このため以後の相互渡海を停止し、違反して渡海した場合は船を破却し、乗来者をすべて斬刑に処すとする。
寛永十六年七月五日 / 冊子 406頁/原整理番号 521-3
幕府年寄衆は、キリシタン禁制後も海外から伴天連が密かに渡来するため、かれうた船(傍注『臥流陀船』)の着岸を禁止する。領内の浦々に確かな見張りを常置して不審船を厳重に改め、異国船着岸時は乗員数を調べて上陸させず、直ちに長崎へ送ること、不審者の乗来や船荷の密かな陸揚げを申告した者へ身分に応じ褒美を与え、事前の約束があればその倍を与えることを命じる。
寛永十六年八月六日 / 冊子 406~409頁/原整理番号 524
伊勢貞昌は霜臺様へ、出銀未進の利銀二割、黄門の納戸銀借用分の返上利三割、押並銀の利二割という銀徴収は道理にかなうものの、新たな代の初めに直ちに厳行すれば家臣の不満を招くとして、一、二年の猶予や事情聴取を勧める。あわせて、家中の心を一つにすること、家臣を召して直接意見を聞き、依怙なく是非を判断すること、人物の忠節・力量に応じて役職と知行を与えることを説く。徳川・足利の継承を引いて当家の結束を論じ、有馬出陣の経験、弓・鉄砲・兵糧などの軍備、加治木・下大隅等の人事を例に、遠国支配では適材登用と日頃の備えが肝要だと諫言する。出立前に式部・中書頭へも考えを詳しく伝えたいとして、書状を披見し折を見て取り次ぐよう求める。
〔寛文七年〕九月廿八日 / 冊子 538~539頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1224
徳川右兵衛督光義(光友傍注)が松平薩摩守御宿所へ、祝儀の使者と太刀・馬代黄金十両・小袖十を贈られたことを喜び、遠路の懇意に謝し、詳しくは島津中務方へ伝えると返答する。
寛永十六年十月廿三日 / 冊子 57~58頁
島津久慶ら六名が、高野山における島津家宿坊の由緒と蓮金院への改替を示した条書。義弘・家久が蓮金院と寺領三十五石を代銀四十貫目余で買い整備したこと、廻向院が豊臣秀頼の大坂籠城に加担したため寛永十六年に宿坊利用を禁じたことを述べ、領内の参詣者を蓮金院に付け、廻向院や他坊への宿泊を禁じ、違反時は届け出て処罰するよう定めている。
寛永十六年十一月吉日 / 冊子 68頁
絶同が島津久元に衣鉢ならびに三帰・三聚・十重禁戒を授け、安名を宗崑、号を鉄心として与えた付与状。寛永十六年十一月吉辰、釈氏七十二世絶同が書したもの。
寛永十六年十一月吉日 / 冊子 68頁
絶同が島津久元に衣鉢ならびに三帰・三聚・十重禁戒を授け、安名の宗崑を与えた付与状。寛永十六年十一月吉辰、釈氏七十二世絶同が書したもの。
寛永十六年十二月 / 冊子 72~93頁
薩摩・大隅・日向・琉球を含む分国の石高、検地高、仕明地・荒地、御倉入、外城ごとの高と衆中、寺社・寺家、知行取、人数、乗馬数などを詳細に集計した帳簿。各地域・石高階層別の人数と軍役規模を列挙し、末尾で衆中と乗馬の総数をまとめている。本文の日付は寛永十六年十二月。
寛永十六年八月十七日 / 冊子 330~331頁/原整理番号 54
土井利勝の書状。江戸城本丸で火災が起き、殿舎が焼けたことを知らせ、将軍と姫君が無事であること、当座の衣服・道具の調達などを伝える。寛永十六年八月十七日付。
寛永十六年八月十七日 / 冊子 338頁/原整理番号 78
伊勢兵部少輔の書状。家中三名の召し出しと扶持・知行、祢答院や真崎・庄内をめぐる扱いについて、先年の書付や相談の経緯を挙げて回答を求める。寛永十六年六月二十八日付。
年月日未詳 / 冊子 17頁
児玉利昌が寛永十六年五月二十日に六十七歳で病没し、興国寺に葬られ、法号を寿山源量居士としたことを記す譜記事。生前に画工へ自画像を描かせ、東郷重位に画像へ添える歌を求めたとも伝えている。
年月日未詳 / 冊子 17頁
寛永十六年四月二十九日、阿部忠秋が上使として島津光久へ時服百領・白銀などを伝達し、光久が江戸城で徳川家光に謝意を表して馬一匹を拝領したことを記す。光久は五月七日に江戸を発ち、大坂から船で六月十六日に鹿児島へ帰着し、伊勢貞昌が供奉した。さらに北郷久加を江戸へ遣わして帰国許可への礼を述べ、肴・琉球酒・絹を献上した。
年月日未詳 / 冊子 56頁
寛永十六年、徳川家光の姫君千代姫が尾張の徳川光友へ嫁ぐ婚儀を島津光久が祝い、家光へ御肴三種・御樽三荷、千代姫へ御寝衣五・御蒲団三・御枕二を献上したことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 64頁
寛永十六年十一月、北郷久加が御旅家老に補任されたことを記す記事。
年月日未詳 / 冊子 66~67頁
島津忠清について、幼名を菊千代丸、のち又助と称し、寛永十六年十一月二十六日に誕生したこと、母が島津家久の娘であったことを記す記事。父方の後嗣が絶えた後、母が藩主の妹であった縁により、叔父忠紀との関係を整えて母の遺領を知行することを許された経緯を述べている。
永正十三年正月廿日 / 冊子 135~136頁/原整理番号 31
寛永十六年正月三日の太刀進上に際する座配を、左右の列や上座・内座の位置ごとに列記した覚書。北郷・島津・敷根・渋谷・佐多・頴娃・喜入らの席順を示す。末尾は、この年の配列に新納・北郷らから異議があったため後年の座配は相談して定めるとし、貞享元年五月に忠昭が将来の参考として書き抜いたと記す。
寛永十四年十月廿九日 / 冊子 336~337頁/原整理番号 75
鎌田治部少輔の書状。高野山での島津家の宿坊を蓮金院とする由緒を述べ、他院への変更をめぐる経緯と、参詣者の宿坊を従来どおりとするよう願う。寛永十六年十月二十三日付。
寛永十年十二月六日 / 冊子 417~434頁/原整理番号 213-1
新納仲左衛門忠雄日記の抜書。元和九年から寛永十六年まで、主君への出仕や江戸・鹿児島での行動、移動・宿泊、茶・酒・刀・馬などの拝領と贈答、家中の出来事を日付順に記す。
目録年月日記載なし / 冊子 489頁/原整理番号 4
御蔵入・支配・借銀返弁・御祈念・兵具・江戸進物などの職分を列挙し、神社仏閣の修理や祭礼、用所首尾の担当者を記す。後段で寛永十六年十一月五日の記事と悟性院の由緒に触れる。
巻八/冊子 118~119頁
光久が家督を継いで帰国し、幕府上使を迎えたことと、永野金山の発見・献上を記す。寛永十六年、家光は光久に亡父家久の跡を継ぎ、国を治め民を安んずるよう命じ、銀千枚・衣服百領・馬を与えた。光久は江戸で謝礼を済ませ、六月に鹿児島へ帰城して家臣・領民の歓迎を受ける。その後再び江戸へ参府中、伊佐郡祁答院永野郷で内山与右衛門が川砂から砂金を得たとの報告が届く。幕府の命で採掘を進めると産金が続き、寛永十八年に砂金九百八十九両余を家光へ献上した。翌年、家光は金山を光久へ賜い、北郷久加が金山奉行となった。代替わり後の統治承認と、新たな鉱山資源の幕府への報告・献上・領有公認を結びつける記事である。
巻八/冊子 119頁
琉球国八重山島の地理と、異国船の漂着・処置を記す。八重山島は首里から百七十四里離れ、南風で渡り北風で帰るため往復は年一度ほどと説明する。寛永十六年八月十八日、石垣港へ福州の船が漂着し、大明人十四人・南蛮人六十八人が乗っていた。通事は、呂宋から高砂へ渡る途中に逆風を受けて漂着したと述べる。島役人は彼らを上陸させて保護し、翌年七月十二日に琉球側から薩摩・鹿児島へ送った。馬場利重が江戸幕府へ経緯を報告すると、家光は八重山島役人の働きを賞し、漂着者が載せてきた宝物を褒美として島役人へ与えた。薩摩藩の琉球支配下における漂着外国人の保護・移送・幕府報告・褒賞を示す記事である。
寛永十六年正月十一日 / 冊子 1頁
島津光久が年頭の吉書として、神社・仏閣の修理興行、農事の奨励、年貢納入の励行を三か条で示し、その趣旨に従って沙汰するよう命じたもの。
寛永十六年正月十二日 / 冊子 1頁
新納忠清が二之宮伊與に、高一石五斗を飛諏訪の祭田として知行に付置き、祭祀を堅固に執り行い、諸出物なども怠りなく処理するよう命じた宛行状。正文は大口郷の二之宮氏に伝来したとの注記がある。
寛永十六年正月十二日 / 冊子 1~2頁
原田村川くぼの田地について、下田四畦十五歩、金助に関わる籾高などを掲げ、外略分を合わせて籾・大豆四俵四升、高一石五斗とする知行目録。これを飛諏訪の祭田として二之宮伊與の知行に付置き、祭祀と諸出物を怠りなく勤めるよう新納忠清が命じている。
寛永十六年二月八日 / 冊子 4~5頁
琉球国司尚豊が、薩摩への奉公、とりわけ中国貿易の処理が疎略になったことを認め、渡唐銀の運用、買物の不首尾、役人の処罰などを条々に整理した覚書。琉球が島津家の支配下で受けた歴代の恩義を忘れず奉公すべきことを確認し、金武按司上国時に命じられた銀千貫目規模の貿易が実現しなかった事情などを、両使から説明させるとしている。
寛永十六年二月九日 / 冊子 5~7頁
金武朝貞と勝連良継が、薩摩から託された銀による中国貿易について、銀三百貫目や隠銀の取扱い、買物糸・巻物の品質と価格、銀の差替え、船の遅延、役人の違背と処罰などを詳細に報告した覚書。銀千貫目の貿易命令が首尾を得なかった事情や、中城・野村大学助らの銀運用上の問題を条項ごとに述べ、自分たちの責任と経緯を弁明している。
寛永十六年二月九日 / 冊子 7~8頁
金武朝貞と勝連良継が、中国貿易用の御物銀と糸代銀について、残銀、差替え、商人への過分な支払い、役人間の役割分担と処分を追加報告した覚書。中城の主取としての責任や、福治官舎・与那城官舎らの取扱い、残銀をめぐる違背と処罰を挙げ、関係者の主張の食い違いも含めて経緯を説明している。
「寛永十六年」二月十一日 / 冊子 8~9頁
琉球国司尚豊が島津光久へ、光久が三州の太守職に任じられたことを祝うとともに、琉球側の従来の不忠・怠慢を詫びた書状。軍事的に防戦できない琉球が島津家の保護を受けてきた厚恩を述べ、今後は先例に従って国政を改め、薩摩への奉公を怠らないと誓い、引き続き庇護するよう願っている。
寛永十六年二月十一日 / 冊子 9~11頁
琉球国司尚豊が、島津光久の三州太守就任を受け、光久の下知に随い、琉球国の奉公に不忠・怠慢がないことを神仏に誓った起請文。誓約に背けば自身と子孫が梵天・帝釈、八幡、熊野、琉球の諸神など多数の神罰を受けるとする、広範な神名を列挙した厳重な誓詞である。
「寛永十六年」二月十一日 / 冊子 11頁
琉球国司尚豊が、島津光久の三州太守就任を祝賀し、薩摩・琉球両国の安泰と光久の長久を祈った書状。祝儀として黄金、琉香三種、樽十荷、茶二壺などを進上し、詳細は派遣した両使に説明させるとしている。
「寛永十六年」三月九日 / 冊子 12頁
伊勢貞昌が川上久国へ、立野をめぐる寺院・宗旨の扱いについて回答した書状。種子島では他宗がなく祈念にも支障があること、先人の内意や故人の意思を踏まえるべきことを述べ、法華宗で取り扱う場合は関係者が互いに争わず相談して処理し、必要なら内談のうえ後日返答すると伝えている。
寛永十六年四月廿日 / 冊子 14~16頁
江戸の幕府評定所で琉球の貿易事情を尋ねられた際、伊勢貞昌が持参した覚書。琉球の渡唐進貢船に積む銀、芭蕉、上布・白布、扇、筆、食料・香辛料、織物、薬種、器物などを列挙し、太刀・長刀・鎧類など、以前は渡来したが現在は法度によって停止されている品々を区別して記している。
「寛永十六年」四月廿四日 / 冊子 16頁
島津光久が弾正大弼へ、吉利織部佑への用向きに心を配るよう頼み、現地の若輩者にも助言してほしいと求めた書状。あわせて宛先の病状を尋ね、少し快方に向かったと聞いて満足しているので、十分に養生するよう気遣っている。