島津義久書状
永禄五年六月十六日 / 冊子 114~115頁
島津義久が六月三日の大隅横川合戦で喜入季久が奮戦し、配下の者も多数粉骨したことを比類ない名誉であり神妙であると賞した書状。
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永禄五年六月十六日 / 冊子 114~115頁
島津義久が六月三日の大隅横川合戦で喜入季久が奮戦し、配下の者も多数粉骨したことを比類ない名誉であり神妙であると賞した書状。
永禄六年五月二日 / 冊子 123頁
北郷時久が喜入季久からの返書を受け取り、貴久が当地へ来訪して軍事相談中であるため、遠方ながら今後も支援を求めた書状。追伸で飫肥・福島境に変化はないが、福島浦の都井で勝利し敵七十人ほどを討ったと報じる。
〔永禄六年〕五月二日 / 冊子 206~207頁
北郷時久が喜入季久に、飫肥・福島境では大きな変化はないが、福島浦の都井で勝利し敵七十人ほどを討ち取ったと報じた書状。先の返書への礼を述べ、屋形が当地へ来訪して軍事相談中であることを知らせ、遠隔地ながら今後も支援してほしいと頼んでいる。
永禄十二年四月十四日 / 冊子 217頁
島津義久が喜入季久の勲功を賞し、大隅国菱刈院内の花北名を給分として宛行い、速やかに知行するよう命じた宛行状。
永禄十二年六月十一日 / 冊子 226頁
細川藤孝が喜入季久から匠作を介して書状と黄金十両を受け取った礼を述べた書状。藤孝が思いがけず入手した小笠原家旧蔵の鞍一口を、伊勢因幡入道に添えて贈り、しかるべく取り計らうよう求めている。
永禄十二年六月十一日 / 冊子 226頁
喜入家に伝来する細川藤孝書状の別掲本。六月十一日付で喜入季久に宛てられ、本文と上包の宛所・藤孝の署名花押を示す。No.514と同日の贈答関係書状として収録されている。
(元亀元年)八月十九日 / 冊子 239頁
近衛前久が喜入季久の上洛を喜び、滞在中に必ず来訪するよう求めた書状。島津義久からの音信も受け取り祝着していると伝えるよう依頼し、詳細は進藤左衛門大夫が申し伝えるとする。
(元亀元年)八月十九日 / 冊子 239頁
進藤長治が喜入季久の上洛を祝し、以前薩摩へ下向した際の厚遇を忘れていないと述べた副状。世上の事情と多忙で面会できないことを残念がり、具体的な用件は大泉坊へ伝えたとし、贈られた線香一把への礼を述べる。
(元亀元年冬頃) / 冊子 239~240頁
昭高院道澄が喜入季久へ贈った二通の短札を収める。一通は扇一包を贈り、今後細々と文通したいと伝える。もう一通は初の面談を喜びながら突然の帰国に驚き、翌春に使節を下す予定なので、その際に詳しく申し述べると約束する。上洛後の元亀元年冬頃の書状と推定する編者注がある。
(元亀二年)二月廿六日 / 冊子 242~243頁
昭高院道澄が喜入季久に、前年冬の上洛時は多忙で雅興を十分に尽くせず残念だったと伝え、再度の在京を待つ書状。面談できた喜びを忘れないとし、自筆を加えた三部抄を贈り、詳細は清春上人の説明に委ねる。
(元亀二年)四月廿九日 / 冊子 244頁
小笠原宗賢が喜入季久の無事な帰国を喜び、在京中のたびたびの対面への礼を述べた書状。銀子十文の贈答に謝し、依頼された口伝・各方面への伝言や近況を知らせ、ゆがけ二具を贈る。今後も用向きがあれば承ると申し出る。
(元亀二年)六月十一日 / 冊子 245~246頁
細川藤孝が喜入季久の帰国後、二度書状を送ったが届いたかを尋ね、京都は現在平穏だと知らせた書状。季久在洛中は多忙のため疎遠になったことを今も残念がり、今後こちらで用事があれば隔意なく申し付けるよう求め、十一日韻の懐紙を贈る。
(元亀二年)九月三日 / 冊子 255頁
昭高院道澄が喜入季久の上洛時の懇切な対応に謝し、その後便宜を得られず音信を欠いたことを詫びた書状。門跡末寺の大弘寺を当面預かって取り成すよう特に依頼し、今後は頻繁に連絡するとして、衣一重を贈り、詳細を不断光院の説明に託す。
(元亀二年)九月十日 / 冊子 255~256頁
小笠原秀清が、父が美濃に滞在しているため自ら喜入季久へ返答した書状。京都の騒乱で長く在国し、音信を欠いたことを詫びる。季久から注文された空穂について、虎・豹皮が手に入らないため猪皮で製作させたと伝え、銀子三両を受領し、ゆがけ二具を贈る。
年月日未詳 / 冊子 336~337頁
島津義虎が喜入季久の禰寝口での比類ない働きを使者から聞いて称賛し、慰労のため馬を贈りたいと申し出る。また季久側の慶事を祝し、先の使者への謝意と、不慮の事情で面会できなかったため後日参上して積年の話をしたい旨を伝える。
(天正二年)三月四日 / 冊子 337~338頁
島津義虎が鹿児島へ伺候できなかった事情を述べ、義久に敵意はなく、以前から神名に誓って忠節を約していると弁明する。出水・高城・水引・山野・東郷・中郷をめぐる風説を否定し、疑義があればまず照会してほしいと喜入季久に取り成しを頼み、詳しくは伊地知勘解由助へ口達したとする。
(天正二年)四月十四日 / 冊子 339頁
足利義昭が京都の不慮の事態により紀州へ滞在し、各方面を調略しているとして、喜入季久に忠節と支援を求める。使者江月斎を下し、詳しくは一色藤長・真木島昭光が述べるとする。
(天正二年)四月十四日 / 冊子 340頁
一色藤長・真木島昭光が、足利義昭が織田信長によって京都を退き紀州で諸勢力を催している事情を説明し、喜入季久に忠功と援助を求める。義昭の御内書と江月斎の口達を取り次ぐ連署副状。
(天正二年)四月十四日 / 冊子 340頁
一色藤長が、足利義昭が前年京都を退いた旨の御内書を別紙で伝える。以前在洛中の季久に会えなかったことを残念とし、近況は歳阿・道正、詳細は江月斎が伝えると述べる。
(天正三年)三月廿八日 / 冊子 434頁
近衛前久が警固のため滞留する喜入季久の尽力と親密な奉公を喜び、今後も他と混同せず命じるので引き続き馳走するよう求める。『詠歌大概序』を自筆で贈り、貞知に詳細を伝えさせ、義久へもよく申し聞かせるよう依頼する。
(天正三年)八月廿日 / 冊子 438頁
小笠原宗賢が喜入季久からの書状と沈香に礼を述べ、前年に島津歳久、今度は島津家久と対面したことを喜ぶ。老齢と中風を訴え、生前に季久の上洛を望み、包丁二丁を贈った書状。
(天正五年)九月三日 / 冊子 520頁
飛鳥井雅継が喜入季久に、父が不慮の病により八月七日に死去したことを知らせ、父と格別の知音であった季久に今後も変わらぬ交誼を求める。祝意のしるしとして扇子五本を贈り、相応の用があれば申し付けるよう伝えた。
(天正六年)四月七日 / 冊子 541頁
近衛前久が喜入季久へ、日向平定を祝い、織田信長方との戦陣で祝使を送れない事情を述べる。信長から格別の厚遇を受けているので心配はなく、日向で得た鷹を島津義弘に所望したため、季久にも一居を調達して出水の義虎まで送るよう取り成しを頼んだ。
(天正六年)六月十八日 / 冊子 544頁
飛鳥井雅継が喜入季久へ、日向で尽力して望みどおりの成果を得たとの京都での評判を称賛する。織田信長の軍事行動に伴い不意に在洛していて使者を送れないと断り、京都で用があれば申し付けるよう伝える。梶井門跡筆の歌と扇子二本を贈った。
(天正六年)六月廿一日 / 冊子 544頁
小笠原秀清が喜入季久へ、日向方面で奮戦し比類ない高名を挙げ、早くも本意を達したとの京都での評判を祝う。自身も南方に在陣して連絡が遅れたと詫び、京都周辺で必要があれば疎略なく応じると約した。
(天正六年)十二月廿一日 / 冊子 560頁
天草鎮尚が喜入季久へ、日向での防戦に大勝し数か所の城を領有したと聞いて祝意を述べる。その喜びを島津義久へ披露するよう求め、島津方の賢略があれば伊東氏の再起は難しいだろうとして、日向平定の祝いを改めて申し入れると伝えた。
(天正七年)四月七日 / 冊子 636頁
近衛前久が喜入季久へ、日向が島津方の望みどおり平定されたことを祝い、敵地に隔てられ使者を送れない事情を述べる。自身は織田信長から格別に厚遇されていると伝え、日向産の大鷹を島津義久にも頼んだので、季久も一居を調達して出水の島津義虎まで早く送るよう求めた。
(天正七年)九月十九日 / 冊子 641頁
近衛前久が喜入季久へ、島津氏がなお豊後との戦いを続けようとしていると聞き、織田信長が大友氏を疎略にしない以上、たとえ義久に異存があっても今こそ和議を取り持つべきだと説く。宮内卿法印・猪子兵介も同意見で、金鐘寺和尚にも申し渡したので、無事に同心するよう働きかけることを求めた。
(天正八年)九月六日 / 冊子 675頁
近衛前久が喜入季久へ、豊後との和平について島津義久の意向はもっともだが、織田信長が無事を望んでいるため、近日伊勢貞知を下向させると伝える。異議なく和議が成るよう引き続き尽力を求め、沈香五十両の贈答を謝した。
(天正八年)九月十三日 / 冊子 676頁
近衛前久が喜入季久へ、豊薩和平を重ねて申し送ってきたが、大坂での対応に追われ返書が遅れたと述べる。織田信長が伊勢貞知を下向させるので、島津方の存分があってもこの機会に同意するよう取り成しを求め、大鷹の進上と自身への所望、扇十本の贈答を記す。
(天正九年)三月二日 / 冊子 686~687頁
近衛前久が喜入季久へ、前年に織田信長の朱印で命じられた豊薩両国の和睦を必ず成就させるよう重ねて求める。滞れば信長が遠国へも軍事行動を及ぼすと述べ、早速請けるよう促し、詳しくは伊勢貞知に申し含めたとした。
天正九年九月十一日 / 冊子 701頁
真木島昭光が喜入季久へ祝意を表して太刀一腰を贈った書状。追而書で、馬一疋を太守島津義久へ進上するので適切に取り計らうよう頼む。
天正九年(天正十年カ)十一月二十六日 / 冊子 703頁
近衛信尹が喜入季久へ、京都の不慮の錯乱で他に手段がないため、この機会の助力を頼み、詳細は進藤筑後守が伝えるとした書状。本文朱書は天正九年とするが、編者注は天正十年の誤りと指摘する。
天正十年十月二十七日 / 冊子 721頁
一色昭秀が喜入季久へ、播磨上月城が即時落ち、尼子勝久と家僕らが切腹し、宇野民部少輔以下の諸士の過半が味方に属したと知らせた書状。義久が肥後へ出馬して大勝したとの風説を祝し、今後も公儀への馳走を太守へ勧めるよう求める。
天正15年10月22日 / 冊子 362頁
島津義久が喜入季久から献上された馬について、当家の乗馬にふさわしく早道にも使える優れた馬で、由緒や毛色にも問題がないと賞した書状。多数の馬から選んで贈った心遣いに礼を述べ、武庫様への披露や馬具の扱いにも触れる。
三月十一日 / 冊子 207頁
島津義弘が到着後しばらく音信を欠いたことを詫び、近況を尋ねた書状。暇な時に訪ねて昔話などをしたいと面会を望み、仰せに従って軽微ながら品二つを贈るとして、隔意のない交誼を求めている。
天正九年(天正十年カ)十一月二十六日 / 冊子 728頁
本文はNo.1246の文書と同文であるため省略されている近衛信尹書状。
年月日未詳 / 冊子 278頁
豊州家元祖の島津季久について、応永二十年に久豊の三男として生まれ、母は上原氏の女で、のち修理亮・豊後守・越後守を称し、帖佐瓜生野に居住したことを記す系譜記事。
元亀元年六月~八月 / 冊子 239頁
元亀元年夏、喜入季久は大願成就のため上方へ向かい、義久の使節として将軍足利義昭への祝賀を担った。八月中旬に泉州境浦へ着船し、伊勢参宮と諸社寺参詣後に京都へ入り、将軍に謁見した。酒盃を頂戴し、宝刀を賜ったことを喜入家の名誉として記す。
(天正二年)十一月十二日 / 冊子 346~347頁
喜入季久が、足利義昭の入洛調略に関する御内書を頂戴したことを恐懼し、白沈香・段金一端を進上するので披露してほしいと真木島昭光・一色藤長へ依頼する。
(天正二年)閏十一月五日 / 冊子 346~347頁
喜入季久が、足利義昭が織田信長の行為により紀州へ移ったことを驚き、調略の御内書を頂戴したと返答する。遠隔地ながら島津義久の忠勤に別儀はなく、諸方面の計策が成功することを願い、詳細は江月斎が説明するとする。
年月日未詳 / 冊子 403頁
天正十六年七月十四日、喜入季久が五十七歳で没し、法号を昌円季久としたことを記す譜記事。 没年月日・享年・法号を簡潔に伝える、喜入氏人物史の基本記録である。
十一月十二日 / 冊子 415頁
喜入季久が真木嶋玄蕃頭・一色式部少輔入道へ、入洛調略について内書を下されたことを頂戴し、冥加至極と謝意を表すとともに、沈香十斤と段金一端を進上して披露を求めた書状。
年月日未詳 / 冊子 432頁
島津忠国が新納忠続を日向国飫肥へ置いて伊東氏に備えさせ、仁院領を従前どおりとしたことや、季久の帖佐領有・平山城をめぐる動向などを記す『島津国史』の記事。
年月日未詳 / 冊子 452~453頁
文正元年から応仁年間にかけての島津立久・伊東祐国の動向を編年で記す国史記事。改元とともに、京都で始まった応仁の乱、細川勝元・山名宗全・大内政弘らの戦いを述べ、島津季久の書状など在国史料も収録する。三州情勢を中央政局と対照できる記事。
年月日未詳 / 冊子 468頁
島津忠国の子女について、初好久・中持久・季久・有久・豊久らの母・後裔・法名や、各家の系統を列挙する系譜記事。
年月日未詳 / 冊子 648頁
大永四年九月十九日、島津季久の子・六郎三郎忠吉が肝付兼興との戦いで討死したことを記す記事。
永禄十二年三月~元亀元年六月 / 冊子 214~215頁
羽月城救援後、新納忠元・肝付兼寛が島津家久と相談し、永禄十二年五月六日に戸神尾・稲荷山・白木河内へ伏兵を置いた。家久が兵糧輸送を装って敵を誘い、前後から挟撃して百三十六首を得た。八月の大口包囲と九月の降伏後、忠元は大口地頭・菱刈両院惣押となった。さらに喜入季久の家存続を願う伊勢・愛宕への立願、忠元のもとへ飛来した鎌を祀る飛諏訪大明神、菱刈両院の地理・名称由来も記す。
元亀元年 / 冊子 230~231頁
元亀元年の主要事件を編年で記す。正月、渋谷党が隈城以下の諸地を差し出して降伏し、義久は罪を許して領地を再配分、家久を隈城地頭とした。正八幡宮・興国寺などへの所領寄進、貴久・義久から琉球国王への国交継続書状、印判を持たない商船の取締要請を載せる。六月以降は幕府への祝賀、喜入季久の上洛と太刀・馬代・黄金の献上、福昌寺領寄進、将軍から義久への御内書・太刀下賜を記す。
(元亀元年)六月廿八日 / 冊子 238頁
島津義久が足利義昭の入洛を祝賀する書状。国内事情のため祝賀が遅れたことを詫び、太刀一腰・馬一疋・黄金百両を進上して将軍の機嫌を伺い、取り計らいを細川藤孝に依頼した。詳細は使者喜入季久に申し含めたとする。