足利義満御判御教書
応永六年十一月三日 / 冊子 184頁
足利義満が、大内入道の謀反が露見したため討手を派遣したと告げ、鎮西の薩摩国地頭御家人に、幕府方として忠節を尽くす者には恩賞を与えると命じた御判御教書。
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応永六年十一月三日 / 冊子 184頁
足利義満が、大内入道の謀反が露見したため討手を派遣したと告げ、鎮西の薩摩国地頭御家人に、幕府方として忠節を尽くす者には恩賞を与えると命じた御判御教書。
(寛永十二年)三月十七日 / 冊子 475~476頁
前年京都で命じられた唐船入港禁止を領内へ徹底し、唐船を許容した者の処罰、違法な渡唐・入港の通報者への褒賞、唐船の曳舟禁止、漂着船の即時退去、宇治之島など無人島の監視、怠慢な地頭の処罰を定めた五名連署の条書。
三月二日 / 冊子 51頁
伊集院忠棟・町田久倍・平田光宗が、福昌寺への合力について諸地頭へ連署した書状。三か国の人勢に関する相談を踏まえ、当年は日州へ回るため、各地で福昌寺に相応の助力を行うよう求め、詳細は寺から伝達するとする。
六月廿四日 / 冊子 154頁
喜入忠続らが諸所の地頭・衆中に示した連署の法度。近年、衆中が生活難などから方々へ離散しているため、地頭へ届けず在所を離れた者は知行を召し上げて御内から離し、私に御内を離れて他人へ奉公する者は重罪とする旨を命じる。
年月日未詳 / 冊子 248~249頁
田百町免給・日向方四十町などの地頭得分をめぐる訴陳と引付での裁決を踏まえ、所領・免給・役負担の帰属を定め、関係者に遵守させた鎮西下知状。
明治2年二月22日知政所 / 冊子 641~642頁/原整理番号 820の1/整理ID 820-1
通達留。藩治職制の治定に伴い、若年寄、大目付并格、大番頭并格、御番頭、当番頭の役々と御番頭座を、役所筆者まで廃すると告げる。これらの役を勤めて神社奉行を兼ねる者、または地頭職等を兼ねる者は、その職に専念するよう命じ、向々へ早く周知するよう求める。明治二己二月廿二日、知政所。列挙された旧役の廃止と兼職の整理を記し、神社奉行・地頭職まで一律廃止したとはしない。
明治2年三月(日不記)知政所(年は朱書) / 冊子 650頁/原整理番号 840の2/整理ID 840-2
諸所の地頭を廃したが、甑嶋と長嶋の地頭は従来通りとし、副役は設けない旨を伝える。当該地頭と承知すべき関係先へ知らせるよう求める。年は朱書の明治二年己、三月、知政所。地頭廃止の例外と副役を置かない指定を区別し、具体的な地頭人名・任期や実人事済みは補わない。
明治2年三月24日知政所(年は朱書) / 冊子 652頁/原整理番号 843の1/整理ID 843-1
通達留。地頭は一方の重い責任を負い軍国の事を提督する重要な職任であるとして、先の達により部下の事務を専ら委任した旨を述べる。地頭副役は民事奉行副役と見習をもって命じると職制書に載せていたが、別段の人選によって命じる旨が伝えられたと知らせる。地頭・地頭副役・民事奉行と向々へ周知するよう求める。年は朱書の明治二年己、三月廿四日、知政所。職制書の旧指定と別途人選の指示を区別し、具体的選任者・人数や実任命済みは補わない。
明治2年三月24日知政所(年は朱書) / 冊子 652~653頁/原整理番号 843の2/整理ID 843-2
地頭を古の郡領になぞらえ、士民を養い郡を粛清する重要な職として、外城に軍政を置き有能な先達を現地へ赴かせた旧制を評価する。一方、治平が長く続き遥任兼帯の空名となり、実務を他人へ任せる状態になったと批判する。版図返上と職制変革を踏まえ、地方官は王土を管する要職であり、軍国多事の時に地方の事を委任するので趣旨を理解し旧制と実効を両立するよう求める。副役を別に置いて事ごとに相談し、地内の点検、士気・軍威の充実、勧農その他の事務を行い、重大事項は政府へ申し出て商議・上裁を受けるとする。天朝の監察使による府県巡察の制度に従い、時々検使を遣わして所郡の統治と地官の能力を調べ、褒貶する旨を告げる。地頭と副役が職掌に励むよう向々へ周知する。朱明治二年己三月廿四日、知政所。旧制評価・批判を訓示に帰属させ、実派遣数や全員の現地着任済みは補わない。
明治2年三月27日知政所(年は朱書) / 冊子 657頁/原整理番号 851の1/整理ID 851-1
通達留。城下・外城・私領で出軍して創傷を負った者への診察のため、医師と検事を見廻りに派遣する旨を既に命じていたが、その派遣を免じると告げる。代わりに城下は本隊長、外城は地頭と副役、私領は領主から、創症により原文で「廃人」とされた者について詳しく調べ、軍務局へ申し出るよう命じる。朱明治二年己三月廿七日、知政所。調査・報告担当の変更であり、原の身体状態の呼称を現代診断へ置換せず、対象者数・実調査済みや全診療廃止を補わない。
明治2年四月(日不記)知政所(年は朱書) / 冊子 665頁/原整理番号 863の4/整理ID 863-4
地頭と副役に郷内の大小の事務を委任したため、犯科者の糺明と科牢以下の軽罪は地頭が取り扱う。糺明後に罪状を詳記して糺明局へ報告し、同局が定めて返送する科の軽重に従い処理する。従来の格護所を堅固に保ち、遠流科以上の重科者は当該地の地牢舎へ送って当地糺明の上で処置する。殺人その他重大事変で地頭・副役が他郷巡行等により不在なら、巡行先へ急報し差入・糺明方派遣等を講じる。相手者等が分からず詮議を要する場合は先に糺明局へ送り、近郷地頭とも相談し、三日を経ても事情が分からない場合は時機に応じ報告して同局の差越を受ける旨を記す。原「一通變死等」にも所役の取扱いを求め、遺漏を防ぎ、地頭が遠方で急場に間に合わない時は所在地の地頭が処置する。朱明治二年己四月、知政所。具体的事件や処罰人数は記さず、地頭独自の全処分や現代制度へ置き換えない。
明治2年五月(日不記)知政所(年は朱書) / 冊子 667頁/原整理番号 866の5/整理ID 866-5
地頭はこれまで個々に取次を頼み、当地の諸用務を取り扱わせていたが、これを廃したと伝える。今後、地頭への布告と当地での諸用務は民事奉行から伝達するよう定め、地頭・民事奉行と関係先へ知らせるよう求める。朱明治二年己五月、知政所。取次と伝達経路の変更を記し、地頭そのものや用務全般の廃止、担当者総数・伝達完了は補わない。
明治2年六月2日知政所(年は朱書)/本文に当三月の先行達への言及 / 冊子 673~674頁/原整理番号 877の1/整理ID 877-1
通達留。職制制定に伴い、諸郷の軍政を高め地頭が治教を提督するよう当三月に伝えていたことを述べる。兵隊を設け、曖・興頭・横目等の職名を廃し、分隊長以上は城下同様とする。諸用務は地頭・副役等の下知を受け、従来通り勤めるよう求める。但し各郷の軍政は順次整えるため、制度が変わるまでは曖・興頭等も従来通り心得るとする。兵隊を設ける場合は軍務局が郷へ差し入った上で地頭・副役と相談し取り調べる旨を、地頭・軍務局総裁と関係先へ伝える。朱明治二年己六月二日、知政所。職名廃止と移行までの従来取扱いを区分し、全郷の編成完了、兵隊の人数や旧役担当者の一律解雇を補わない。
明治2年六月(日不記)知政所(年は朱書) / 冊子 674頁/原整理番号 877の4/整理ID 877-4
旅人および旅船の出入改の届は、これまで諸郷の番所・津々浦々から時々監察局へ提出していたが、今後はその手続を要せず地頭が承届するよう定める。異変がある時は従来通り心得るとし、監察局・地頭と関係先へ伝えるよう求める。朱明治二年己六月、知政所。通常の報告先の変更と異変時の例外を区分し、出入改そのものや監察局の全機能を廃止したとはせず、実際の旅人数・船数や異変の発生は補わない。
明治2年七月28日知政所(年は朱書) / 冊子 687頁/原整理番号 899の2/整理ID 899-2
郷士および同格のことと題し、伝事方附士および同格を掲げる。諸郷に居住する郷士・同格は従来その地の地頭の支配としていたが、今後は伝事の支配とし、この通りの称を用い、居住は当分従来通りとする旨を諸地頭と関係先へ知らせる。郷士・同格が居住している場合は地頭から伝事へ氏名を報告するよう但書を付す。朱明治二年己七月廿八日、知政所。支配・呼称変更と居住据置を区分し、全員の移住や任官完了、個別氏名・人数は補わない。原の重複した支配文と衍字の可能性の注は管理欄に保持する。
明治2年十月3日知政所(年は朱書) / 冊子 704頁/原整理番号 921の2/整理ID 921-2
末吉郷内の伊勢雅楽の旧領地岩川について、隊兵編制に際して従来の士気が振起し、一邑の兵員で常備兵制も整ったとして、諸外城と同様に一郷として立て、以後岩川郷と称するよう命じる。軍務総裁・地頭等へ通知する。但書では従来末吉地頭・副役の管轄だったので、引き続きその通り指揮するよう求める。朱明治二巳十月三日、知政所。士気・編制の説明は達へ帰属し、独立した新地頭の任命、実兵員数、現代の自治体境界は補わない。
明治2年十月9日知政所(年は朱書) / 冊子 704頁/原整理番号 922の2/整理ID 922-2
外城士族の分地別立は、本家に軍役高十五石以上を残し、五石以上を分地する者に認め、十五歳以上で軍役等を勤める年齢となってから願い出させる。隠居・家督・継目その他、従来地頭または旧領主が処置した事項は今後も地頭へ委ねる。養子は嫡庶・血統連続を第一に選び、同格に適当な者がなければ格違いの嫡庶または血統連続の者を願う際、伝事に関係図を添える。諸郷士族の家筋を追って治定し、名簿を編み到後年の追補を続けるよう求め、分地別立等の取扱いを地頭に委任する。朱明治二巳十月九日、知政所。石高・年齢・願出・血統条件を区分し、全家の即時分立や名簿完成は補わない。
明治2年十一月15日知政所(年は朱書) / 冊子 711頁/原整理番号 930の3/整理ID 930-3
都城を吟味したとして、山田村等十ヶ村を上荘内郷、郡元村等十五村を下荘内郷と称するよう定め、都城内大寺村の処は梶山郷とする。分割した各郷を設けるが、地頭は従来通り任じ置き、下荘内に罷在するよう命じる。地頭・民事総裁と関係先へ知らせる。朱明治二巳十一月十五日、知政所。各村名は専用台帳へ転記し、原野々三谷村の美注を保持する。十村・十五村と三郷の区分、地頭の継続と勤務場所を分け、新地頭三人の任命、人口・面積・現代行政界、実分割完了は補わない。
明治2年十一月22日知政所(朱年)/十一月軍務局の条文を所収 / 冊子 712~713頁/原整理番号 934の2/整理ID 934-2
十一月軍務局条文は、外城の聞見・時勢理解に関する原評価を述べ、軍務局学問所の師員寮へ各外城から地頭・副役が一人を選んで出府させ、漢学方学寮にも配して武文を修行させる。四ツ・八ツ時の間は軍務局に出席し世上事情を探り、郷々へ事情や取締りを伝達して地頭等が成行を報告し、兵士の出府にも関わるよう求める。入寮者の軍役高二十五石以上は原「自分失脚ニ而罷出」と記す。原「右以下」は一日白米六合、内三合を糧餉方通帳で渡し、残り三合は郷人民の出費を要さず地頭が別段差繰りして継続、半年交代とする。朱十一月廿二日知政所が関係先へ周知する。閾値・時刻・額・交代・支給方法を区分し、実入寮数や現代時刻換算は補わない。
3月(日不記)知政所(年は目録明治3年) / 冊子 744~745頁/原整理番号 966の6/整理ID 966-6
前田新之丞を下庄内地頭に任じ、当分の地頭所は従来どおりとし、諸県郡高城に在るよう命じる。続いて三嶋彌兵衛を高崎地頭に任じ、当分の地頭所は従来どおりとし、上庄内に在るよう命じる。三月知政所の周知文を伴い、年は目録の明治三年による。
辛未正月15日知政所 / 冊子 786頁/原整理番号 1002の12/整理ID 1002-12
地頭副役の職儀には意味があるが、今後は別段の役として置かない。民事奉行・同副役見習等の間で職掌を分任させ、差し支えがあれば人材を推薦して順次任命するよう、民事総裁・地頭へ申し渡す。辛未正月十五日知政所。
辛未3月18日知政所 / 冊子 798頁/原整理番号 1018の3/整理ID 1018-3
諸郷地頭は従来、管轄内に居住場所を定められていたが、今後は場所の別なく居住できるよう、居住地の指定を廃止する。辛未三月十八日知政所。
六月十九日 / 冊子 544頁
伊作庄・日置北郷の所務条々を信宗法橋の仲介で和与したと報告し、領家の御息状を大宰府雑掌承信法橋へ下すよう手配すると伝えた行査書状。
(文保元年)八月廿六日 / 冊子 547頁
島津庄薩摩方の伊作庄・日置北郷中分について雑掌左衛門尉憲俊が訴訟を進めていること、本来の雑掌承信が在津しているので下知の沙汰は承信に担当させると伝えた行査書状。
永和四年三月十八日 / 冊子 116頁
今川了俊が、軍勢への遅参が続く薩摩国の地頭御家人らに対し、日を置かず馳せ参じるよう触れ知らせることを命じた軍勢催促状。
応永元年八月十六日 / 冊子 154頁
室町幕府が今川伊予入道に、島津伊久・元久の討伐、大隅・薩摩両国の地頭御家人への忠節催促、従わない者の名字・知行の注進、参陣後の忠節に応じた処遇を三か条で命じた事書。
年月日未詳 / 冊子 697頁
大永七年の記録や系譜を引き、伊地知父子が帖佐・加治木周辺で戦った時期と、新城地頭職・伊地知氏の由緒を考証する。
年月日未詳 / 冊子 917頁
『日向記』が、天文二十三年七月二日の出陣以後、古市本城・山東方面で行われた偵察と伏兵戦を記す。北郷・山田地頭の兵が蒲生方の動きを探り、要路へ兵を伏せて敵の進出に応戦した過程と、各勢の進退を追う。
年月日未詳 / 冊子 873頁
豊臣秀次が謀反を疑われ高野山で自害した事件に続き、薩摩・大隅・日向で地頭替えと所領再編が進み、代々の土地や知行を失う人々が悲嘆した状況を記す。 一石につき五斗の賦課や替地にも触れ、国や御家のためとして異議を言えない空気を伝える。さらに明・朝鮮使節の来訪と講和の噂、朝鮮沿岸の日本陣についても記録する。
慶長九年閏八月十九日 / 冊子 941-942頁
島津忠恒と龍伯義久が連署し、軍役・武具・殿役・番普請・喧嘩停止・地頭への服従・衣食節制・農作・逃散・召集期限・徒党・酒宴などを規定する。違反した侍は所領没収、凡下は厳罰と定めた。
(慶長十九年)六月廿七日 / 冊子 528頁
島津家久が、内々に相談していた罪人について流罪か死罪かを検討した結果、死罪に決したことを報告する。山之口地頭を任命し、同地見廻りの途上、福山で刑を執行すると伝えた書状。
寛永八年九月廿六日 / 冊子 233~234頁
御物の引負で欠所となった者が、他人から金銀・米銭を借りたまま処刑・遠島となれば債権額が不明になるため、債権者に届け出と証文作成をさせ、所管の地頭・郷村役人へ厳重に通達するよう命じた。怠れば役人の落度とする三名連署の掟書。
(寛永九年)六月廿二日 / 冊子 287~288頁
伊勢貞昌・島津久元が、将軍出陣時に即応する薩摩家中の軍役・出陣準備について命じた条書写。関ヶ原・大坂両陣等を参照し、五百石につき乗馬一疋、二百石取は主従八人、六・七百石衆の余高を二百石未満の者へ寄高とすること、父子が各々乗馬する場合の装備を定める。また、後家・幼少者の番代、軍役道具の提出と検者の点検、不足道具の調達、分限衆・諸地頭衆の馬印、古鉄砲、外城衆への玉薬、高付乗馬衆の騎乗者・被官名の届出、軍役と知行の均衡などを指示する。
寛永九年十一月十八日 / 冊子 328~329頁
検地実施の心得を定めた条書。検地の到着通知、郡・村境の確定、地頭衆との協議、検地法の統一、曲事や賄賂・依怙・脅迫の禁止、検地衆の馳走や算者の不正防止、違反者の処罰、竿頭衆による承認などを命じた。
寛永十年六月十八日 / 冊子 369~371頁
島津孝久の袖判による知行配当の条書。石高・身分に応じた配当基準、近所・遠所の組合せ、地頭・寺社領の扱い、旧領返還と再配当、隠田・虚偽申告・年貢増減の処置などを定め、偏りのない支配を求めた。
年月日未詳 / 冊子 408~409頁
領内の配当、屋敷移転、代官、人員配置、知行、奉公、未進、法度、地頭との協議など、土地・人事・財政支配に関する事項を条文形式で列挙した覚書。
寛永十一年二月十六日 / 冊子 411頁
検地後に家中の知行支配を改め、知行地の遠近と衆中各人の石高を踏まえ、地頭・衆中が相談して親疎なく公平に配当するよう命じた名寄帳奥書。
寛永十二年二月朔日 / 冊子 471~472頁
島津家久の在府・不在中に、留守中の諸務を怠らず、家中の乱れを禁じ、既定の法度違反を処罰し、評定所への過度な召喚を避け、毎朝の出仕・番所勤務を励行するよう定めた掟書。地頭には井手・溝・耕作、蔵入米・諸出物の収納管理を命じる。
年月日未詳 / 冊子 475頁
寛永十二年三月十七日、島津家久が大明・唐船を薩摩領内へ入港・停泊させないよう命じ、家老衆が条書を領内各地と浦・島の地頭や役人へ通達したことを記す系譜記事。
五月十七日 / 冊子 57~58頁
伊勢貞真が、京都からの命に基づく諸地頭の談合について通知した書状。栗野での会合に向け、鹿児島の殿中番を務める刑部左衛門尉を含む関係者を集め、五月二十五日までに栗野へ参着するよう求める。
六月廿六日 / 冊子 106頁
亀山上皇の意向を按察使頼親が伝えた院宣。新田宮造営料所について、未作地を含む負担と社家の合力で造営を完成させるよう求め、地頭・郡司らの年々の妨害を考慮して、既定の年限をさらに三年間延長すると伝える。
二月廿七日 / 冊子 108頁
地頭新納加賀の遠行に伴い、当地の仕置に特に注意するよう命じた覚書。法度違反、喧嘩の下知への不服従、地域の妨げとなる者があれば身分を問わず速やかに届け出て、後任地頭が定まるまで警戒するよう求める。本文末の日付は十二月廿七日と読め、目録の二月廿七日と相違する。
四月十六日 / 冊子 170頁
島津久慶と頴娃久政が諸所の噯衆に、江戸奉行衆の奉書が早飛脚で下されたため写しを地頭衆へ回したことを伝え、前年の指示と相違なく油断せず申し付けるよう命じた廻文。御兄弟衆が巡見するので、不行届きの場所は直ちに報告されることを心得、少しも疎略にしないよう戒める。
十月廿九日 / 冊子 184頁
今川了俊が澁谷左馬助に、公方の使者と会見したうえで島津を速やかに退治し、援軍も必ず送ると約した書状。宮里地頭職を預けて下文を発給すること、澁谷一家の面目が立つよう取り計らうこと、名和を派遣するのも一家のためであることを述べ、今後は澁谷一家を頼みとすると伝える。
(記事) / 冊子 213~214頁
島津氏重書注文の別記事。大隅・薩摩両国奉行、島津庄内薩摩方補任、諸国守護職、寺社・荘園・地頭職、伊賀・越前・近江などに関する下文・御教書・施行状・補任状を列挙し、各文書の年次や巻数を記す。前号とあわせて島津家旧蔵文書の範囲と編成を示す。
年月日未詳 / 冊子 246~247頁
島津氏の所領と職掌を国郡・荘院・村ごとに列挙し、薩摩国守護職、筑前・薩摩・大隅・豊後など各地の地頭職・守護領や一期分を記した所領注文。
永禄六年二月八日 / 冊子 120~121頁
薩摩国高城郡の千華医王山泰平寺薬師堂へ奉納した推鐘の銘。住持・大檀那・奉行・大願主・勧進沙門・作者の名を列記し、永禄六年二月八日の年紀を刻む。
年月日未詳 / 冊子 334~351頁
寛永九年の高帳写。島津氏家臣・役人・外城担当者を知行高順に列記し、各人の石高、役職・官途・配置先を記す。高禄層から百石前後までの多数の家臣、人数合計、出水・阿久根・水引・各外城の衆中や軍役人数も収録する。
宝治二年七月十九日 / 冊子 199頁
薩摩国宮里郷益□名主新大夫正持が、当名内の田五反について地頭代から濫妨を受けたと訴えた件。弾正忠宗□が地頭御代官本田五郎兵衛□に、寛元三年七月十六日付下文に従って承知・処理するよう命じた下知状。
宝治二年十月三日 / 冊子 199頁
地頭・領家御代官らに対し、検断職と地頭得分の扱いについて先例を守り、証文を提出して処理するよう命じた書下。