沢永温覚書
慶長七年十二月 日 / 冊子 869-870頁
沢永温が、御供所役・田所役をはじめ、神前百韻連歌、正月や節句の祭礼、社頭楽所、御供物など、年間を通じて負担・奉仕すべき社役と日程を列挙した覚書。
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慶長七年十二月 日 / 冊子 869-870頁
沢永温が、御供所役・田所役をはじめ、神前百韻連歌、正月や節句の祭礼、社頭楽所、御供物など、年間を通じて負担・奉仕すべき社役と日程を列挙した覚書。
(慶長四年)五月廿一日 / 冊子 385頁
本村半右衛門尉が高城左京亮に、高四十石の指出として、慶長元年十一月廿日に主従二人で出立し、慶長三年二月に御供から帰朝した経歴を記す。その間、所から六か月分の御盛を受け、残る十八か月分は自ら堪忍したと申告する。
年月日未詳 / 冊子 42~43頁
島津方が菱刈陣を攻め、忠平自ら敵二人を斬り、村田越前守・三原右京亮らが奮戦、樺山助太郎らが戦死し、敵首三百余を挙げたとする。蒲生方は降伏して祁答院へ退去。境目で悪口過言を重ねた白尾半右衛門尉は落人に紛れたところを猿渡大炊入道に捕えられ、口を裂き舌を抜かれたという苛烈な処罰も記す。戦後の蒲生・帖佐・山田・松坂以下、大隅各地の地頭・領主配置を詳述する。
年月日未詳 / 冊子 411頁
『盛香集』は、加治木の竹之内半右衛門が志和地城に籠もった名のある武士で、後に惟新から中神石見らと同様に召し抱えられたと記す。城中の多人数のうち実際に役立つ武士は二十七、八人ほどで自分もその一人だったと語り、小川半平の兄とともに志和地で鎧を着けて戦った折のことも伝える。
(慶長十八年)三月十一日 / 冊子 392頁
慶長十八年三月十一日、江戸若君の病気、大坂火事、分国中検地帳、御書二通、伊集院半右衛門尉への付託、相良家若子の祝儀、加治木内証などの用件を列記した覚書。
(慶長十八年)六月六日 / 冊子 401頁
慶長十八年六月六日、島津家久が、妹を今月中に上洛させること、駿府・江戸参府の指示を求めること、伊集院半右衛門尉を使者として派遣することを述べた書状案。
十月廿五日 / 冊子 422頁
十月二十五日、島津家久が山駿州へ、前年の願件につき伊集院半右衛門尉と本多佐渡守を通じて得た上意と厚意への礼のため、再び伊勢兵部少輔を派遣し、段子十端を贈って今後の入魂を求めた書状案。
(慶長十九年)十月八日 / 冊子 553頁
肥後方面からの使者往来と当地の状況を報告し、伊集院半右衛門を見回りの使者として差し越すことなどについて家久の指示を求める山口直友書状。
寛永十五年二月廿八日 / 冊子 768頁
寛永十五年二月二十八日、有馬城本丸で首一つを取り、木佐貫半右衛門尉を首主、川田弥左衛門を合討者として、坂元四郎兵衛・福崎覚兵衛を証跡人に挙げた連署の戦功証文。
(慶長十四年)五月三日 / 冊子 219頁
五月三日、島津龍伯が樺山久高に、渡海後の無事と大島着岸、上方への注進を喜び、琉球への軍衆配置と降伏処置を了承し、国中が喜んでいるとして一同の辛労をねぎらった書状。
(慶長十八年)十月二日 / 冊子 415~416頁
慶長十八年十月二日、島津家久が三輪先達へ、諸白・魚・茶道具など遠路からの度重なる贈答に謝し、宴席で披露したことや当山賀後筋の相談を受けたことを述べた返書案。
(寛永十一年)四月六日 / 冊子 418頁
伊地知重康が、喜入久右衛門尉の上洛で国元の様子を知ったこと、七島との替地として久志地頭を任じる件を伝え、久志役人を召して協議し処置するよう求めた書状。
廿七日 / 冊子 349頁
当日は疎遠に感じたと述べ、扇を見つけたので贈り、まもなく訪ねて直接話すとした島津家久書状。
十月三日 / 冊子 167頁
伊集院三右衛門尉忠貞が寺師半右衛門へ、互いの無事を喜び、自身が前年以来江戸に滞在し、この秋に供をして国元へ下ったことを伝えた書状。長く対面できないことと便りを怠ったことを詫び、江戸にいる村上本助夫妻が無事に奉公していることを知らせる。あわせて新納加賀守への無沙汰について取り成しを頼み、貞左衛門にも事情を伝えるよう求めている。
「寛永十八年」十月廿三日 / 冊子 169頁
島津久慶・山田有栄・鎌田正統・頴娃久政・島津久元が寺師半右衛門へ、大口の役人・衆中が手薄で用務に支障があるとの新納加賀守の申し出を受け、寺師に関係する役務・公役の扱いを調整し、当地の衆中のため万事念を入れて勤めるよう求めた連署書状。本文注は、島津忠恒が慶長十一年に徳川家康から『家』字を与えられ家久と称したとする。
二月五日 / 冊子 74頁/原整理番号 116-2
北郷久加・喜入忠政・島津久賀が渡邊半右衛門尉へ、先日の使者としての来訪と伊東大和守祐久の書状を謝す。上津浦番所を大隅守が命じられたため自分たちが当地へ来たこと、近所なので今後も連絡し、異変があれば早く知らせるよう求める。
年月日未詳 / 冊子 320頁/原整理番号 363
木佐貫半右衛門と川田弥左衛門が、寛永十五年二月二十八日、有馬城本丸で首一つを取ったことを連署で証する文書。首主は鹿児島衆木佐貫半右衛門、合討は曽木衆川田弥左衛門とし、証跡人に曽木衆坂元四郎兵衛尉と福崎覚兵衛尉を挙げる。本文に宛所はなく、目録年月日欄は空欄。編者注は『旧記雑録後編五』二一四九号文書と同文とする。
年月日未詳 / 冊子 47~48頁
菱刈勢が蒲生を救援して北村表に陣を構えたため、弘治三年四月十五日に島津軍が攻め破った経過を回想する。忠平が荒平に陣を進めて蒲生城を攻め、蒲生方が降伏・退城した後の地頭配置まで記す。
年月日未詳 / 冊子 210~211頁
樺山久高譜の記事。三月二日の山川出帆後、暴風で船団が分散しながら奄美諸島へ進み、現地勢力との交渉・戦闘、上陸、荷物・船の確保を重ねて琉球へ向かった渡海軍の行動を記す。
(慶長十九年)八月晦日 / 冊子 546頁
当地の馬を望んでいると聞き、栗毛の四歳馬と青毛の五歳馬の二疋を送る。いずれも若馬で現在は十分に乗りこなせないかもしれないが、成長すれば役立つとし、詳細を使者に託す。
寛永九年四月廿二日 / 冊子 262~265頁
薩摩領内の知行物成の「ならし」と船役・出銀をめぐり、平田狩野介・東郷藤兵衛尉らとの談合事項を列記した条書。五百石取四人を合わせた二千石・四十人乗り・十二端関船について、船の仕立て、加子賃・飯米を銀四貫百目(高一石につき二匁)とする試算、自船・借船・船の惣置を検討する。さらに琉球口の商売と銀調達・出銀、駒牽夫、奉公衆と非奉公衆、領主・百姓の耕作と物成不足、外城衆・江戸上落衆の扱いなどを定める。
延宝二年二月六日 / 冊子 626~627頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書1540
島津光久の中将就任に伴う禁裏・法皇御所・女院御所・内侍所ほかへの官物について、太刀・黄金・銀子・杉原などの品目と数量を列挙し、関係者が受け取ったことを証した請取状。
寛永廿一年七月廿一日 / 冊子 180~181頁/原整理番号 90
寛永二十一年七月二十一日付、加久藤の郷中から飯野の郷中への書状。十五~六十歳の百姓に対する年一度分の狩代銀の上納をめぐり、従来地頭狩に出ていなかった諸士の被官や神領の者を今回も除外してよいか、隣郷の扱いを問い合わせる。
(寛永二十一年)九月二日 / 冊子 18~19頁/原整理番号 16
飯野の曖衆四名が隣郷の弓削将監らへ、毛検者や奉行が来る時期には互いに連絡し、手配を揃えたいと答える。あわせて白鳥山などの狩代銀について、諸士の被官の扱いと墨付を得て鹿児島へ差し出す方法を相手方に尋ねる九月二日付書状である。
年月日未詳 / 冊子 74頁/原整理番号 116-1
伊地知季安の記事。富岡城を警固する伊東大和守祐久が上津浦の薩摩三将へ書状で音問したため、島津久賀ら三将が飫肥侯家老の渡邊半右衛門尉へ返書して謝意を伝えた。
二月廿八日 / 冊子 316頁/原整理番号 349
宮原半右衛門景為が、三原五郎兵衛重英の原城本丸での働きを実見した証文。三原が高さ三間ほどの石垣を登って屏上に上がり、弓で矢八筋を射て敵三人に当てたのを見たとし、さらに屏を越えた働きを比類なしと評する。寅二月二十八日付で三原五郎兵衛尉宛。冒頭の『在三原四郎左ヱ門』は本文注記として区別する。
(元禄八年)四月五日 / 冊子 173頁/原整理番号 515の3
山之口衆中の北原拾兵衛が、都城内川東柿薗門の嘉左衛門の筋目を証した書状。嘉左衛門は先祖北原半右衛門の甥に当たり、親の肝付行蔵の代に名字を北原へ改めたが、その代で系図を焼失したため、由緒を示す書物がないと説明する。嘉左衛門が確かに筋目の者であるとして取り計らいを頼む。元禄八年四月五日付、肝付甚兵衛宛、北原拾兵衛。
(寛永十五年)七月廿四日 / 冊子 812頁
高野山における島津家の宿坊について、廻向院を宿坊とした時期、蓮金院へ替えた経緯、廻向院の寺地・塔場、龍伯までの御影・位牌、蓮金院の惟新の位牌、国元から送られた霊前道具などを菱刈半右衛門を介して蓮金院へ尋ねた条書。
元禄十五年十一月二十七日 / 冊子 395頁/整理ID 1335
菊池武信と米良陳章が連署して島津大蔵ら四名へ、日州椎葉山絵図の控を当地で渡すとの通知を了承し、十二月六日か七日頃に受取人を派遣すると答えた書状。絵図役人からの引渡しと、かねて遠江守から頼んでいた調達への配慮に謝意を述べる。
元禄十五年十二月四日 / 冊子 397頁/整理ID 1340
菊池武信と米良陳章が連署して島津大蔵ら四名へ、日州椎葉山絵図の控を十二月六日か七日頃に受け取る件を再確認した書状。受取を任せていた新宮市左衛門が病気のため別人を派遣するので、絵図役人からその者へ引き渡すよう頼む。
元禄十五年十一月二十三日 / 冊子 393–394頁/整理ID 1332
島津久明・久輝・久珍・久重が連署して万江長右衛門ら四名へ、江戸で調製した日州椎葉山絵図の控を当地で渡すので、十二月六日か七日頃に受取人を派遣するよう命じた達書。現地では絵図方役人から渡すと伝える。
正保四年七月七日 / 冊子 476頁/原整理番号 614
長崎への黒船着岸により蒲生衆士161人が出立するに当たり、主取5人に相談して軍役を滞りなく整えるよう求める。想定外の事項は5人から日記に記して地頭へ報告し、急用時に遅れぬ配置とし、召し連れる者が狼藉しないよう主人から厳命させる。地頭留守中のため野村新兵衛・谷山民部左衛門尉がこの趣旨を申し渡す。
年月日未詳 / 冊子 212~213頁/原整理番号 323
薩軍の原城攻め陣営を記した伊地知季安の記事。薩軍は城から田地を隔てて五、六町ほど海手にある天神が森へ布陣し、家老兼出水地頭の山田民部少輔有栄と使役兼大口地頭の新納加賀守忠清を談合衆・将帥とした。市来八左衛門宗友、伊地知杢右衛門重政、木佐貫半右衛門、仁礼左近将監景頼、是枝喜右衛門快温ら役職者と鹿児島衆を列挙し、出水・大口・蒲生・加久藤・須木・高尾野・伊集院・串木野・志布志・高山・谷山・曾木・阿久根・鹿児島などの兵・雑兵を合わせて二千五百余人が戸田左門氏鉄の陣営にいたとする。二十七日朝、諸大名が二十八日の城攻めを評定中、鍋島二手が突然出丸へ攻め込んだ。薩軍は評定の場にいた指揮官の下知が届かず先行攻撃へ加われなかったため、陣で銃・槍などを整えて出動に備えたが、城攻めは進み、煙・火を見て戦意を募らせた。夜には空腹を見越して陣屋へ飯を取り寄せたと記す。
記事 / 冊子 270~271頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書0776
寛延三年夏、重年が宗信の遺髪を紀州高野山へ納めるため使者を遣わした。四月十九日暁、福昌寺で島津久亮が継豊の代わりに焼香し、覺門・覺淵らの読経、遺髪の護守と送り出しを行う。総監鎌田政昌、側用人菱刈實詮ほか一行を列挙し、五月朔日出帆後の風波による津々の滞泊、二十八日兵庫港着、二十九日難波着を記す。六月九日に大坂を発ち、十一日に高野山蓮金院で遺髪を仏壇に安置した。十二日は僧衆五十口の勤行と政昌の重年代焼香、十三日は五十口の大曼荼羅供を行い、奥院へ遺髪を納めた。銅製の遺髪箱を木箱に入れ、石の供檀に納めたとの注がある。同日の空輪堂で僧二十口三昧・供養・誦経を行い、霊塔を建立して銘を記した。
十月4日京都本営送状、名簿は八月20日~九月17日等、降伏報知は9月22日 / 冊子 600~606頁/原整理番号 780/整理ID 780
雑録中の会津進撃に関する隊別死亡・負傷名簿と、京都本営の送状。九番・十一番・十二番隊等の戦死者を掲げ、十二番隊では三春の村人や庄屋支配下の者も含め、即死・戦死を記す。諸隊の死者には手負の後に三春病院で死亡した者があり、続く手負人数では深手・浅手・薄手と、負傷した日・場所を区別する。田村小太郎、伊佐敷金之進、加藤郷兵衛、上原正八郎らのほか、道案内、隊付夫卒、地元村人などを列記する。原文内の異日付や前の名簿との異同は残し、同名を別人として合算しない。末尾の十月四日京都本営送状は、戦死手負書一冊・降伏状一帖・問合二通を掲げ、去る九月二十二日に会津へ進撃して終に降伏したとの報知を述べる。通行允許を携えて到京した日須峯敬二郎ほか一人に封書を託して国許へ送り、披露等を取り計らうよう御国許陸軍所へ依頼する。死亡・負傷の区分と送付の叙述は各名簿・送状に帰属させる。
11月27日 / 冊子 425~426頁/原整理番号 396の4
十一月二十七日、串木野から立てた水手五十五人を列記し、三原源右衛門・永山覚右衛門へ受取りを命ずる。助兵衛尉・吉兵衛・惣右衛門から作左衛門・孫市までの五十五記載が本文の合計と一致する。助七・太郎作・次兵衛尉など同名が重複する箇所も名簿上の別記として保持し、推定で統合しない。
年月日未詳 / 冊子 54頁/原整理番号 79
『北郷久加世別記』。二月二日に富岡へ着き、家久公の意向として、富岡番手奉行の労をねぎらい、大隅守の病状悪化で有馬へ渡れないこと、松平伊豆守の命により上津浦へ物頭・番手人数を送ったことを主税介・大和守の両所へ伝えた。両所は取次を介して返答した。
正保四年七月八日 / 冊子 461~462頁/原整理番号 583
蒲生衆の差出として、身躰161人を高100石以上1人・30石以上16人・30石未満144人に分け、賄夫として下人18人、山元勘左衛門へ渡す夫丸36人を加え、合人数215人と報告する。武具は鉄炮152挺・鑓7本・弓1張(原記は壱帳、傍注張カ)・長刀1振とする。
七月三日 / 冊子 474頁/原整理番号 610
大口の宮原乗泰ら3人は、今朝寅刻に長崎行きを命じられたと伝え、帰宅していると思われる山田民部少輔へ諸事を伺うよう廻文で指示されたため使者を下し、詳細な返答を求める。追而書で、新納加賀守が鹿児島へ参上して当地を留守にしていることも知らせる。
正保四年七月八日 / 冊子 476~477頁/原整理番号 615
蒲生衆の身躰161人を、高100石以上1人、高30石以上16人、高30石以下144人に分け、下人18人と夫丸36人を加えて合人数215人とする差出。武具は鉄炮152挺、鑓7本、弓1張、長刀1振で、下人は4人間に1人の賄夫として御蔵入から山元勘左衛門へ渡す。与頭は谷口宮内左衛門。
「貞享二年」二月七日 / 冊子 328~329頁/原整理番号 5
寺社奉行所が大口の曖衆へ、濱田からの借銀の利銭は専念寺へ納められており、新納武蔵・伊集院・町田や前住などが少額ずつ寄進した先祖の月忌料の銀について、現在誰が保管しているかを明らかにするよう命じる。殿様が出立する前に調べ、夜昼を問わず早く専念寺へ知らせること、延引すれば処分もあり得ることを厳命する。
「貞享二年」二月八日 / 冊子 329頁/原整理番号 5-1
勘左衛門・長兵衛・喜右衛門が寺社奉行所の御筆者衆へ、七日の書付を受けて八日に面会し、鎌田仁左衛門を呼び置いて奉公を申し付けたと答える。専念寺には後任住職がいないため、その件を申し上げるよう求めていたとして、取扱いの経緯を報告する。
二月廿九日 / 冊子 768頁
寛永十五年二月二十八日、有馬城本丸の内へ入ったことを、木佐貫半右衛門尉・川田弥左衛門尉を証跡人として記した福崎覚兵衛・坂元四郎兵衛尉連署の差出。
年月日未詳 / 冊子 225~226頁/原整理番号 333-9
西郡要人配下の浪人平田太郎兵衛が、白紙の天目采を付けた番指物で三の郭から乗り込み、同じ手の浪人阿部七郎兵衛・水田半右衛門を証人として行動したことに始まる攻城記事。小屋内外で敵と遭遇した三人の戦闘、二の丸城戸口付近での諸勢の進退、妙解公らの指揮と諸将の働きを記す。大先手の十時摂津・同三弥之助・立花壱岐らが強く働いて高名を挙げ、討死も多かったとし、この時、妙解公と立花殿の同陣から、豊後府内の目付川勝丹波守・佐々権兵衛へ連名で早打の注進を送り、その紙面一通があると記す。
年月日未詳 / 冊子 321頁/原整理番号 368
曽木衆坂元四郎兵衛尉と福崎覚兵衛尉が、寛永十五年二月二十八日、有馬城本丸の内へ入ったことを連署で証する文書。鹿児島衆木佐貫半右衛門尉と曽木衆川田弥左衛門尉を証跡人に挙げる。本文に宛所はなく、目録年月日欄は空欄。編者注は『旧記雑録後編五』二一五〇号文書と同文とする。
年月日未詳 / 冊子 352頁/原整理番号 393
伊地知季安が、長島衆の宮原半右衛門景為には『此日』合鑓の軍功があり、その証文は大口衆の肱岡左近允が出したもので、今仁礼伴太夫付郷士・宮原三左衛門家に所蔵されると記した記事。
(慶長十年)五月廿一日 / 冊子 19頁
島津竜伯(島津義久)が島津惟新(島津義弘)に、枕山権左衛門尉を市成へ遣わす件を聞いたこと、徳右衛門尉派遣への謝意、鷹一そうの扱い、宮内原の鞍掛、石漕舟の手配などを返答した書状。追而書では、屋久島から鳩を二羽取り寄せ、一羽は目を患って死んだが、もう一羽は昼夜によく鳴き、雨の際に外へ出して羽を伸ばす様子もたいへん愛らしいと述べ、惟新にも一羽取り寄せて飼うよう勧めている。
正保四年七月七日 / 冊子 460頁/原整理番号 580
長崎への黒船着岸により蒲生衆士161人を派遣し、谷口助右衛門ら5人を主取とする。軍役は5人と相談して滞りなく整え、その指示に難渋する者は日記に記して地頭帰任時に報告すること、宿をなるべく一所にまとめ、従者の狼藉を主人から厳禁することを定める。
年月日未詳 / 冊子 401頁
島津家久譜に、家久が上洛して謝礼と用務を果たすため、先に伊集院半右衛門久元を使節として駿府へ遣わし、山口直友にもその趣旨を書き送った記事。
12月29日 / 冊子 239~240頁/原整理番号 182
覚。貴理師旦宗改衆日記を細々見届け、居候半右衛門道具改、不審者の沙汰、他の必要条書を指示する市来八左衛門尉覚。木上殿への報告と不審者の内証聞合せを命じ、十二月二十九日、市来八左衛門尉から源五左衛門殿・彦兵衛尉殿宛で結ぶ。