豊臣秀吉朱印状
(文禄元年)11月14日 / 冊子 615頁
高麗王子兄弟と官人二百余人を捕らえた戦功を賞し、引き続き都へ押し進むよう加藤清正に命じる。 炎天下の長距離進軍を「武心棟梁」と称え、褒美として黄金五百両を与えると伝えた、朝鮮出兵初期の戦果評価を示す朱印状。
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(文禄元年)11月14日 / 冊子 615頁
高麗王子兄弟と官人二百余人を捕らえた戦功を賞し、引き続き都へ押し進むよう加藤清正に命じる。 炎天下の長距離進軍を「武心棟梁」と称え、褒美として黄金五百両を与えると伝えた、朝鮮出兵初期の戦果評価を示す朱印状。
2月 / 冊子 535頁
島津義久が唐入りに関する厚意へ礼を述べ、義弘が近日出立し、自身も名護屋へ赴いて直接相談すると伝えた書状案。名護屋の仮屋普請では人夫をすでに過半数集め、領国内の準備も遅滞なく進めていると報告する。
(文禄元年)5月8日 / 冊子 562頁
加藤清正が、翌日の陣替えについて自分の分は八年衆へ申し付けたことを伝え、前夜に右馬・幸侃が訪れて相談できたことへの満足を述べる。 先陣で改めて話すとして筆を省いた短い書状で、朝鮮陣中における部隊交替と武将間の打合せが分かる。
(文禄元年)7月25日 / 冊子 596頁
加藤清正が浅野長政へ、五月十六日に都を発して六十八日進軍し、朝鮮王子兄弟と官人あわせて二百余人を生け捕ったと報告する。国王が明国方面へ退いたとの供述を得たため、さらに追跡する構えを示す。 朝鮮側が弱く十分な戦闘にならなかったと述べ、翌日には北方へ進発して秀吉の武威を示すと宣言する、朝鮮侵略の進展と武将の認識を伝える戦況報告である。
(文禄2年)正月16日 / 冊子 665頁
京都から来た二、三人が持参した書状への返書を託し、伊東を介して壱岐守方などへ確実に届けるよう求める。京都への使者については、加藤清正の別紙を持たない者を不用意に通さず、信頼できる者をまとまった人数で送るよう指示する。 戦時下の書状輸送で、通行証・取次・護送人数を用いて情報と使者の安全を管理していたことが分かる。
文禄4年6月20日 / 冊子 891頁
加藤清正は、竹島から家久側の番船出動を知らされ、状況が分からず心配しているため詳しい返報を求める。 一方、自らが守る境目には変化がないので安心するよう伝え、詳細は使者の口上に託す。
年月日未詳 / 冊子 68頁
慶長二年正月、小西行長が肥後から船を出したことを記す島津義弘譜の記事。秀吉は二月を出陣期としていたが、行長は秀吉の怒りを恐れて先発し、加藤清正も行長に先を越されることを恐れて諸将より早く渡海したとする。
(慶長三年)九月廿七日 / 冊子 239頁
加藤清正が島津義弘・忠恒に、順天方面で明軍が活動していると聞き心配している一方、自陣にも九月廿一日に七、八万の敵兵が進出したと報告した書状。数度の戦闘で敵を討ち、敵は城際に陣取れず二十町ほど退いて対陣しているため、自陣については心配不要とし、義弘らの方面の状況を詳しく知らせるよう求める。
(慶長三年)十一月十六日 / 冊子 279~280頁
加藤清正が(慶長三年)十一月十六日付で島津義弘・忠恒・立花宗茂へ出した書状。十一月十二日付の注進を受け、順天が通路を断たれ兵糧も乏しく、長く籠城できないとの報告を重大視する。日本の年寄衆・奉行衆から撤収命令が出ているものの、自城を翌十七日に引き払い、諸将に加わって順天救援へ向かう覚悟を示す。
(慶長六年)五月二十三日 / 冊子 761頁
加藤清正が島津忠恒に、徳川家康へ提出した陳謝の処置や境目の衆への指示、水俣申越の停滞を問い、疑念を解いて返答するよう求めた書状。
(慶長七年)五月廿三日 / 冊子 818頁
加藤清正書状はNo.1506文書と同文であるため、本文が省略されている。
十一月十九日 / 冊子 290~291頁
天下の訴訟が決着したと本多佐渡守から連絡があったため、境界問題もその意向に従い、芦北郡の百姓を直接返還するよう求め、異存があれば延期も家久の判断に任せるとした加藤清正書状。
四月五日 / 冊子 44頁
久しく音信がなかったため書状を送り、見舞いに行くつもりが上使衆の来訪で取り紛れたことを詫び、上使衆の帰朝後には必ず参会すると約した書状。
年月日未詳 / 冊子 331~333頁
新納忠元は島津家の衰勢と主君の退去を嘆き、細川幽斎へ兵糧を贈りつつ徹底抗戦を唱えた。曹操の赤壁敗走や田単の斉国回復を例に、少兵でも勝機はあると主張するが、島津義久は、すでに秀吉と和議を結んだ以上これを破れば信義を失い家を滅ぼすと説得する。忠元は降伏して秀吉の本営へ出仕し、長刀・道服に加えて行列途上で軍扇を直接賜った。後半は秀吉が肥後から博多へ進み、加藤清正・小西行長・佐々成政・相良氏らへ九州各地を配分した戦後国分を記す。忠元の抗戦思想と豊臣政権による新領国秩序を併せて示す長文記事。
年月日未詳 / 冊子 540頁
秀吉の朝鮮出兵に伴い、日本軍が肥前名護屋から壱岐・対馬を経て朝鮮へ渡る航路、港間の距離、船団・軍勢の規模を記した日記。釜山浦への上陸までの行程と、加藤清正・小西行長・島津義弘ら諸将の配置を列挙し、渡海作戦の全体像を示す。
年月日未詳 / 冊子 555~556頁
忠州に集結した小西行長・加藤清正らが漢城進軍の先陣を争い、複数の進路に分かれて王城へ迫った経過を記す。 行長勢が先着して城門を破り、朝鮮国王が逃れた都を占領するまでを描き、諸将間の競争と侵攻速度が分かる。
年月日未詳 / 冊子 564~565頁
小西行長が進南大門から侵攻し、加藤清正が王城へ入ったのち、逃れた朝鮮王子を追って捕縛するまでの軍事行動と、王子の扱いをめぐる清正・行長らの応酬を記す。 秀吉への報告や、清正を東北道、行長を西北道へ向かわせる軍勢配分にも触れ、漢城攻略後の追撃と占領方針を島津側の譜から見た重要な記事である。
天正20年6月3日 / 冊子 566~568頁
豊臣秀吉が、小西行長・加藤清正ら朝鮮出兵諸将を複数の先懸隊に分け、各隊の人数と指揮官を詳細に列挙したうえで、一日交替で進軍するよう定めた書立・法度。総勢十二万人規模の編成、三組による番替、軍律の遵守、後続部隊との連携を命じ、渡海兵を順次投入して明国へ進む構想を具体化した、朝鮮出兵初期の動員・作戦計画を知る重要史料である。
天正20年5月8日 / 冊子 573~574頁
朝鮮を破ったのち明の援軍が来ると見込み、既渡海の十三万人に加えて六万人を送るという秀吉の追加動員構想と、増田長盛・石田三成・大谷吉継・浅野幸長ら諸将の兵数を列挙する。 小西行長・加藤清正・黒田長政らを交替で先陣とし、後援軍を配置して明へ進む戦略、明側が日本軍の侵攻に驚いて朝鮮救援を検討した事情まで記す大規模な軍事記事である。
年月日未詳 / 冊子 614頁
加藤清正が女真方面へ進軍している間に朝鮮軍約六万人が金海城を包囲したため、救援兵を派遣して敵を退散させた経過を記す。 その後、諸将の移動・金化への駐屯・渡海関係の軍事行動を述べ、島津義弘父子が朝鮮各地で担った作戦の位置を伝える譜記事。
年月日未詳 / 冊子 661頁
平壌退却後、朝鮮の群盗が王城―釜山間の往還を塞いだため、奉行衆が咸鏡道の加藤清正を王城へ戻して鎮圧させる方針を決める。 敷根仲兵衛が使者を志願し、猿渡掃部兵衛と鉄砲の巧者百人を伴って甲山城へ赴き、清正に帰城命令を届けた経過を記す。 島津家臣が危険な連絡路を突破し、全軍の再編命令を伝えた具体的な軍使活動が分かる。
年月日未詳 / 冊子 667~668頁
加藤清正が咸鏡道から金山方面へ進む際、斎藤・立本・荘林隼人・龍造寺又八郎ら五千を先発させ、群盗に包囲された金山を救援した戦闘を記す。与三右衛門や伊東勘平・井出市左衛門以下二百余人が戦死し、援軍は遺骨を焼いて翌日帰陣した。 清正は咸鏡道を離れて二月五日に王城へ入り、休息せず五、六日間群盗を追討して城内を鎮静化したという。損害と戦後処理まで伝える朝鮮出兵記事。
年月日未詳 / 冊子 673頁
明軍が日本軍二十万来攻との情報を受けて防備を固め、査大受が龍山の兵粮を焼いたことを記す。日本軍側では毛利吉成・島津義弘・伊東民部守らが在京城の守備・撤収に関わり、加藤清正・鍋島直茂らも陣を離れたという。 黒田長政が殿軍を務め、宇喜多秀家を中心に諸将が王城から移動する際の軍勢配置と退却秩序を伝える記事。
年月日未詳 / 冊子 673頁
咸興の加藤清正が明使から朝鮮王子の引渡しを条件に帰国を促されるが拒絶し、宇喜多秀家らからも明軍接近と釜山路遮断を理由に帰陣を求められた経過を記す。 交渉使の人選が難航するなか島津義弘が引き受け、敷根伊兵衛・猿渡掃部兵衛に鉄砲兵二百人を付け、敵地を十余日進んで清正へ書状を届けさせた。島津方の危険な使者任務が分かる記事。
(文禄2年)4月28日 / 冊子 684頁
本文はNo.869と同文であるとして省略され、毛利吉成・島津義弘・秋月氏・伊東氏・加藤清正・鍋島直茂ら九州諸将への宛名のみが掲げられている。 具体的な命令内容はNo.869との照合が必要だが、同一の秀吉朱印状が複数の在陣大名へ一括して伝達されたことが分かる。
年月日未詳 / 冊子 686~687頁
王城から釜山浦へ退く講和局面で、島津義弘が大友吉統らの性急な撤兵を批判し、武門の名誉と占領地維持を重視して徹底抗戦も辞さない姿勢を示したことを記す。 一方で兵粮欠乏と諸将の撤退により釜山浦へ移り、明使沈惟敬との交渉に備えて加藤清正らと守備を固めたという。義弘の戦略観と秀吉への忠節を顕彰する長文の家譜記事。
(文禄2年)5月朔日 / 冊子 687~688頁
高麗在番衆と各使者に、大友吉統が小西行長の守る拠点を十分に援助せず、敵情を確かめないまま退却したことを「臆病」として厳しく告知した覚書。豊臣秀吉が、九州征伐時にも大友氏救援のため自ら出馬した経緯を挙げ、吉統の所領没収と毛利輝元への預け置きを命じる一方、その子には扶持を与えて加藤清正の配下に置く方針を示す。朝鮮出兵中の軍紀維持と、大友氏改易の処分過程を具体的に伝える重要史料。
年月日未詳 / 冊子 705~706頁
加藤清正に捕らえられた朝鮮王子の臨海君・順和君と随行者が、厚遇への謝意を述べつつ帰国を願い出た書状を引き、釈放交渉の経緯を記す。 沈惟敬や三奉行が秀吉の意向を受け、王子返還を講和条件の一部として処理したといい、捕虜となった王族の待遇と文禄の講和外交を伝える重要な家譜記事。
年月日未詳 / 冊子 710~711頁
文禄二年六月の晋州城再攻撃を記し、加藤清正・小西行長・毛利秀元ら諸将の布陣、城中への突入、敵兵の大量死と落城までを詳述する。 島津義弘の軍勢も攻撃に加わり、明・朝鮮側の抵抗を破った「奇捷」と評価された晋州城攻略の経過を伝える軍記的な譜記事。
年月日未詳 / 冊子 752頁
和議を不満とした加藤清正が兵を率いて安康を攻め、慶州から救援に来た明将・劉綎の軍を破って三百余級を討ち取ったと島津義弘の譜に記す。 清正の攻撃が講和交渉と並行して続いたこと、明軍との戦闘規模を伝える朝鮮出兵記事。
文禄3年9月21日 / 冊子 809頁
寺沢正成は、朝鮮での「無事」すなわち講和の処理を加藤清正に任せているが、清正の筋で長引く場合は諸将で相談し、別の方法でも速やかに決着させるよう奉行衆から指示が来たと伝える。 島津方にも明国人から書状が届いたと聞き、返書を出す必要があれば相談して進めるよう求める。明との交渉が複数の大名・奉行間で調整されていたことを示す外交実務文書。
年月日未詳 / 冊子 832~834頁
島津義弘・忠恒の隊を中心に、小西行長・福島正則・加藤清正ら諸大名と家臣の配置、加徳島・釜山・熊川など朝鮮各地の在陣状況を記した「朝鮮日々記」。将士名と所属、軍勢数、諸陣間の距離や移動経路を細かく列挙する。 島津軍だけでなく、四国・中国・九州の諸大名が朝鮮でどのように陳取りしたかを俯瞰できる軍勢配置記録。合計人数と個々の家臣名が豊富で、文禄の役の軍事組織を復元する上で特に重要である。
文禄4年正月15日 / 冊子 859~861頁
朝鮮へ動員する諸大名の軍勢を番組ごとに分け、小西行長・加藤清正・黒田長政・島津義弘・鍋島直茂・宗義智らの名と人数を列挙する。 各隊の構成に加え、高麗国内の城の留守衆や関白側近衆の人数も集計し、文禄四年段階の再動員計画を数量的に示す。朝鮮出兵の軍団編成を比較できる重要史料。
慶長二年二月廿一日 / 冊子 84頁
豊臣秀吉が島津豊久に示した高麗再出勢の法度。先手の行動は加藤清正・小西行長以下が相談して定め、軍勢運用を統制するよう命じる。一般的な出勢規定とは別に、宛所が「嶋津又七郎とのへ」と明記される。
年月日未詳 / 冊子 85~87頁
豊臣秀吉が高麗再度の陣立として、先手・備ごとに加藤清正、小西行長、黒田長政、島津義弘ら諸将と人数を割り当てた文書。総勢を組ごとに集計し、釜山浦周辺の諸城に置く守備人数と担当武将も定める。
年月日未詳 / 冊子 92~93頁
島津義弘譜のうち、加藤清正らの朝鮮再進攻、梁山城・西生浦周辺での行動、朝鮮側への示諭を記す記事。日本と明の講和交渉が破綻した経緯、明軍の兵数と進軍、諸城の守備、現地の飢饉・兵站難までを叙述する。
年月日未詳 / 冊子 150~151頁
『島津義弘譜』から、慶長二年十二月の蔚山城攻防を詳述する。明軍が未完成の蔚山城を急襲し、加藤清兵衛らが籠城、加藤清正・浅野幸長らが入城して防戦した。城内では兵粮と水が尽き、紙や壁土を煮、馬を食べ、夜間に池水を汲むほど窮乏したが、日本側援軍の接近で明軍が退却し、追撃戦となった経過と双方の死傷を記す。
(慶長三年正月) / 冊子 182~184頁
島津義弘が朝鮮から送ったとされる仮名書状。唐人が約十里先まで進んだとの急報を受けて物見を出し、事実なら出撃する覚悟を述べる。蔚山では敵が夜襲して二の丸まで攻め上り、浅野左京大夫・太田飛騨守らが本丸に籠もり、加藤清正も西生浦方面から少人数で入城したと報告する。義弘父子も救援に赴く一方、留守勢を残して城を固めることや、使者・便船の手配を伝える。
年月日未詳 / 冊子 184頁
『征韓偉略』から、慶長三年正月五日頃、朝鮮諸城を守る日本軍を三道に分け、東路の蔚山に加藤清正、西路の順天に小西行長、中路の泗川に島津義弘父子を置いた記事。水軍は交替で往来し、駅伝のように連絡したと記す。
(慶長三年)五月七日 / 冊子 204~205頁
朝鮮国節度使が、日本軍のもとに留まる晋州・泗川方面の朝鮮人らに帰順を促した伝令書案。黄允祥を使者として安全な帰還と居住を保証し、敵情・地勢・道路を報告して官軍を導けば軍官・戦士・牙兵等に任じて賞すること、李石の帰順・登用例を示す。さらに蔚山で加藤清正を取り逃がしたことに明帝が憤り、大軍が三路から来攻すると説いて、機を失わず離脱するよう迫る。
年月日未詳 / 冊子 205~206頁
慶長三年五月、明軍が順天を包囲するとの風聞を受け、小西行長らが順天城を捨て釜山へ退くことを議した。加藤嘉明は敵旗も見ずに退くのは武士の恥として残留を主張し、加藤清正・毛利秀元は安国寺恵瓊を遣わして豊臣秀吉の指示を仰がせる。秀吉は恐れて城を捨てず堅守せよと命じ、清正・行長・島津義弘ら諸将六万人を各城の守備に残し、小早川秀秋・毛利秀元・宇喜多秀家らは一時帰国ののち九月に再渡海することとなったと記す。
年月日未詳 / 冊子 209頁
明軍が大兵を発して順天を囲むとの報に、小西行長らが順天・蔚山を去って釜山を守る案を議した。加藤嘉明は敵旗も見ずに退くのは丈夫の行いでないと反対し、加藤清正・毛利秀元は豊臣秀吉の裁定を求める。秀吉は退城を許さず、清正・行長・島津義弘ら六万人余を諸城に残し、小早川秀秋・毛利秀元・宇喜多秀家らを一時帰国させて九月に再渡海させることとしたと記す。
慶長三年孟秋 / 冊子 225頁
『島津義弘譜』が、朝鮮在陣中の戦果報告では首級の代わりに鼻や耳を京都へ送り、豊臣秀吉がこれを賞して大仏殿付近に耳塚を築かせたことを記す記事。慶長三年秋に明軍が海陸四方面から進み、麻貴が蔚山の加藤清正、董一元が泗川方面の島津義弘父子、劉綎が順天の小西行長、陳璘が水軍を担当し、龍涯・友理が義弘父子へ勧告文を送った経緯を記す。
慶長三年八月 / 冊子 228~229頁
『島津義弘譜』が、麻貴ら明軍が蔚山の加藤清正と対峙し、島津義弘・忠恒が一万の兵で泗川・新寨周辺の諸塁を守り、近隣諸邑へ軍事行動を行った状況を記す記事。豊臣秀吉は伏見城で没する際、死を当面秘し、浅野長政・石田三成を筑紫へ急派して朝鮮在陣諸将を帰国させ、撤兵が難しければ徳川家康・前田利家の遠慮により十万の兵を異国の枯骨としないよう遺言したとする。
慶長三年八月廿二日 / 冊子 229頁
宮木豊盛・徳永寿昌が連署した起請文前書案。朝鮮での和睦・撤兵に関する「御無事」の件は、加藤清正と小西行長それぞれの筋から双方の言い分を聴き、日本のために適切な方法で決着させること、ひいきなく私曲を報告することを誓う。在番の頭との相談で主君のためを顧みない抜け駆けの意見が出た場合もそのまま報告し、中央の指示を朝鮮在番衆へ正確に伝えるとする。
(慶長三年)九月五日 / 冊子 234頁
毛利輝元・宇喜多秀家・前田利家・徳川家康が島津義弘・忠恒に、「御無事」はまず加藤清正の筋で、難しければ他の筋でも遅滞なく決着させるよう命じた大老連署状。朝鮮王子の来航が望ましいが、来なくても調物の多少にこだわらず日本の外聞にかなう形で和議を成立させること、迎船として新造百艘と諸浦の二百艘、計三百艘を送ること、安芸宰相・浅野長政・石田三成と相談することを指示する。
年月日未詳 / 冊子 257頁
『佐多民部左衛門覚書』が、明軍による日本側諸陣への攻撃と島津勢の救援を記す記録。明軍は加藤清正の陣を攻めた後、小西行長の陣を追い払い、小島まで追い詰めた。窮地に陥った小西勢を島津勢が助けたとする。
年月日未詳 / 冊子 274~276頁
『征韓偉略』の記事。秀吉死後の撤兵で加藤清正らが先に帰途につく一方、郭国安から報を得た陳璘が和議を破り、鄧子龍・李舜臣らの明・朝鮮水軍を出して日本軍の退路を襲った経緯を記す。島津義弘は小西行長救援のため忠恒・立花宗茂・寺沢正成らと出船し、順天・露梁沖で敵船と交戦して鄧子龍・李舜臣を討ち、唐島へ退いた。十九日に帰国へ向かうまでの戦闘、島津方戦死五十四人、敵艦六艘の獲得、諸記録間の日時・人物・戦果の異同も詳しく考証する。
(慶長五年)十月廿七日 / 冊子 602-603頁
立花親成が九州各地の軍事情勢と自身の和談成立を報じ、天下が静謐へ向かい江戸中納言の薩州出馬も見込まれるとして、島津方に早急に八代へ使者を送り、加藤清正・黒田如水らを介した詫言を進めるよう勧告する。
(慶長五年)十一月廿二日 / 冊子 618頁
立花尚政が、島津方から重ねて二人の使者が来たため、その口上を黒田如水・加藤清正へ伝え、返答は使者に託したと報告する。井伊兵部へ使者を上せた旨も両者へ伝え、先勢が退いて上洛した情勢を踏まえ、図書頭らを上洛させ、黒田・加藤からも井伊へ申し上げる形がよいと提案する。