島津日新感状
「大永七年」五月十三日 / 冊子 677~678頁
日新が冨松左京亮・野村兵部少輔に、従来の忠勤を賞し、神妙大慶であるとして、今後も相談しながら頼みとする旨を伝えた感状。
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「大永七年」五月十三日 / 冊子 677~678頁
日新が冨松左京亮・野村兵部少輔に、従来の忠勤を賞し、神妙大慶であるとして、今後も相談しながら頼みとする旨を伝えた感状。
三月廿二日 / 冊子 774頁
日新公が富松左京亮・野村兵部尉に、弓箭の初めから忠節を尽くしたことを賞し、今後も変わらぬ奉公を期待する旨を伝えた証状。
(天文十五年)正月十六日 / 冊子 833頁
半松斎宗養が野村兵部少輔に、兵庫助の上京や教訓・詠歌の扱いについて返答し、希望に沿うよう配慮すると伝えた書状。
(天文十五年)正月十六日 / 冊子 833頁
半松斎宗養が野村兵部少輔に教訓・詠歌の扱いなどを伝えた書状。本文はNo.2511と同文のため省略される。
十二月廿四日 / 冊子 867頁
盛春が調所兵部少輔に、国衙の神役について北郷殿の代と相違なく治め、百姓へ申し付けるよう伝えた書状。
永禄十二年閏五月十七日 / 冊子 225頁
島津貴久が樺山兵部太輔に、境目の警固に長く尽力していることを賞した書状。遠方のため音信を欠いたことを詫び、祁答院長野城攻めでたびたび合戦して粉骨した働きは比類なく、率いた人々の働きも含めて感賞すると伝える。
元亀二年四月七日 / 冊子 243頁
島津義久が樺山兵部太輔に差し出した起請文の神文部分。天帝・四大天王、日本六十余州の大小神祇、惣社新田八幡、当地の鎮守である諏訪・稲荷大明神の照覧に任せ、誓約に偽りがないことを誓う。
天正七年二月吉日 / 冊子 628頁
忠春が前田兵部左衛門尉へ、薩摩国加世田のうち船越迫の三反を記して示した坪付。
天正八年二月吉日 / 冊子 646頁
加世田の御所之前・大坪・中島などにある田地を列記し、合計五反を前田兵部左衛門尉の知行として示した坪付。
(慶長四年)九月六日 / 冊子 433~434頁
島津忠豊が伊勢兵部少輔に、九月二日に鹿永口へ少数の敵が現れ、配下が交戦した件を早くも聞き届けて書状を寄せられたことへ謝す。戦死者の弔いにまで心を配られたことを感謝し、近日中の出馬を待つと伝える。
(慶長四年)九月六日 / 冊子 434頁
島津忠豊が伊勢兵部少輔に、庄内の件を上使が無事に調停しようとしたが成立しなかったとの知らせを了承したと伝える。自身も山田方面へ出向き、現地の様子は頴娃主水正が見聞しているので詳述せず、委細は老名衆から申し上げるとする。
(慶長四年)九月十一日 / 冊子 434頁
島津忠豊が伊勢兵部少輔に、書状と樽・肴などの贈物を受けたことへ謝意を述べる。前日の攻撃で多数の敵を討ち取って勝利したとの報を喜び、戦況は使者が実見しているため詳述せず、適切に披露してほしいと頼む。
(慶長四年)十月十五日 / 冊子 460頁
奈須祐実が伊勢兵部少輔に、同名の惣番父子が高橋殿から成敗された件について書状を受け、名字を同じくするため途中まで出向いたものの、非道な関与はなかったと弁明し、従来の薩摩家への奉公と忠平の認知を述べる。追書では、伊集院源二郎の籠城を京都からの和平方針に沿って早く鎮めるよう求め、遠方のため出仕できない代わりに鷹の羽一息を進上する。
(慶長四年)十月廿四日 / 冊子 461~462頁
島津義弘が伊勢兵部少輔に、幸侃が重い状態だったため度々問い合わせ、弥兵衛尉の返答で早く快気したと知り、さらに市八左衛門尉が上京したことを喜ぶ。現地でも祈念を怠らず、義弘方でも種々祈念しているので一層回復するだろうと述べ、敵が疲弊していても油断せず、又八郎にも警戒を伝えるよう求める。
十月廿五日 / 冊子 464頁
奈須祐実が伊勢兵部少輔に、同名の惣番父子が高橋殿から成敗された件について、自身に非道な関与はなく従来から薩摩家へ奉公してきたと弁明する。追書では、伊集院源二郎の籠城を京都からの和平方針に沿って早く鎮めるよう求め、遠方のため出仕できない代わりに贈物を進上する。本文はNo.937と同文として省略されている。
(慶長四年)十二月朔日 / 冊子 470~471頁
島津忠豊が伊勢兵部少輔に、尊札を拝受した礼を述べる。志和地の堀川が二日で成り、高城表から出た敵を追い入れて多数を討ち取り、麓まで放火した勝利を喜ぶ。天神山の陣取・普請が整い、近日あいの垣まで命じたことから、志和地もほどなく入手できると見込む。上方は変わりなく、山田の様子や病気で在陣中に帰った源七郎についても問い、龍様への取り成しを頼む。配置した人数は必要時に夜中でも参上させると伝える。
(慶長四年)十二月晦日 / 冊子 480頁
新納旅庵長住が伊勢兵部少輔の側近へ、山口勘兵衛が再び庄内へ下向することを知らせる。源次郎が事情に反して軽率な返答をすれば本人のためにならないため、一人を派遣して様子を申したいとの意向が織田之母から伊集院図書へ伝えられ、山口と受取方の双方へ書状が付されたという。旅庵は伊集院図書からも連絡するよう求められ、急な使者の下向に合わせて大坂から書状を送るので、この事情を心得るよう伝える。
(慶長五年)三月七日 / 冊子 518頁
滝重時が伊勢兵部少輔に、志和利城の攻略に続いて六か所の端城が落去したことを祝し、都城もほどなく決着すると見込む。また天下太平となった後は上使の意向に従って伊集院源次郎を助命するのがもっともだと述べ、庄内平定後の披露を依頼する。
七月廿一日 / 冊子 901頁
相良長泰が伊勢兵部少輔へ、本田助允の知行に関する嘆願はこれまで家老中へ申し入れたが取扱いが進まなかったと説明し、助允の依頼に応じて改めて取成しを求めた。
慶長九年四月廿三日 / 冊子 931頁
土持親経が伊勢兵部少輔へ提出した起請文。世情が変転しても二心なく奉公すること、他方からの策謀や讒言を直ちに報告すること、互いに隠し事なく協力することを誓い、違反時には諸神の罰を受けると記す。
(慶長九年)十一月廿六日 / 冊子 944頁
友枕如貴が伊勢兵部少輔へ、水指二つを門跡へ進上して喜ばれたことを報じる。翌春に龍伯が上洛すれば忠恒は在国できると喜び、若輩の左衛門を引見して用向きに召し使うよう依頼した。
(慶長十年)四月廿八日 / 冊子 16頁
伊勢貞知(友枕斎如芸)が伊勢兵部少輔に対し、公方の参内供奉と親王への礼を祝し、太刀一振を一度に持参すべきか、伝奏衆の意向や禁中での仕合に配慮しつつ照会し、伏見通行の折に参上して取り次ぐ旨を伝えた書状。
(慶長十二年)五月十三日 / 冊子 116頁
慶長十二年五月十三日、島津惟新が京都・江戸方面の政務や家臣の奉公・召し置きについて情報を求め、伊勢兵部少輔に詳細な報告と物資手配を依頼した書状。
(慶長十七年)八月十七日 / 冊子 375頁
慶長十七年八月十七日、安藤直次が伊勢兵部少輔へ、将軍の当地御成と両御所の機嫌、伊勢兵部少輔の参府・謁見、唐物進上について伝えた書状。
慶長十八年三月廿日 / 冊子 393頁
慶長十八年三月二十日、日向国飯野杉津留村のうち高二十石と屋敷一つを伊勢兵部少輔貞昌へ宛行い、今後加増する旨を記した三名連署の知行目録。
(慶長十八年)十月十二日 / 冊子 420頁
慶長十八年十月十二日、伊勢貞知が伊勢兵部少輔へ、帷子三領の贈答に謝し、公方の命による上洛延期、判紙と文言の調整、門跡から命じられた大峯での護摩祈祷、翌春の上洛見込みを報じた書状。
(慶長十八年)十月十五日 / 冊子 420~421頁
慶長十八年十月十五日、奈須祐金が伊勢兵部少輔へ、高橋同名玄蕃父子が討ち果たされた件と遠路からの見舞いに触れ、紀州・日向境の山を守ってきた経緯を述べ、今後の憐愍と取成しを求めた書状。
(寛永三年)四月廿四日 / 冊子 6~7頁
島津家久が伊勢兵部少輔へ、現地の諸事を少しも油断なく処理するよう重ねて命じた書状。文頭欠損のため前段の具体的案件は判然としないが、自身の扱いも同様でよいかとの問いと、後便を期す旨が残る。
(寛永五年)七月十六日 / 冊子 65頁
島津家久が伊勢兵部に、先の用件の返答・帰着状況を尋ね、早く下向するよう求める。息災を喜び、暑中の贈物への礼を述べ、別件の品が戻ったかも問い合わせる書状。
十一月十五日 / 冊子 151頁
入来院重時が東郷兵部少輔に、宮里のうち西の薗門一町二反が空き所領となったため、これを確保して知行するよう宛行った文書。所領の所在と面積を簡潔に示す。
十一月廿八日 / 冊子 153頁
本田親存が伊勢兵部少輔らに、加治木付近に知行を得られれば幸いであり尽力してほしいと依頼した書状。隠居の身で知行がなく思うようにならない事情を述べ、先方に知行の取り口があれば少しでも手を付け、過分にならないよう適切に調達してほしいと求め、詳細は源左衛門に託す。
年月日未詳 / 冊子 196頁
入来院重時が東郷兵部少輔に、宮里のうち西の薗門一町二反が空き所領となったため、これを確保して知行するよう宛行った文書案。本文はNo.382と同文のため省略され、目録の日付欄は空欄である。
正月十六日 / 冊子 323頁
半松斎宗養が野村兵部少輔に、まだ疎遠ではあるが春成の下国を好機として書状を送った。相手の若年からの詠歌を見たことに触れ、近衛殿による披見・奥書等を取り計らう意向を示し、今後の音信と歌道上の交誼を望んだ書状。
五月十三日 / 冊子 324頁
島津忠良(日新)が富松左京亮と野村兵部少輔に、合戦で以前から抜群の忠勤を尽くしたことを賞し、今後も頼みにする旨を伝えた契状。互いに疑心を抱かず、讒臣があっても相談し、島津貴久とも同意のうえであり、この義に背けば天道に任せると誓約する。
閏9月25日 / 冊子 749頁
川上忠智が、又八からの書状を喜び、久四は無事なので心配不要と伝える一方、武庫の身の回りには引き続き油断なく配慮するよう求める。 又一郎久保の不慮の死について、義弘の心中を察して自分も言葉を失うほど困惑していると述べ、その弔意を披露するよう頼む書状。
慶長四年閏三月十三日 / 冊子 368頁
医師甑武政が、命じられた養生と調薬に専念すること、道三・少弐のもとで医道を究める際にも御前や国元の事情を他人へ漏らさず、風聞は十分に確かめて報告することを誓う。また龍伯・武庫・忠恒に別心なく奉公し、世上が変動しても縁者・親類・兄弟を離れて忠節を尽くすとする起請文。
(慶長五年)正月廿五日 / 冊子 501頁
島津忠豊(豊久)が伊勢貞昌に、一昨日この地へ参陣したと報じ、当地での諸事についてしかるべく取り成すよう求める。あわせて伊勢方の地の様子を知らせるよう頼み、当地には変事がないことを伝える。
(慶長六年)九月十五日 / 冊子 782-783頁
木下宗古が皮五十枚の拝領に礼を述べ、鎌田政近の上洛交渉が意向どおり整ったことを祝う。島津諸将の上洛・対面や帰国をめぐる近衛前久・内府側の見解を詳報し、早期の無事解決を促す。
(慶長七年)四月十五日 / 冊子 809頁
伊勢如貴が、門跡の病気を遠路から見舞われたことに礼を述べ、曲直瀬道三の薬で回復したと報じる。内府への礼について相談を求め、鹿皮十枚を贈った書状。
(慶長七年)十二月廿八日 / 冊子 868-869頁
伊勢如貴が、歳暮の礼として三井寺に滞在する門跡へ昆布一折と酒樽一荷を進上し、自身が受け取って取り次ぐと伝える。小袖を贈られた礼を述べ、門跡への礼が届くよう取成しを依頼した。
(慶長九年)十二月朔日 / 冊子 946-947頁
山口直友が島津義弘・伊勢貞昌の側近へ、翌春は忠恒でなく龍伯が上洛するのがよいとの本多正純の意向を伝える。忠恒と相談して龍伯上洛を実現するよう求め、自身の考えは樺山久高にも説明した。
慶長十三年七月廿一日 / 冊子 177頁
慶長十三年七月二十一日、大村与左衛門尉が小笠原宗仲から相伝された細工の技法を、子一人以外へは伝えず他言もしないと諸神仏に誓った起請文。成正院を取次とする。
(元和二年)四月十七日 / 冊子 625頁
徳川家康が四月十七日に七十五歳で死去したことを急報し、駿府の状況を確認して追って詳報すると伝えた山口直友の書状。
(元和二年)九月十二日 / 冊子 633~634頁
本多正純が父正信の死去に際して島津家久から贈られた香典銀百枚に謝意を述べ、他からの香典も受け取っていないため返却すると伝えた書状。
十二月廿八日 / 冊子 334頁
伊勢貞知が、歳暮の礼として門跡へ昆布一折と樽一荷を進上し、三井寺で受け取ったことを伝えた書状。自身も小袖一領を拝領したことに謝意を述べ、年内の参上を約した。
(寛永十一年)六月十六日 / 冊子 431頁
伊勢貞知(友枕斎)が、私宅への来訪と音信・贈物に礼を述べ、公用のため直ちに参上できないこと、依頼された品を選んで差し上げる旨を伝えた書状。
六月十三日 / 冊子 23~25頁
島津久元が、五月中に届いた四通の書状へまとめて返答した長文書状。上洛・知行・扶持、家臣や奉公人の処遇、諸役・贈答・縁組、船便など多数の政務について指示と見解を伝える。問題となった者は扶持を放して追放し、詳しくは摂州老の下向時に相談して返答するとする。
十月廿八日 / 冊子 17頁
芦北方面への出動に際して一陣の保持を頼み、格別の助力で安利を得たことを謝し、出水に滞留して返礼が遅れた旨を伝えた書状。
九月四日 / 冊子 124頁
相手領内の御上が寂しく過ごしていると聞き、自領へ招いて慰め、軽い食事を差し上げたいと申し入れ、紀州とも内々に相談のうえ返事を求めた案文。使者は萩原万吉。
七月一日 / 冊子 381頁
玄奥の懇切な対応を評価し、今回の情勢は平時と異なるため真偽を問わず情報を注進するようよく申し聞かせ、千左衛門尉の件も玄奥へ適切に伝えるよう指示した島津忠恒書状。