町田久倍領知目録
天正20年11月18日 / 冊子 615頁
薩州大口のうち、浮免・くろとり・野間口など合計二百九十余歩の土地を記した領知目録を内田備前守へ送る。 野田七郎右衛門家に伝来した文書で、村名・地積を伴う小規模知行の具体像が分かる。
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天正20年11月18日 / 冊子 615頁
薩州大口のうち、浮免・くろとり・野間口など合計二百九十余歩の土地を記した領知目録を内田備前守へ送る。 野田七郎右衛門家に伝来した文書で、村名・地積を伴う小規模知行の具体像が分かる。
(慶長五年)十一月六日 / 冊子 610頁
島津忠長が竹内備前守の在番を慰労し、三日以内に攻撃が始まるとの情報に対し、当面は持ち場を保ち、後日退く機会もあるとの判断を支持する。兵糧調達を本六殿と相談するとし、火薬の手配や備前守の子二人への配慮も伝える。
十月十五日 / 冊子 74頁
島津久元・川上久國・喜入忠政(のち忠続)が、新納仲左衛門尉・市来備前守・比志嶋掃部助に、薬師寺内蔵丞が養子となって当地の役儀を勤めているため、水引へ移すよう伊東二右衛門尉から申し入れがあったと伝え、支障がなければ相談するよう求めた連署書状。切り抜きにより、別掲されていた島津久元の署名を含む三名連署と確認した。
九月廿日 / 冊子 75頁
川上久國が新納仲左衛門尉・市来備前守に、大脇主馬丞の子息舎人佑へ肥後内膳正の知行の一部を分け与え、当地へ移すよう御老中が命じたことを伝えた書状。山田民部少輔が使者を務め、詳細は主馬丞から伝えるとする。
七月二日 / 冊子 75頁
喜入忠政(のち忠続)が市来備前守・新納仲左衛門尉に、又八郎様に奉公する局が近頃ことに患い、老齢のため当地での養生が難しいと伝えた書状。意向を得てこちらへ帰し、永吉などで療養させたいので、病中のうちに早々に暇を与えるよう取り計らうことを求める。
八月四日 / 冊子 411頁
島津義久が内空閑備前守へ、前年春の八城出発時にその領域へ軍勢を差し向けた際、異議なく当邦の幕下となったことを喜び、祝詞・使書・太刀・織筋の到来を謝して、今後も疎意なく結ぶと述べた書状案。
応永十八年九月卅日 / 冊子 252頁
備前守仲頼が、相手の大小事を心底から承り、重大事には身をもって奉公し、虚説や凶害があっても直接申し開いて信用を損なわないと神々に誓った契状。
安永二年五月(独立日なし) / 冊子 374頁/原整理番号 1045の5/整理ID 1045-5
嶋津備前殿は格別の身分で、とりわけ老年であることを思し召し、今後は御前でも脇差を帯びるよう命じたと伝える。このことを役人に限って通達するよう求める。備前殿には吉貴の二男、貴儔との注がある。末尾は安永二年巳五月、左中。個別の身分・老年による帯刀の扱いと、通知範囲を示す短い達。
八月廿一日 / 冊子 66頁
新納忠清・肥後盛行・大寺政安が、大脇舎人佑の知行高十四石の算入先について連署した書状。当初は相手方の高へ籠めるよう伝えたが、改めて山田民部少輔を通じて当地の高へ算入せよとの命が出たため、その処理を通知する。
正月十一日 / 冊子 72-73頁
島津久慶・川上久國・伊勢貞昌が、根占殿の御蔵入方を會木弥兵衛尉と黒葛原吉左衛門尉へ命じたことを知らせた連署書状。吉左衛門尉は病気で参上が遅れたが当日出仕したため、その事情を披露するよう求める。
二月十四日 / 冊子 77頁
島津久慶と島津久元が、羽嶋蔵人家の事情により、その子一人を当地へ置く願いが認められたと伝えた連署書状。蔵人の宗領の子へ知行四十五石を付け鹿児島へ召し置くため、相手方の高から分けるよう求める。
六月廿六日 / 冊子 458頁
島津光久の子又三郎と島津但馬守の子又四郎について上聞に達したところ、将軍の都合のよい時に順次御目見させるとの仰せが出たため、その旨を伝えるよう命じた松平信網達書。
天正二年正月三日 / 冊子 328~329頁
天正元年十二月以来の平床対陣を承け、天正二年正月三日に肝付軍が高隈山を越えて牛根城前の茶園尾へ陣取ろうとした際、島津忠長と川上久信が軍を励まして撃退した。島津方は茶園尾を占領して牛根城に迫り、城方へ安楽備前守の名を詠み込んだ狂歌を矢で射送った。
天正二年正月三日 / 冊子 330頁
天正二年正月三日、肝付兼続の軍勢が高隈山を越えて茶園尾へ陣取ろうとしたが敗走し、島津勢が同地を占領したと記す。早崎城兵が安楽備前守の姓氏を題に狂歌を作り、矢に書いて敵陣へ送った逸話を載せる。底本欠損のため鹿児島県立図書館本で補われた記事である。
(天正四年)六月廿九日 / 冊子 479頁
近衛前久が伊勢貞知に、今回の在国中に児玉備前守が示した奉公は神妙であったと心得、その旨を本人へ伝えるよう命じた内意書。
天正五年十二月七日以後 / 冊子 522~523頁
野尻地頭福永丹波守の伊東義祐への怨恨を上原尚近が察し、竹内備前守らを介して内応を誘った経緯を詳述する。伊東方に謀書を拾わせて福永への疑念を煽り、十二月七日夜に六十五人の先陣が野尻城へ入り、義弘も入城した。戸崎・紙屋・富田・佐土原へ進み、伊東義祐の豊後逃亡後、五日ほどで日向を制した。
年月日未詳 / 冊子 330~331頁
羽柴秀長の大軍が日向高城を囲むなか、北郷時久(一雲)が義久・義弘に従って根白坂の豊臣方陣地を攻めた事績を記す。敗退時には久保・頴娃久虎らが踏みとどまり、来住備前守が戦死するなど、援兵のない窮地で激戦となった。五月八日の和睦後、義久が秀吉から薩摩一国を認められ、同月十六日に時久へ書状を与えたところまでを述べる。
(文禄2年)正月20□ / 冊子 665~666頁
石治少の切手を持つ使者に書状を託し、確かな便で早く帰すよう依頼する。あわせて、彫物のある備前三郎国宗の刀をこの使者に与えてほしいと重ねて願い、他人へ渡っている場合も入手できるよう才覚を求める。 刀を陣中へ持参した際の受渡方法まで指定しており、名刀への強い執着と人を介した入手交渉が具体的に見える書状。
(慶長五年)九月十四日 / 冊子 576頁
島津忠長と比志島国貞が連署し、竹内備前守は前年の庄内合戦で分限に応じない人数を率いて奉公し、今後も用に立つ者であるため知行を与えるべきだと述べる。当人をこちらへ召し移す意向であるが、現在その地で番を勤めているので現地で召し抱え、庄内での奉公の様子は本人から聞くよう求める。
年月日未詳 / 冊子 592-593頁
十月三日、島津忠倍らは海陸から進み佐敷浦へ船を出したが、加藤方の井口伊賀が十八艘の兵船で襲来した。竹内備前守実康父子の小舟一艘と合力して戦い、忠倍は名と年齢を記した矢を放って敵二人を倒したが、忠倍をかばった蒲尾勘解由貞清が鉄砲で討死し、ほかにも負傷者が出た。夕刻に双方が退き、十二月には忠倍父子が宮城へ移った。
年月日未詳 / 冊子 389頁
島津家久の長女が慶長十八年二月十五日に生まれ、母は家臣島津備前忠清の娘で、元和元年三月十五日に三歳で死去したことを記す系譜記事。
(慶長十九年)十月十三日 / 冊子 553頁
長年奥方で奉公する江田藤右衛門の老齢と辛労をねぎらい、大窪備前守を交代要員として上らせたので、到着後は帰国してよいと伝える。大坂情勢も熟談して報告するよう求める義弘書状。
寛永五年十二月十五日 / 冊子 75~76頁
島津久元・喜入忠続が、市来備前守への加増知行百石、鎌田播磨守の本高三百九十石、恵灯院五十石、月江院三十石、新納刑部太輔の大口方面の替地二百五十石余について支配を命じる連署書下。
(寛永九年)四月十一日 / 冊子 260~261頁
伊勢貞昌と島津久元が、島津家久の四月二日の江戸到着、翌三日の酒井忠世・土井利勝の来訪、備前宰相の疱瘡死去で四日から十日へ延期された将軍家光への謁見、兵糧三千俵拝領の経緯を報じ、加治木の子供たちの疱瘡を案じた連署書状。
九月廿三日 / 冊子 52(本文は325参照)頁
進藤長治が、伊地知備前守の上洛に際して寄せられた書状と音信への礼を島津相模入道へ述べた書状。今後も京都での用向きに尽力することを約束する。本文はNo.753と同文のため本箇所では省略され、参照先本文で内容を確認した。
九月廿三日(永禄中ナラン) / 冊子 325頁
進藤長治が島津忠良に、伊地知備前守の上洛に際して届いた音信について礼を述べる。今後も京都での用務・奔走を肝要とする旨を承知し、自身もその意を心得て申し伝えるとした書状。
九月廿三日 / 冊子 403頁
進藤長治が、伊地知備前守の上洛に伴って白糸五斤を拝領したことに謝意を述べ、返礼として春日野百返を進覧した書状。
七月廿五日 / 冊子 124頁
江戸の奉公では他国の批判を招かぬよう中間・小者まで厳しく統制し、不正は朋輩のことでも遠慮なく申し上げるよう求めた。また病気の五兵衛に代えて大窪備前守を派遣し、帰国時は道中の養生に注意するよう指示した書状。
七月廿七日 / 冊子 172頁
備前守が到来したとの知らせを受け、油断なく稽古を続けるよう勧め、翌年には自身も下向するので待つよう伝えた。贈物は当地で仕立てたため十分でないと断りつつ先に送り、婚礼後の祝い直しについては改めて使者を立てるとした江戸発の書状。
十二月二日 / 冊子 278頁
関東の伊奈備前守から使役していた女性について連絡があり、老中へも事情を伝えたので、その女性が薩摩領内にいるなら支障なく通行させてほしいと頼んだ山口直友書状。
天正二年正月十八日~廿七日 / 冊子 329頁
天正二年正月十八日から牛根城の切岸を昼夜掘り進め、城内まで道を通したため、守兵が降伏を請うた経緯を記す。十九日夜に停戦し、翌日人質を交換、二十二日に新納忠元が入城、二十七日に義久が早崎陣から帰還した。続いて伊東・肝付・伊地知勢の禰寝侵攻と喜入季久らの迎撃も記す。
天正二年正月三日~十九日 / 冊子 331頁
天正二年正月に霧島山の神火が天地を動かしたこと、正月三日に茶園ヶ平へ着陣したこと、同十九日に牛根城が島津方へ渡されたことを簡潔に記す。
年月日未詳 / 冊子 917頁
桂忠昉譜は、関ヶ原後に薩摩へ潜居した宇喜多秀家が徳川家康の召しに応じて上京する際、桂忠昉が海陸の警衛を命じられたと記す。無事に任務を果たして帰国し、島津忠恒から感状と宝刀を与えられた。
慶長八年十一月十八日 / 冊子 917頁
島津忠恒が桂忠康へ、宇喜多秀家の上洛警衛を命じたところ、怠りなく即座に出立して任務を果たした忠節を賞する感状。功績を永く忘れないとして、信国作の脇指を与えた。
年月日未詳 / 冊子 719頁
将軍足利義尚が、検見頭巾を着けた小柄な川上義久の大馬騎乗を面白いと評し、川上家には一流の術があるので京都小笠原流に及ばないものではないと扇に記した賛。犬追物で名を上げた功により島津立久から高江・寄田・宮崎計五十町を賜った由来も付記する。
正中二年三月廿三日 / 冊子 531~532頁
備前国豊原庄雑掌宗朝の訴えにより、狼藉人犬甘彦六郎らの追捕を命じた六波羅御教書。重ねて狼藉を働いた者を追い出し、狼藉の実否を調べて請詞を提出させ、庄務を妨げないよう処置を求める。
元禄三年一月十一日 / 冊子 852頁/整理ID 旧記雑録追録1_文書2266
綱貴が中山備前守へ、年始祝詞の使者を通じて太刀一腰と馬代黄金十両を下されたことへの謝意を述べ、その礼をしかるべく伝えるよう依頼する。十両は金額であり生馬数ではない。
嘉永六年八月十九日(本文)、十一月廿二日(付箋の達し) / 冊子 142~143頁/原整理番号 206/整理ID 206
倹約を行いつつ海防一筋に力を尽くす命令を受け、軍船と蒸気船の製造許可等を願う。厳しい台場で外国船を打ち払っても遠沖への追打手段がなく、無法に追い掛ければ勝利が見通せないとして、堅固な軍船と蒸気船を備えて国の制禁を守りたいとする。前年家来が蒸気船製作の工夫を相談し、このたび本望の至りと申し出たので、皇国と琉球のために両様の製造を許されたいと願う。乗習い、海外海路、オランダの軍事書・大小炮その他の用品も役立ち、翻訳書を読んでも実戦経験はなく、利器新法を現地で試して習う必要があると述べる。奉行・小横目による注文取調めも願い、国恩に応えるため厳重な手当を訴える。嘉永六年八月十九日・御名で結び、付箋は同年十一月二十二日に老中牧野備前守から、軍船・蒸気船製造に支障なく、船形・間数を絵図へ記し船数も調べてさらに伺うよう達しがあったと記す。
正文月日しれず・正月か(原注);旧臘24日の来船への言及 / 冊子 330頁/原整理番号 466の2/整理ID 466-2
前条への返書。旧臘廿四日に赤間関沖へ来た外国船が御手船だったとの風説の照会について、長崎製鉄所から預かった蒸気船が損傷の修復のため兵庫から長崎へ向かい、旗章を立てていたと説明する。長州臺場から激しい砲撃を受け、小倉領の江村青濱沖へ戻り碇泊中、釜屋から出火し焼失したとの乗組員の報告を伝える。まず事実を確認し役筋へ早く報告してほしいとする。島津大藏・喜入摂津・川上但馬の三署、宍戸備前宛で他は略す。追啓は小松帯刀・川上式部が上京中のため連名していないと記す。月日しれず・正月かという原注を保持し、船の損傷・出火原因は返書側が伝える説明として扱う。
慶長八年十一月廿八日 / 冊子 32頁/原整理番号 247
米良備前入道に、隅州曽於郡下財部村内の西大河原之門ほか合計六十石を加増として配分した知行目録。伊集院抱節久信と山田理安有信が連署する。慶長八年十一月廿八日付。
年月日未詳 / 冊子 666~667頁
大永六年十一月十二日、島津忠兼が使者を通じ、忠良の長男虎寿丸を猶子として家督を譲る意向を伝えた経過を記す。忠良は村田越前守・土持伊豆守・梶原備前守らの仲介にも再三辞退したが、最終的に受諾し、虎寿丸が貴久として継承する。
天正二年 / 冊子 324~326頁
天正二年の島津氏の動向を編年で記す。牛根城救援軍を茶園尾で退けて安楽備前守を降し、禰寝方面の伊東・肝付軍を撃退したほか、足利義昭からの援助要請、入来院重豊の献地、江月斎来訪、北郷時久への盟書、義虎・天草氏との交渉、菱刈氏の処分、肝付兼亮・伊地知重興の帰順などを載せる。
天正元年七月~天正二年正月 / 冊子 334~336頁
平床陣への肝付・伊地知勢の来攻、茶園ヶ尾の戦い、七月の諏訪祭礼で軍役が手薄になった隙を突く夜襲、家久の奮戦を叙述する。さらに敷根頼継の進言で牛根城攻めを継続し、義久の狂歌矢、切岸掘削、安楽備前守の降伏、肝付・伊地知両氏の帰順と城地配分に至るまでを記す。
天正八年十月十五日~十一月九日 / 冊子 678頁
天正八年十月十五日、島津方の兵船数百艘が矢崎城下へ着き、鬨の声を上げ火矢で放火して攻め上った。中村一太夫ら城兵は妻子を殺して切り出て戦い、島津方も市来備前守ら多数が戦死した。翌日青田城を和議で開城させ、城兵を阿蘇領へ送り、宇土で負傷者を養生し戦死者を弔った後、二十九日に熊本へ陣替えした。
年月日未詳 / 冊子 155頁/原整理番号 277-2
松井興長が立花ら諸将へ、火用心を何より肝要として各組・配下へ厳命し、火事が起きる前に火元を粗略に扱う者を処罰する方針を周知するよう命じた二月二十日付の達。
享保六年五月九日 / 冊子 466頁/整理ID 1248
嶋津備前忠清らに宛て、伊集院・日當山・川内高城などにわたる高五拾斛の知行を認める連署目録。
安永二年十二月(年は朱、日なし) / 冊子 417~418頁/原整理番号 1145/整理ID 1145
一門家の座席はその時々の御間柄によって定めることがあるとする。ただし座順が変わっても家格そのものは変わらないので、以後は家格に応じて座配するよう定める。備前殿はその身分が格別であるため、一世は上席とする。備前には忠貴の男子・貴儔との注。以上を命じられたと伝え、この旨を帳面に記して置くよう御記録奉行へ申し渡すことを求める。末尾は朱の安永二年十二月、主馬に喜入久福の注。正文は文庫、白木御文書五番箱中の出典を記す。家格、折々の座順、備前殿一代の例外と記録を区別する。
日付記載なし(天明七年三月二十六日証状の別紙) / 冊子 962~963頁/原整理番号 2603の2/整理ID 2603-2
備前清真の脇差一腰について、長さ九寸六分半、表裏に刀樋があると記し、代金二十枚の折紙を添えるとする。鎺は上下金、二所物は色絵で「橘裏哺」と記し、柄鮫は白、星目釘は金、鞘は蠟色、鵐目は金、小刀は美濃守藤原政常と列記する。下緒は紫、袋は純子と記す。
文化4年10月廿日(朱年注) / 冊子 287頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0914
重陽の御内書を渡すので、明日五半時に家来を御城へ差し出すよう通知する。10月廿日、牧野備前守署、松平榮翁宛。文化4年の朱注があり、重豪公御譜中、正文在文庫の表示を付す。書状の日は20日で、家来を出すのは翌日と区別する。本文には忠精の実名表記はなく、署名は官名のまま採録する。
12月廿日(本文。文化4年記事群)、明日四時差出 / 冊子 290頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書0922-2
国許到着御礼の使者川上右近を、明日の四時に御城へ差し出すよう通知する。12月廿日、牧備前署、松平薩摩守殿留守居宛。包紙も同宛名。独立年記は本文にないので文化4年記事群と明示する。前の14日書状の翌15日五時指定と区別し、この書状は20日付・翌日四時指定として別枝番号を保持する。