安宅秀安書状
文禄4年9月15日 / 冊子 913~915頁
秀安は唐島での番船捕獲や、明軍が籠る朝鮮の城を島津勢が攻めて多数を討ち取った戦功を祝う。 弓次郎の高麗出陣、伏見での留守役、軍役人数と知行、上洛・国元での処遇などを詳しく論じ、朝鮮戦役と家臣の軍役負担を結ぶ長文書状。
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文禄4年9月15日 / 冊子 913~915頁
秀安は唐島での番船捕獲や、明軍が籠る朝鮮の城を島津勢が攻めて多数を討ち取った戦功を祝う。 弓次郎の高麗出陣、伏見での留守役、軍役人数と知行、上洛・国元での処遇などを詳しく論じ、朝鮮戦役と家臣の軍役負担を結ぶ長文書状。
六月三日 / 冊子 275頁
島津勝久が、入来院殿の伝言、石州への連絡と廻船者の保護・入国、双方の礼や軍勢派遣、山事・所用の処置について詳しく指示した書状。
「天文五年」六月三日 / 冊子 753頁
島津勝久が大山・東條両名に、入来院方からの報告、使節の礼、石州方面の連絡や船員不足などを述べ、今後の協力を求めた書状。
応永七年三月二日 / 冊子 193頁
島津元久が島津美濃守へ、日向国臼杵院内の左馬助跡と、同国宮崎郡内の戸次丹後守跡について、御下文の旨に任せて領知するよう命じた書下。
応永廿年四月廿九日 / 冊子 279頁
島津久豊が樺山安藝守に、日向国宮崎郡の戸次丹後守旧跡について、御下文の旨に任せて領知するよう安堵した文書。
永禄十一年二月廿八日~三月廿三日 / 冊子 192~193頁
永禄十一年二月二十八日、小苗代原で敵が不意に出た際、新納忠元が薬師堂の板に詩句を書き終えるまで動かず、家臣久保勝八に引き退かされた直後、竹添丹後守の鑓で左脇を突かれた逸話を載せる。忠元はなお敵三人を討ち、自身も六箇所の傷を負ったため、貴久から使者を通じて感賞と見舞いを受けた。三月二十三日の曽木・市山攻撃では、未平癒ながら出陣し白坂と永福寺口の守備を指揮した。
永禄十一年八月十九日~十二月十三日 / 冊子 203頁
大口方の勢力が増すなか日新が重病となり、義久が馬越城で諸所を警戒し、貴久は十一月に菱刈から加世田へ移って看病した。その隙に敵が川上丹後守・堀内某を討ち、救援した是枝大膳坊も戦死した。相良・菱刈両氏は感応寺を介して和睦を求めたが成立前の十二月十三日に日新が七十七歳で没した。貴久は日々供養し、翌年の四七日忌に梅花と追悼歌を献じた。
元亀三年五月四日 / 冊子 268~273頁
伊東義祐が島津氏の伸長を恐れ、元亀三年五月四日に大軍で飯野・加久藤を攻めた木崎原合戦を長文で叙述する。島津義弘は少数の兵を励まして横撃し、退却を装う戦法と援軍によって伊東文次郎・加賀守らを各陣で破り、自ら柚木崎丹後守を討った。伊東方の多数の戦死者、遺族や国人の動揺を記したのち、林翁粛の諫言や落書を引き、伊東義祐の佞臣偏重・賄賂・奢侈・苛政が敗北と国政混乱を招いたと論評する。
年月日未詳 / 冊子 503~504頁
慶長五年正月廿八日の庄内山之口攻めで、松元権兵衛尉が日中三度敵を追い込み、柵を越えて戦った際に矢傷一か所を負ったこと、その立会人が調所丹後守・渕田右衛門尉・少将殿であったことを記す覚書。
年月日未詳 / 冊子 598頁
関ヶ原合戦後、伊東氏が高橋氏領の宮崎城を奪った際、長倉三郎兵衛尉が北郷忠能の家臣・小杉丹後守へ書状を送り、島津家は徳川家康の恨みを受けているので北郷家が徳川方へ忠節を示すよう勧めた。忠能は応じず、その書状を鹿児島へ提出した。
年月日未詳 / 冊子 599頁
宮崎城主権藤とその子二人の首級を、小杉丹後守が山伏の一学坊を使者とし、検使の宮川を同船させて、筑後国水田に置かれた黒田如水(円清)の陣所まで届けさせたことを記す。続いて如水の返書を掲げる導入記事である。
元亀三年五月四日 / 冊子 265~266頁
元亀三年五月四日の木崎原合戦を記す。伊東方数千が飯野を越えて加久藤を攻めたため、島津義弘は四、五十騎で木崎原を遮り、久富・遠矢らと迎撃した。長峯氏や伊東文次郎・落合源左衛門らを討ち、田原陣・鬼塚原へ追撃して義弘自身も強敵二人を斬った。島津方にも鎌田大炊助らの戦死者を出したが、少数で伊東方の大軍を破った勝利を天助と評する。
元亀三年五月四日 / 冊子 281~290頁
島津義弘の飯野入城から桶平伏兵戦を経て、元亀三年五月四日の木崎原合戦を詳細に叙述する。義弘は加久藤救援・野間門・鳥越・本地原に部隊と伏兵を配し、伊東新次郎を自ら討ち、五代勝左衛門らが伊東加賀守を討って敵軍を崩した。戦場地形・討取人数・六地蔵・太刀洗川の由来、白鷺を白旗と誤認して退いた相良援軍、間者を見破った死苦村彦六左衛門と褒賞地、三徳真成の祈祷・調伏や後世の伝承・編纂経緯まで収める総合的な合戦記。
年月日未詳 / 冊子 379頁/原整理番号 348の9
平田宗直方が十九日に小松原へ着き、船と加子を改めた結果、余剰水手約四十人がいたことを相良丹後守へ報告した書状案である。翌日出船の予定と、今後の変更があれば追って注進する旨を述べる。
年月日未詳 / 冊子 774頁
天文八年三月十三日の紫原合戦で貴久方が敗れた後、平田式部少輔の要請を受けて翌日から本城・神前城を攻めた経過を記す。忠将・松崎丹後守らが加わり、攻城と交渉を重ねて和談を成立させ、新納近江守忠勝らを降参させた。
年月日未詳 / 冊子 2頁
蒲生北村の敵が帰順を装って島津軍を誘い出し、弘治元年正月二十二日に貴久・義久が吉田から出陣したところ伏兵に遭った。弟子丸播磨守・指宿丹後守以下十八人が戦死し、十九歳の歳久も負傷したと記す。
年月日未詳 / 冊子 3頁
弘治元年正月、屋形様父子が吉田まで出陣したが、北村勢の偽計により味方が敗軍した。弟子丸播磨守が退かずに討死し、指宿丹後守・敷根源八兵衛らも戦死したことを記す。
永禄十一年五月~十二月十三日 / 冊子 203~204頁
大口方の勢力増大と島津方の戦死者増加を受け、日新の意見に従って山野を相良氏へ渡し和睦した。その後、菱刈方は堂崎に陣を築いて平泉への通路を断ち、田中川内の伏兵が番替えの川上丹後守・堀内氏を討った。相良・菱刈両氏は感応寺を介して再三和睦を求めたが、許可される前の永禄十一年十二月十三日に日新が没した。貴久は十一月から加世田で病床に侍していた。
(元禄十年)四月晦日 / 冊子 273~274頁
元禄十年、記録奉行の求めに応じて加久藤の噯役四人が提出した木崎原合戦由緒書。伊東方が槍掛口から加久藤城へ攻め込み、樺山常陸坊父子と城番衆が戦死したのち、不動寺の僧が鉄砲で米良筑後守を撃って敵陣を崩したとする。島津義弘の木崎原での奮戦、五代勝左衛門による伊東加賀守討取、粥餅田での柚木崎丹後守討取までを伝える。
元亀三年五月四日 / 冊子 274~279頁
日向側の記録として、元亀三年五月四日の木崎原合戦と敗戦後の状況を詳述する。伊東方は加久藤を攻めた後、統制を失った退却中に島津義弘の横撃を受け、伊東加賀守ら諸将が次々に引き返して戦死した。所属別の戦死者名と、加賀守・別府宮内少輔・荒武兄弟・柚木崎丹後守らの最期や遺言を収める。敗戦後に起請文を確認すると従来の軍規と異なり、最初から一所討死を誓っていたとの不審も記す。
天正六年 / 冊子 535~536頁
天正六年に島津方として戦死した者を月日・戦場別に列挙する名簿。三月の石城方面、十月二十三日の三原衆反乱、十一月十二日の高城・耳川合戦などの死者を中心に、福永丹後守・鎌田大炊助・伊地知式部少輔・本田親治・北郷久盛ら多数を記し、日付不詳の者も追記する。
四月十九日 / 冊子 1~2頁
土持摂津入道雲也が沢永温らに、早風殿の仮屋地が完成したことを喜び、御簾に関する相談を了承した書状。事情に不案内なので現地で調え、必要な代物は自方から進上すると伝え、留守中の紀左丹後守らの帰宅後に改めて礼を述べるとする。追而書で曾木利右衛門尉への取次ぎも頼む。
元禄十四年二月二十九日 / 冊子 276–277頁/整理ID 923
稲葉丹後守・秋元但馬守・小笠原佐渡守・土屋相模守・阿部豊後守の五名が松平薩摩守へ、翌朔日は例月の御礼がないため登城に及ばないと通知した連署状。
文政3年4月23日(本文。5月21日は帳留記録) / 冊子 577頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0108
印刷「の7」、写。維君が昨夜薙髪し、維學心院と称したので心得のため知らせると記す。四月廿三日、立野丹後守と木村左兵衛尉が連署し、志岐正左衛門に宛てる。維學心院の維には「イ」の傍注を伴う。年は文政三年の一件表紙による。続く朱書は、文政三年辰五月廿一日に安房殿から本書を下され、帳留しておくよう命じられたことを國師崎良四郎が承知した旨を記す。さらに右のとおり一冊にまとめる旨の注がある。本文の四月二十三日、本文中の昨夜の薙髪、五月二十一日の受渡・帳留指示を分けて保持し、帳留日を薙髪の日付にはしない。
二月、主君家来大村右近直行・稲田中衛照正の判表示(日不記) / 冊子 489頁/原整理番号 657の2/整理ID 657-2
布告を謹んで拝見し、君臣上下の名分を守って王家に勤めるのは当然で、天朝多難の時には一層尽力すべきだと述べる。東賊潰走・近畿穏静とする情勢を喜び、なお命を拒み私党したり両端の態度を取る者には速やかな処置が必要との見解を示す。丹後守へ早く伝えるが、主君は上京中なので自分たちから御請一通を差し出すとする。二月に大村丹後守家来の大村右近・稲田中衛が、直行・照正の判表示を伴って記す。主君への取次と家臣の回答、政治評価・忠誠の表明を分ける。
慶長5年9月15日、寛永15年1月13日・2月28日、貞享5年6月12日ほか / 冊子 277~278頁/原整理番号 108
上世不詳とする上原丹後守を祖とし、丹後守が日新公に仕えたのち中書家久に臣従し、日州佐土原で二百五十石を与えられたことから始まる上原氏系図。長野下総守の長男で上原家に入った佐太右衛門は慶長五年九月十五日の関ヶ原合戦で二十五歳で戦死し、法名を節義玄忠禅定門とする。尚辰は島津豊久に従って戦い、豊久戦死後に本城へ移り、寛永十五年正月十三日にわずか三人で米津へ至り、二月二十八日の島原で軍功を立てたと記す。後裔には傳左衛門尚堯、薬丸如水門下で示現流に関わり貞享五年六月十二日に能学寺で自殺した佐太右衛門尉、仁禮仁左衛門景治の二男である尚照らを掲げ、奉公・知行・戦死・養子の由緒を伝える。
年月日未詳 / 冊子 1~2頁
島津貴久が嫡男義久、弟忠将、子の歳久・家久を率いて北村を攻めた際、敵の伏兵に遭って歳久が負傷。翌日、北原氏の軍勢が溝辺に出たため大隅衆が迎撃し、鉄砲で敵六人を射殺、太刀で一人を討ち取った。
年月日未詳 / 冊子 3~4頁
島津貴久勢が北村で北原氏の偽装退却と伏兵に遭い包囲される。指宿右馬允と竹若丸が殿を務めて戦死し、弟子丸らも討死する一方、北原忠辰が追撃勢を攻め、貴久は退却した。翌日、北原勢が加治木・溝辺へ進出すると大隅衆が迎撃し、敵およそ二十人を討ち取る・生け捕るなどしたが、味方の足軽にも戦死者が出た。
年月日未詳 / 冊子 11頁
町田氏庶流の系図記事。町田三郎五郎が弘治元年四月朔日、隅州帖佐岩剣城の戦いで十九歳にして戦死したこと、兄の死後に新左衛門忠継が家を継ぎ、永禄十年の馬越城合戦で二十九歳にして戦死したことを記す。
弘治三年十一月廿二日 / 冊子 54頁
日向国真幸院飯野村の剣大明神の由来を記す。不動明王を本地として精舎・拝殿を建立し、毎年十一月二十二日に祭礼を行い、月三回の市を開いたこと、北原氏民部少輔の武運・家門繁栄・領内安全を祈る。
永禄十一年二月廿八日 / 冊子 192頁
永禄十一年二月二十八日、島津忠長と肝付兼寛が馬越城から市山城へ赴き、新納忠元と大口城攻略を相談した後、小苗代原で敵の偵察兵と遭遇した経過を記す。忠元・兼寛・忠長らが応戦し、新納久継が負傷、面高真連坊が鉄砲で敵将を倒した。忠元は白坂で戦って左脇を刺されたが城へ退き、城壁を越えようとした敵三人を守兵が討って退散させた。
元亀三年五月四日 / 冊子 266~268頁
元亀三年五月四日の木崎原合戦で島津方が得た伊東方の首級を、所属地・身分・被官数とともに列記する注文。大将・伊東一族、落合・長倉・米良・別府・柚木崎ら各地の武士を挙げ、確定できた首級を二百九十六、ほかに切り捨てた者は不明と記す。後世の参照用に重複を承知で旧記の人名を写したとの注記がある。
天正二年閏十一月廿二日 / 冊子 348頁
飯野剣大明神の十一面阿弥陀・薬師尊像を新造した際の裏書で、大檀那藤原朝臣忠平(島津義弘)夫妻の息災延命、子孫繁昌、院内安全、諸人快楽を祈る。本文年紀は天正二年閏十一月二十二日と読める。
年月日未詳 / 冊子 138~139頁
天正十四年正月、新納忠元が家臣を率いて大口を発し、豊後方の野尻城・高城などへ攻め込んだ戦功を記す「忠元勲功記」。城兵を討ち、城主・人質を確保して諸城を押さえ、入田氏側の人質との交換や服属処理まで進めた。諸隊の配置、城攻め、降参者の扱い、戦後の知行・褒賞を連続して述べ、新納忠元の豊後侵攻における軍事・占領実務を詳しく伝える。
(慶長十三年)六月四日 / 冊子 174頁
慶長十三年六月四日、小林家孝が島津家久に、豊臣秀頼が疱瘡から全快して節句以後たびたび出御したこと、秀忠から全快祝いの使者と太刀・馬二疋・衣類・銀子・越前綿など多くの進物が届いたことを知らせた書状。
寛永九年六月十六日 / 冊子 285~286頁
細川忠利が島津家久に、加藤忠広旧領への入国命令を受けて江戸を発つ予定、城の受取り・掃除・上使到着・国境警備等の手配を報じた。また加藤忠広が出羽庄内で酒井宮内大輔預け、その子豊後守が飛騨で金森出雲守預けとなったこと、幕府上使・目付衆の出立予定や肥後国内の引継ぎ要員を詳報した書状。
寛永九年六月廿一日 / 冊子 286頁
加藤忠広父子の改易・配謫と肥後引継ぎに関する覚書。加藤右馬頭の早打、忠広父子への処分申渡し、忠広の出羽庄内・豊後守の飛騨への移送、幕府上使・目付衆の江戸出立、熊本・八代等の城番や案内役の配置を列記し、細川忠利が署判して喜入摂津守・樺山美濃守へ送ったもの。
明和二年二月十七日 / 冊子 61~62頁/原整理番号 181の11/整理ID 181-11
大目付が二月十七日、松平右近将監から渡された書付の写二通を諸家の留守居へ送る。書付を承知し、遅滞なく順達した後、池田筑後守のもとへ返却するよう指示している。宛先は松平陸奥守、有馬中務大輔、伊達遠江守、真田伊豆守、鍋嶋摂津守、秋月山城守、大田原出雲守、毛利能登守、織田丹後守、堀田梅之丞の十家の留守居。
明和二年三月二十六日 / 冊子 76頁/原整理番号 181の40/整理ID 181-40
大目付が三月二十六日、松平右近将監から渡された書付の写し二通を送り、その趣旨を承知して滞りなく順達するよう命じる。最後の受取人から池田筑後守方へ返却するよう指示する。宛先として松平陸奥守、有馬中務大輔、伊達遠江守、真田伊豆守、鍋島摂津守、秋月山城守、大田原出雲守、毛利能登守、織田丹後守、堀田梅之丞の十名を掲げる。朱書には、当日の朝に大目付池田筑後守から廻状と写し二通が届けられ、書付を有馬中務大輔へ順達して写しを差し出した旨を記す。
明和二年四月十三日 / 冊子 82~83頁/原整理番号 181の60/整理ID 181-60
四月十三日付の大目付廻状。日光山御法会に伴う紅葉山御宮での法会日割を、十五日卯上刻、十六日午上刻、十七日寅上刻と示す。阿部伊予守から渡された書付の写し一通を送るので、順廻の最後の受取人から大井伊勢守方へ返すよう指示する。宛先は御名の家と有馬中務大輔、真田伊豆守、秋月山城守、毛利能登守、堀田梅之丞、松平陸奥守、伊達遠江守、鍋島摂津守、大田原出雲守、織田丹後守の留守居。朱書には、今朝大井伊勢守から借り受けたため、本書を有馬中務大輔方へ順達し、写しを差し上げたと記す。法会の時刻通知、写しの送付・返却指示と、朱書による受領・本書順達・写上の記録を分けて示す。
11月26日 / 冊子 422~423頁/原整理番号 393の1
熊次を飛脚として相良丹後守へ送る。小松原・小湊・小浦・片浦で船を改めて出船させ、船数は別紙に記したと報告する。市来湊には今晩着く予定で、順風により船は明日阿久根へ着く見込み。市来では船に対して水手が不足するため、京田・帆之湊・小野原・亀之川から加子を追い立てる。天草の情勢や相談結果の詳報を求め、自身も出船するので阿久根・出水の状況と水手の飯米支給等を伝えるよう依頼する。
年月日未詳 / 冊子 135~136頁
松平石見守・生駒壱岐守の家中で切腹を命じられた者を列挙した書立。伊木野伊織以下の家臣を、相馬大膳・仙石越前守・丹羽左京・真田伊豆・京極丹後守・松平出羽守・森内記らの預け先ごとに掲げ、切腹者のほか追放・仕置に関わる者も記している。張紙・墨書で『此名書ハ御譜中ナシ』との注記があり、本文135頁から136頁上段まで続く。
元禄十四年四月十二日 / 冊子 295頁/整理ID 970
元禄十四年四月十二日、上使稲葉丹後守義雅が綱貴へ上意を伝え、恩賜も例年のとおりであった。その後、綱貴は登営して謝礼し、馬一匹を賜ったと記す記事。
元禄十四年四月十四日 / 冊子 295頁/整理ID 972
稲葉丹後守(正往傍注)が松平薩摩守へ、家来の嶋津中務を翌十五日五時に城へ差し出すよう命じた書状。
元禄十四年八月三日 / 冊子 321–322頁/整理ID 1050
稲葉丹後守正通・秋元但馬守喬朝・小笠原佐渡守長重・土屋相模守政直・阿部豊後守正武の五名が松平薩摩守へ、八朔祝儀として使者により献上された太刀一腰・馬代黄金十両を首尾よく披露したと報告する。
元禄十六年五月十四日 / 冊子 427頁/整理ID 1454
稲葉丹後守・秋元但馬守・小笠原佐渡守・土屋相模守・阿部豊後守の五名が松平修理大夫吉貴へ、明十五日五半時に登城し、参府の御礼を申し上げるよう命じる。五月十四日付。
元禄十六年五月二十七日 / 冊子 427頁/整理ID 1455
稲葉丹後守・秋元但馬守・小笠原佐渡守・土屋相模守の四名が松平薩摩守綱貴へ、家来の嶋津助之丞(忠守と傍注)を、明二十八日五半時に登城させるよう命じる。五月二十七日付。
明和二年四月十七日(本文) / 冊子 86~87頁/原整理番号 181の72/整理ID 181-72
四月十七日、本坊で御太刀目録・金馬代を献納する者の名順を、侍従以上として書き付ける。松平加賀守・松平讃岐守・御名から、諸大名と隠居、喜連川金王丸・喜連川秀翁までを列記する。松平越前守には「服」、井伊掃部頭と松平右近将監には「於御宮献納」の注記がある。隠居については、松平空山を内蔵頭隠居、松平監物を左京大夫隠居、松平丹後守を信濃守隠居、松平杢頭を阿波守隠居、松平但馬守を安藝守隠居、宗式部大輔を対馬守隠居、酒井靈岳を修理大夫隠居と注記する。個別の服・御宮献納・隠居の注を名順とともに保持し、全員が同じ場所・条件で献納したと一括しない。
寛政4年10月20日(本文) / 冊子 108頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書無番号_0014
麻布山谷町吉兵衛店の浪人鈴木清七方の願いを、妻ぎんが申し立て、家主吉兵衛が添印した願書。実の娘かよが当年22才であり、書院御番頭長谷川丹後守組の佐野善次郎を当宿として御屋敷奥へ奉公に出したが、以後の安否が分からないと訴える。善次郎へたびたび取次を頼んでも便りがなく、役人衆を通じてかよの安否を知りたいとする。御屋敷へ直接訴え、娘と面談し、差し置かれた次第を聞くよう慈悲を願う。寛政4年壬子10月20日、鈴木清七願付代として妻ぎんの願人記載、家主吉兵衛印、松平豊後守方役人衆宛。これはぎん側の願いで、娘の実父・身分をここで確定した裁定ではない。
天保3年春(米寿祝賀作品群。作品に月日なし) / 冊子 903頁/整理ID 旧記雑録追録7_文書2542
丹後守藤原隆徳が島津重豪へ贈った和歌。「春日詠老祝」の題を置き、うららかに霞む野辺に咲く花にも、さらに百年を重ねて君の行く末が栄えることを願う。作者署名は藤原隆徳で、朱注が九鬼と補う。正文所在は前掲作品と同じことを「全上」で示す。天保三年の米寿祝賀作品群に属し、作品に具体的な月日はない。