八重尾某祈願神事次第注進状
年月日不詳 / 冊子 80-81頁
八重尾氏が、天正十六年以降に行った祈念・神事を年代順に記した文書。心経千巻、木之山神への祈念、榊・柴・しめ、各山神への奉納、参詣、差刀の上申などを年月ごとに列挙する。
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『旧記雑録』前編・後編・附録10冊と追録1~8(暫定版)、『旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集1~9』『家わけ1』(暫定版)、関連史料(外伝)『島津世禄記』の46,754件を横断検索できます。検索範囲は史料群・巻を組み合わせて選べます。結果は50件ずつ表示します。
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年月日不詳 / 冊子 80-81頁
八重尾氏が、天正十六年以降に行った祈念・神事を年代順に記した文書。心経千巻、木之山神への祈念、榊・柴・しめ、各山神への奉納、参詣、差刀の上申などを年月ごとに列挙する。
元亀三年正月十九日~二月廿九日 / 冊子 263頁
壬申年の軍事記事として、正月十九日の小村で肝付方の兵船二艘を奪い岸良治部少輔以下約二十人を討ったこと、飯野・三山境で敵八人を討ったこと、二月二十日に廻・市成境の野伏で肝付越後守以下約二十人を討ち、同二十九日に境・二川を破却したことを列記する。本文の年号表記には矛盾がある。
永禄九年十月廿六日 / 冊子 151~153頁
永禄九年十月二十六日の三山合戦で戦死した島津方将兵を多数列挙した交名抄。阿多中務允久宗、末弘又左衛門尉、本田治部少輔、本田興五郎、鮫島文左衛門宗明らをはじめ、各地・各家に属する人々の名と戦死注記を載せる。
明治4年7月4日~明治6年8月 / 冊子 829頁/原整理番号 1043/整理ID 1043
明治四年七月、島津忠義が国事について建言し、十四日に参朝して廃藩置県の詔書を拝受し、同日鹿児島藩知事を免ぜられた。その後の参朝、天盃・賞典、華族への諭告等を経て、明治六年八月に鹿児島へ帰るまでを記す。
元亀三年五月四日 / 冊子 265~266頁
元亀三年五月四日の木崎原合戦を記す。伊東方数千が飯野を越えて加久藤を攻めたため、島津義弘は四、五十騎で木崎原を遮り、久富・遠矢らと迎撃した。長峯氏や伊東文次郎・落合源左衛門らを討ち、田原陣・鬼塚原へ追撃して義弘自身も強敵二人を斬った。島津方にも鎌田大炊助らの戦死者を出したが、少数で伊東方の大軍を破った勝利を天助と評する。
年月日未詳 / 冊子 120頁
永禄六年、島津貴久が飯野へ赴き、二月十日に三山の伊東勢を攻めて勝利したことを記す。北原兼親の飯野入城後、島津・相良両方の兵が守備し、十一月十六日には貴久が肝付兼盛の飯野での功を感賞した。
永禄六年二月十日 / 冊子 121頁
永禄六年二月十日、守護方の軍勢が三山へ進み、敵陣を破って勝利し、多数の敵を討ち取ったことを記す年代記事。新藤殿が下向したことも付記する。
永禄六年二月十日 / 冊子 121頁
永禄六年二月十日、島津貴久が薩摩・大隅両国の軍勢を三山城へ向けて伊東勢と戦わせ、多数の首級を得たことを記す。球磨へ退いていた北原兼親を真幸へ復帰させたのち、薩摩国伊集院上神殿村へ移した。
年月日未詳 / 冊子 121頁
貴久の飯野在陣と三山での勝利後、北原兼親の伯父が吉松城へ相良兵を招き、伊東氏と通じて島津方番兵を討とうとした陰謀が露見した経過を記す。兼親の勢力が衰え、相良氏も領地を狙ったため、兼親を上神殿村へ移し、真幸院を島津家直轄とした。
年月日未詳 / 冊子 121~122頁
永禄六年、貴久が飯野へ赴き、三山へ軍勢を送って勝利したことを記す。北原兼親の伯父が相良兵を吉松へ入れて島津方番兵を討とうとした企てが露見し、兼親の側近も離反したため、兼親を伊集院へ移し、真幸院を島津家領として義弘を飯野に置いた。
永禄九年 / 冊子 141~142頁
永禄九年、島津貴久が将軍足利義輝一周忌のため二月彼岸に剃髪し法名を称したことを記す。六月の肝付氏による岩川攻撃、九月九日の霧島山火災、伊東氏の三山築城と飯野侵攻計画を述べ、十月二十六日に義久を大将、義弘・歳久を副将として三山を攻め、義弘が重傷を負って退いた経過を載せる。
永禄九年二月彼岸・三月・十月廿六日 / 冊子 146頁
永禄九年、島津貴久が将軍足利義輝一周忌のため二月彼岸に剃髪したこと、三月に福昌寺で季節外れの桜が咲いたことを記す。十月二十六日には島津勢が三山を攻め、城周辺を焼いたものの落城には至らなかった。
永禄九年十月 / 冊子 150頁
永禄九年十月、日新の孫である義弘・歳久が大将として軍勢を率い三山城を攻めたが、城壁が堅固で陥落させられず、多数が戦死したことを記す。日新が戦没者の成仏を願って詠んだ弔歌二首を載せる。
永禄九年十月廿六日 / 冊子 150~151頁
伊東義祐が三山に要害を築き飯野侵攻を企てたため、永禄九年十月二十六日、義久を大将、義弘・歳久を副将として大軍で攻撃した経過を記す。諸将が奮戦したが義弘が深手を負い、阿多中務丞・末弘又左衛門尉・本田治部少輔らが戦死し、城を落とせず退いた。
永禄九年十月廿六日 / 冊子 151頁
伊東義祐が三山城を拠点に飯野侵攻を企てたため、永禄九年十月二十六日、義久を大将、義弘・歳久を副将として三山城を攻めたことを記す。義弘が強敵と戦って深手を負い、将士が動揺したため落城させられず退却した。
永禄九年十月廿六日 / 冊子 152~153頁
伊東義祐が三山城を築いて相良氏と通じ、飯野侵攻を企てたため、永禄九年十月二十六日、義久を大将、義弘・歳久を副将として数万騎で攻めたことを記す。勝利を得たものの義弘が深手を負ったため、城を落とさず退去した。
永禄九年十月 / 冊子 154頁
本文ではNo.343と同文のため省略される記事。永禄九年十月、義弘・歳久が三山城を攻めたものの堅固な城壁のため落城させられず、多数が戦死し、日新が戦没者の成仏を願う弔歌を詠んだ内容に当たる。
天正二年十月二日~五日 / 冊子 345~346頁
天正二年十月二日、大乗院法印に法華経一千部を百十人の僧と十日間で読誦させたことを記す。続いて五日、菱刈氏の使者へ、蒲生救援、横川城・三山城・馬越城をめぐる過去の背反や義弘暗殺未遂を列挙して責め、再度の叛逆なら滅亡は免れないとして居所を替えるよう求めた。
天正四年 / 冊子 470~471頁
天正四年の記事を編年で記す。近衛前久の鹿児島滞在と犬追物・和歌連歌、高原城攻めと伊東方の開城、三山・須木の降伏、肝付方の南郷敗戦と志布志・櫛間の守備、下大隅巡行と地頭配置など、島津氏の軍事・外交・文化活動を収録する。
天正四年四月・八月 / 冊子 478頁
天正四年四月、近衛前久下向中に義久が初めて催した歌合へ新納忠元も召された。八月の高原城攻めでは十三歳の嫡子忠実が大手城戸口から先駆けて負傷し、敵将にも称賛された。落城後の三山城勝鬨では忠元が太刀を進上した。
天正四年八月十九日~廿八日 / 冊子 483~485頁
天正四年八月の高原城攻めを詳述する。義久は霧島祭祀と領内防衛のため出陣し、城の水路を断って攻囲、家久・忠長らが鎮守尾に陣した。人質交換後に伊東方が開城し、高原・三山・須木など八か所が島津領となり、義久は三山を義弘に与え、上原尚近を高原地頭とした。
天正四年八月十九日~廿八日 / 冊子 485~487頁
島津義弘の視点から高原城攻めを記す。義弘が伊東方の越境を止めるため出兵を義久へ提案し、諸軍を率いて進発した。門壁攻略と断水の後、家久・忠長を中心に人質交換を整え、伊東新二郎以下が退城、高原・三山・須木など八か所を獲得し、義弘は三山城に入った。
天正四年八月十九日~廿三日 / 冊子 487頁
天正四年八月十九日の高原城攻めで、家久が義弘・歳久・征久・忠長と軍功を挙げたことを記す。二十一日には忠長と鎮守尾に陣して敵将の降伏申出を義久へ伝え、人質交換を行い、二十三日の退城後、三山城で凱歌を唱えて散軍した。
天正四年八月十九日~廿八日 / 冊子 487~488頁
天正四年八月十九日、義久が大軍を率いて高原城を攻め、征久が義弘・歳久・家久らと軍功を挙げた。二十三日に城兵が降伏退去し、二十八日には三山などの敵城が義久の手に入ったことを祝して太刀を献じた。
天正四年八月十九日~九月三日 / 冊子 488頁
北郷時久が一万の兵を率いて江平へ進み、高原城南口を攻めて家臣数十人を失ったこと、三山・須木・奈佐木が降伏したことを記す。戦後、上井覚兼が三山へ来て時久の武功を賞し、田野城攻略の人数・敵情と神慮を探るよう命じた。
天正四年八月 / 冊子 488頁
天正四年の領域変動を簡潔に記す。島津氏が高原・三山を領有し、伊東氏は野尻を保持した。さらに福島・志布志を得た一方、肝付氏は高山・姶良・内之浦・岸良を残し、禰寝氏に姶良・西俣を与え、鹿屋・串良・大崎は島津方が掌握した。
天正四年八月廿八日 / 冊子 488~489頁
天正四年八月二十八日、島津義久が義弘の多年の軍功を賞し、三山を与えたことを記す。その祝儀に島津義虎が良馬を献じた。
天正四年八月十六日~九月 / 冊子 490~493頁
義久の鹿児島出発から高原城攻囲、開城、戦後処理、帰陣までを日次で詳述する軍記。門壁を破って水路を断ち、人質交換後に伊東方が退城、周辺諸城も帰属した。野尻への示威、三山での勝鬨と義弘への宛行、相良・天草の祝使、白鳥権現参詣を経て鹿児島へ凱旋した。
天正四年八月十六日~九月 / 冊子 493~496頁
上井覚兼が高原城攻めの出陣・陣立・交渉を日記体で記す。覚兼は城方の肥田木河内守から断水による降伏意向を聞き、喜入季久らと人質交換を調整した。開城後は三山での勝鬨や諸将の太刀進上を記し、北郷時久へ田野城攻略の可否を問い、霧島で神慮を伺う方針をまとめた。
天正四年八月十九日以後 / 冊子 499~500頁
高原城攻めを叙事的に記す自記。島津軍が諸口から門壁を破り、多数の死傷者を出しながら断水して城を孤立させた。伊東援軍は猿瀬に陣したが救援できず、城兵は降伏して退去、三山・小林・温水・須木も放棄され、義久・義弘は番兵を置いて凱旋した。
天正四年八月~十月 / 冊子 507~508頁
天正四年八月から十月の軍事行動を記す。北郷時久が江平で敵五人を討ち、高原城南口を破って三山・須木・奈佐木の放棄に至った経過と出陣役を列記する。十月には肝付勢の南郷敗戦と二百余人の戦死、福島守備、志布志以下十三か所の島津方領有を記す。
康熙59年(1720)の冊封記事まで / 冊子 383~389頁/原整理番号 2
琉球国中山王の王統を、舜天から尚敬王まで系線と歴代記事で示す長大な世譜。舜天を清和天皇の後裔・鎮西八郎為朝の子源尊敦とし、為朝が保元の乱後に伊豆大島へ流され、五島を攻略したのち琉球へ漂着したという由緒、尊敦が浦添で成長して逆臣利勇を討ち、按司らに推されて王位に就いた経緯を記す。舜馬順熙・義本に続いて天孫氏裔の英祖が立ち、大成・英慈・玉城・西威を経て、察度が国人に推され、洪武年間に明へ朝貢して『琉球』の国名を賜ったとする。武寧の後、佐敷按司で山南王となった尚巴志が三山を統一し、明から尚姓を賜った第一尚氏の王統を尚忠・尚思紹・尚金福・尚泰久・尚徳へ連ねるが、尚徳の暴虐によって国人が離反し、世子を廃して尚円を立てたと記す。第二尚氏は伊是名出身の尚円から尚宣威・尚真・尚清・尚元・尚永・尚寧以下へ続き、各王の在位年、即位年、寿齢、明・清の冊封使と中国年号を付記する。尚寧代には慶長十四年の薩摩軍侵攻、薩州への渡海と降伏、翌々年の帰国、以後毎年薩州へ納貢したことを特記し、尚豊・尚賢・尚質・尚貞・尚純・尚益を経て尚敬王に至る。末尾は康熙五十九年、清の正使海宝・副使徐葆光による冊封を掲げ、王統の一部には『伝信録』その他の引用を添える。
永禄九年十月廿六日 / 冊子 153~154頁
永禄九年十月二十六日の小林三の山攻めに参加した将兵を、戦闘配置や戦功とともに列挙した交名。城口から二之丸までの攻撃に加わった市来・加世田など各地の武士を掲げ、阿多中務丞、末弘又左衛門尉、本田治部少輔らには戦死の注記を付す。
永禄九年十月十五日~廿六日 / 冊子 154~155頁
飯野を境目として伊東・相良両氏と対抗するため、小林三之山城を攻撃した経過を詳述する。義久・義弘・歳久の軍が花立口・大豆別府口・寝谷口から攻め、義弘勢は二之丸まで進んだが多数が戦死・負傷したため退却し、追撃する伊東勢には伏兵で損害を与えた。帰陣後、横川側の不穏な振る舞いを諸将が訴え、成敗を求めたことも記す。
永禄九年十月十五日~廿六日 / 冊子 155~156頁
飯野防衛のため小林三之山城を攻めた経過を、各軍の進路と将兵の働きに即して記す。義弘勢が二之丸、歳久勢が二重城戸へ迫り、田尻荒兵衛らが奮戦したが、義弘が負傷して兵が動揺したため、義久の命で順次退却し、追撃兵を伏兵で討って飯野へ引き上げた。
永禄九年十月十五日 / 冊子 156頁
永禄九年十月十五日、島津義久が大軍を率いて小林城へ向かい花立口に陣し、義弘が大豆別府口から二之丸へ攻め入って戦ったことを記す。伊東方の援軍が来たため島津勢は陣を開いて退いた。
宝暦十二年十月十三日 / 冊子 927頁/整理ID 旧記雑録追録5_文書2728
山澤小左衛門が十月十三日、琉球中山王が惇信院の薨去を承知し、伺いを立てず書翰で機嫌を尋ねる先例に従って、この夏に使者を琉球から出帆させたが、秋初めまで薩州に到着しなかったと申し述べる。夏は風並みが悪く、琉球からの船が各所に流され漂着したため、使者船も薩州沖の島などに漂着しており、後に渡来するかと待っていたが、まだ到着しないとの報告が国許から来たと伝える。使者の到着はもはや来夏中になるかもしれないとして、この事情を申し上げる。
元亀三年正月~天正元年十二月 / 冊子 322~323頁
元亀三年正月から天正元年十二月までの軍事日程を記す。浜市小島の肝付兵船捕獲、廻・三山・木崎原・早崎・住吉原・西俣の諸戦、禰寝重長の帰順と下大隅渡海、平松陣の役人・作法、恒吉宮ノ原の損害、平床への着陣などを日付順に列挙する。
天正四年八月~十月 / 冊子 497~498頁
伊東氏との長年の抗争から高原城攻めに至る経緯を叙述する。義久・義弘・北郷時久らが城を攻め、双方に多数の死傷者を出したが、断水と人質交換により伊東勘解由が退城し、高原・高崎・三山・須木など八か所が島津方に属した。戦後、覚兼が時久へ田野城攻略を諮問した。
天正四年八月 / 冊子 500~502頁
竹崎の白坂式部丞の内応を契機とする高原城攻めを記す。島津軍は諸口で激戦し、新納忠実が先駆け、樺山久高は落合豊後介に助命された。多くの戦死者を出したが、夜日詰めと断水で城兵を降伏させ、三山・温水・小林・須木も帰属、上原尚近を高原地頭とした。
八月七日 / 冊子 138頁
国元への出立時に三山まで見送られたことと在京勤番をねぎらい、普請について老中・両院へ取り次ぐよう頼んだ。義久の帰国許可を祝い、自身が公家成りして羽柴薩摩侍従となる命を受けたこと、左京亮は人質扱いではないので一旦下向させる意向を伝えた書状。
年月日未詳 / 冊子 396~397頁/原整理番号 124
高原城攻略を述べる自記。天正四年、高原を急いで攻めると決まり、小林・温水・三山へ軍勢を置いて野尻の側から進んだ。義久・忠平の三万余騎と、一雲の八千余騎が出勢し、八月十六日に高原を包囲して火矢を射た。柏原将監が橋で防戦する中、新納刑部太輔は小楯を持って城戸口へ突入し、多くの傷を受けながら打刀で戦って退いた。名を尋ねた足軽大将漆豊前介が勇士として称え、他の薩摩の兵も高名を立てたという。
巻二/冊子 19~20頁
永禄七年に貴久が陸奥守、義久が修理大夫へ任じられた宣旨と、貴久の剃髪を掲げた後、真幸院・菱刈方面の戦いを記す。伊東氏が三山に要害を築いて飯野の忠平を圧迫し、島津方はいったん攻略に失敗して戦死者を出した。続いて菱刈氏が恩に背き相良氏と結んだため、貴久・義久父子は栗野へ出陣し、忠平は飯野から馬越へ進む。稲荷神の瑞火を吉兆として攻撃を開始し、忠平や新納忠元らの奮戦で馬越城を落とした。菱刈方は大口城へ退き、相良の援軍も入ったため、市山・羽月・曾木などに守兵を配置する。官位と宗教的権威を示しつつ、大口攻略へ向かう軍事的足場を築いた記事である。
巻二/冊子 22~23頁
渋谷一族が領地を挙げて島津方へ降参し、隈城・平佐・高江・水引・湯田・西方などの支配と地頭配置が再編されたことを記す。元亀二年には貴久が五十八歳で死去し、法号を掲げる。翌年、伊東義祐の大軍が飯野・加久藤へ侵攻すると、忠平は少数の騎兵で木崎原に迎撃した。伊東又次郎・落合源左衛門尉ら主要将を討ち、田原陣も破って伊東軍を三山へ敗走させる。忠平自身も鬼塚原で強敵二人を討ったとされ、島津方の戦死者も列記される。少数軍が大軍を破った戦いを項羽の故事になぞらえ、天の助けと忠平の武功を強調する。渋谷降伏、貴久死去、木崎原合戦という政治・軍事上の大きな転機をまとめた記事である。
巻二/冊子 25~26頁
日向平定の過程を、高原・野尻・戸崎・石城の攻略を軸に記す。高原城は霧島山東麓にあり、伊東勢が島津領へ侵入する拠点となっていた。義久・忠平らは天正四年に攻撃し、軽率に城へ迫った兵に損害を出したものの、念仏寺を介した講和で城を受け取る。高崎・三山・須木など周辺八か所も島津方へ属した。伊東家中では義祐の暴政に不満が高まり、野尻・戸崎も次々と落ち、義祐は従う者を失って豊後へ逃れた。記事は伊東滅亡を義祐自身の失政の結果と論評する。翌年、長倉氏が石城に拠って旧領回復を図ると、忠棟らが大河に浮橋を設け、鉄砲・矢で包囲した。城内が糧食・水を断たれて降伏すると、島津方は城兵を餓死させず、食料を与えて豊後へ退去させた。軍事攻略と降伏者への処置を通じて日向支配が確立したことを示す。